赤の包埋
一人には広すぎる部屋。夜会から半ば逃げ出すようにして家へ辿り着いたのは半前刻。もうすぐ古時計が告げるのだろう。ぼーん、ぼーん、と12回空気を震わせて。産まれてきたときから聞いてきた、寸分狂わず時を刻むその音。私を現在へ呪縛する。
おにいさま・・・
重い緞帳を左右に力任せに曳き開けた。がちゃりと鍵を開ける。途端に夜風が私を撫で、ドレスの裾がはためく。冷たい風。たった半月ほどでこんなにも季節は冬めく。あの日はまだ頬を突き刺すような風は吹いていなかった。
西日は柔らかくこの部屋へ降り注ぎ、あなたの髪をオレンジ色に染め上げる。けれど、あなたの瞳は夕日に負けないほど赤い。この世のどんな色よりも透き通っていて深くて高貴な色。怜悧な眼差しは私を見つめるときだけふっと和らぐ。私しか知らないおにいさま。冷たい手の平で私の両頬を包み少し困ったように微笑むと、そっと口付けを落とす。静寂の支配するこの空間。時が刻むのを止めてしまったのではないかと錯覚しそうになる。
・・・ぼーん・・・ぼーん・・・
不安に駆られた私が、ぎゅ、と背中にしがみ付くと、私の背中にも両腕が回ってきた。時計の音が鳴り止むまでの満ち足りた時間。どちらからともなく手を離すと、外は薄闇を纏い始めていた。
兄は徐に歩いていくと、部屋の端のほうにあるグランドピアノの掛け布を上げ優しく蓋を開けた。
「何か弾いてほしい曲はある?」
「ラ・カンパネラを。」
ひゅう、と息を吸うと全ての神経を始の一音へ傾ける。指先が鍵盤に触れた瞬間、思わず息を呑んだ。徐々に強さを増してゆく音。何かを駆り立てるような旋律。愁いが空気を震わせる。なんて哀しいのだろう。灯の燈らないこの部屋に差すのは月光ばかり。私達の行く末を暗示していたのかもしれなかった。
バイオリンを手に取りピアノの傍へ寄り添う。首と肩で固定すると命を削るように絃を弾いていく。お願いだから私を置いていかないでほしい。兄の演奏に私のバイオリンを重ねてゆく。言葉にしなくても楽器の音は雄弁に心情を語り、互いがどれほど欲しているか痛いほど感じる。目で、耳で、肌で感じる。倫理、道徳、モラル・・・何故そんなもので責められるのだろう。私達はただ愛し合っていて、たまたま兄弟だったというだけなのに。曲は最高潮へ。ピアノの音とバイオリンの音が激しく交差する。ぽろり、一粒涙が零れ落ちた。慕情も哀切も、全てをこの一音一音に託す。時に静かに、時に情熱的に。私が訴えればあなたが応えてくれる。あなたが迫れば私はそれに応える。もっといたい。二人でいたい。愛してる、愛してるからっ。
バン
視界に舞う、赤・赤・赤。
硝煙纏うは実の父親。
左手には愛用のトカレフ。
目を見開いたまま閉じることが出来ない。脳が状況判断を拒む。
兄からの語りかけが途切れたことを不審に思い隣に目をやると、真っ赤に染まった兄の姿があった。そして、極めて緩徐に倒れてゆく。スローモーションのように。大好きな白銀の髪も赤く染め上げられて眼球と違わない。
お兄様!!!
手放したバイオリンが、ごとり、床に跳ねる。緩やかに落下を続ける兄を全身で受け止めた。櫻色のドレスは赤く血塗られべっとりと肌に纏わり付いてくる。鉄錆の香。狂おしいほど愛おしいこの重さ。例え脳漿が飛び出していようと私のにいさんに変わりはないわ。けれど、私達を彼岸と此岸に引き裂いたことは赦さない。それが実の父親であろうと赦さない。父が頭上から私達を見下ろし、お前のためだと言った。そうして私達を引き離そうとする。私の為と言って一番大事なものを奪い、それに飽き足らず引き離し隠蔽しようとする。
「偽善者。」
この血の一滴、髪の毛の一本に至るまで渡しはしない。眼窩を傷一つない手でえぐる。少し長い爪が奥へ突き刺さりぐちゃりと粘着質な音を発した。其儘視神経を引きちぎると、右の掌でぬるり、眼球が遊ぶ。こんなにも身近に感じるにいさん。もっと近くに。一つに。
赤い眼球は白い月光を反射し妖しく光る。
つうっ、と舌を伸ばし眼球を載せる。舌先から徐々に味蕾を刺激してゆく其。舌神経は大脳へ興奮を伝達し、同時に嗅神経も情報を受容する。整理・統合され出力された結果は―甘美でほろ苦い死―兄を抱き上げようとしたが私のか細い腕では適わなかった。なので鋏を持ってきて襟足をじゃきりと切断した。そして去年の誕生日プレゼントにもらったオルゴールの鳴るジュエリーボックスに丁寧にしまう。もう片方の眼窩から眼球を取り出すと、鮮血を吸い込んだドレスの儘廊下へと歩を進めた。左手にはジュエリーボックス、右手には眼球。ランプの殆ど消えた暗い廊下を迷うことなく歩いてゆく。昔は此長い長い廊下が恐かった。後ろからひたひたという足音がついて来ている気がしたものだった。仕事ばかりの父、外交に勤しむ母。けれどお兄様はいつでも傍にいてくれた。暗闇が恐いと言えば共に歩いてくれた。お兄様の手はいつもひんやりと冷たく私の右手を握ってくれた。裏庭へ出ると、ホーホーと梟が鳴いていた。漆黒に浮かぶ瞳で何を凝視しているのか。餌か番か。ぐるり、首を回せば捩切れ地上へぼとり。真っ逆さま。生は儚く散ってゆく。
屋敷の隣に建てられた父の経営する病院へ入る。いつもなら肌に馴染む消毒液も今日ばかりは牙を剥く。地下室へくだると、そこは私の庭。否、私達の庭。ホルマリンやキシレンといった揮発性薬品の匂いが立ち込めるその部屋で、目的の薬品を探す。茶色く変色し剥がれかけたラベル越しに脳がこちらを感知している。その隣には無脳症の死産児がぷかりぷかり揺蕩いながら私を見下している。きっとまだ母の胎内で羊水に包まれているのだろう。私も早く帰ろう。にいさんの腕の中へ。目的の薬品は棚の奥で見つけた。
―Karnovsky―
新しい瓶の蓋を開けとぷとぷ注ぐ。三分の一程度溜まった所で片割れの眼球を。
ちゃぷん
一ヶ月待とう。この美しさを永久に。私の愛した眼球。おにいさまおにいさまおにいさまおにいさま… 怒らないよね。きっと、しょうがないなぁ、って困ったように笑ってくれる。
うふふふふ。
櫻が吸った血液は私の皮膚から温度を奪い、兄の抱擁を感じる。私にとっての兄は茹だる様な暑さの日でも冷涼であった。
裸電球の発する淡黄色の光にセロイジンで満たされた広口共栓瓶を透かして見る。
ぷかり ぷかり
ホルマリンで遊ぶ死産児のように、光と戯れる球体。
「私とも遊んで下さいまし。」
捻りながら蓋を開け、人差し指を液に漬けてみた。眼球に触れたいのを我慢して引き抜くと、其の儘口許へ運ぶ。口内で唾液と混ざった液は矢張り清冽さを主張していた。
ぎりぎりと螺子を捲いたジュエリーボックスを小脇に抱え二つの瓶をしっかり掴むと、こつこつこつこつ足音を響かせながら病院の外へ出た。兄の毛髪の様に白銀に輝く星々が瓶の中へ吸い込まれてゆき、オルゴールの音は恐ろしいほど澄んで木々を震わせる。この樹林にもう梟の声は聞こえない。
私の部屋に帰ると、鍵付きの棚へそれらを仕舞う。鍵はチェーンを通し首から架け胸の底へと隠すことにした。別の引き出しから、兄が私の為に父に内緒で特別に作らせた合鍵を取り出し握り締める。此の時初めて涙がこぼれた。ぽたり、ぽたり。床を濡らす涙。一度緩んだ涙腺は留まる事無く生暖かい液体を産生し続ける。あの時もこんな風に生温い液体が床に撒き散らされていた。
お兄様、お兄様、おにいさまーーーーーーー!!!!!!
部屋に充満する私の慟哭が、更に紅涙を降らせる。
・・・ぼーん・・・ぼーん・・・
時計は如何なる状況であろうと、淡々と、ただ粛々と、時を告げるのだった。
翌日、父は普段通りに病院へ向かったので、不特定多数の命が父の手により伸ばされている事だろう。兄の件は強盗か何かの仕業に仕立て上げられているに違いない。私から兄を取り上げたという点で強盗には違いないが。母は女性特有の右脳でうっすらと事の真相に気付いているのかもしれないが、この家に不利になるような事は決して口にしない。女中や執事が代わる代わるお悔やみを述べる。その言葉はふわふわと埃の様に空気中を舞って窓から外へと落下した。人払いをし自室で紅茶を頂きながら首から下げた鍵を見つめる。早く夜になれば良い。皆が寝静まれば、月光を浴びながら永遠の準備をしよう。お兄様のとこしえを形作ることができれば私もお兄様の処へ飛び立てる。お兄様に会うための仕度をしなければ。窓から降り注ぐ太陽の光を全身に受け、命一杯伸びをした。赤や黄色に色づいた木々から、はらり、木の葉が舞い降りた。
引き出しから合鍵を取り出すと、包み込むようにして掌へ。現在の時刻は使用人たちが最も忙しい時刻で私に構っている暇などないだろう。真直ぐ前を見つめ自室の扉を開いた。真っ黒のヴェールが顔の前面を覆い表情を読み取ることが難しい。靴から爪の先まで全てを漆黒で塗りつぶした私は背筋を伸ばし廊下を歩く。兄の部屋まで来ると、誂えて貰った合鍵で開錠し室内へ入った。中から鍵をかけ全体を見渡す。品の良い調度品の数々が思い出を呼び覚ましてゆく。私にとってどれほど兄の存在が大きかったかが改めて突きつけられる。めったに勝つことが出来なかったチェス、様々な知識を授けてくれた机。そして、ベッド。父の命で兄共々参加した夜会から帰宅した夜、いつもの温厚な姿からは想像もつかない程の力で私を押し倒しそこへ縫い付けたお兄様。瞳は酷く動揺し、其の儘貪る様に口付ける。酸素不足で意識が薄らいできた頃漸く唇が離れ二人の間を銀糸が繋いでいた。お前が誰か別の男と付き合うなんて考えたくもない。他の男と楽しそうに会話しているのを見るのだって苦痛なんだ。何れ他の男のものになるのなら、自分で汚してやる。お前が生涯忘れられないようにしてやる。そう言った瞳には狂気が覗き大好きな赤色が更に深く眩い色合いとなっていた。余りの美しさに瞬きが出来ず呼吸すら忘れ頬には自然と一筋の涙が伝う。恍惚とした私は兄に抱き締められていた。ごめんね、ごめんね、とうわ言のように繰り返す兄。愛してる。愛してる。誰よりも何よりも愛してる。お兄様、愛しています。あぁ。今度は柔らかく唇を重ね、二人でゆるやかにベッドへ沈んだ。あの日のようにベッドへ身体を横たえてみた。お兄様の残り香に切なくなり、夜具を掻き抱く。指も首も腰骨も踝も、そして温度も全て覚えているよ。決して忘れはしないから。いつの間にか意識は遠のき少し眠ってしまったようだった。気だるげな身体を起こしサイドボードからコルト・パイソンを見つけると黒のドレスをめくり太腿のガーターに挟む。ベッドから降り立って服や髪の乱れを整えると何食わぬ顔をして自室へと戻った。其の夜、トリスタンとイゾルテを聞きながら眼球を視姦する私。まぁるいあなたを見逃しはしない。どんな些細な箇所さえ私の全てが記憶する。雲の切れ目から小さな月が顔を覗かせた。私と瓶に等しく陰を落とす月光。
「お慕いしておりますわ、お兄様。」
そう呟くと羊水に別れを告げもうひとつの瓶へ兄を移した。さぁ一ヶ月。セロイジンは完璧な姿で其を保ちつづける事だろう。セロイジンの包埋を受け止め、漸く兄の埋葬は終わるのだ。さすれば私も兄の様に埋もれ包まれ死に逝こう。いつの間にか曲は終を迎え、月は再び雲へ飲み込まれた。
お嬢様、起きてください。朝ですよ。今日も普段と何一つ変わらない音程が私をまどろみから引き剥がし一日が始まる。緞帳を引き裂き差し込む陽光。これが私の見る最期の太陽になるのだろう。燃え続ける天体も何れは朽ち果て総ては漆黒の闇へ還る。だからこそ抗おう。私のお兄様だけは特別な存在で居てほしいのです。あの日から一ヶ月。今日この日の為だけに誂えた純白のドレス。似合っていると言って貰えるだろうか。あの日のような櫻色のルージュ。メイクもヘアもネイルも全てを完璧に仕上げ最後に兄の部屋の鍵を首から架ける。ガーターベルトに仕込んだ銃にそっと触れると再び鏡に向き合い、にぃ、と口角を吊り上げた。
「いってきます、お兄様。」
梟の眠る裏庭を抜け、父のおわす病院へ。美しい白のヴェールが私をより一層引き立て、それが自らをも恍惚とさせる。擦れ違う人々のどよめきは陰鬱に満ちた廊下に反響するが、私には関係ない。
失礼致しますと院長室に入ると、父は私の姿に目を見開き酸素不足の金魚同様口唇をぱくぱく動かす。にっこりと華のように微笑むと優雅に父の座るチェアーまで歩いて行き、後ろから捕まえた。素早く右手でコルト・パイソンを掴むとだらしなく開いた口内へ銃口を押し込む。みっともない涙を一瞥すると耳元で優しく囁いてあげる。
「偽善者。」
あの日の様に赤が舞った。
口と呼ばれていた器官から銃口を引き抜くと汚らしい唾液を消毒薬で拭い太股に戻す。返り血に染まる純白の裾を持ち上げ、院長専用出入口から軽やかに立ち去った。
騒ぎが広がる前にしなければならないことが沢山ある。自室に戻ると完全なる包埋を終えたお兄様の眼球と美しい白髪の入ったジュエリーボックスを持ち、あの部屋へ向かう。ピアノの蓋を開け、眼球を載せる。窓を全開にすると凍てつく様な夜風が部屋へ流れ込んできた。この一ヶ月で季節は秋から冬へと移ってしまった。あなたの髪の毛と同じ色が、はらり、堕ちてくるかもしれない。ピアノをちらりと見るとお兄様が微笑んでくれた。お迎えに来てくださったのね、お兄様。嬉しいわ。すごく、すごく。バイオリンを左肩に固定すると、あの日と同じ ―ラ・カンパネラ― 今日こそは最後まで。鐘を鳴らそう。あの日鳴らせなかった鐘を。曲が盛り上がるにつれあなたの瞳は狂気を帯びる。二人の始まりの日ベッドで見せたような美しさを以て、青白い月の光を反射する。きっと私の瞳にも同様の狂気が宿っているに違いない。真に美しいものとはデモニッシュな魅力を持つものなのでしょう?!曲の終と共に病葉が舞い込んできた。強風ががさがさと木々を揺らす。眼前の血塗られたヴェールは持ち上げられ、整った顔が現れる。鍵盤へと手を伸ばしオルゴールのねじを巻く。ぎりぎりと。切なげなメロディーが北風に乗って窓から外へ流れ出る。両の掌へ眼球を載せると、そっと目を閉じ口付けた。ジュエリーボックスへお兄様の全てを閉じ込める。
「ただいま、お兄様。」
左手は其を強く胸に押し付け、右手はこめかみに銃口を押し付ける。
バン
飛び散る脳漿、頭蓋骨、血液。
立ち込める硝煙と鉄錆の香。
兄の倒れこんだ場所へ私も倒れこむ。埋もれ包まれる私の身体。流れ出る血液は床に染み込んでゆき兄の血液と混じり合った。純白のドレスは父親と自らの血に塗れアルビノだった兄の瞳のようだ。罪の果実と同じ色。
お兄様!
優しく慈しむように抱きしめられながら私は意識を手放した。
「おかえり。」
最期に聞いた音はお兄様の優しい聲だった。
・・・ぼーん・・・ぼーん・・・
その日も何等変わる事無く時は刻まれ、窓の外では初雪が舞い降り全てを白銀に染めていた。
深夜にラ・カンパネラを聞いたことから書き始めた人生初の恋愛小説です。
批判・感想等々宜しくお願いいたします。
最後まで読んでいただきありがとうございました。