第212話 頂きを越えた獣
距離を取り、戦いに介入してきたものを睨みつける漆黒の獣。
彼の鋭い視線を受けても氷堂心愛は全く意に介さないように無表情だ。
「……こんな時が来なければいいと……思っていたのに」
けれど氷堂の剣を握る手に力が入った。
震える程に強く剣を握り締め、爪が食い込み、少しだが血が流れる。
ただならぬ様子に、望月は恐る恐る声をかけることしか出来なかった。
「心愛……さん?」
問いかけに震えていた氷堂の腕は止まり、肩からも力が抜け、いつもの彼女へと戻る。
望月の方を振り返らずに氷堂は答えた。
「否定。大丈夫。……理奈は、行ける?」
問いかけに望月ははっきりと頷く。
以前の京都ダンジョンで結んだ絆が今も生きているので、氷堂はパーティメンバーになっている。
彼女にも支援魔法と回復魔法を送り、それを返答とした。
「……感謝する。理奈、よく聞いて。今の虎太郎くんはこの重圧を見るに、Tier0と同じくらい強い。私達は師匠じゃない。だからきっと、あれに勝つのは不可能に近い」
氷堂の言いたいことが、望月にはよく分かっていた。
虎太郎自身を犠牲にするという条件付きとはいえ、地獄の呼び声を倒した虎太郎の強さは一時期Tier0すら越えていた。
今の獣は自分とテイムの絆で繋がっていない。
だから自分のシークレットスキルの力は受けていない。
さらに言えば、あの獣の中に虎太郎はいない。
だから彼が見せてくれたような、力不足でも状況を一変できるような一手を打ってくるわけではない。
なのに、ここまで望月達にとって良い条件が揃っていても今の獣の力はTier0と同程度。
例え氷堂が加わったとしても勝ち目が薄いことは望月が一番よく分かっていた。
なら、その薄い勝ち筋は。
「……私が、テイムすること」
望月が獣をテイムして、無力化することしかない。
そうすれば獣の中の虎太郎だって戻ってくるかもしれない。またあの日々に戻れるかもしれない。
確証のない希望的な観測。人によっては儚い夢と思うかもしれない。
けれど、それでもやるしかなかった。
(最後の時の虎太郎君はテイムを維持できなかった。
でもあの後に虎太郎君は力を使ってあいつを倒してくれた。
今の獣ならテイム出来るかもしれない……ううん、テイムするんだ!)
「心愛さん、なんとか隙を作ってください。絶対に私が虎太郎君を取り戻します」
「肯定。任された」
剣を振るって前に出る氷堂と竜乃に再び力を送り、望月は機会を見計らうことにした。
虎太郎を取り戻すための大きな賭けが始まった。
×××
一方で、氷堂は剣を片手に内心では大きな緊張をもって獣と対峙していた。
(……強い)
フランスで対峙した審判の銀球も、その場にいるだけで強敵だと感じた。
けれど今目の前にいる虎太郎も――いや獣からも同じくらいの重圧を感じる。
(……お前が斬れ……か)
頭を過ぎるのは師匠の一言。
今も認めたくはない最悪の展開。けれどそれが現実になってしまった。
師匠は自分を呼べと言ったが、呼ぶつもりはない。
虎太郎を殺させるなんて氷堂には出来なかった。
それは師匠だけでなく、自分自身だって同じことだ。
戦いたくない。けれど戦わなくてはならない。
終わりの見えない葛藤を頭から無理やり追い出して、氷堂は構える。
少なくとも考えを放棄すれば、悲しくはならなかったから。
「斬、る」
いつもの言葉を呟いて、氷堂は前に出る。
その際に、竜乃に目配せをした。彼女ならば、虎太郎を援護していた竜乃ならば的確な援護も期待できると信じて。
獣との距離を一気に詰めて、氷堂は剣を振るう。
いつも通り全力の一撃。下層ボス程度ならば一刀両断できるほどの一撃。
それを、獣は乱暴に右の前脚を払うことで迎撃した。
「っ!?」
爪が刃に当たった瞬間に氷堂は思い知らされた。
Tier0というのはここまでの規格外なのかと。獣の後ろに師匠の影すら見た気がした。
あっさりと弾かれる水晶の剣。
驚く氷堂の向こうで、獣が左前脚を動かした。
まるで見せてやると言わんばかりの、強烈な一撃だった。
しかし、その爪が彼女の華奢な体を捉えることはない。
それよりも早く飛来した紫のブレスにより、ほんの僅かだけ獣の動きが鈍ったからだ。
ほんの僅かでも時間があれば氷堂にとっては十分。
彼女は後ろに跳ぶことで距離を取り、着地してすぐに息を吐いた。
(……本当に、強い。もしかしたらフランスでの審判の銀球よりも……)
自身に着火した紫の火を黒い雷で消していく獣を見て、その強さに氷堂は慄く。
竜乃の紫のブレスの強さは知っている。
そのブレスをもってしても、ほとんどダメージを与えられていない。
レベルが違う。少なくとも今のままでは、あの獣の隙を作り出すことなど不可能。
(……虎太郎くんを相手に手加減なんて、出来るわけない……か……)
当たり前だろう。何を考えていたんだ自分は。
そう自分自身を叱り、氷堂は左手を胸に当てて目を瞑る。
シークレットスキルを発動させれば頭上に存在を感じる。
目を瞑っているのに視界は明るくなり、すぐに自分の体も温かくなる。
目を開き、煌めく視界の中で氷堂は剣を振るった。
「否定。私はこれから、本気でキミを倒す」
京都ダンジョンで目覚めたシークレットスキルの真の姿を解放して、氷堂は堂々と獣と向き合う。
正真正銘の氷堂の全力。それをもって今の獣を――虎太郎を越える。
地面を蹴り、目にも止まらぬスピードで氷堂は獣に仕掛ける。
体を回転させ、力の限りに振り下ろした。例え獣が防いでもその防御ごと両断するつもりだった。
だが、獣は後ろに跳ぶことで氷堂の斬撃を避けた。
本能で防ぐのが危険と判断したのか。だが、まだ終わりではない。
仮に大振りで薙ぎ払った一撃が避けられても、まだ氷堂は攻撃を辞めるつもりはなかった。
すぐさま右手に力を入れ、強力な突きを放とうとしたところで。
獣が口を開いた。
『HooO!』
竜乃の声を聞いたのもあり、氷堂は咄嗟に左脚を折り曲げて体勢を斜めに。
すぐに右足に力を入れて、左方向へと飛び退いた。
その退避は正解で、口を開いた獣の正面から全てを滅ぼす漆黒の雷撃が撃ち出された。
体を掠りつつ通過していく雷撃を見て、氷堂は目を見開く。
(なんて……威力……)
まともに受ければひとたまりもないのは一目瞭然だ。
あの雷撃は水晶の剣での防御では、防ぎきれないかもしれない。
そう思ったところで。
「心愛さん! 避けて!」
鋭い望月からの声が耳に届くと同時に、氷堂は見た。
体に纏うオーラのうち、紫をやや強くした獣が自分に跳びかかろうとしているのを。
何度も見た虎太郎の使用した紫電。
だが発動のスピードも、紫の電流の大きさも、知っているものよりも速く、そして大きい。
「くっ!」
牙を見せながら噛みつこうとする獣の口の中に水晶の剣を入れて、ギリギリで防ぐ。
顎は閉じられ、牙が上下から水晶の刃を噛みしめる。
ダンジョン製にして、あらゆる武器の中で最高級の剣は砕けることはなかった。
けれどそれは獣も同じ。刃を噛んでなお、牙にはヒビ一つ見受けられない。
強大な力を感じて、氷堂は咄嗟に剣の刃の腹を左手で押さえた。
今まで師匠の一撃でしか使ったことのない両手での防御。
「っ! 嘘っ」
思わずそう言葉を発してしまったのも無理はない。
自分自身を押す力はどんどん増大し、氷堂は体勢を崩して後ろへと押し出されていく。
両足に力を入れても、じわじわと動くくらい獣の方が力が強い。
今まで味わったことのない力の前に氷堂が驚くと同時、氷堂は感心さえ覚えていた。
(虎太郎くん……キミはっ……どこまでっ……)
最後に実際に会ったのは京都ダンジョンでの事。
そこから虎太郎は東京ダンジョンに、ついさっきのここでのTier0との戦いを経て、成長に成長を重ねた。
彼はどこまでも力を求め、そして得てきたのだろう。
深層ボスでTier0の幻影を倒し、そしてここでTier0そのものを倒した。
今、虎太郎という存在が抜けた、いわば抜け殻であるこの獣と戦うだけで分かる。
虎太郎は自身が強くなれる限界すら越えたのだと。
自分はもちろん、おそらくは師匠すら越えた、全ての存在すら超越した強さを手にしたのだろう。
彼がそこまでの強さを得たことは感心を通り越して、称賛の気持ちすら感じる。
それがたった二人、竜乃と望月のためだけに成し遂げられたという事実に対して、氷堂は脱帽するような思いだった。
だからこそ。
「否定」
今虎太郎がこんな姿になっていることが、氷堂は許せなかった。
彼はもっと幸せになって良いのだ。彼が望む望月と竜乃との未来は与えられて当然。
むしろそれだけでは足りないほどの、当然の権利なのだから。
押し出してくる獣は右の前脚を動かして氷堂の体を切り裂こうとしてくる。
今、氷堂は剣を掴まれていて身動きが取れない。
このままでは爪の餌食になる。不味いとそう思ったところで。
『HoooooOOOO!!』
紫が、獣の横っ腹に激突した。
紫焔を纏った竜乃が氷堂を助けるために突っ込んで来てくれたのだろう。
突然の衝撃に獣は口を開き、剣が自由になる。
咄嗟に獣が繰り出した爪の一撃をなんとか剣でガードしたが、その重みに膝を折ったところで。
地面に触れた膝が、熱を感じた。
「これは――」
しまったと思い、その場から脱しようとしたものの、体勢を崩していたので間に合わなかった。
すぐそばにいた竜乃すら巻き込む火柱が急速に湧き上がり、体中を燃やしていく。
火の超級魔法、ブレイズエンド。虎太郎が使用しているのを何度か見たことがある。
しかし規模も発動スピードも、桁違いだった。
(ま……ずいっ……)
心のどこかで獣は魔法を使ってこないと考えていたのかもしれない。
いずれにせよ、隙を突かれた。
氷堂は魔法に対する耐性も高いものの、相手はあの虎太郎クラスの魔法。
まともに受ければ耐えきれないが。
『HooooOOO!!』
ここでも助けてくれたのは竜乃だった。
真っ赤な視界は一瞬で蒼く染まり、体が訴えていた熱が引いていく。
彼女の放つ蒼いブレスは魔法を無力化する。
その火をもって、竜乃自身と自分を助けてくれたのはありがたかった。
体が自由に動くようになり、とりあえずその場から退避しようとしたところで。
小さな黒い雷撃が氷堂のわき腹を抉った。
「なっ……」
痛みに顔を顰めながら辺りを見れば、同じように退避しようとした竜乃も黒い雷撃を受けていた。
羽を貫かれ、苦しそうに顔を歪める竜乃。
その体に、漆黒の獣がまるでトレーラーのようにぶつかった。
最大限加速しての轢き殺すかのような一撃。
白い竜は避けようとしたようだが間に合わずに吹き飛ばされる。
「竜――」
竜乃ちゃん、と声を発することは出来なかった。
次の瞬間には大きな影が自分に射していたから。目の前に、漆黒の巨体が両前足を振り上げていたから。
氷堂に出来たのは剣を頭上に掲げて両手でしっかりと支えることだけ。
直後に振ってきたのは黒と紫の力を存分に受けた、全体重をかけた獣の圧し掛かり。
「ぐっ……あぁっ!」
全身を衝撃が突き抜け、筋肉が、骨が悲鳴を上げる。
ダンジョンの構成物質の中でも特に固い筈のボス部屋の地面の岩が砕け、飛び散るのを見て戦慄する。
思い知らされる。勝てないと。
今なお望月による回復魔法はかかっているが、それを越えるスピードで体中が悲鳴を上げている。
爪が、剣の上を緩やかに滑る。
体全体を襲っていた重圧が消えた瞬間に。
「――!」
氷堂は声にならない悲鳴を上げた。
天から降り注いだ黒と紫の雷撃が彼女の体を貫いたからだ。
さっきの段階でほぼ限界だった体はさらにダメージを受け、立っているだけでも激痛が走り始める。
今すぐ倒れ込みたい。もう辛い。そう思ったところで。
獣の頭突きを胴体に受けることで、氷堂の願望は叶えられた。
吹き飛ばされ、地面を転がり、やがて止まる。息を吐けば血を吐いた。
望月の回復魔法はまだ作用している。
けれど追いついていない。望月の回復よりも、漆黒の獣の与えたダメージの方が何倍も大きい。
視線を巡らせば、竜乃も地面に倒れ伏していた。
氷堂と竜乃。二人の前衛が戦闘不能。
(……向こうはろくなダメージがない……ダメ……勝てない……)
なんとか獣の様子を見ようと視線を動かしたところで。
「――」
氷堂は息を呑んだ。獣の真横に望月が立っていた。
機会を見計らっていた筈だが、自分達ではその機会を作り出すことが出来なかった。
だから彼女は最後の賭けとして、今この瞬間に獣をテイムすることを選んだのだろう。
「――っ!」
ダメだと叫ぼうとした。けれど口から洩れたのは息だけで。
手を伸ばそうとしても、腕はまだ動かなかった。
テイムをする際には、モンスターを弱らせるのが鉄則だ。
望月がテイムしようとしている相手は強過ぎるのに、弱ってすらいない。
今この状況で望月がテイムを成功させる確率など、0だ。
氷堂からすれば、もうこの状況を祈るような気持ちで見続けるしかない。
彼女のテイムが成功することを祈るしかない。
(お願い……どうか成功して!)
望月の伸ばした手からテイムの糸が伸びる。
その糸は獣の体に触れようとして。
黒い電流の前に無残にも消え去った。
氷堂の願ったテイムが成功するという奇跡は、起きなかった。




