第195話 切れる
熱が、広がる。胸の奥底から始まった熱は、オレの体の隅々まで行きわたっていく。
まるで高熱を発しているかのような体の熱さ。
先ほどまで感じていた体の冷たさは消え失せ、同時に感触も消えていく。
オレの視界が、白く染まる。熱で浮かされたときのように、ぼやける。
手足に命令を伝達すれば、動くのを確認した。
体にも痛みが走らないことを確認した。まるで体が変わったかのよな、万全の状態だった。
起き上がる。
これまではどれだけ念じても全く立ち上がれなかったのに、今は手足にほんの少し力を入れるだけで起き上がれる。
『…………』
高くなった世界の中で、同族の存在を捉える。
この世に二体は必要ない、もう一体。視界に入れれば、オレの頭の中で嫌悪感があふれ出る。
獣としての本能が訴える。オレの方が、強いに決まっていると。
あれは同じ姿をしただけの、獲物だと。
一歩足を踏み出し、全身を稼働させる。
前脚と後ろ脚を器用に使い、一瞬でトップスピードに。
遠く離れていた奴に向けて、オレは風のように駆け抜ける。
黒く染まった視界でも、奴の間合いに入ったことを確認。スピードを殺すことなく跳びかかった。
奴の首筋目がけての跳躍。それを妨げるため、奴は右の前脚を払うように振る。
奴の爪はオレの腹に突き刺さり、衝撃が体を突き抜けた。
けれどそれだけではオレの勢いを殺しきることは出来ない。
体全体で体当たりするような形になり、奴の体勢を崩すことに成功。
そのままもつれ込むように、オレたちは地面に転がった。
オレも奴も四つの手足の爪でお互いを切り裂きあいながら、掴みあいになる。
オレの牙が奴の首筋に食い込めば、奴も俺の首筋に爪を突き立てる。
けれど優勢なのはオレの方だ。その証拠に、オレの口の中には血の味が広がっている。
とても美味で、気分を高揚させる血の味が、広がっている。
『!?』
バチリ、という音と共に体にしびれを感じ、思わず口を離してしまった。
そのまま腹部を勢い良く蹴られ、投げ飛ばされてしまう。
地面に叩きつけられたものの、すぐに体を動かして起き上がる。
目を向けてみれば、奴もまた体を起こし終えたところだった。
どちらからでもなく、ほぼ同時に俺達は再び駆ける。
奴もようやく俺を敵と認識したのか、駆けてくる。
エサの癖に生意気だと、そう感じた。
オレ達は道を譲ることも減速することもなく突き進み、激突。
額と額をがっちりと合わせれば、超至近距離に奴の目が見えた。
獣の目だと、そう思った。
その奥にある目も、全く同じだった。
瞳が、歪む。それは奴の瞳の奥の目ではなく、奴の目そのものだった。
次に奴はオレの視界から離れた。苦しそうに何かを呻きながら、後ろに下がった。
――ニガスカ
すかさず地面を蹴って、奴に迫る。がら空きの奴の横腹に、突撃する。
真正面からではなく、奴の体を大きく捉えての突進。
ついに奴が、態勢を崩した。
体を投げ出し、背中が地面に触れる。四つの手足が宙を彷徨う。
それを見て、考えるよりも先に旨そうな腹に噛り付いた。
牙に顎が壊れる程力を入れれば、すぐに口内に血の味が広がる。
旨くて旨くて仕方がない、血の味が。
『■■■■■―!!!』
奴が何かを叫びながら手足を懸命に動かし、オレの体を捉えようとしている。
捕まってたまるかと思い、頭を必死に動かしてひっかきを避けた。
それと同時に、奴の肉を引きちぎるのも忘れない。
力の限りに顎で噛み裂いて、力の限りに首を動かして引き裂かんとする。
また再度体を鋭い痺れが襲った気がしたものの、今回は威力が弱かったのかあまり痛くはなかった。
――ジャマダ
ただ、せっかく楽しんでいる血の味の邪魔をするので鬱陶しいなとは思ったが。
十分なほど引き裂いたので、俺は口を離して今度は奴の胸付近に噛みつく。
今度は奴の前脚に近かったためにすぐに爪に掴まり、突き立てられた。
けれどそれも大して痛くはなく、ひたすらに牙を突き立て続けた。
がむしゃらに頭を動かして、様々な方向に引っ張ることで奴の毛を、肌を、肉を割いた。
牙を突き立てて、突き立てて、突き立てて。
血肉を食って、食って、食って。
――アァ、ウマイ
そんな時に、オレは牙に触れた肉が震えていることを感じた。
この肉の先に、鼓動を刻む何かがあるのを感じた。
それを食べれば、オレはこのごちそうを全部食べられると、そう感じた。
――ウマイ
牙を進める。両顎を動かし、肉を食らう。
――ウマイ
牙を進める。鼓動する何かに、牙が当たるのを感じる。
――ウマイ
より多くの血が口の中に広がり、含み切れなくなって吐き出す。
けれどそれでも旨いので、止まらない。
顔中を血でびしょびしょにしながらも、オレは顎を動かし続ける。
食って、食って、食い続ける。
そうしてある程度食べたとき、もう奴の鼓動がなくなったことに気づいたとき。
それが奴の心臓だったということにも気づいたとき。
俺は自分自身に気づいた。
ゆっくりと顔を気持ち悪い感触の海から離していく。
外気に触れているからか、濡れている顔がやけに冷たい。
ポタポタと顔から地面に流れるものに目を向ければ、赤が広がっていた。
血だった。目線を向ければ、血だらけで心臓を喰われた俺の姿があった。
それだけでなく腹も、無残にも食いちぎられていた。
(――!)
目の前の光景に、体の気持ち悪さ、口の中の感触、そして自分が何をしたのか。
それらを全て理解して、俺は口の中の血肉を吐き出した。
気持ち悪くて気持ち悪くて。
このまま俺の中にある何かおぞましいものまで、消えてしまえとそう思った。
けれど体の奥底はまだ獣のままなのか、どれだけ吐こうとしても胃の中の肉は出てこない。
それが、俺がもう手遅れであるように感じて、でもどうしても認められなくて。
にも関わらず、何をしても自分の中の結論は消えなくて。
(俺……俺っ……俺は……俺は一体なににっ!?)
「虎太郎君!!」
そんな絶望していた俺の背中に、とても温かい感触が触れる。
首だけを動かせば、それが望月ちゃんだとすぐに気付いた。
涙を流して俺を心配そうに見る、望月ちゃんだった。
「虎太郎君! 大丈夫! 大丈夫だから! 絶対……絶対大丈夫だからぁ!!」
力の限りに俺を抱きしめ、必死に何かをしようとしている彼女を見ながら俺はようやく気付く。
望月ちゃんに抱き着かれた部分が、とても温かいことに。
そしてそれをとても温かく感じるくらいに、他の部分が冷たいことに。
もう体のどこからも、望月ちゃんの治癒の力も、支援の力も感じないことに。
そして俺と望月ちゃんの間に確かにあったテイムの白い絆が、どこにも見当たらないことに。
(あ……あぁ……)
「絶対、絶対に平気だから! 繋がって! 繋がって!!」
俺自身がどうなっているのかが、全く分からなくて。
どうして望月ちゃんがここまで泣いて、必死になってくれているのかも分からなくて。
けれど。
「繋がった! 繋がったよ虎太郎君! まだ……まだ大丈夫だから!」
分かったことは、あまり多くはなかった。
またもう一度、望月ちゃんとテイムの絆が繋がったということ。
けれど俺の体を満たす彼女の熱はあまりにも小さくて、意識しなければ消えそうで。
俺と望月ちゃんの繋がりは、まるで糸のように細くて今にも切れそうなほど弱々しかった。