第119話 世界への誘い
未だかつて、ここまで緊張した日があっただろうか。
東京のTier2ダンジョン。その中層を歩きながら、俺はふとそんな事を思った。
出てくるモンスターのレベルは格下で、俺達が普段挑んでいるようなTier1ダンジョンの方が遥かに危険に満ちている。
けれどそこは俺達の緊張故か、空気がやけに重い気がした。
そんな筈がないのに、待ち合わせ場所に近づけば近づくほどに重力が増しているような。
そしてその重圧感は、待ち合わせ場所前の曲がり角を曲がった瞬間に、さらに大きくなった。
「あ、氷堂さん」
隣を歩く望月ちゃんが何でもないように呟いた。
先ほどから緊張しているのは俺と竜乃で、望月ちゃんはいつも通りの穏やかな雰囲気だった。
初々しかった彼女もダンジョンを何度も経験することで大分図太くなったなと思っていたが、太くなり過ぎではないだろうか。
氷堂はやや遠くに立っているのが見えるし、いくら後ろ姿とはいえ、それだけであの氷堂と分かるような何かがある。
にもかかわらず普段通りにしているなんて、望月ちゃん、まさか心の中に俺以上の怪物を飼ってやしないだろうか。
え、天使の顔してるけど中には化け物が居るかもってこと? でもそれはそれで良いかも……。
目の前の怪物が、ゆっくりと振り向く。
背中を向けた状態から、右回りに。その動きがスローに映り、何も映さない無機質な空色の瞳が、俺を捉えた。
(……こえーよ)
なんでこの人は……人か? 人だよな? なんでこんなに一挙手一投足が恐ろしいのか。
待ち人が来たんだから、ニッコリと微笑んで欲しいものだ。顔はとても整っているから、可愛いに決まっているのに。
そんな事を思う俺とは対照的に、望月ちゃんは軽い足取りで氷堂へと近づいていく。
彼女に近づけば近づくほどに重圧は増すのに、望月ちゃんは気にしていない様子だ。
以前会ったときは望月ちゃんも緊張していた筈なのだが。
「お待たせしました、氷堂さん」
「否定。そこまで待ってはいない」
望月ちゃんの笑顔の挨拶にも、氷堂は表情をピクリとも動かさない。
彼女は視線を動かし、何かを探しているようだった。おそらくは配信用のカメラドローンだろう。
以前氷堂に言われた通り、今回は配信ドローンは持参していない。
「ここは人目に付く。探索者テントを希望する」
「あ、そうですね」
ぶっきらぼうな氷堂の発言を気にすることなく、望月ちゃんは簡易テントを取り出し始めた。
その間、氷堂は望月ちゃんを横目に俺と竜乃に何度も視線を向ける。
「…………」
何か言って欲しいものだが、一言も発することなく、ただ重圧が俺達を襲うだけ。
流石に俺も慣れてはきたが、竜乃と同様にやや居心地は悪い。
「お待たせしました」
「感謝する」
軽く言葉を交わし、テントの中に入る俺達。
最後に竜乃がテントの中に入り、完全に外と隔絶された途端、今まで襲っていた重圧が嘘のように消えた。
それまでの重圧の発信源であった少女は振り返り、俺達に視線を向ける。
姿かたちは変わらないものの、目を見て話せるくらいにはなっていた。
「来てくれて、とても嬉しく思う」
「いえ、日程にも余裕がありましたし、時間も問題ありませんでしたから。
それで……話したいことというのは?」
望月ちゃんの質問に、ピクリと氷堂が反応した。
表情が全く動かない彼女の、初めての反応だった。
「その前に、伝えておくことがある。私はあなた達をずっと応援している。これからも頑張って欲しい」
「え、えっと……?」
「英雄譚は物語としては上々だが、それが現実になれば形容できない程だ。
この作品は、体験を分け合えるという点でどの作品よりも勝ると私は考える。
かの偉人、ルートスフィアの物語すら霞むほどだ」
「……???」
突然の氷堂の言葉に望月ちゃんは頭に「?」マークを浮かべているが、それは俺も同じである。
彼女が何を言っているのかがよく分からない。
ルートスフィアというのは数年前に有名になった小説家の名前だった気がしたが、それがなぜ急に出てくるのか。
分からないことだらけだが、氷堂が俺達を評価し、称賛してくれていることだけは分かった。
「否定、単純に言えば、ずっと前から配信を見ている」
「……はぁ」
氷堂の単純な一言に、一瞬呆気にとられた望月ちゃん。
しかしすぐにその真意を理解し、目を見開いた。
「えぇ!?」
思うことは俺も同じ。まさか日本No1の探索者である氷堂が俺達を見ているとは、露とも思わなかった。
口ぶり的に、つい最近見始めたというわけでもなさそうだ。
氷堂は俺へと視線を向け、じっと見つめてくる。
重圧は感じないものの、見られているという感覚は緊張を抱かせた。
「キミも、だいぶ大きくなった」
その言葉は、俺が小さい頃を知っているということだ。
それは今からかなり前の、それこそ茨城のTier2に挑んでいた頃の話である。
彼女は一体いつから俺達を見ているのか。
それとも単に配信アーカイブを見直しているだけなのか。
「話が逸れた。今回呼んだのは、話がしたかったから。
貴女は、探索者海外交流プログラムを知っているだろうか?」
「……いえ、聞いたことないですね。ごめんなさい」
「否定。これは長年京都側で行われてきたことだ。なので貴女が知らないのも無理はない」
探索者海外交流プログラム。
俺も名前だけしか聞いたことがない。確か、その名の通り海外に探索者が向かうという留学のようなプログラムではなかったか。
「これは日本の探索者最大3名が友好国に出向き、そこの最上位探索者のゲストとしてその国のTier1ダンジョンに潜るというもの」
そんな事を思っていると、氷堂が簡単に説明をしてくれる。
どうやらプログラムの内容は俺が聞いた内容そのままのようだ。
「基本的には日本のTOP3の探索者が対象。対象国はアメリカやフランス、中国など」
「……それに、私が入っていると? 特に神宮さんからは聞いていませんが」
「否定。貴女達は実力的にはTOP3確実だが、評価が追い付いていない。
時代が貴女達に遅れている」
そう強く言い切り、氷堂は一度だけ目を瞑る。
表情の全く動かない彼女の動きが止まり、どうしたのかと一瞬思ってしまうが、すぐに彼女は目を開いた。
「このプログラムは、あまり使うものは居ないが、共に同行する探索者を選ぶことが出来る。
ゲストのゲストというような、そういったものだ」
そこまで言い、氷堂は自分の胸に手を置いた。
「来月、このプログラムが実行され、私はフランスに向かう。
そこでフランスの最上位探索者と交流する予定なのだが、そこに貴女達を招待したい」
「…………」
突然の言葉に、ついに望月ちゃんの思考がショートした。
それは俺とて同じ。急に日本のNo1探索者が声をかけてきて、急に海外交流プログラムの説明をされて、急に来月一緒に行こうと言われた。
正直、情報量が多すぎて理解に時間がかかりそうである。
そんな俺達の心の内など知る由もなく、氷堂は覗き込むように望月ちゃんを見た。
「……ダメ……だろうか?」
全く変わらぬ声音。そして全く変わらぬ表情。
けれど言葉を切ったことで不安な雰囲気を醸し出した氷堂の一言が、テント内に響いた。