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アラームと白い部屋

作者: タニシ



「そんなところで立っていないで、お茶でもどうかね?」


清潔感のある白い椅子に腰を掛けた男は、そう言って優雅にティーカップを差し出してくる。カップの表面には金色の唐草模様があしらわれており、高級感を漂わせていた。


「砂糖を入れておいたが、入れなくてもよかっただろうか」


「はあ、すみません」


私は椅子に座り、男からカップを受け取った。紅茶の種類はよく分からないが、落ち着いていて良い香りがした。


「遠慮することはない。さあ飲んでくれ、冷めないうちに」


「どうも…」


落とさないように、と両手を添えながら紅茶をすする。


私が飲み込むのを見計らって、「どうかね?」と男が訊ねてくる。聞いてくる割には、どうだ、美味しいだろう、とでも言うような顔をしていた。


「美味しいです。…あの、」


いや。というか、そもそも。



「誰ですか、アナタ」



──────────────



その男は全身を黒い衣服で覆っていた。黒いスーツのようなものに、黒いベールを羽織り、黒光りする靴(かなり高そう)、といういでたちだった。ウェーブのかかった黒髪が西洋風の顔立ちと良く似合っていたが、それよりも怪しさが際立っていた。


「私は夢の住人だよ」


「何ですかそれ…」


言動も怪しさマックスである。


「人の夢の中に住むのが私の仕事だ」


なぜか誇らしげに、男は言う。


「意味分かんないんですけど…」


私は首を回すふりをして辺りを見渡した。隙を見計らってこの場から逃げようと思ったのだ。しかし、目の前にテーブルと椅子があるだけで、辺りには何も見えない。白い空間が四方に広がっており、奥行きも分からず、距離感もよく分からなかった。


「ちゃんとした仕事だ。資格もあるんだぞ」


「どこが管轄してんですかそれ」


「厚生労働省だ」


「嘘つけ」


何なのだ、これは。


男はそんな私の様子を見て、大げさに嘆息した。


「む。信じてないな?信じてないだろう、その目は。ほら、許可証だってあるのだぞ」


男は懐からカードのようなものを取り出し、私の目前に突き付けてくる。私はそれを胡散臭そうに一瞥した。


「はあ…。すごいですね」


適当にあしらう。こんな変人から逃れて、早くここから出なくては。


「難関だが、私は優秀だったために、わずか五年で合格することができたのだ」


男は胸を張って言う。


「普通は何年くらいで取れるもんなんですか」


「だいたい三年くらいだ」


優秀じゃねえじゃねえか。


「ていうか、だからアナタ誰なんですか。ここはどこですか」


逃げることは諦めて、私は男に訊ねた。


気付いてしまったからだ。この空間には、出入り口がない。何か細工があるのかもしれないが、下手に動かない方がよい気がしてきた。窓もないのだから、空気がどうなっているのかもわからない。


「ふむ。名前のことだな?実は名前は持っていないのだ。君が決めてくれて構わないぞ。好きな名前を言いたまえ」


胡散臭い…。


人間って、ここまで怪しくなれるのだろうか。私は眉をひそめながらも、しばらく考えて、


「じゃあ黒崎で」


と、提案した。


「ふむ。なぜ黒崎なのだ?」


「黒いから」


私は男の姿を見やる。ここまで真っ黒だと、服を買うのに迷わなくていいだろうな、などとぼんやり思った。


「黒をつけたいのなら、黒田とか黒沢とか他にもあったと思うが」


「いや、じゃあそれでもいいですけど」


私は面倒くさそうに言った。


「む…、まあいいだろう。黒崎という名前はなかなかシャープな響きだ。私にふさわしい」


先程から思っていたが、この人の心臓は鉄でできているのかもしれない。


「さて、改めて自己紹介をしよう。私は夢の住人。人からは黒崎と呼ばれている」


呼ばれている、って今私が付けたんだろうが。


大丈夫だろうかこの人、などと思いながらも、今は動けないのだから仕方がない。


「ここは君の夢の中だ。私は今日から君のところに配属という形になったので、しばらく厄介になるぞ」


意味が分からない。


「いや、あの…、ええと、じゃあつまり、私は今夢を見ていると…?」


「分かっているではないか。そういうことだ」


「紅茶飲んだりとか、してますけど…」


「夢の中だからな」


「…」


夢とはいったい。



─────────────




ふいに、目が覚める。辺りを見渡すと、よく見慣れた自分の部屋だ。変な夢…、と嘆息すると、ベッドから起き上がり、壁に掛けられたハンガーを手に取る。制服に着替え、階段を下り、母親の呼ぶ声に「起きてる、起きてる」と返事をする。


今日も一日、学校に行かなければならない。


ここのところ憂鬱を感じる要因のことを思い起こし、私はもう一度大きなため息をついた。


****


「またいるし…」


気が付いたら、白い空間にいた。連続して同じ夢を見ることは初めての体験だったため、妙な気持ちになる。黒崎が声に気付いてこちらを振り向く。


「やあ君か。見たまえ、テーブルクロスを新調したのだ。なかなか良いだろう」


「まあまあですね」


私はテーブルクロスを見る。確かにセンスは良かった。


「…どこで買ってるんですか」


ふと気になって黒崎に訊ねる。この男が律儀にレジに並んでいるところを想像すると可笑しかった。


「基本的に配属中は夢の外には出られないからな。本部に連絡して取り寄せているのだ」


「高いやつなんじゃないんですか、これ。よく分かんないけど」


「経費で落としているから大丈夫だ」


「何に対しての大丈夫ですか」


私は真顔でつっこむ。


「というか、一応仕事なのに、そんな遊んでて良いんですか」


黒崎はきょとんとした表情でこちらを見た。


「何を言っている。私は夢の住人だぞ。君の夢の中で暮らすのが仕事なのだ」


「…」


この会社に就職しようか。



────────────



 目が覚めると、自分の部屋にいた。頭が重い。夢の中だとはいえ、黒崎を相手に会話をしていると妙に疲れるのだった。


「はあ」


ため息をつく。今日も学校だ。階段を下りると、いつものように母親が声をかけてくる。私は「はいはい」と返事をすると、席に着き、少し焦げ目の付いた食パンにかぶりつく。少しして母親に一瞬目をくれると、このもやもやした気持ちについて話そうか話すまいか悩み、結局何も言わずに家を出た。


学校に着き、いつも通りの時間を過ごす。放課後、担任に声をかけられる。もう一か月になるだろうか、同じようなやりとりをしている。


「また今日も、頼むね」


「はい」


じゃんけんに負けて委員長を引き受けてしまったことを悔やみながらも、担任に気付かれるわけにはいかず、私はまたしても心の中でため息をつくのだった。


学校を出て、駐輪場へと向かう。自転車にまたがって向かう先は、もう二か月は学校に来ていない、同じクラスの女子生徒の家だった。不安と緊張が合わさった気持ちを抱え、自転車を漕いでいく。風が冷たく頬に当たる。もうそろそろ、マフラーが必要な季節だ。


しばらく漕いでいき、目的の家へ着く。玄関横に自転車を置き、鍵をスカートのポケットに突っ込む。インターホンを押す。


「すみません、えっと、浜野ですけど」


そう名乗ると「はいはい、待ってね」と返事が返ってきた。女子生徒の母親の声だ。しばらくして、ガチャッと音を立てて扉が開いた。前髪が伸びて、暗い顔をした少女が顔を出す。


「あ、浜野さん…。ごめんね、いつも」


「ううん、体調大丈夫?これ、プリントとか…」


「ありがとう…」


少女はプリントを受けると、気まずそうに私から目を離す。


「体調良くなったら、またいつでも学校…」


「じゃあ、またね」


言い終わるのを遮って少女が扉を閉める。


「うん、じゃあ、またね…」


誰もいない扉に向かって、私はぼそっと呟くように言った。



───────────



「やあ君か」


黒崎が声をかけてくる。三回目である。恐ろしいもので、三回も経験すると慣れてくる。


「今日は『花嫁の指輪』のDVDを借りてきた。君もどうだ?シャーリー・ホワイトはなかなかよい演技をするぞ」


私は黙って椅子に座る。また経費で落としたんだろうか。


大人っぽいが、随分若い女優のようだった。ふと気になって黒崎の方を向く。


「そういえば、いくつなんですか、年齢」


「シャーリーか?この当時はまだ十八歳だったはずだ。美しいだろう」


「そうじゃなくて。アナタの年齢ですよ。聞いてなかったな、と思って」


「私か?」


黒崎はやや驚いたような顔をしてこちらを見た。


「……二十代から三十代の間と言っておこう。男性にそうそう年を聞くものじゃないぞ」


女性の間違いでは。


しかし、話し方は古臭いが、やはりこの男は若いらしい。顔も日本人離れした端正な顔立ちで、鼻筋の通った美形、というイメージだった。


性格に難あり、ってやつですな。


私はもったいないねえ、と思いながら、テレビに目を移した。ちょうどそのとき、シャーリーのウインクに黒崎が「おお」と声をあげていた。



───────────


そんな黒崎とのやりとりをすること数日。


けたたましい目覚ましの音で目が覚める。体が重い。制服に手を伸ばすが、なかなか着替える気力がわかない。低い声で唸っていると、母親の名前を呼ぶ声が聞こえ、渋々制服に袖を通す。

また今日も授業を受けて、放課後には届け物をしにいかなければならない。委員長なのだから仕方ないと分かってはいるが、段々と自分の手には負えなくなっているという焦りもあった。このまま自分が任されていて良いのだろうか…。


母親に目を向けた。声をかけようとするが、洗濯物を抱きかかえて走り抜けるのを見て、視線を逸らす。ため息をつき、鞄を手に取って立ち上がった。



「あき、今日も西田さんのところ行くの?」


放課後、同じクラスの麻衣が声をかけてきた。


「うん…頼まれてるし。プリントとか」


私はそう言ってプリントをファイルに入れる。先程担任から受け取ったものだ。


「ずっと言おうと思ってたんだけど」


麻衣はそんな私の様子を見て声を大きくする。


「ぶっちゃけさあ、自業自得じゃない?西田さん。来なくなったのも自分のせいっていうかさ、あきが持ってく意味あるのかなあ」


「え…でも…」


「林先生もあきに甘えてない?断らないからってさ。自分が行けばいいのに」


「先生も忙しいんだよ…」


「私西田さんのこと、そんなに好きじゃないんだよね…」


「……」


そんなことを言われても。どうしようもないだろうが。


「…とりあえずプリント引き受けちゃったし、今日は行くよ」


「行くんだ。あき、本当に優しいね」


半ば批判がこもっていそうなその言葉に、私は何も言い返すことが出来なかった。


インターホンを押す。「はい」という声が聞こえてくる。私はいつものように「浜野です」と名乗り、相手の返事を待つ。


もう一か月以上そうしている。きっかけは些細なことだった。西田さんが、クラスの中心グループにいる丸岡さんの誘いを断ったことが始まりだった。そのうちに丸岡さんの生意気だという声を受け、だんだんと皆、西田さんから距離を置くようになった。西田さんは最初の方こそ学校に来ていたが、エスカレートし始めた嫌がらせを受け、少しずつ学校へ来なくなっていった。


「浜野さん…」


西田さんが顔を出す。私はつとめて明るい声で、


「はいこれ、プリント」


と差し出した。西田さんはプリントを受け取り、私の顔を見る。


「どうしたの?」


「浜野さん、別に無理して来なくていいから」


西田さんが冷たい声で言った。私は慌てる。


「無理してないよ。委員長だし、それに」


「委員長だから嫌々来てるんでしょ。分かるよ」


西田さんが吐き捨てるように言う。


「そんなつもりじゃ…」


「浜野さん、私が何か言われてた時は助けてくれなかったじゃん。なんでこういう時だけ良い子ぶるの。…ごめん、嫌な言い方して。でもさ、偽善じゃん。だって」


「……」


「こうやって家に来てくれて悪いなと思ってたけど、ずっと無理して来てたんでしょ?実際そんな事思ってないくせに…私、なんか惨めで…」


「西田さ…」


「ごめん、帰って。偽善、だよ。やめて」


「西田さん…」


ガチャッと音を立てて、扉が閉まった。私は空になったファイルを持って、茫然と立つしかなかった。



────────────



「やあ君か」


黒崎がこちらを見て微笑む。


「見たまえ、今日はオーガニックチャイだ。合う菓子を見つけるのに苦労したのだぞ」


「……」


「ほら、飲んでみたまえ」


「……」


「む、口をつけないのか?まあこれは好みが分かれるからな。口に合わないのなら君の分は私がいただくので気にしなくても良い」


「……」


「そうだ、君はテニスをするだろうか?最近体力をつけるようにと本部から送られてきたのだが、いまいちルールが分からなくてだな」


「……」


「ほら、なかなか本格的だろう?どうだ、君も一緒に」


「なんで」


黒崎の手が止まった。


「なんで聞いてくれないんですか?何かあったのかって」


私は泣くのをこらえながら、黒崎を睨んだ。黒崎にこんなことを言うのはお門違いだろう。これは私の現実の問題なのに。


でも。


「聞いて、欲しかったのに」


ぐっとこらえて下を向いた。黒崎の前で泣きたくなかった。こんな自分を見せたくなかった。


「私は」


黒崎が口を開く。


「私の仕事は、君の夢の中で暮らすことだ」


限界だった。涙がこぼれるのを見られたくなくて、私は黒崎に背を向けた。逃げ出したかったが、逃げる場所も隠れる場所もないことはとうに知っていた。


やがて、ぽつりと、


「相槌とか、いらないです。聞いてもらえませんか。私の話」


黒崎が黙って頷いた。


「私、ずっと誰かに聞いて欲しくて───」


それから堰を切ったように、心の中の黒々としたもやもやを吐き出した。担任から押し付けられた役目に重圧を感じていたこと。西田さんの気持ちがずっと分からなかったこと。麻衣の顔を気にしていたこと。丸岡さんが怖かったこと。登校に不安を感じ始めていたこと…。


黒崎は時折り相槌を打ちながら、私の話を黙って聞いてくれた。


「落ち着いたか?」


黒崎が後ろから声をかけてくる。こちらを覗き込んだりしないのはありがたかった。


「心ないことを言って、悪かった」


紅茶を差し出してくる。


「……すみません」


そもそも、黒崎に話すようなことではなかった。


「君は少し、自分を許すべきだ」


黒崎は私の目を見て言った。私は黒崎の目を見つめた。初めて黒崎の真剣な表情を見た気がした。


しばらくして、黒崎が立ち上がる。


「そういえば、トランプを買ったのだ。君はマジックができるか?」


私は目をぱちくりさせながら、「いや、できませんけど……」と答える。黒崎はトランプをケースから取り出し、おぼつかない手つきでカードを切り始めた。


「ならば少し練習に付き合ってくれないか。今度の飲み会までにマジックが使えるようになりたいのだ」


何なのだ、それは。


いつもの調子の黒崎だった。先程の真剣な表情を思い浮かべ、どちらが本物の黒崎なのだろうか、と思案した。




────────────



彼女、西田さんの言う通りだった。私のやっていたことは偽善だった。委員長だから。担任に頼まれたから。体裁のため、保身のため、「良い人」に見られるため。彼女がいじめられている時も、自分が標的になることが怖くて、声をあげることが出来なかった。仲の良い友達に避けられることも怖かった。


(八方美人ってやつ、だったのかも)


私は冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップに注ぐ。無意識にコップを二つ用意しているのに気付き、一つを片付ける。黒崎の分を用意する癖だった。


(黒崎、か)


西田さんをお茶に誘ってみようか。


黒崎の真似事だが、まずは友達からの視点で彼女と話すのが良いかもしれない。自分の気持ちも、正直に話してみよう。


それからしばらく、私は夢を見なかった。安心して眠れていたからかもしれない。西田さんとは、和解することができた。こちらこそ言い過ぎてごめん、と逆に謝られた。


黒崎の怪しさや胡散臭さが少し懐かしくなっていた。



────────────



「やあ君か」


黒崎がゆったりと座りながら紅茶を飲んでいた。私はほっと胸を撫で下ろす。


「今日のクッキーはフランスの銘菓だ。高級品だぞ。よく味わって食べたまえ」


「経費で落としたんじゃないんですか」


「君は何か誤解していないか。何でもかんでも経費を使っている訳ではないのだぞ、私は」


「どうだか」


私はクッキーに手を伸ばす。しっとりとした味わいで、美味しかった。


「なんか、久しぶりな気がしますね」


「そうだな、夢を見てもらわないと、こちらとしては仕事のしようがないからな」


「私のツッコミがないとただの変な人だし」


「変?誰がだ?ここには君と私しかいないが」


「本気で言ってるのだから恐ろしい」


「ああ、そうだ」


黒崎はぽん、と手を合わせた。


「契約が切れたから、私の任期は今日までだ。今まで世話になったな」


「…え?」


その言葉を飲み込むまでに、時間がかかった。黒崎を見て固まる。


「どういう、ことですか」


私はやっと、そう絞り出した。頭が追い付かない。


「次の配属先が決まったのだ。しかし、事前に連絡が来ないのはなかなかに困るな。そこで働いている社員の顔が見てみたいものだ」


いつものつっこみさえ出ない。こんなに急に別れが来るなんて思ってもなかったのだ。黒崎のあっけからんとした態度も腹立たしかった。どうしてそんなに平気なのだ。もしかしたら、もう会えないかもしれないのに。


「もう、」


会えないんですか?という言葉を必死に飲み込んだ。言葉に出してしまったら、本当にそうなってしまうような気がしたのだ。


「これは私からの餞別だ」


黒崎は紙袋を取り出した。


「餞別と煎餅をかけた。ユニークだろう」


駄洒落じゃねえか。


私は泣きそうになるのをこらえて、「センスないですね」と受け取る。今ここでもらったところで、現実には持っていけるわけではないのに、やはりこの男はどこか頭のねじが飛んでいるのだ。


黒崎は私のつっこみを聞いて笑っていた。と、少し真面目な目をしてから言う。


「君にはもう、私は必要ない」


その時に分かった。黒崎は夢の住人として、私を見守ってくれていたのだ。何か直接助けてくれるわけでもなく、一緒にお茶を飲んで、映画を観て、胡散臭い話をして、そうやって私の傍にいてくれていたのだ。彼はそういう仕事をしていたのだ。


「黒崎さん」


私はありがとう、と口に出した。


「初めて名前を呼んでくれたな」


黒崎は笑う。


「ずっとやきもきしていたぞ。君が付けてくれたというのに、ちっとも名前を呼ぶ気配がないのだからな」


そして、真剣な表情で


「こちらこそ礼を言う。楽しい時間をありがとう。君の幸せを願っている」


とほほ笑んだ。


あ、と思ったときには黒崎は消えていた。テーブルには少し冷めた紅茶が入ったカップが残っているだけだった。


****



それから私の日常は元通りの平凡な日々へと変わった。西田さんは学校へ来るようになった。麻衣とも仲良く話している。丸岡さんとの関係は相変わらずだが、以前のような嫌がらせは無くなった。少しずつクラスにも溶け込み始めている。


時折、黒崎のことを思い出す。今でも、不思議な夢だったな、と思う。彼は今もどこかで夢の住人の仕事をしているのだろうか。思い出されるのは黒崎の胡散臭さや変なしゃべり方などばかりなのだが、一つだけ良いことがあった。


少しだけ、紅茶の香りに詳しくなったこと。


****


白い空間に、黒のベールがよく映えている。風変わりな格好をした怪しい男は、僕を見つけると手招きをした。



「そんな悲しい顔をしてないで、お茶でもどうかね?」




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