君に望むは僕の弔辞
僕の家は、代々国の武門を担うことを誇りとしている貴族だ。
領地は港もある海沿いの肥沃な土地で、農産物から交易品まで様々な富が労せずして得られている。
領主である父は王都に大きな邸宅を構え、領地よりも王都を拠点として動くことが多かった。領地は信頼する家臣が見ているそうだ。
王国騎士団の長という肩書も父は持っていて、それは大きな誇りとなっていた。
僕も物心ついた時には剣を握り、馬に乗っていた。
父は姉の次に生まれた僕に大きな期待をかけて、早いうちから訓練をさせようとしていた。
僕は無邪気に父が構ってくれることが嬉しかった。
だけど、僕は激しすぎる運動ができない体質だった。
徐々に厳しくなった訓練の途中で突然倒れて、床を上げるのに一カ月以上もかかった。
そして僕を診た医師から運動を禁じられた。
あの日から、父の笑顔を見ることはなくなった。
僕のあとに子は産まれず、四歳上の姉が訓練を受けるようになった。
部屋の窓から父と並んで馬を走らせる姉の姿を見るのがつらかった。
本当なら僕がそこにいたはずなのに。
でも、僕が生まれてから、姉こそがそう思っていたのかもしれない。
姉はいつも僕と父が訓練するのを見ていた。
それに優越感があったのも事実だ。
弱い身体は、些細な気温の変化にも熱を出してしまう。
誰も来ない部屋で、今度こそ死んでしまえるだろうかと期待していたとき、姉が来た。
「死んではダメよ。貴方が生きている限り、この家の継嗣は貴方のまま。お父様も他所から養子を取ろうなんて言えないわ。家は私が継ぐ。足場を固めるまで生きていなさい」
僕はそんなに悪いことをしたのだろうか。
身体が弱いのは、幼い頃に体質に気付かず無理をさせ過ぎたからだと聞いたことがある。
それは僕が悪いの?
父の愛を子供である僕が望んではいけないの。
死んでもいい、死ぬのは怖い。
ひとりは嫌だ。他人も嫌いだ。
姉が来た後に出した熱も苦しかった。
苦しむ僕を心配してくれる人もいなくて、そんな家どうにでもなってしまえばいい。
だけど死ぬ方法はわからなくて、最初は窓から飛び降りてみた。
植え込みに落ちて動けなくなっただけだった。
寒い日に窓を全開にしようとした。
窓を自分で触ることがないから忘れていたれど、落ちてから窓に格子をつけられて全開にできなかった。
隙間しか開かない窓では、ヒューヒューと音がうるさくてすぐにばれてしまった。
僕はメイドに訴えた。
「机の引き出しにカフスがある。それをあげるから、誰にも見つからないように毒を持ってきて。君がいなくなってから飲むから」
カフスはなくなり、メイドも姿を消したけれど、毒はもらえなかった。
この頃には僕の死にたがりは知れ渡っていたようで、使用人達さえ僕の言葉を聞かなくなっていた。
何度も死にそうに苦しい思いをして、そういう時だけ周りにたくさん人が来て僕を無理矢理生かした。
両親の顔も、姉の顔もほとんど思い出せない。
それでも教育だけは施すつもりのようで、何人もの教師が反応のない僕にたくさんの講義をして帰っていった。そんなものを覚えても僕には使えない知識だ。
自室のなかで立って歩くことぐらいはできるけど、外に出る気になれないし、許されない。
鉄格子のはまった窓は、生まれたことが罪なのだとでも言っているようだ。
ある日、家が騒がしくなった。
屋敷の端の僕の部屋まで聞こえてくる騒がしい音楽。人の声。
喧騒のなかに、姉の成人を祝う声が聞こえてきた。
人を招いて祝っているのだ。
それすらも、僕には何も知らされなかった。
虚弱で気狂い、それがに与えられたこの家での評価だ。
ひどく悔しくて、部屋から寝間着のまま飛び出してやろうとしたけれど、鍵が閉まっていて何もできない。
当たり前だ、まともな子供は姉しかいないのに、その祝いの場を万一にも僕が壊したら目も当てられない。
騒ごうにも大声を出すのは苦手だし、手足の力は弱くて扉を叩いても大した音は出せない。
そのうちに、立っているのがつらくて、扉の前にうずくまった。
幼い思い出は遠い夢の中の出来事で、生きている間はひたすら苦しい時が来ないように気をつけてじっとしていた。
どうせ死ぬなら苦しくてももがいたほうが良いんじゃないか。
このまま死んだら絶対にこの部屋で幽霊になってしまう。
死んでもここから出られないなんて嫌すぎる。
その時、外を歩く足音が聞こえた。
聞きなれない足音は、迷い込んだ客人かもしれない。
「た、たすけて。たすけてください」
「……だれかいるのか?」
誰かとまともな言葉を交わすのはどれぐらいぶりだろう。反応があったことに涙が滲む。
泣いている場合じゃない。大きく息を吸って、僕は必死で訴えた。
「閉じ込められています。外に、出たいんです」
「閉じ込められるだけの理由があるんだろう。諦めろ」
「このまま死ぬのは嫌だ」
「……罪人か」
「生まれたことが罪ですか」
相手の言い分もわかる。他家の事情に首を突っ込むなんて危険この上ない。
でも、僕には時間がない。枯れ枝のような腕、まともに立ってもいられない身体。
今でも幽霊のように扱われているのに、死んで永遠に続いてしまうかと思うと怖くてたまらない。
「僕は部屋の外で死にたい」
こんなに声を出したのはいつぶりだろうか。
部屋の外の人間は、もしかしたら、もういないのかもしれない。
そこまで話して疲れて目を閉じた。
変な姿勢でいるから息が苦しい。
だけど体勢を変える力も残っていない。
無理をしたから、明日はまた熱が出るだろう。
それで本当に最期かもしれない。
姉が成人したのなら、僕は用済みになったかも。
最期に聞いた他人の言葉が「罪人か」だなんて、ひどい人生だった。
諦めて意識を手離そうとした時、ガキッと音がして空気が変わった。
「おい、まだ死んでいないだろうな」
「……ぅ」
「本当に死にかけているのか。……仕方ない、今際の際の願いぐらい聞き届けてやる。……軽い」
身体が揺れて重い瞼をこじ開けると、不遜な物言いからは予想できなかった若い顔があった。
精悍な顔立ちは、こんな風になりたかったと思わせる風貌だった。
「もう喋るのもきついか」
「……」
口を開いて答えようとしたけれど、出るのは浅くて弱い呼吸ばかりだった。
「ほら」
次に呼ばれた時には、色とりどりの花の咲く花壇の脇に寝かされていた。
じかに感じる土の香りと草の匂いが懐かしくて涙がこぼれた。
「ぁ……ありがとぅ」
「満足か」
「もう、行って……ここが……いい」
再び僕を抱え上げようとした人を止めた。
僕が満足したから、元の部屋に戻そうとしているのだろう。
でも、ここで死んだら天に還れる。なんの根拠もなくそう思った。
連れてきてくれた彼が、「わかった。よい旅路を」なんて死者の弔いにかける言葉をくれた。
遠ざかっていく足音を聞きながら、いい気分で目を閉じた。
結論からいって、僕は死ななかった。
だけど、自力で移動する力のない僕がおかしな場所で倒れていたことは大騒動になったらしい。
高熱を出して生死の境を彷徨っていたから、僕は何も知らない。
ただ、僕を発見したのが父だったらしく、ものすごく取り乱したらしい。
姉が憎憎しげに教えてくれた。
なんでいまさら父が取り乱すのか僕にもわからないのに。
どうも父は罪悪感から僕に会えなくなっていたらしい。
幼い自分に無茶を強いたせいで、僕を死と隣り合わせの生にしてしまったのを直視したくないとか。
そんな可愛げのある父なのだろうか。記憶が遠すぎてわからない。
姉は成人と同時に婿養子にちょうどいい男を捕まえて、僕はお役御免だから僻地に療養に出された。
もっと早くそういう決断をしてくれたら、僕は家の中で両親や姉に悶々として過ごさなくて良かったんじゃないかな。
ちなみに僻地に着くまでの移動だけでも死にかけたけど、やっぱり生き延びた。
僕、意外にしぶといんじゃない?
僻地では僕を知る人間がほとんどいないこともあって、好きにするようにした。
身体が弱く死にかけていることで同情をひいた。これはとてもうまくいった。
使用人たちは僕のことを、ただ虚弱体質でいつも死にかけているとしか知らなかった。
心が軽くなったせいか、熱を出すことも少なくなった。
嫌なものを嫌だといえる生活は快適だった。
気付けば、屋敷の庭を散歩できるまで回復して、僕は成人の歳を迎えた。
「懐かしい花」
あの日、最期に綺麗なものを見せてもらえたと思った色とりどりの花が咲いていた。
庭を囲むように植えられている。不思議なことに、この花は年中咲いている。
香りが強く、野生動物を寄せ付けないらしいことから、神の加護という大層な名前がついている。
いい気分で見ていると、花壇の端に人間の足が出ていた。
まるで数年前の自分が横たわっているようで、頭が混乱する。
実は僻地にいるのは夢みたいなもので、僕はあの時死んでて幽体離脱していたのか?
とりあえず顔を確認しようと近づくと、僕ではないことが確定してホッとした。
着のみ着のまま逃げてきましたといった風情の精悍な顔立ちの青年だ。
服の仕立ては良さそうだから、どこかの貴族か……いや、王族? 政変でも起きたのだろうか。
近付き過ぎて何かされても怖いから、お気に入りの棒を持ってきた。杖にもなりそうないい感じの棒だ。
それで倒れている男をつついてみる。
「ぅ……」
男が呻いた。生きている。
これはどうしたらいいものだろうか。
ここで死ぬのも幸せかもしれない。
何しろ花は綺麗だ。
「う……ん……!?」
すごい勢いで男の上半身が起き上がった。
僕には出来ない芸当だ。腹の力が強いのだろう。
棒の先を掴まれてしまった。怖いけど。
「ここは。お前は誰だ」
「……ここは僕の家の庭なんだけど」
なんで僕が詰問されなきゃならないんだ?
「あ、ああ……そうか、そうだ。すまない」
「いえ、なんでここに?」
「宰相が……いや、俺は一人か」
「さあ?」
落ち込んだ様子は可哀想な気もする。
僕と違って失えないものがたくさんあるのに、失ったという感じだろうか。
「ま、生きてたらなんとかなるよ」
「……」
僕もここでなら、あんな惨めな死に方じゃなく、納得して死ねる。
しぶとく生きてきて良かった。
あんなに死にたかったのに、不思議なものだ。
「なんか食べる?こっそり持ってこれるかな…」
ここには最低限の使用人しかいないから、彼らに何か用事を言いつけたら食料庫も手薄になるだろうか。生まれ育った屋敷とちがって、小さな屋敷の全ては把握している。
回復したての頃、歩く練習がわりに全て見て回った。
止める者はいなくて、たったそれだけが僕にとっては大きな冒険だった。
ここは昔、人間嫌いの当主がリフレッシュするために作った隠れ家だそうだ。
書斎で他人に会わないでぼーっと過ごすの最高、という手記を見つけている。
使用人も身寄りがなく、少し偏屈なものばかりだ。
彼らの部屋も見せてもらったが、それぞれよくわからない趣味のもので部屋の一部が埋まっていた。
給金が十分にもらえて、趣味に没頭する時間もあるこの屋敷の使用人生活はなかなかいいらしい。
新しく主人としてやってきた僕も、あまり手間がかからないから、趣味の時間もある生活が変わらなくてよかったと言っていた。
僕の体は虚弱すぎるだけで、明確な病気じゃないから治らない、
体調を崩したときのための薬が本家から送られてくるだけで、医者もいない。
僕が死ぬまで世話をするのが彼らの仕事で、死んだところで罪に問われたりしない。
「すぐに死にそうでも意外に長生きする人もいます」
この小さな屋敷を維持するためだけに雇われている彼らに不満はないらしい。
ずっと主人不在の屋敷だったから、たまにはいいと呟いていた。
ここに来てから数回体調を崩したが、以前ほど苦しい思いをしなくて済んでいる。
僕が姉を苦手としていることを察してくれた執事が、姉への定期報告に寝たきりでぎりぎり生きているような書き方をしてくれている。
外を歩けるようになったなんて知られたら殺されかねない。
せっかく穏やかな最期を遂げられそうなのに、強制終了をされたくないんだ。
料理担当の使用人が趣味の時間に入ったことを確認して、食料庫を覗いた。
燻製肉とパン、ワインと水を手に入れる。
そこではたと、重すぎて持てないことに気がついた。
自慢にできない虚弱な体だ。水差しとワインの両方を持って移動するのは危険だろう。
僕は少し疲れるだけで大きなダメージを受けてしまう。
「お腹が空かれましたか」
「ひっ。……ぅ」
見つかった拍子に驚いて胸が苦しくなる。
「見逃して」
「主人は貴方なのですから、咎めたりはしません。言っていただければ部屋までお持ちします」
執事は無表情に言い放つと、どこからともなく出したバスケットに僕が見繕ったものを入れていく。チーズまで入れてくれた。
彼に部屋に運んでもらってから、庭で見つけた人を僕の部屋に入れたらいいのか。
それが一番楽そうだ。
「庭で行き倒れているひとを見つけたんだ。助けたい」
ちらっと執事が眉を動かした。
「……少し大きめの服も欲しいのだけど。えっと、君ぐらいの」
「わかりました」
無表情で言葉遣いもぶっきらぼうだが、彼は優しい。
彼の趣味はぬいぐるみ作成だ。部屋は工房のようだった。
作りすぎたものは売っているらしい。僕も一つもらった。
「どうぞ。湯の準備もしますか」
「あ、うん。……報告には書かないで」
「貴方の体調の報告しかしません」
「ありがとう」
拾っても何も言われないのは驚いたが、ありがたかった。
死んでもいい人間というのは、こうも自由なのか。
思い詰めた表情で庭の花を見ている男のもとに戻り、部屋に来るように促した。
湯浴みをさせて、服を着替えさせる。
彼のもとの服を回収した執事は、すーっと去っていった。
綺麗になった男は、渡した食べ物をがつがつと、でも上品に食べ尽くした。
大量に持ってきてもらったつもりだけど、健康な成人男性というものがこれほど食べるとは知らなかった。
「すまない、休ませてもらっていいか」
「ここでいいならどうぞ」
僕の寝台を指すと、ためらいもなく潜り込んですぐに寝息が聞こえてきた。疲れていたのだろう。
僕も疲れたから、隙間に潜り込んで目を閉じた。
だれかと寝台を分かち合うのは初めてだが、寝台は広いし僕は小柄だからとくに問題はなかった。
「え? うわ!?」
耳元で騒ぐ声が聞こえて眼を覚ますと、男の腕を枕に眠っていた。
僕の目から涙が出ている。幼い頃の夢を見てしまったからだ。
僕より年上とはいえ、大して年の変わらない相手に父を重ねてしまったようだ。少し恥ずかしい。
「腕、ごめん」
「腕……の問題じゃない。迷惑をかけた」
「毎日暇だから面白い。気が向いたらどういう状況か教えてほしいし、出て行くときも言ってほしい」
この男を拾ったことで疲れたようで、まだ眠かった。
とりあえず言いたいことだけは言っておく。
「僕はまだ寝るから、何かあったら使用人に言伝けて……」
もぞもぞと寝台から男が出て行く気配がして、少し寒いと思った。
*
王の子供として相応しいように生きていたつもりだった。
兄が王太子として立ち、国にはなんの不安もないと思っていた。
下の弟がおかしな女を連れてくるまで。
学園で出会ったという平民出の下級貴族の婚外子が、弟の心を射止めたらしい。
婚約者を貶めて排除しようとしていたから、穏便に弟が愛を貫けるように尽力したつもりだった。
だが、その弟の恋人に、妻帯者である王太子までが心を奪われてしまった。
めちゃくちゃだ。
女は俺にも色目を使ってきた。
あの女は、眼に映るスペックの高い男は全て自分のものだと勘違いしているようだった。
たった一人の女のために、我が国はめちゃくちゃになった。
抵抗する俺は反逆者扱いをされた。俺も投獄寸前で、弟の元婚約者の手引きで国外に逃がされた。
余裕はなく、着の身着のまま人のいない方へひたすら逃げた。
馬に乗っていたが、獣に追われたときに囮になってもらうために傷をつけて別方向へ走らせた。
こんなことで、こんなところで死ぬのは矜持が許さない。
あの女に関しては、弟の元婚約者がなんとかするから、王家の血を絶やさないために生きてくれと言われた。
今の俺の価値は血筋だけだ。
その身分を示すものも、指輪一つしかない。
王族以外のものがつけたら呪われる特別な指輪だ。
飢えを感じることも、周りに誰もいないことも初めてだった。
以前隣国の貴族のパーティを抜け出したとき、気まぐれに死に場所を探してやったことがあった。
俺より少し年下の子供が、ここでは死にたくないというから、花の咲く場所に置いてやった。
持ち上げたとき、あまりの軽さに驚いて、これはすぐに死ぬしかないのだろうと納得した。
えらそうに気取って「よい旅路を」などと生者に弔いの言葉をかけた。
本人も死を受け入れているのだから、自分の行動は間違っていないと信じていた。
人の死に触れたのはあれが最初だった。
良いことをしたと信じていたけれど、あれのなにが幸せだったのだろう。
こんなところで生き倒れて死ぬなんて許せない。
この俺が、なんのために努力して生きてきたのだ。
同じように花のそばに身を横たえても怒りしかない。
たが、身体は限界だった。
この花は香りが強く、獣が寄りにくい。
ここならまだ安全なはずだと言い聞かせて目を閉じた。
何かに突かれる気配で飛び起きると、人間がいた。杖のような長さの棒で、俺を突いていたらしい。
あまりの無礼に驚いたが、この人間にはただの生き倒れでしかないのに思い至る。
痩せぎすの、成人もしているかわからないぐらいの年頃の少年だった。
髪は短く、ところどころ跳ねている。
寝癖を直しもしていない様子だ。
顔立ちは整っているが、病的な雰囲気のほうが印象に残る。
どことなく花の横で死なせてやった子供を思いださせるが、あれはもっと隣国の中央寄りの大貴族の家だった。こんな辺境にいるはずがない。
だいいち、あの子供はあの時に死んでいるはずだ。
部屋から出さなければ生きていたかもしれないのに、俺が連れ出して殺したようなものだ。
花のあった場所は、小さな屋敷の庭だった。
少年は俺に食料と寝床と、人間らしく戻るきっかけをあたえた。
身体が回復したところで、国に戻ることも今は難しい。
弟の元婚約者の父親である宰相がどんな手段を取るかわからないが、王家がすり替わる可能性もある。
俺を生かしたのはその娘だから、思惑が違うかもしれない。
兄と弟が死んでも、血統を残すための保険か。
だけど護衛の一人もないということは、弟の元婚約者の独断かもしれない。
宰相にとっては血統が残っている方が厄介だろう。
王家を乗っ取るほうが話が早い。
「お茶を飲まない?」
「ああ、すぐに用意しよう」
今の俺の身分は、屋敷の主人の話し相手兼雑用係となっている。
行く先がないと言ったら、そうなった。
かなり裕福な様子で、本家から予算は潤沢に出ているという。
その割に使用人達が質素な様子なのは、全員がこだわった趣味を持っているからだそうだ。
執事は材料にこだわったぬいぐるみ作成、メイド頭(といってもメイドも三人しかいない)はアクセサリー作り、メイド二人は揃って物語を作成しているらしい。
雑用係兼庭師兼護衛官のふたりはナイフ集めと珍しい植物の栽培をしている。
二階建ての屋敷の半分以上が使用人たちの部屋だ。
彼らの主人である少年は、彼らを面白がって自由にさせている。
少年自身は、非常に虚弱なようで、起きてごく少量の食事を食べては寝て、体調がいいと散歩をしてまた眠り、と一日のほとんどを寝ている。
それでも顔を合わせたら俺の話を聞きたがった。
聞けば、幼い頃は床から上がれないような生活をしていて、この屋敷に来てから庭の散策などをできるようになったという。
狭すぎる世界で生きている少年は、いつまで生きられるかわからないけれど、心穏やかに死ねたらいいと言った。
笑わないのかと聞いたら、笑い方なんて忘れてしまったと返されて、己の無神経に反省した。
*
拾った男が居着いてしまった。
指に嵌っている指輪の紋章は、記憶が確かなら王家のものだ。王族がこんなところで身一つでなにをしているのかさっぱりわからなかったが、ポツポツ話す内容をまとめると、弟が悪い女に騙されて家を傾けたらしい。
国を傾けるほどの悪事など見当もつかない。
でも、物語でしか知らなかった決闘の話や、学園の話は面白かった。
彼には親友と呼べる存在もいたようだし、国が落ち着いたら迎えが来るだろう。
下手にゴタゴタに巻き込まれても困るから、使用人たちには彼の存在を秘密にするように頼んだ。
今でも望みは生きることとは言えないけれど、死ぬことが望みでもなくなった。
あの時、花の横に置いてくれた人には感謝している。
あんな状況でも死ななかったから、自分のしぶとさに期待することができた。
明確な病気ではないということは治療もできないけれど、必ず死ぬとは限らないということだ。
気付くまでに十年もかかった。
でも、何もしないで死ぬ前で良かった。
男は名前も言わなかったから、名無しによくつけられるアドニンと呼ぶことになった。
僕の読んでいた本から名付けた。
生まれてはじめての名付けだった。
自分で馬に乗れるようになったら、馬に名付けていいと言われた思い出が蘇る。
あの頃の何もかも希望に満ちて浮き立っていた心が、少しだけ蘇った。
生きていたら悪いことばかりではなくなった。
アドニンも、ここを出たら楽しかったものを取り返せるといいのに。
庭の花は季節ごとに移動されるものがある。
この土地は寒冷で、本家にいたときほど大きな気候の変動はないけれど、ゆるやかな夏と冬が交互にやってくる。
強めの日差しが苦手な花は日陰に移植されるのだ。
僕はそのなんてことのない作業を見るのが好きだった。
掘り返した土の匂い、中から出てくる奇妙な形の幼虫。
あれがどうして大人になると全く違う形になるのか、意味がわからない。
「子供のうちは天敵に見つからないように隠れて生きるのにちょうどいい形をしているんですよ。大人になったら子孫を残したいから動き回るのにいい形に変わるんです」
庭師兼護衛官は、虫の標本を集めている。
ふたりいる護衛官は交代で休みを取って、休日はそれぞれ趣味を楽しんでいる。
護衛官のうちの一人と、メイドの一人は夫婦らしいが、お互いに趣味の時間を邪魔しないで仲良くやっているらしい。
部屋は隣同士だけど完全に分かれている。彼らに子供はいない。
「…人間はあんまり変わらないよね」
「人間は親が子供を守るからいいんですよ」
「そう」
僕も守られていたのだろうか。
少なくとも死なせないように気を遣われていたのは確かだ。
それが両親の思惑か、姉の差金なのかはわからない。
単に継嗣を放置して殺したなんて言われないようにするためかもしれなかったけれど、姉が名実ともに後継と決まった今では僕は用済みだ。
それでも、生きているのにじゅうぶんな配慮をなされている。
両親が守るべきものは子供だけじゃない。
代々続く王国の名家を潰すわけにはいかないんだろう。
僕の下に子供がなくとも、父が庶子を作ったり、母と離縁して次の子を作ったりしなかったのは、少しでも僕を守ろうとしてくれたからかもしれない。
これはアドニンの家の話を聞いていて、思いついたことだ。
違っていてもいい。そう信じることで、心のつかえが少しずつ剥がれていく。
どうせ手紙を交わしたりもしないのだから、都合のいい方に考えてしまおう。
僕は愛されていた。
姉だってちょっとお転婆だっただけで、本当は普通のお姫様として理想の王子様に嫁ぎたかったかもしれない。
僕がこんなふうになったから、ああならざるを得なかった。
苦悩するアドニンとは裏腹に、僕の心はどんどん元気になっていった。
それでも何度も熱を出して伏せってしまったが、その度にアドニンが自分のほうが死んでしまいそうなほど心配してくれるから、嬉しかった。
「薬を飲んで寝ていれば治るから」
「少しでも食べなければ体力がもたない」
全く喉を通りそうにないのに、果物や柔らかくしたパンを口に運ばれるから、無理矢理嚥下した。
だけど、そうしたら熱が下がるのも早く、体力が戻るのもいつもよりも早かった。
回復の早さに調子に乗って、すぐにまた熱を出してしまったが大きな発見だった。
僕に新しい考えをたくさん与えてくれたアドニンには、半年ほどで迎えが来た。
別れ際に長い本名を教えてもらったけれど、アドの響きがあったことしか覚えていない。
本名に掠っているなんて、僕もなかなか勘がいい。
「元気で」
「ああ、君も」
「アドニン、最後に「よい旅路を」と言って」
二度と会えない。たとえアドニンが落ち着いてから会いにきても、僕の寿命は尽きているだろう。
だから、あの日、言われて嬉しかった言葉が欲しかった。
だけどアドニンは、泣きそうな顔で「嫌だ」と言った。
「落ち着いたら、色々話しに来るから、待っていてほしい」
正直、彼の話は僕には難しくて半分ぐらいしか理解できない。
でも落ち着いた声と話し方が好きだった。
僕が眠ったあとに撫でてくれる手が好きだった。
待っている、なんて僕には難しい話だけど、弔いの言葉よりずっと良い言葉だ。
「僕に、聞いてほしいの?」
「聞いてくれ。俺の物語を。必ずハッピーエンドにするから」
「しょうがないなあ。頑張ってね」
「君も」
僕は男なのに、まるでお姫様のようだった。
アドニンが僕の頬に口付けて、ぎゅっと抱きしめられる。
そうして、パッと離すと振り返らずにアドニンは去っていった。
僕は呆然と執事に尋ねた。
「ねえ、僕って男だよね?」
「左様のはずでございます」
執事も驚いたみたいで言葉がおかしくなっていた。
アドニンがいなくなって、長い冬が来た。いつもと変わらないはずなのに酷く寒くて、僕は熱が続くようになった。
成人までもったことが奇跡のような身体だった。
誰からも祝いなんてなかったけれど、神様がアドニンを遣わしてくれたのだろう。
狭く灰色だった世界に花が咲き、広がる心を知ることができた。
「もうすぐ春です。庭の花も咲いております」
珍しく、メイド頭が優しい声で話しかけてくれる。
そう言いながらも、庭の花そっくりの布で作った花を枕元に置いてくれた。
僕がもう、庭に出られないのを察知しているのだろう。
長い時間ではなかったけれど、彼らとともにこの屋敷で暮らせて良かった。
どこまで聞き届けられるかわからないけれど、最後の手紙として彼らを変わらず厚遇してくれるように遺してある。
今までわがままらしいわがままを言ってこなかったんだから、これぐらいは聞いてくれるだろう。
両親も姉も、不器用に僕を愛してくれているんだから。
最期に、アドニンは無事に誇りを取り戻して暮らせているかだけ、知りたかった。
彼の訪いを待てなかったことは謝らなければならないだろう。
手紙でしっかり謝っておいたから許してくれるといい。
ああ、こんな優しい願いばかり抱いて死ねるなんて、僕はなんて幸せなんだろう。
*
国は宰相家のものになり、俺は決まっていた婚約者ではなく、宰相家の姫、つまり弟の元婚約者との婚姻が決まった。
弟の恋人だった女が食い荒らした王家にまともな人間はいなくなり、兄は病を得て静養という名の生涯監禁が決まった。
俺がいなくなったあと、兄と弟で女の取り合いが起き、弟は死んだ。
女は兄の愛人に収まろうとしたが、兄の妻である王太子妃が許さなかった。
兄の二人目の子を妊娠中でありながら女の悪徳を兄に訴えたが、兄から暴力を受けて子を流してしまった。
王太子妃は他国の王族の姫君だったから、国際問題になった。
そんなことにも思い至ることができなくなったのだ、産まれながらにして王になる教育を受けていた、あの兄が。
兄を誑かした女は処刑され、めちゃくちゃになった王家は宰相の采配で立て直されることになる。
それが、俺と宰相の姫との結婚だった。
全ては宰相が作った筋書きかもしれない。
俺はその掌の上で踊らされた……。
以前の俺ならば、こうなったとしても王になるのは自分なのだから、権力など取り返せばいいと息巻いただろう。
だが、いまは……穏やかだった数ヶ月の記憶がある。
国など宰相に明け渡して、あの辺境の小さな屋敷で身体の弱い主人の世話をして過ごすのもいいと……思い始めていた。
妻となる女性は美しく教養豊かな女性だ。
文句などあろうはずもないのに、脳裏に浮かぶのは瘦せぎすの少年ばかりだ。
別れ際に「よい旅路を」という言葉を求められたことに、心臓を撃ち抜かれた。
二度と会えない、二度とあの時間は過ごせないのだと思い知らされて、幼子のように抵抗してしまった。
「僕に聞いてほしいの?」
きょとんとした顔は初めて見るものだった。
そうだと答えると、表情の乏しい顔に、明らかな笑みを浮かべたから耐えられなかった。
必ず会いに来る。だからそれまで生きてほしい。
何歳になっても迎えに来るから、そんな思いだった。
それがどれだけ傲慢で一方的な感情かなんて、その時の俺にはやはりわかっていなかった。
結婚前に時間をひねり出して、あの小さな屋敷に向かった。
屋敷には白い布が翻っていた。
あれは、喪中を表す布だ。
「あなた様が出発されてすぐに熱が下がらなくなり、そのまま」
遺体は親元に返されて、屋敷には彼のものはほとんど残っていないのだと告げられた。
そうして、手紙を渡された。
見覚えのある紋章に、傲慢だった幼い自分を思い出す。
中には最期の時を俺が来たことで楽しく過ごせたと、感謝が述べられていた。
もっと前に死ぬ予定だったところに、俺が生きる希望をくれたのだと。
手紙の中には、神の加護と呼ばれる花の小さな造花が入っていた。
手紙の締めに書かれていた言葉に、言えなかった言葉を言う羽目になった。
『よき旅路に出ます』