第5話「卒業」
この頃よく電話で話す事が多かった真理子から会おうという連絡があった。
「今度、遊びに行っていい? 友達一人連れてくるから誰か一人男連れてきてよ」と間髪入れずに一方的に話してきた。学園祭でも気づいていたがあまり人の話を聞かない性格らしい。多分二人くるからもう一人連れてきてくれと頼んだが、自分は二人分かわいいから大丈夫みたいなふざけた事を言っていた。珍しく石原は用事があったらしく、岩田と長田が遥々横浜の僕の地元までくることになったので僕らは駅で会い、女を待っていた。
「遅れてゴメーン! この子が友達の靖子、よろしくね」
「よろしく~」お世辞でも可愛いとは言い難い小柄な真理子の友人だった。やっぱりな、といったところか。
五人で買出しをし、僕の家へ向かう。僕の家には客人用の和式の部屋があり、そこで飲む事になった。酒を飲んだりゲームをしたりしている内に僕とその彼女以外は僕の部屋で寝てしまっていた。
「駄目だ、こいつら完全に寝てるわ…」
「いいじゃん別に。康子も寝てるっぽいし」そう呟くと真理子は煙草を加え火を点けた。細いメンソールの煙草だ。
「メンソールってインポになるって言うじゃん?」
「あぁ、よく言うよね」
「でも、それって嘘なんだ」僕は得意気に返す。
「じゃあなんで?」
「今じゃメンソールも普通サイズで売ってるけど、昔はメンソールと言うと真理子の様な細い煙草ばっかだったらしく…」僕は自分の煙草を一本取り出してテーブル上に立てた。そして真理子の煙草を立てようとした。
「俺の煙草はすぐに立つけど、こっちは細くて立ちにくい。これがそう言われるようになった由来らしいよ」
「へ~! そうなんだぁ! なるほどね」可愛い笑顔だ。彼女が目を擦る仕草をした。
「真理子もなんだか眠そうじゃない?」
「大丈夫だよ。ねぇ、浜田省吾の歌、歌える?」
「歌えるよ。なんでもいい?」
「うん」僕は部屋からギターを取り出し浜田省吾の歌を弾き語りで歌い始めた。彼女のリクエストも含め数曲、僕は静かに歌った。
「いいねぇ、やっぱり浜省は」彼女は僕の歌で浸れたようだ。
「タケル君の曲も聴いてみたいな」
「しょうがないなぁ」とか言いつつ、僕はどこかでその台詞を待っていたようだ。
窓辺に腰掛けている僕は 丘の向こうに沈む陽を見ている
近くの教会から六時示すベルが鳴っているのが聞こえる
空の雲は真っ赤に美しく 沈みかけている陽の色に染まり
そして家や道路 この町の全て赤く輝いていた
僕の頭の中 幾つもの顔々が飛び交ってゆく
生きていく上で大切なものやそうでないものもある
空に滲みゆく赤さに 僕の心が強く抱かれている
例え成功の意味を皆で持ち合って
互いに一つだとしても胸の色まで染められた人などいない
無数の色が交わし交わされてゆき
またそれも変化を遂げてゆき
人の暮らしは鮮やかに組み込まれてゆく
その人 その時 その場所によって
まるで時と場所 そして見る人により色々な色をもつ落陽の様だ
こうして生まれてきた僕は こうして存在しているわけで
人を《母親》と呼ばせては 人を《父親》にも変えた
僕の次に生まれてきた者は 僕を《兄》と呼ばせる
他から見ればそれは自分の《息子》であり《友》であり
又は何も知らない《他人》かもしれない
人々は僕によって 僕にとっての関係が決まるんだ
燃えるような太陽が沈みきり 青に変わり行く空に星が
ちらつき始めると 僕は急に独りになったような気がして
自分の部屋から飛び出しては家族の食卓へと向かった
皆と共に食事を取っている いつもの面々が目の前
その時僕は なんとなく頷けるような気がした
僕と言うもの意味が 僕という存在の意味が
生きてゆくという事に意味を今まで感じている事が
出来なかった僕だけれど
生きてゆくという事に答えを探し続けていた僕だったけれど
僕が人々を作り上げては 人々が僕を作り上げてゆく
沈みゆく陽のように すべてを滲まし合いながら
ここで生きているのだから
ああ、僕は独りなんかじゃないのだと
僕というものに関わる人の為に
僕は生きてゆかなければならないのだと
意味などなく 答えなどもない。それがすべてなのだから
鮮やかな心が人々を変えるから 人々が心を鮮やかに変えてゆく
日常に埋もれたものが きっとすべてを示すんだ
外に出ては人々と交わす 深ければ浅くもあるものさ
例えつまらなくとも辛くとも 輝きがすべてを滲ませているから
生きる限り作り合うもの すべてを受け入れ
立ち上がらなければ
この様な意味などすべて間違いかもしれない
だけど、正しい事も間違いも勝手に人が決めた事
生きてゆくという事に意味を今まで感じている事が
できなかった僕だけれど
生きてゆくという事に答えを探し続けていた僕だったけれど
ああ、今はただ僕の周りの人々の僕のためだと考えていいと
互いに輝かしあうから 僕を必要としてくれている人を探し
僕は生きる
無数の色が交わし交わされる落陽の町
僕もその中ですべてを変える落陽
彼女はずっと真剣な顔つきで長い時間聴いてくれていた。こんなに僕の歌を真摯に聴いてくれる人は初めてだった。そして、人の前でこういう真面目な歌を歌いきったのも初めてだった。気づけば時間も遅くなっていたので、岩田と長田はそのまま寝かし、僕は彼女とその友人を送り届ける事にした。
「おやすみ。真理子ちゃんまたね」
「まったね~」玄関先で別れると、なんとなく疲れが押し寄せた。
はぁーあ、彼女に彼氏さえいなければなぁ。僕は残念でならない。王様ゲームで長田と氷の口移しをしたことを思い出した僕は、気分が悪くなり二人と共に寝る事にした。
翌日曜の朝、目が覚めると岩田と長田は既に起きて帰る用意をしていた。
「お、もう帰るのか」
「ったく、もう昼だぜ。帰るよ」長田は岩田と共に帰っていった。二人を玄関まで送り届けた僕は、リビングに用意されていた朝食を取り、部屋に戻るとずっと聴いてくれていた彼女の眼差しを思い出しながら楽曲作成を始めた。
『おはよう! トム』
「うわああああああああああああああ」
僕はあまりの衝撃的な光景に叫び、ギターを投げ出した。
オベーションギターの幾つものリーフホールの無数の穴の一つの穴からギョロリとした目が覗いていた。
『おいおい、落ち着けよ。また母ちゃんが慌ててやってくるぜ?』僕はジョニーの声に気付き、冷静さをなんとか取り戻した。
「ど、どういうことだ、あのヤマハのギターに住み込んでんじゃないのかよ?」まだ全身の鳥肌が消えてくれない。
『だから言ったけどよ、別に住んでないんだぜ? オレはトムのいるところに住んでいるだけだ。ギターに限らずどっからでも顔だせるぜ。例えば…、なんだよオマエの部屋、丁度いい感じの場所がねえな。ガラクタばかりのきたねぇ部屋なのにな。タンスの隙間や引き出しの隙間、多少の闇があればそこから覗いてやってみせるんだけどな。机の引き出しちょっとだけ引き出してくれないか?』
「いや、しなくていいわ…。せっかく納戸に入れて静かになったと思ったのに…」僕はぼやいた。逃れられないという事実を知ったところだったが、なぜだかあまり恐怖は感じなかった。
「せっかくまた一昨日アコギを何度に仕舞ったのに意味ないな」
『何言ってやがる。やっぱり納戸から出そうかな? なんて思っていたんだろ? オマエは寂しがりやなお子ちゃまだもんな』
う、図星だった。ジョニーは心が読めるのかなんだかわからないが、巧みに人の心理を読んでいる。
「で、何の用ですか」曲作りに張っていた矢先に、出鼻をくじかれた僕は項垂れながらジョニーに聞いた。
『いや昨晩、意外なことがわかったからさ。オマエのまだ未熟なクソみたいな曲でも人の心は多少動くのだな…、と思っただけさ。何だかあらゆることが意外だ』
「ク、クソみたいな曲だって? ジョニー、お前ずっとそう思っていたのかよ!」僕は声を荒げてしまった。
『メロディーがまだまだだし、バッキングパターンが単調だ。あと、もう少し歌詞をコンパクトにしたほうがいい。そういえば、やっぱりオレの言ったとおりオマエの恋は成就しなかったようだが、別に女できたから、立ち直れただろ』
「今頃それ? まー確かにジョニーの言ったとおりだったよ。予想が的中して嬉しいか? 女が出来たって言うけど、別に好きなわけでもないんだよね…ってかさー、オベーションのリーフホールから覗かれるのは気持ちが悪いんだけど…」
『こういう感じのほうが迫力ねえか?』何を言ってるんだ。この小さい穴じゃまったくジョニーの表情が読めない。気味の悪い漆黒の肌の質感、僅かに見える頬の動き、ここまで至近距離で見たのは初めてかもしれない。
「…迫力なんて別にいらねーよ」『最近、オマエはオレのことナメてるからな。暫くはこれでいく』
駄目だ、前のヤマハのギターでのジョニー方がまだマシな気がする。
「人間は人の表情とかでも会話するんだ。目だけじゃ表情は俺に伝わらないよ」僕は何度からアコースティックギターを取りだした。
『お、きたきた…』
『これでいいか?』
立て掛けたアコースティックギターからジョニーは黒い顔を覗かせた。
「…どっちもどっちか…」
『でも昨夜はよかったな。オマエの下らなくてダラダラ長い作文ソングをあそこまで聴いてくれるなんて。そうそういないぜ?』
「作文ソングだって?」
『でもちょっと面白いかもな。万人ウケはしないだろうが』
(やれやれ…、ジョニーには分からねえか…)
「…ジョニー、この間オレに何を目指してるんだって聞いたこと覚えている?」僕は先日の話を持ち出した。
「目指しているというか、なんというか、俺は自分の作った曲をただ一人でも多くの人に聴いてもらいたいっていうのが今の気持ちなのかもしれないって分かったというか、気づいたというか…」
『ふーん。じゃあ、今以上、更に詞的な能力を付けるんだな。今の歌詞じゃ誰も聴いてくれはしないぜ。中には昨夜のような奇特な人間もいるんだろうが、極々一部だろう。浜田省吾ばっか聴いてないで、世の中の万人ウケしている曲も聴いて…』
「詞的な勉強だって? そんなの関係ないね。俺は俺の道でいく」僕はジョニーの話を遮るように捨て吐いた。
『オマエ、オレがなんでここにいるか分かっているか?』
「分かっている? そんなの知らねえよ。なんでいるんだよ」また、訳の分からない勝手な言い分を言うジョニーに苛立った。
『オレはオマエの希望を叶えたいと思ってんだ。まーまた言いたい事があったら顔出すさ。あ、それと言い忘れた。オマエもっと体力つけろ、筋トレだな。歌も息切れしてたし、喧嘩も出来ねーし。オレは情けないぜ。でも喧嘩できねえだけで男を振るような女は駄目だ。結局のところ、どうかわいく見えようがただの中坊のガキだったってわけだ。良かったなトム。祝福するぜ』ジョニーの瞳の光が消えた。
「…なんか、嫌な古い事思いださせやがる奴だな」でもジョニーの言葉で少し心が落ち着いたような気がした。未だに僕は少なからず引きずっていたのだろうか…。僕は浜田省吾の徐にソングブックを広げ、ギターで《片思い》を弾きはじめていた。色々歌っていたらもう陽が暮れ始めていた。
夜、食事を取り風呂から上がると、母さんに真理子から電話があったことを聞かされた。何かと思い僕は電話をかけた。
「もしもし、小田ですが…」
「どちらのオダさんでしょうか?」やばい、オッサンが電話に出てしまった!
「あの…、小田タケルと申しますが、真理子さんはいらっしゃいますでしょうか…」いつもながらここの親父さんは苦手だ。
「いません!」怒鳴り声と共に電話の切られた音がした。
(やれやれだ…)
大体の女の子は向こうから電話が掛かって来ない限り話すのは困難である事を忘れていた。真理子は毎回近所の公衆電話で僕に電話をくれていた。それだけ厳しい父親なんだろう。
それから暫くし、電話が鳴った。
「もしもし小田ですけど」待機していた僕は受話器を上げた。
“もしもし、タケルくん?”案の定真理子からの電話だった。
「…昨日帰ってからコート脱いだら、ポケットにギター弾く時のピック? それがはいってたんだけど…。どうすればいいかな」どうやらポケットに僕のピックが入っていたらしい。
「ああ、別にいらなきゃ捨てちゃっていいよ。いっぱいあるし」
“でも、大切なものでしょ? これから返しに行くね!”と言い残し電話は切れた。
(あんなもの、百円やそこらなのに…。そんなに持っていたくなかったのだろうか…。やれやれだ)
家のインターホンが鳴った。外へ出ると表はもう真っ暗だった。
「はい、これ…」彼女はピックを差し出してきた。
「悪いね、わざわざ」僕はピックを受け取った。
それだけでさよならするのはちょっと気が引けたというか勿体無いというか…。そういうこともあり、少し立ち話をした。
「…座ろうか」街灯に薄暗く照らされた階段の最上段に僕らは腰掛けた。僕は推薦入試に失敗し、浪人して在京美大を志望する事を決めた話や彼女の進学の話などを話していた。暫くすると、お互いの口数が減っていた。
「……」
これといって話すことを見つけられなくなっている。僕は部屋着のままで飛び出したので、少し寒かったせいかもしれない。お互い煙草に火を点け、一息吐くと彼女が先に口を開いた。
「昨日は夜遅く、うるさくしていて怒られなかった?」。
「いや、別にそんなことはなかったけど…」
「そう…、良かった。…そういえばタケル君に借りた浜省のアルバムの話なんだけど、1番から5番まで歌詞が繋がっているっていう話あったじゃない? あれって6番まで繋がっていると思わない? 1番が始まり、で五番が恋の終わり、6番はその後の苦悩みたいな曲じゃないかなってこと」
その話は確か昨晩話した話題だった。どうやら、その後それを踏まえて聴いてくれたようだった。
「んー、そういわれてみるとそうなのかもしれない。あれから聴いたんだ?」
「言われて聴いてみたんだよね」彼女の笑顔はとても可愛い。感じていた生意気な態度は完全に息を潜めていた。話せば話すほど、僕はこの子への好意が大きくなってゆく。
長い髪の毛が艷やかに街頭に照らされている。
(綺麗な髪の毛だ…、触りたい…)
「あのね、彼氏とはずっと会ってないんだよね…。受験で忙しいとは言われてるんだけど。それもあってこの間の学祭まで会いに行ったの…」彼女は付き合っている彼の話題に触れだした。僕の胸が窮屈に締め付けられていく。
「…それで、会えたわけ?」
僕は返したが彼女はそれに対しては答えずに言った。
「最近、本当に彼の事が好きなのかが分からなくて…」
寂しげな表情だった。
「愛って時間を忘れさせて時間は愛を忘れさせるって言うけどね」
「誰の言葉?」
「えっと、ヨーロッパ辺りの詞だったような…」
僕はおぼろげながら答えた。
「ふーん、でもそうかもしれないね、やっぱり別れたほうがいいと思う?」彼女が真顔で聞いてきた。
「そんなの、自分がどう思ってるかじゃないの?」
僕は冷静に答えた。
「そんなこと分かってるんだけど、タケル君としては別れたほうがいいと思う?」再び聞いてきた。
「…別れない方がいいんじゃないかな。彼の方にだって事情があるんだろうし…」でも違った。本心はそんな男と別れて欲しかった。でも気づいたらそれとは真逆な事を僕は真顔で答えていた。
(ああ、なんということだ。やっぱり俺はバカなのかもしれない)
「じゃあ言うけど、タケル君は彼女さんとは別れたほうがいいと思うよ。話を聞く限りだとその子が可哀想だもの」真理子は思い出したように言い放った。それに対して僕は何も言えなくなってしまった。
「それと同じように、私は小田君の意見を聞いただけなの。私そろそろ帰らなきゃ」
彼女は立ち上がりながらそう言い、自転車に跨った。
「そっか、もう暗いから気をつけろよ」
「うん、ありがとう」振り返ることなく自転車で坂道を滑り降りて行く彼女を、僕は見えなくなるまで見届けていた。僕の右手には、磨り減ったピックがずっと握られていた。ふと思い返す。本当に、これを返しに来てくれただけなのだろうか。二人でいる時は、そんなことを考える余裕などなかった。
「ただいま」僕は気のない声で玄関を開けた。
「何、ずっと外にいたの?」母さんが聞いてきた。
「ずっとって、随分大袈裟だね」僕は冷蔵庫からお茶を取り出してグラスに注いだ。
「もう十時よ。あの子がタケルの彼女なの? かわいい子ね」と、からかう様に母さんは言う。
「そんなんじゃないって」僕は逃げるように二階に上がり部屋に戻った。
「やれやれ、こんな時間になっていたとはな」
(明日からまた一週間が始まるからもう寝よう)僕は部屋の電気を消し、布団に潜り込むととブラインドの隙間から無数の星が見えた。「星が綺麗だ」
『自然は決してオレ達を欺かない。オレ達自身を欺くのは常にオレ達なんだぜ』来た来た。
「なんだよジョニー」
僕はどこかで、ジョニーが出てくることを感じていた。
『おいおいトム、もうお寝んねかい? ホントお子ちゃまだな。しかしよ、オマエの臆病さにはつくづく嫌になるぜ。勿体無い事をしたもんだな。あんなオマエのクソ曲を真摯に聴いてくれる子なんてもういないんじゃねえか。いいか? 怖かったら怖いほどそこに飛び込まないと何も始まらない。何に対しても言えることだ』
「確かにそうなんだけどさ…。なぁジョニー、彼女はどう思ってたんだろう。教えてくれないか?」思い切ってジョニーなら分かると思って聞いた。真実を知らされた時のショックも覚悟した。
『オマエ馬鹿か、自分で考えろ。オレが力を貸すのはあくまでオマエの夢の為だ。お寝んねしながら自分で考えな坊や』笑いながらジョニーは闇の奥へ消えていった。
「何が坊やだ。やっぱり腹の立つ野朗だ」縁がなかっただけだ。というか…、彼女がいるのにオレって奴は酷い。いや、そんなことないか。やはり自分に正直に生きなければならない。色々な考えが巡り巡って意識が闇の中にいつまでたっても吸い込まれない。
「…なんだか眠れない…」
僕はこの部屋の白い壁に脳裏から映し出されたものだけ見ていた。どうも自分はすべての物事がなかなかうまく運ばないことに慣れてしまっているような気がする。逆にその現状に温もりさえ感じる。《抱く夢恋巡りて夜もすがら》ってか…。気付くと窓の外では闇のカーテンが上がり始めていた。え、もう朝かよ…。
「タケルー、土曜のコンパどうだった?」朝一番で石原が飛んでくると、岩田がそれに答えた。
「最悪だよ。結局俺ら三人なのに女は二人だけだし。あんま面白くねーから気づいたら寝てたよ。ガハハ」
(そっか、考えてみると岩田や長田にとっては相当つまらなかったのかもしれない。それはそれで仕方ないことか)
「オレはそこまでつまらなくなかったけどね」
「タケルはずっとギター、女に聴かせていただけだろ、ったく」長田にとってもそれがあって面白くなかったようだ。
「うわーまじだ、行かなくてよかったよ!」石原は小気味良さそうにケラケラ笑っていた。
「そういや、タケル日本史赤点取ったらしいけど卒業できんの?」石原が痛いところを突いてきた。
「いや、三学期いい点取れば平気だよ。オマエに卒業の事心配されるとは…」俺らみたいに何にも考えてない輩の中でもそういう話題が出てくる時期になったのか…。と高校生活も終わりに近づいている事を実感すると同時に僕は少しばかり焦りを感じることもある。予定では、卒業までには音楽で大成をしていた筈だったからだ。でも書き溜めていた秘密兵器もあれば、それをいつきれいにまとめて完成させるかの段階までもいっている。焦りは禁物だ。ただ初めのデモテープオーディションの返事が運良く良すぎただけで、世の中そうそう甘くない事はジョニーに毎度のこと聞かされている。
何だかんだ、ジョニーのおかげで僕はこんな燻っている状況でも平気でいられるのだろう。いや、おかげというか一々ケチつけられることで気づかされていただけかもしれない。
ただ一つ確実な事がある…。それは今抱えている大問題は日本史であって、デモテープ云々ではないという事だ。いい点取ればOKといっても、脳天かち割って教科書数冊入れて縫い合わせても自信がない。とりあえず日本史をどうにかしないことには、卒業すら危うい。
日曜の朝、母さんにいつまで寝ているのと起こされた。郵便物が届いていたようで、渡されたのは久々に送っていたレコード会社からの封筒だった。また手応えのない返事なのだろうかと、僕はその場で開いてみた。
“ソロシンガーとしてやっていきたいのでしょうか、
それともバンドでやっていきたいのでしょうか。それも明記していただければと思います。そのスタイルを貫き通して、自分を信じて頑張ってください。次回を待っています。
また、もっと顔のわかる写真をいただければ幸いです。“
「え、なんだってぇー!」前に来た返事を上回る内容に、僕は興奮した! やはりビジュアルは重要視するものなのだ。くそ~、もっと大きくてわかりやすいカッコよく映っている写真を送れば良かった! ソロ希望って書けば良かった! 恐らく、運良くまたこうやって気に入ってくれる人が聴くってことはなかったかもしれないのに! しかし、そのメッセージは僕に熱い思いを強くする事になった。
三学期に入ると卒業展覧会の作品作りが授業の大半になり、冬休みも使って早々と仕上げてしまった僕は結構時間をもてあましていた。今日は通学中、渋谷の駅から見上げた空があまりにもきれいな青空だったので、池袋で降りて公園に行くことにした。
サンシャイン通りの裏にある大きくもなく小さくもない公園、そこで噴出す噴水を僕は眺めていた。こんな昼間っからベンチで寝ているサラリーマンが結構な人数いるけれど、一体なにをやっているのだろうか。僕には関係のない世界だ。時間ごとに色々な形の放物線を描く噴水を眺めていると色々なことが頭の中で描写される。
この先どういう道を辿るのだろうか、数年後はスポットライトに包まれているのだろうか。明日の事すらわからないのにわかるわけがないよなぁ、クラスの連中は能天気だ。色々なことで悩みすぎる少年は僕ただ一人だと思っていた。あらゆる方向から見た噴水の放物線が色々な世界に共通してゆく様に見え、知らず知らずの間にそれを歌にし、ノートに二ページ分も書き溜められていた。
「よし、リフレッシュできたし、そろそろ学校にでも行くか」ウォークマンの浜田省吾を聴きながら、僕は駅へと向かった。
その時僕は思いついた。(そうだ、浜田省吾の事務所に僕の曲を聴いてもらおう)そう考え始めると、これから登校するのに既に家に帰りたくてたまらなくなったが、内申書のこともあり仕方ないので学校へ向かった。
教室に着くとみんな作品作りをしている。さすがにみんな素晴らしい作品を作り上げていたが、八田と岩田は相変わらずいい加減な適当な作品だ。僕もまだまだ悪い部類じゃないなと一安心。
しかしその時にふと、入学当初からの気持ちが随分違ってしまっている事にいささか寂しさを感じた。ずっと一番だった絵に対して、特別な思いがあった自分の気持ちがこの三年間で失われつつあることに対する寂しさだった。しかしその反面、得たものも大きかったことを考えるようにすると寂しさは少しずつ引いていく。そうだ。僕にはやりたい事が見つかったのだから仕方がないじゃないか、当時の“絵しかなかった”とは違うんだ。どうなるにしろやりたいんだ。
(…明日が世界の終わりだとしても、今日林檎の種を蒔くように、今やるしかないんだ。あんな得体の知れない妖怪など当てに出来ない)僕は窓の外から校庭を眺めながら呟いた。
「おい、タケル…、大丈夫?」石原の顔が目の前にあった。
「…世界の終わりを考えていた。俺、帰るわ!」僕は帰り支度を始めた。
「まじでー? じゃあ俺も帰ろ!」僕らは早々と帰る事にした。
僕は家に着くなり浜田省吾の事務所のロード&スカイへ電話をかけた。
“はい、ロード&スカイです”出た。1コールもなくいきなり出たので、準備の出来ていなかった僕のハートの緊張感は最高潮に達してしまう。
「ももも、も、もしもし、あんのー、音楽をやっていて直接聴いていただきたたいのですが…」
“申し訳ありませんが、うちではそういう事は行っておりません”
「そうなんですか! わかりました! では送るので、浜田省吾さんに渡して欲しいのですが…?」気づくとプープーと無機質な音が断続的に鳴っていただけだった。既に電話は切られていた。住所を見ると私書箱しか書いていない。一体全体どうすればいいのだろうか。先日買った《作詞・作曲で飯を食ってゆく本》っていう名の本には大体の事務所は新人の詞や曲を求めているので、会ってくれると書いてあった…。古そうな本だったから時代が違うのか? 今の世の中じゃコツコツと文章だけでしかPRできないデモテープを送るしかないのだろうか? ジョニー…、教えてくれよ。
「ジョニー、いるんだろ?」
『聞いてたよ。もう一度言おう、成功しないということは感謝すべき事。少なくとも成功は遅く来るほどいい、そのほうがオマエはもっと徹底的に自分を出せるだろう。ってな格言だ。これは神話などの絵を描いていた画家の言葉だ。ちょっと逃げも入っているような感じはするが、オレもこれは正しい事言っているなと思う。だからオマエがそこに蒔けないなら、他の場所で林檎の種を蒔けよ。さっき自分で呟いてただろ。オマエはアルツハイマーか?』
「あ、そういやそうだ。えっ? なんでそれを…」
(あれは学校で呟いていたような…)
『部屋だけじゃない。お前が目や肌で感じるすべての形ある影からオレはオマエを見る事ができる。オレが暇な時限定だがな。ようするに常に一緒に居るんだぜ…? わかったか』ジョニーが少し笑ったように見えた。なんだかここ最近になってからジョニーと話すと心が落ち着いてくるような気がしていた。
「そっか…ちょっと怖いな…。ホントに俺を成功へ導いてくれるのかって点についても信じ難いけど、為になる言葉を聞けて勇気が湧く時もたまにあるかな」
『それとな、浜田省吾ばっかり聴いてないで他のも聴け。元々幅広く聴いていた口だろ。似たような曲ばかり作るな。今のままじゃオレの力でもどうにもならねえからな。あとオレからのアドバイスとしては学問も勉強して卒業しろよって事ぐらいだな』
「余計なお世話だ」
テレビの音楽番組を見ていた。毎日のように新しい新人が出てくる。似たような横文字バンドばかりで似たような曲を歌っている。それら各バンドの各曲のAメロBメロをシャッフルしたとしても曲として一曲成り立つ感じのものばかりだ。なぜこんなものが売れてしまうんだろう、日本って国は。とかいってカラオケで歌っている僕がいるのも事実…。この国では僕のように、風変わりなものは受け入れられないのかもしれない。先日、キーボードとリズムマシンで一発録りしたラップ調の曲を試しにBMGビクターに送ったところ、流行らないとかそんな感じで酷い言われようだった。
とりあえず、勉強するか。僕は机に向かい教科書を広げたが、気づくと詞を書いていた。
遂に高校生活最後の期末テストがやってきた。みんなお決まりのかなり勉強しておいて“俺、全然勉強してねー”などと口にしてるやつばかりだ。しかし僕は、本当に何もやっていなかった。テスト期間になると出席番号順の着席で一番前列になってしまう僕は、殆どの奴がやっているカンニングのタイミングを持つ事が出来ず、自分にとって最大の難関であった日本史がまったくもって答えられなかった。
「タケルー、日本史どうだった?」八田がニヤニヤしている。
「教科書見ながら回答してるやつには言われたくねーよ。俺はマジで終った…」(どうしよう…。マジでやばい)
翌日、日本史の件で担任に呼び出される事になった。
「おい小田! あれだけ出題範囲を言ったのに点の取れないことに倉田先生は怒ってたぞ。とにかく、会って話して追試のお願いをしたほうがいいと俺は思う」
「はい。そうしてみます」
(やれやれ…。教師に実際会ってグダグダ言われるのも面倒くさいから夜電話でもするか)
「タケル、タケル~、ブクロ行こうぜ」石原がやってきた。
「悪いけど今日は帰るわ、卒業できるかできないかの瀬戸際なんだよね」僕は日本史の件で担当の倉田に夜電話する事を話した。
「え、結局また赤点だったのかよ~、じゃあ卒業無理じゃん。卒業旅行いけねーじゃん!」石原は残念そうにしていた。終業後の春休みにみんなでスキーに行く事になっていた。
「だから、そこを何とかしてもらうんだよ!」
川は流れてどこどこ行くの?
人も流れてどこどこ行くの?
そんな流れが着く頃には
花として花として咲かせてあげたい
二子玉川の駅で下車し川の流れを見ていた。
(いつの日か花を咲かそうよ…。音楽で行こう! とか無謀な事を考えていたりするけど、高校すら卒業できないのはかなりマズイ状況じゃないか…。どうにかこの状況を打破するしかない)
僕は家に帰り夕飯を終え、こっそりと電話を部屋に持っていき、調べておいた日本史の倉田に電話を掛けた。
“はい、倉田でございます”中学生くらいの少年が出た。
(息子がいたのか、意外だ。これは利用するしかない!)
「高校でお世話になっている小田ですが、倉田先生はご在宅でしょうか?」テストの件で相談があると軽く話すと
“少々お待ちいただけますか? 父と代わります”
受話器が置かれ暫くすると、倉田が電話に出た。
“はい、もしもし”
「あっ先生、小田です。お世話になってます」
“小田か。なんで今日放課後…”
「先生! 息子さんがいたんですね! すごくびっくりしてしまいましたよ。電話の対応とかすごく丁寧で感心してしまいました!」
“そ、そうか? そこまででもないけどなぁ…”倉田が照れている様子だ。更に僕は追い討ちを掛ける。
「やはり、指導者の息子はしっかりするものなんですね」
“おい、煽てて赤点取り消しになると思ってないか? …まーとりあえず仕方ないから教科書を写して来い。明日までに持ってくれば点数として加えるから心配するな”倉田に聞いたページ数をメモして電話を切った。
「おっしゃ、やったぜ!」
人生で最初で最後になりそうな絶妙な胡麻擦りだったな。
『オマエの胡麻擦りよかったぞ、上手く世を渡るのは大切だ。音楽だって同じなんだぜ? とりあえず今は一般ウケしそうなものを書いてみるんだな。絵だってそうだろ? 基本が出来ていた奴らはいつしか抽象的なものを目指したように。途方もないプライドなんて、とんでもないケチな奴が持っているものなんだ。慎ましさに包まれていればいるほど最もいい方向へいくもんだぜ』
「なるほどね、とりあえず卒業できそうだから良かったわ」
『…まったくだ』
卒業の決まった僕の作品は、卒業展覧会に3点も選出された。卒業展覧会は毎年度、代々木ゼミナール造形学校で開かれていた。
僕らは作品を持って新宿駅で降り南口へ出た。今日の新宿の空は透き通るような雲ひとつない綺麗な青空で広がっている。
「しかし、ウケるよタケル。倉田に直接電話して息子褒めて、教科書写すだけで点数もらってんだぜ~」八田が笑ってる。
「何はともあれ、これで卒業できるんだ。なにかとツキのない俺だったけど、息子が出たのは運が良かったな」
「タケル、タケル~! あれマスカットガムの《ハイパーG》じゃね?」石原が肩を叩いてきた。
「え? どこどこ? …あっ、ホントだ! ハイパーGだ!」CMで見たことある女の子五人組を発見。
「そんなのいいじゃん、ほっとけよ、ミーハーだなぁ。ガハハ」岩田はまったく興味なさそうだったが、石原は興奮気味だ。彼女たちは歩きながら僕らの視線を意識している様だ。気づいてくれる人がいただけで嬉しかったのだろうか?
「いくぜ、タケル! 岩田カメラ借りるぜ!」僕は作品をタキに渡して石原とハイパーGを追いかけたが、途中で見失ってしまった。「あーあ、タケルが早く着いてこねーから見失ったよ!」
「いや待て、二人出てきたぞ」ビルの中から二人が出てきたのを見つけた。どうやら外の自販機に飲み物を買う為に出てきたようだ。「ねーねーねーねーねー!」石原は既に彼女達の元にダッシュしていた。
「ハイパーGだよねー?」石原は本当に単刀直入だ。そこにいたのはヴォーカル担当の子とバックで踊る子の二人だった。しかし、どう見ても普通だ。一つだけ違うところを挙げるとしたら、顔が物凄く小さい! しかし、ミーハーな僕らは道行くサラリーマンを捕まえては記念写真を撮って貰った。
「ねーねーねーねーねー! 今度コンパしようよ! 電話番号教えて!」石原は写真を撮った後に、物怖じせず普通に聞いていた。一応、僕も加勢するが石原はホント頼もしい奴だ。
「事務所に聞いてみないと…」ヴォーカルの子が困惑している。
「ごめんなさい、練習があるので」ダンサーの子は厳しい口調だ。
「いいじゃんいいじゃん! 電話番号だけでもいいからさ!」石原は一歩も引かない。
「いや、でも…、ごめんなさい」ヴォーカルの子は優しい口調だ。
(多分無理だな…)
「ごめんごめん、がんばってね!」と僕は彼女たちに言った。
「何言ってんだよ、タケル~!」
「みんな待たせてるんだから行くぞ!」と石原に言い聞かせ戻る事にした。再びみんなと合流。
「しかし、あの顔の小ささ見た?」石原が興奮気味にみんなに話す。
「もーお前等ホントにミーハーだな~、恥ずかしくねえの? ガハハ」そう笑いながら大人ぶる岩田の目は少し羨ましそうに石原と僕を見ている様に見えた。なんにせよ、大人ぶると色々と損なことがあるものなのである。彼女たちはこの先売れるのだろうか。喋りも見た目も普通、俺らとなんら変わりもない。要するにあの世界の人間も一般人とは紙一重なんだ。チャンスは十分にある。
代々木ゼミナール造形学校の会場に入ると続々とクラスの連中の絵が壁に掛けられていた。場内中心に僕が手掛けた実寸代の岩田の頭の石膏が置いてある。やはり自分の作品が選ばれるということは気持ちの良いものだ。自分のA1サイズ二枚の作品を壁に掛ける。短期間で描き上げたものにしては悪くなかった。
絵の方がまだ将来性があるのかも…と、ほんの少しだけその時に思った。でもほんの少しだけ。それにしても上手い奴が沢山いる。それでも世に出て活躍できるのは僅かしかいない。この中にはいないかもしれない。必ず上には上がいる。芸術の世界は厳しい。この学校へ入学した当初からそれは覚悟しなければならないことだったのだろう。ある芸術家が言っていた“芸術とは悲しみと苦しみから生まれる…”これはゲーテだったっけ。やっぱり芸術の世界は厳しそうだ。僕はもう浪人が決まっている…。専攻はやはり油絵学科にするつもりなのだけれど、実際、油絵で食っていくことは不可能に近い。画家なんてみんな死んでから作品に値段がついているもんな。真の芸術家っていうのは、妻を飢えさせて子供を裸にして老いた母親に生活の助けをさせても、自分の芸術以外のことは何もしないなんて書いてあったもの、なんかの詩集に…。いやはや、このご時世の中そんな生活は無理に決まっている。だからと言って推薦でデザイン専門の桑沢デザイン研究所なんて入学すれば、課題に追われ音楽なんて出来なかっただろうし…。美術学科といえども大学へ進学したほうが音楽を中心にできるだろう、浪人して在京の美大に入るしかない。
そんなことを考えながら、卒業展覧会に展示された作品群を眺めていた。岩田と八田は就職口を多く抱えている商科の専門学校。タキは京都美術大学に合格している。長田は家計の為に就職。石原も芸大は見事に落ち、浪人すると言っている。同じ立場だったのは石原だけだった。
「タケル、私服用意しておいて、卒業式終ったら歌舞伎町で飲もうぜ~!」卒業展覧会の準備が終ると、八田が提案してきた。
「じゃあ卒業式も朝、渋谷で待ち合わせしてみんなで行こうぜ」
石原が返す。
「そうしよう。みんな住んでるところばらばらだから、もうなかなか会える機会ないかもしれないもんな」
僕らは卒業式の後、新宿のロッカーで着替え、夜の街へ繰り出した。