第4話「美大受験」
僕らのクラスの出し物は一つの教室を使用しての喫茶店だった。演奏を終えた僕らは店の片隅でぐったりしていた。
「本番はやっぱうまくいかないな」岩田が色々な反省点を漏らしはじめていたが、僕は聞いていなかった。昼が近づいてくるにつれて女子高生が大勢校門から入場する姿が窓から見えた。
「おぉっ、タケルタケル、行こうぜ。店のチラシ持って女の子に話しかけようぜ!」早速、石原は興奮気味だ。
「オマエ彼女いるじゃん、彼女はどうしたんだよ」僕は意地悪く言った。
「だって、いっぱい欲しいじゃん。彼女には帰ってもらったよ!」石原は笑っていた。
「やれやれ、じゃあ行くか」僕は石原と共に喫茶店のチラシを机を並べて作られたテーブルの上から数枚取り、外へ出た。
「うひょー、可愛い子いっぱいぱいじゃーん!」石原の興奮は絶頂だった。石原は色々な子にチラシを配っては喫茶店に呼んでは連絡先を聞いていた。僕も負けじと独自に探して、一組を見つけ喫茶店へ誘った。
「何飲む」僕はメニューを取り、かわいい子の方へ差し出した。
「ウーロン茶」かわいい笑顔だ。僕は裏へ行きポリバケツに大量に作られたウーロン茶を二杯汲み上げ、勝手にお金はいらないと言い差し出しては話を切りだした。色々な話をしてみると、住んでいる街と最寄の駅が同じ場所だった。そして、彼女も浜田省吾の大ファンだと語り始めたのだ。
「マジで! 俺はファン歴そんな長くないんだけど、男も女もひっくるめて考えてみても[浜田省吾が好きだ]なんて言ってくれた人は初めてでさぁ~」僕の興奮は絶頂に達した。何となく生意気な女だったが、僕は生まれて初めて《運命》というものを感じた。そう、これが《赤い糸》なのだ! そんな最中、岩田と石原が話に入り込んできたが、僕等の世界に入り込む余地はない。暫く話すと彼女が席を立った。
「じゃあ、そろそろ行くね。カレシが待ってるから」
(ええっ! カレシ? )「理子ちゃんはカレシいるんだぁ」
「うん、ここの普通科行ってるの。タケル君は家も近いし今度遊ぼ」僕は彼女から電話番号をメモした紙を貰い、店から出てゆく彼女を呆然と見つめていた。後ろでは石原と岩田が爆笑していた。
「残念だったな! タケル。でもまだまだ居るから行こうぜー」すっかり元気のなくなった僕は石原に引きずられる様に再び外へ繰り出した。
そこで、女の子三人組の中に際立った可憐な娘を見つけた。もう僕の中からさっきのショックは消え去っていた。
「石原ー」僕は石原を呼び止めた。
「なに、オマエも見た? 超可愛いよな!」やはり石原探知機と僕の探知機は同型だったようだ。僕は彼女のあまりのかわいさに直視が出来ない…。やはり石原に突撃してもらうべきだな。
「なぁ! 石原チラシもって話しかけて来いよ」隣にいる石原に声を掛けた。返事がない…。
「…ん?」横を見ると、いたはずの隣から姿を消していた。
(どこ行きやがった? 彼女たちを見失うぞ?)と彼女ら位置を確認しようと人ごみの隙間を見渡していると、石原はその子らと立ち止って笑顔で会話している姿が視界に入った。(なに!)
「ああ、ちょっと待てよ!」僕もその輪の中割って入り、石原に負けじと色々な話題を振った。どうやら歳は三つ下の中学三年生で名前は美奈ちゃんといった。しかし、まったくそんな風には見えない。
「石原、この子は俺に譲れよ、お前には彼女がいるんだからよ」僕は石原に釘を刺すように耳打ちをしておく事に。
「え? 何言ってるんだよ! きれいどころは全部俺のもんなんだよ~!」また言っている。そんな言葉はスルーだ。
「石原、またウチの店行くと岩田とか余計な奴が加わるぜ? 俺らだけでこのままカラオケ行っちゃおうぜ」僕のナイスな判断に石原も同調した。
「そうだよな! やばいよな! 行っちゃおうぜ!」
「カラオケ行こう」と僕が彼女らを誘うと「行く行く」と喜び始めた。そこで遠くから声が聞こえた。
「ああっ、おまえらどこ行くんだよ! ガハハ」岩田と長田が叫びながら追ってきた。
「おいお前等、内緒にしてんじゃねえよ、ったく」
結局気づかれてしまい、カラオケメンバーは男四人の女の子三人の総勢七人になってしまった。僕はその娘と隣同士になり色々な話をした。他の奴らがアホ面で歌っている間に親交を深めようと思ったのだ。カラオケを終え、みんなマクドナルドで食べてから帰ろうということになった。
「あれ、タケル財布は?」石原が突然聞いてきた。
「財布あるよ。ん、あれ、ない!」
「ガハハ、カラオケに忘れたんじゃねえの?」
「多分店のソファーだ。取ってくるわ!」僕は慌ててエレベーターに乗り、カラオケ店へ駆け込みその部屋へ行ったが財布はない。
「部屋の掃除したけど忘れ物はなかったねぇ…」店員の話を聞いてもない。(やばい、完全失くした…)
僕が肩を落としてカラオケ店から出ると、非常階段を全速力で上がってくる足音がした。僕は階段の方へ目を見やると美奈ちゃんが息を切らしながら上がってきたのだ。
「タケルくん!」
「美奈ちゃんどうしたの!」
「タケル君のお財布、石原君が持ってるよ」
「マジで…、美奈ちゃんそれだけの為に?」僕は胸の鼓動が激しくなる…、なんて、なんていい子なんだー!
「タケルくん慌てていたから、早くお財布の事知らせたくて…」美奈ちゃんは恥ずかしそうに言った。
(なんて優しくてかわいい子なのだろう…)階段上から見える夕陽が彼女の目をキラキラと輝かせている。
二人きりで下りるエレベーターの中、今度遊ぼう、という事で連絡先を交換した。そんな夢心地の中、エレベーターは下りていった。扉が開くとそこには、つまらなさそうにしている面々がいた。秋晴れの空には少しずつ星が見え始めていた。その後、他の奴らの会話で彼女は笑ったりしていたが、僕は余裕の表情でそれを眺めつつ帰路に着いた。
その夜、僕はジョニーにライブでの一部始終を話した。
『オマエ、そんな人の居ないステージでヘタレてどうすんだ。オレは残念な気持ちでいっぱいだよ。オマエは一体何を目指しているんだ?』
ジョニーはいつもと同じ鋭い眼光のままで語っていたが、困っているような目をしている、様な気が少しだけした。いや、気のせいかもしれないが。
「ミュージシャンのつもりなんだけど…」僕はボソッと答えた。
『オマエ、適当に考えてるだろ。オマエはそんな強い気持ちなんてこれっぽっちも持ってないとオレは見るね。今日のライブも散々な内容だったのは容易に想像がつく。だからもっとその理由を考えた方が良いぞ。女に恋なんてその後だな、アホが』ジョニーは僕が言葉を返そうとしても無視して話し続けた。
『ま、ガキだから仕方ねえか、一つ教えてやろう。今のままのオマエじゃどんな恋も成就しねーよ。だから無駄な時間にならねえようにもっとギターのテクでも磨け。あと、大学の推薦を貰ったようだがホントに入学希望してるのか?』
「希望してるさ、大学にさえ入ればもっと自由に時間を使えるしね…。…あれ? おい、ジョニー」ジョニーは僕の反論に聞く耳を持たず、自分勝手に話すだけ話して再び部屋は静寂さを取り戻していた。
「チッ」なんなんだアイツは。はっきり言って全く役に立ってない。単にいちゃもんついているだけじゃねえか。僕はヤマハのアコースティックギターを物置にしまい込んだ。これでもう煩わしいことはなくなるな。部屋に立て掛けてあったもう一つの自分で買ったオベーション社のアコースティックギターを奏でた。やはりオベーション特有のリーフホール(※)から響く音色は美しい。メイド・イン・コーリアだが、いいものはいいのだ。もう、うるせえだけのジョニーは放っておこう。しかし、自分がステージ上であそこまで緊張してしまうなんて考えもしなかった。ドラムの時はなんともなかったけど、やっぱりフロントマンっていうのは大変ということがわかった…。
“オマエは一体何を目指しているのだ…”僕は何を目指しているんだろう。このままなんとなく音楽を続けてどうにかなるのだろうか? 心の支えはレコード会社からのたった一通の手紙だ。あれくらいの内容なんて誰にでも書いているのものなんだろうか。
学園祭の数日後、部屋でギターを弾いていると母さんがやってきた。「西山さんって女の子から電話よ」(え! 美奈ちゃんだ!)
二階の電話を取り、目いっぱいに線を引っ張り、部屋に電話をもっていく。
「もしもし?」
「あ…タケル君? こんばんは…」(
「あ、ああ…どしたの?」(何を言ってるんだ僕は…)
「え、ちょっと連絡先聞いたからかけてみたんだけど…」
「そっか~、俺もかけようと思ってたんだ。今度二人で会わない?」
「うーん…。考えとくね」
「だね。今度は俺から電話するわ」
(デートに誘ってしまったー! どうも意中の子を相手にするとしどろもどろになっていた僕だったが…。意識改革か?)
暖かい陽射しと冷たい風が交わる心地の良い土曜日の放課後…、男三人で池袋の《いけふくろう》で待ち合わせ。
(最初は二人で、という話で美奈ちゃんと盛り上がっていたものを…、彼女の友人も行きたいって。なんなんだろうか)僕は渋々石原と岩田を呼ぶ事になった。
「タケル君待った?」目の前に現れた彼女は、一段と光り輝いていた。六人で池袋をブラブラしカラオケをし他愛のない話ばかり。天気はかなりの快晴で恵まれていたが、今日ではどうにもならなそうな展開に僕の心は曇りがちだった。
“おい! てめえ何ガン飛ばしてんだよ!”
ゲームセンターで美奈ちゃんと遊んでいると僕の耳元で声がした。振り向くと知らない学ラン男三人組みが僕を睨みつけている。
「は?」(見ちゃいねえし)
「テメー喧嘩売ってのか!」いかにも悪そうな目をした奴等だ。やばい! 危険を察知した僕は、石原と岩田に目を向ける。
(ええっ! おいおい!)石原と中井はついさっきまで側にいたのに、黙々と別の台でゲームを始めていた。完全に知らぬ振り、なんて奴らだ。
「おい! 聞いてんのかよ!」肩を叩かれた。
「いや、誰も見てないけど…」心臓の鼓動が早くなる。女の子三人は真摯な目で僕を見ている。石原と岩田はゲームをしている。僕は一人、相手は三人。ここで三人を叩きのめせば僕はヒーローだ。でも大よそボコられるのがオチだ。そう思った束の間、一人が胸倉を掴んできた。
「なにシカトしてんだよ!」
「やっちまおうぜ!」ヤバイ! やられる。
「ちょっと待てよ!」これは絶対無理だ。どうすりゃいいんだ?
「すみませんでした…」そんな僕から出てきた言葉は情けない一言だった…。
「ケッ! こんな奴相手にアホくせえわ。いこうぜ」三人はそれを聞くなりつまらなさそうな顔をしてその場から去って行った。女の子三人の目は冷ややかだった。
「ガハハ、タケル、なんか知らない奴といたけど知り合いか?」
(おいおい…)石原と岩田は絡まれていた事に気づかなかったと言しらばっくれていたが、それについて僕はとやかく問いだす事はやめた。自分の情けなさが浮き彫りにされ苦しかった。彼女の僕を見る目が明らかに変っていた。すぐに独りになりたかった。僕らはその後、時間も遅くなっていたので解散することにした。
それ以降、美奈ちゃんと会う事はもうなかった。あそこで喧嘩を買えば石原と岩田は加勢してくれたのだろうか? 加勢があろうがなかろうが向かって叩きのめされた方が良かったのだろうか。色々考えた結果、僕は傷つけられるのを避けたいがために、プライドをかなぐり捨てたわけだ。それぐらい安っぽいプライドしか僕は持ち合わせていなかったようだ…。結果的に後にそれが直接的な問題なのかどうかは分からないが、彼女にはあっさりと振られた。自然消滅は避けたかった。結果など分かり切っていたけれど告白をした。ただ見える形で、意識の出来る形で終らせたかっただけだった。そして忘れたかった。すべての意味、方面で悔しかった。
恋し砕けた心、もう拾い集め続けてきた
でも、もう疲れ果てたよ もうすぐ寒い冬がぁ
木枯らしがこの俺の心にさえも
冷たく吹き抜けてゆく帰り道
冷え切った胸がすべてを捻じ曲げ
人通りのない並木道、独り歩く夕暮れ
わからないなぜ、こんなになる為、
俺は生きてきたわけじゃない。
『可哀相だな、うむ。短く笑って長く泣く。それが恋の習いだ。悔しさをバネに男になろうぜ。でも、今のオマエの曲は浜田省吾っぽ過ぎる。二番煎じをやってちゃあオマエはいつまでもその位置に過ぎん…、青いままだ。オレが色々教えてやるから楽しみにしてな』
「…ジョニーに何が解るんだ? つーか、なんだよジョニーって、チャックベリーかよ。ふざけた名前だよな」
『わかるわかる。オレも色々な失恋を経験したもんだ。オマエもこの先わかるさ。もう目を覆いたくなるような散々たる失恋もあった…。でもオレは全て糧にしたぜ? オレもネガ思考だったが前向きさもあったからな。オマエもオレに習え』
(気味の悪い目で小気味良く笑いやがる…。ジョニーが失恋? ってことは恋もするのか? 悪い冗談はよしてくれ…)
『…なんか言いたそうだな? まー色々後悔しつつ精進しろ。じゃあな』勝手に出てきては勝手に消える。もうそのままずっと消えていてくれよ。
柔道の時間、柔道担当の石田が来るまで僕はいつものように石原と乱取りをとっていた。なかなか脚が引っ掛けられず大股が決まらない。お互い倒れ込み、段々とプロレスチックになっていた。
「おい、小田なにやってんだ! お前ちょっとこっちこい!」いつのか間に石井が現れていた。相変わらず強面のヘビー級だ。実は既にやって来ていて僕らのやり取りをずっと見ていたようだった…。なぜ俺だけなのだろうと疑問を持ちつつ恐る恐る石田に近づいていった。
「すみませんでした!」とりあえず謝る事に。とその時、
「おい! お前らコイツと俺を囲め。こいつに乱取りってモノを教えてやるから良く見てろよ!」有無を言わせず胸倉を掴み投げ飛ばされた。受身を取れないほど強烈な背負い投げだった。
「痛ってー!」畳に叩きつけられた背中に激しい傷みを感じた。
「受け身も出来ねえのか! お前は!」
起き上がる間もなく何度も掴まれ投げ飛ばされ続けた。しかし、疲れからか段々と石井の動きも鈍ってきていた。
(そろそろ終るのだろうか、もう勘弁して欲しい…)と思った瞬間、再び掴まれそうになった所を僕は反射的に後ろに回り帯を掴んだ。
(ヤバイ、反抗してしまった…)しかし、なぜか思い切り掴んだ手が離せない…。「…?」(いや、そんなものは関係ねぇ! やってやるぜ!)ケンカの鬱憤や苛立ちが突然爆発し、裏投げを仕掛け、僕は石井を持ち上げようとした。
「ぐっ…!」石田の体が少しだけ浮かすことに成功!(…やっぱ重っ!)結局浮かすのみで僕は倒れ込んだ。
(くそーっ)起き上がろうとした瞬間、石井の強烈な肘鉄を喰らう。目の前がパチパチと星が散らばる。そして即座に首を締め付けられ、僕の意識は遠のいていった…。
ふと気がつくと僕の目の前には闇が広がっていた。そんな闇の中を手探りで歩いていると、上空の暗雲から月の様な明かりが顔を出し周りを照らし始めた。ここが森林の中である事がわかった。ヒノキの様に真っ直ぐに立ち、奇妙な表面をした樹木が大勢で僕を囲んでいる、薄気味悪い赤青黄色の三原色が入り混じったような毒々しいスイカ級の大きな実が実っている樹木もあった。すべてが蠢いている様で生きているように見える。そして、僕の行動を横目で監視している様にさえ感じた。しかしながら気配というものはどこにもなく、視線だけを感じるという様な、とても不思議な感じだ。古くから生えて育った様な樹木の他に、つい最近植えたような根元の樹木があることにも気付いた。人工的な公園にも思えれば、自然な森林にも思える。僕はそんな樹木達の中で突然何かを思い出したように何かを追い始めた。自分の意志はそこにはない。
・・・すると、木と木の間、何かが横切るのが見えた。
どうやら僕が追っているものは「それ」の様だ。僕は霧の中を掻き分け、「それ」を一目散に追いかけた。
かわしてゆく樹木達の感触が通常と違う様なことにも
気を止めることなどなく、その一つだけを見つめて…。
追って追って追い続け、距離が短くなった所で僕は飛びついた。
両手にはしっかりと「それ」が掴まれていた。
いや、「それ」が僕の両手を掴んでいるようにも見えた。
(やった、やったぞ)すると体中に温かさが広がり、僕は涙をこぼし抱きしめ続けていた…。
気づくと水中に潜っていた、水面に上がらなければ死んでしまう、僕は必死に上まで泳ぎ、水面から飛び出すと、
「起きろ、起きろ、起きろ!」 目の前の石井が僕の頬に何度もビンタをしていた。
「やっと起きたか。お前らもふざけているとこうなるからな!」僕は見せしめだったのだろうか。体中がどうも痛かったがなにかとすっきりした気分だった。変な夢を見たが、あれはなんだったのだろうか…。
放課後、僕は担任の崎村に呼ばれた。
「おい小田。石田先生が俺があそこまで怒らせたのはアイツだけだ、って俺に言ってきたけどよ、一体何したんだよ?」
「特に何もしてないですよ、プロレスしていたら怒られたんです」僕はこれからは真面目にやると崎村に伝え席に戻った。クラスは石井と僕の乱取りが激しかった話題で持ちきりだ。同じ時間、剣道を選択していたやつらはみんな俺も柔道にしておけばよかったなどと、野次馬根性丸出しだ、日本人はみんなそうだ。そんな僕も日本人なんだけど…。
覚束ない意識と足取りで日は過ぎ、進路についての話も本格化してきていた。推薦が可能であるものは、専門の桑沢デザイン研究所と地方大学の二択であったので、桑沢の噂で聞く鬼のような課題の数と専門という響きを考え、僕は美大の推薦をしてもらう事にした。大学に行けば色々やりたいこともできるだろうと考えての事だった。そんな中、やがて二学期も終ろうとしていた。
ジョニーの言ったとおり僕の恋も成就はしなかったけれど、学園祭で色々知り合った中の香奈という名の子と僕は付き合い始めていた。別にタイプでも何でもなかったのだけど、何となく始まっていた。周りの奴らに続々と彼女が出来ていた事もあり、付き合っちゃえばいいじゃないの的な流れに流されてしまっていたような気もしていたが、それも悪くないとも感じていた。その子と付き合いながらも、本命のように意識していた、同じく学園祭で知り合っていた浜田省吾好きでカレシ付きの真理子とはマメに連絡を取り合っていた。しかし、地元が一緒の割りには実際に会うことはなかった。
そんなことばかりで全く勉学に励む事もないままに推薦状を貰った大阪の芸術大学の試験日が迫っていた。
学科はどうであれ、課題である水彩画に本来の力を出せれば何とかなると思っていた。
「タケル、タケル~! お前明日から大阪だろ? かに道楽に鋏まれて写真撮ってきてよ~」また下らない事を言っては自分で笑う石原がいた。
「俺が大阪の大学受かったら、なかなか会えなくなるなー」
「大丈夫だって! お前絶対落ちるから!」石原はあっけらかんとしている。八田と岩田はデザインとは関係ない専門へいくようなことを聞いていたが、石原はセンター試験を受けて芸大を受けるらしい。僕だってできることなら在京の美大がいいに決まっている。しかし偏差値が大いに足りないだけだ。石原の学力も僕と似たようなものだ。
「俺は推薦もらってるの。石原はもっと勉強しないと危ないぜ?」
家に帰り明日の受験の為の準備をしていた。
「タケル、あなた明日本当に大丈夫なの? 忘れ物はない? 明日大阪の従姉妹のマイちゃんが案内してくれるってわかっている? 待ち合わせ場所は覚えているの?」母さんが部屋に入ってきてあれこれ言ってくる。
「もう、わかってるよ。新大阪でしょ? もう覚えた。だからちょっと出てってくれないかな、部屋からさ」渋々母さんは部屋から出て行く。扉が閉まると同時にいつもの気配を感じた。
(ジョニーか…)
「なんだよジョニー、なんか用か?」
『おおぉ遂に明日大学受験か。大学は知識の宝庫だぜ? 新入生は少しだけ知識を持ち込んでくれるが、卒業生はまったくそれを持ち出さないっていう格言知ってるか? まーオマエの頭の限度を考えれば落ちることぐらいわかるけどな』ジョニーは珍しく高笑いをしていた。
「なに? 俺が受かったら、あっちにいってしまうからもう会えないねー」そうだ、いよいよこの化け物からおさらばできるのだ。
『悲しがる必要はないぜ、トム。オレはこの部屋に住み着いてるわけじゃない。[オマエの部屋]にやってきているってだけの事だ。オマエの部屋が替われば、オレはすかさずそこへ覗きに行くだけだ。この汚い部屋からオサラバできればいいな、お互いによ。ま、それは叶わぬ夢か』
「まるで俺が落ちるような言い草だな。ってかそれよりも何だよ! その“オレまで行く”っつーのは。俺は一生お前と離れられないのかよ!」落ちるといわれた事よりも、とんでも迷惑な話だ。
『一生離れないだと? それはない。オレはお互いの希望を叶えたらさっさとオマエみたいな小便垂れ小僧とはおさらばするつもりだ』
「お互いの希望? よくわかんねえけど、だったら、今すぐおさらばしてくれよ。オマエまったく役に立ってないからさ」(僕がどっか行けば、こいつもついてくるだって? まったく溜まったものじゃない、冗談じゃない)
『そんな冷たいこというなよ、オレがいなかったらオマエまったくレコード会社からの返事もゼロだったんだぜ?』
「嘘言うな。オマエが現れる前から返事は貰っている。あれは俺の実力だ。もう、用意するから消えてくれよ!」僕は声を荒げた。『そんな怒鳴るなって、フッ。変なところだけは記憶力抜群だな。それを少しは勉学に活かせよ。御馬鹿さんよ。じゃ、オレは消えるとするか、じゃあな』ギターからジョニーの姿が消えた。
「まったく、なんなんだ」
新幹線で新大阪に着き、従姉妹のマイちゃんと会う事ができた。「タケちゃん久し振りだね! 顔も昔とは打って変わって精悍になったね~」会うのは何年ぶりだろうか、小学生以来かもしれない。「マイちゃんも昔の面影は少しあるけど、大人になったね」マイちゃんは一つ年上で実家の沖縄から出て今は大阪に住んでいた。地下鉄を案内してもらい、僕は大阪芸大を受験する学生達が集る宿舎へ向かった。
「どうも、小田です。よろしくお願いします」僕の入った宿舎内の部屋には既に四人が居て、その中の一番オジサンな感じの人が挨拶をしてきた。
「あ、君も大阪芸大受験? 仲良くしよう。俺は今回3回目だから結構詳しいぜ」浪人生か。そんなに失敗してる人がいると思うと少し不安になってきた。その先輩は僕に現役でなくても推薦があることも教えてくれた。
浪人して誰に推薦状を書いてもらったのかは多くを語ってくれなかったけれど、何度か受験している人だったので出題の傾向とか色々聞けてけど、すべては今更の話だ。
「よし! 俺はもう寝るぜ。小田君も寝た方がいいよ。ん?」
「…え?」明日の為の準備をしていると、僕はとんでもないミスを犯していた事に気付いた。明日の水彩画の実技で使用する道具がバッグに入っていない。
「ない、ない、ないっ! あああぁ! 忘れてしまったんだ!」僕がうなだれていると、先輩が僕の傍にやってきた。
「おいおい、マジかよ。金はある程度あるか? 明日試験前に校内の画材屋で買えば平気だよ。俺が案内してやるからさ!」とニコリと先輩は微笑んだ。
「ホントですか! ありがとうございます」なんていい人なのだろう。
「当たり前だろ。お互い受かって仲良くしようぜ!」浪人して必死なはずなのに、ここまでライバルに気を使えるなんて、僕は激しく感動した。
翌朝、宿舎の前から出ているバスに乗り込み大学を目指す。大学はコンクリートでできた縦に長い広々としたキャンパスだった。さすが芸大、奇抜な服装の生徒が多い。
実技試験はその中の一室で行われる。先輩に案内してもらい透明水彩絵具、パレット、筆、そして筆洗を購入。僕は先輩に感謝し、みんなと別れて別々の教室へ向かう。僕の希望学科は美術学科の油絵科である。着席し試験が開始された。テーマは《未来》油絵やアクリルガッシュの画材なら得意だが、水彩画は不得意である。しかも制限時間は5時間。受験生が一斉に教室の外にある流し台で筆洗に水を入れ始める、水を入れ席に戻った僕は買ったばかりの透明水彩絵具のビニールを剥がす。しかしなかなか指が包装されたビニールに食い込まない。力を入れたその時、ビニールが破れたと同時に一気に箱の蓋が開き、中のチューブ達が一斉に外に飛び出した。
「わっ!」(わあああ! やばい)僕は一個一個を拾い集めていく、しかし赤と白と黒がない。どこだ? 隣の席の向こうに覗いた座席の下から赤を見つけたその瞬間、筆洗に水を汲んで戻ってきた受験生に踏み潰されていたのか無残にすべてが飛び散っていた。更にその隣では既に踏み潰された白と黒の残骸を見つけた。僕は周りの受験生に注目されていた。恐らく、ショックのあまり大声をあげたのかもしれない。赤と白黒がない。(黒は用紙の濃い色を混ぜて表現できるし白はあまり使わない。でも赤がないのは圧倒的に不利だ)既に皆開始している。とにかく描くしかない。パレットで絵具と絵具を合わせるが思い描いた色が出ない。時間はまだまだたっぷりある。テーマは《未来》…、過去、現在、未来、未来はもっといい時代なのか? 未来への責任を感じよう…。むむ、黒い、なんて黒いんだ。僕は画用紙の筆を入れ始めた。濃い青と紫を筆の端々に浸けダークなハーモニーで塗り潰す。乾ききったことを確認し残った白い部分に赤がないので黄で描く、殆ど見えない。しかたがないので青を足し薄い緑で描き込む。イメージが全く変わってきた。もう駄目だ。こんなものは思っている未来じゃない。気づくと休憩の合図が出ていた。周りを見ると既に出来上がっている人が半数を超えている。終わって帰っている人もいたようで席に空きがある。時間はもう半分過ぎた。暫くして休憩時間が終る。休憩を挟んだ事によって僕の集中力が切れかっている。周りのペースを見てしまったことにより個人的な時間配分が分からなくなってきてしまっている。しかしやるしかない。この絵だけで合否が決まるんだ。推薦状も良く書いてくれたんだ。パレットに絵具を足し、細部に濃い色を足しバランスを整えていく。白紙の明るい部分を多くとり、細部に赤を抜かした原色のみで濃淡をつけていった。
…完成した。残り時間は二十分だ。未来というより、過去から現代そして…、というようなイメージの作品。色を付けなかった部分に《未来》を描いた事は一目瞭然。やれることはすべてやった。なんだか自分の作品ではないような気がする。
「そうか」毎回僕は赤と黒ばかりの色を使っていたことに気づかされる。使えなかったのは悔しいが、その三色がない事によって、新しい自分を引き出せたのではないだろうか。と思い込ませ悔しさを押し殺した。絵が乾いた事を確認し、提出して教室を出た。他の教室だった先輩たちが外で待っていた。
「遅かったね、どうだった?」一人が聞いてきた。
「色々ハプニングがあったけどなんとか上手く表現できたかなーとは思っていますよ」
屋上に出ると、PL学園の塔のようなものが見えた。南河内郡河南町に立つ大阪芸大は緑に囲まれていて大阪に来た気分が全くしなかったけれど、PL学園が見えただけで少しだけ大阪気分を味わう事ができた。バスで宿舎へ戻り、僕らはお互いの合格を信じては別れ、そして各地方へ散っていった。
推薦入試の合格者が発表された。結果は不合格。
油絵を習っていた少年時代、僕は天才少年と呼ばれていた。その驕りが未だ残っているのだろうか? どこかで、絵ならまだまだ行けると思っていたのだろうか。今は特に画家を目指すというわけではなかったけど、ショックは大きかった。あの後、ジョニーは言っていた。“十で神童、十五で才子、二十過ぎればただの人”確かにその通りかもしれない。教え込めば子供は何でも覚える。でもそれは単に人より先に絵を書いていただけ、そして結局は人に追いつかれ、追い抜かれたということか。
子供の頃に持て囃されると後は落ちて行くだけという意味もありそうだ。始まりが地べたならあとは起き上がるだけ。もう僕にはこのギターしかない。絵で負けたことで僕の気持ちは一層ギターへ傾いた。