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路地裏のジョニー  作者: 横浜カモメ
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第1話「出会い」

無機質なビートを刻む地下鉄の車内。鼻孔を刺激する吐き気のする中年独特の湾曲する匂い、そして咽るほどの香水の匂い。車内にはあらゆる異臭が立ち籠めている。車窓から外を覗いて見ても、高速で飛び去ってゆく闇の染みるコンクリートの壁だけだ。視点を窓ガラスに合わせてみれば、未だに目の覚めない冴えない僕の顔が映っている。今日はいつにも増して情けない顔をしている。スーパーの詰め放題にされたような車両の中は、何かに掴まらずとも倒れることはない。そんな体の方向を変える事すらできない状態を利用し、僕は毎朝四方八方に犇めく誰かに体を委ね、転寝しながら目的地までの時間を過ごす。


 昨日も今日も明日も明後日も、こんな僕の一日、目覚めた時から既に始まっている何ら代わり映えのない一日。毎日毎日同じ視点から狭い世界しか知り得る事の出来ない植物の様な、そんな日々と呼吸が始まるだけ。与えられた水を飲み、与えられた陽を浴びる。風が吹けば共に靡くだけだ。でも不満などない、それが一番楽なんだ。そして、それ以外の選択なんて何処にも見当たりやしないのだから。


 いつもと変わらない学校最寄りの駅に着く。なんら変わり映えの無いいつもと同じ風景。まるで僕の人生のそのものといっていい。ホームの階段を駆け上がり改札口を出ると、暖かい陽と共に風が僕に吹きつけた。もう既に桜は散ったが春の陽気だ。夏の次に僕は春が好きだ。この改札前は昼頃になると、とげぬき地蔵商店街へ向かおうとしている老人達で一杯になる。その反面学生も多いので、駅使用者の平均年齢は何処の駅とも変わらないのかもしれない。僕の学校はその商店街の逆方向だった。立ち並ぶの風俗店を通り校門へ向かう。今日も朝から化粧の濃いおばさんが店の前で水を撒いている。


 パチンコ屋を過ぎてから角を曲がったパン屋でコーヒー牛乳を購入し、校門を抜け教室に向かった。校庭ではどっかの部活が朝練の片づけをしている。これが本当の青春なんだろうなぁ。そんな汗臭そうな奴等を横目に校舎の階段を駆け上がり、いつもの教室の扉を開いた。


 朝っぱらから相変わらず男子校の教室内は騒がしく異様な臭気、その上床の泥もすごい。そもそも教室が土足という時点でおかしい。しかし時間が経てば慣れてしまうものなのだろうか、それについては特に何も気にならなかった。慣れとは怖いものだ。

「おはよう」

いつもの数少ない友人の輪へ入る。話すことはいつもと似たり寄ったりな話題。毎々内容は同じであるはずなのにそれで抱腹絶倒なのが不思議だ。いや、深く考えてみれば然程面白くはない。どこかで協調性を養わなければ、こういう集団生活はやっていけないという想いがあるのからかもしれない。そうやって合わせなければ弾かれるだけなんだ。


 僕はたった一つの取り得だった絵画の為に、このデザイン科という特殊な学級のある高校へ進学した。信じられないぐらい下手糞な絵しか描けない輩もこのクラスには混じってはいたけど、ここで学べば将来デザイン的なもので食べていけるのだろう。そんな、まるで空に浮かぶ雲の模様を自分なりに模るように、曖昧で漠然とした先見があった。勉強は好きじゃないし、特に運動が得意なわけでもなく、外見だって普通。他人には嫌悪感を与えない程度くらいで、モテたためしはない。性格は割かし社交的ではあるが、趣味で漫画や詩を描いたりするような根暗な性格だ。自己分析は好きではないけど、強いて言うならそんな感じかもしれない。更に「これだ!」という夢も持ち合わせていない。そんな僕は今日も長い人生のうちの半日を無意味な色で塗りつぶし、いつものように帰路に着く。帰ったら夕飯を食べて、風呂に入ってテレビ見たりゲームしたりしてから寝るだけだ。面白味の欠片もない…


(はぁ~、つまらない日々だ…)


 帰りの電車、友人のタキと一緒になった。タキは帰りの電車が同じ方向なので寄り道しなければ共に帰ることが多い友人だ。

「タキー、今日は帰ったら何するの?」いつものように僕が尋ねると、彼はインテリジェンス且つ優等生的な風貌とは裏腹に僕の期待を裏切らず、毎回同じ答えを返してくれる。


「えぇっ? 帰ったら寝るに決ってんじゃん、寝なきゃやってられないよこんな世の中は!」

何がやってられないのかは敢えて訊くことはないが、僕もやはりそれに対して同調する。

「そうだよな、やっぱり寝るに決っているよな」

なぜなら実際に僕もタキと同じだからだ。そう、自分と似た考えを持つ相手に、自分と同じ答えを期待し、他人と同じ考えだということに安堵するようような、そんな日々を送っている。だけど、頭の微かな隙間ではそんな自分を打破しようとしているという意識を些か感じ取る事がある…。重い石の下に自分の求めているものが恐らくあるとする、しかしその重い石をどうやって持ち上げるのだろうか、なにか道具を用意しようか、死に物狂いで持ち上げようか、でも、持ち上げる方法を形にする知識も能力もなければ思案する気力さえ湧いてこない。そして気付いてみれば、今日もどこかで甘ったれた逃げ道を探す。僕の魅力は一体何なのだろう? どう考えても僕はその他大勢の中のほんの小さな一粒だ。個性も何にもない、大量生産型なのだ。MS‐06《ザク》なんだ。いや、ザクじゃない。まったく目立つことなく撃墜されるだけの連邦軍のボールといったところか。


“例え自分が何をしてようが、それをしている自分を愛せ”

そんなようなことが書いてあった本を読んだ事があったけれど、まったくもって理解不能な話だ。僕はこんな僕を愛せない。自分を愛せない僕に嫌気がさすこともない。それが当たり前であることしか考えることしかできない。誰だってそうなんだ。


 都内から隣県へと長い帰路を辿り家に着く。食事を取り、部屋に戻りテレビをつけると、巨人対中日戦のナイター中継がやっている。丁度2アウト二塁三塁の絶好のチャンスで四番・原の打席だ。期待せずに見ていると、案の定あっさりファールフライでチェンジ。

(やれやれ、今年の巨人は不甲斐ない…。これも僕が苛立つ要因だ)

ふと窓の外に目をやると、外は既に闇に包まれていた。白いブラインドを開き、窓の外から空を見上げると、無数の星が目に飛び込んできた。雲ひとつなく月の明かりも優しくて美しい夜空が目に映った。

「…夜空を眺めていると、自分の小ささが浮き彫りにされていくよ。人間たちが住んでいるこの星、巨大な文明を築き上げたこの星も、あの幾千の星の一つに過ぎない…」

 僕にはちょっとした趣味というか、気がつくと不意に思いついた詞を即興で作ったメロディーに合わせて口ずさむ癖があった。密かにゲーテやルソーなどの詩や格言が好きだったこともあったからだろうか。ほらな、やっぱり僕は根暗だ。今夜も口ずさみながらベッドから見える夜空を眺めていた。

(将来、必ず美大に進学しよう。きっとそこで生甲斐が見つかるはずさ…、多分)

そんなことばかり考えながら、学校と家との往復を繰り返していたある朝、いつものように登校すると

「タケル、今日も例のかわいい子はいたのかよ」仲間の八田が、僕が座っている机に身を乗り出して語りかけてきた。八田は高校一年からの一年間だけラグビー部に所属していたようだったが、そのときに頑張って付けたであろう筋肉がすべて脂肪へと変わってしまった様な体つきをした友人だった。

「いたよ。…でも今朝、駅のホームで彼氏っぽいのと一緒にいたんだよね…、何れにしても俺じゃどーにかする勇気もない。ウォッチングオンリーで終わりさ」毎朝、山手線で乗り合わせる僕のお気に入りの娘で、どうにかしようとも考えたこともない様な話だったけど、唯一、異性の話題といえば通学列車しかなかった。

「そっか~、俺たち男子校は辛いよな。女っ気まったくないし。俺も前に話した、毎朝乗り合わせるかわいい韓国人の子もウォッチングオンリーだけだよ」


「ふーん。そうそう、そういえば最近その子とは違うお気に入りの娘を見つけたんだぜ。見つけたっていうか、たまに俺がいつも乗ってる車輌に既に乗っている娘なんだけどさ、三茶から一人、その娘の友達が加わる二人組で二人してチラチラ俺の方見てるんだよね。それが聞いてくれよ、二人どっちもカワイイんだよ」

 そう、ここ最近の通学電車は俺にとっては楽しい通学電車に変わっていた。いつの間にか八田と僕の会話の輪には他の仲間も加わった。


「うわー、出た。また妄想が始まったよ! ガハハ」

真っ先に岩田が僕の話を聞いて、それを妄想癖と言い出した。若干、平均より横に若干大きい岩田は常に妄想しがちな自分を棚に上げて人の事を批判する。結局、一緒に聞いていた他の奴らも僕の話を信用なんてするはずもなかった。友情は不変といってよいが色と恋が絡めば話は別になるってシェイクスピアは言っているが…、納得だ。仲は良くとも、嫉みはあるもの。それは仕方のない事だろう。僕はもっと、もっと人の幸福を喜べるように努めようと思った。

授業が始まると僕は直ぐに眠くなった。寝る体制を整えているときに、メロディーと詞が閃いた。僕は即座にノートを開き、書き綴る。これは家に居るときも外に居るときも閃いたときに反射的に起こすいつもの行動だ。


「あっ! また詞書いてる。バカじゃねえの」


 僕の席の前を陣取る八田のいつものセリフだ。僕はそれを無視し、書き綴りながらふと思う。もしかしたら、本当に僕は馬鹿なのかもしれない。詞と言うより単なる文章が多いけど、書き綴り積もった文字の列を眺めると不思議と笑みが零れる。バカというより、少し変態、いや変わっているのかもしれない。そして考えるんだ、こんなことばかりしている僕は、果たして[絵]が本当に好きなのだろうか、という疑問。学校の課題はソツなくこなしているけれど、他のクラスメイト達の作品に水準の高さを感じ、自信を失ってしまったのか、それとも絵画やデザイン中心の授業の多さでウンザリしてしまったのか、どれが影響しているかは解らないけれど、絵に対しての気持ちが薄れてしまっていたのは確かだった。口で表現するよりも絵で表現していたことが今は文章になったということなのだろうか。わからない。


 考えても何もわからず、のらりくらりと過ごしている僕は、いつの間にかうだつの上がらない男になってるのかなぁ…。嫌だなぁ…、でも、それは恐らく避けられない事実なんだよなぁ…。


 放課後、校門を出たすぐ傍から立ち並ぶ風俗街を通り抜け、いつものように仲間とカラオケへ行き、曲を選んでいると“浜田省吾”の名を見つけ、彼の曲数が多いことに驚かされた。《愛という名のもとに》のあのオッサン、こんなに曲を出していたとは。どれか覚えてみよう。みんなが歌っている間、曲名を懸命に記憶する僕。仲間と別れた帰り道にレンタルショップへ寄ると、案の定、数多くのタイトルが並んでいたのでいくつかのタイトルを借り、スキップ踏んで僕は家路に着いた。好きな邦楽バンドが皆無とまではいかないが、比較的邦楽よりも洋楽のヒップホップやロックを好んで聴いていた僕は、邦楽はカラオケ用に借りたり買ったりしていただけだった。なぜなら邦楽には愛だの恋だのと甘ったれた歌詞の曲しかないイメージが膨れつつあったからだ。早速、部屋で聴いてみる。

夕暮れの陽で赤く染まった白い部屋の壁に響く、寂しいイントロ。悲壮な歌詞。そしてメロディー…。


「く、暗い…こういうの好きだ…」


 実際僕が受けたのは暗い印象の曲が多かった。暗いメロディーラインが一番美しいと感じられる。暗い僕にはお似合いなのかな、そう思った次の瞬間、疾風の用に流れるイントロ、そしてメロディーに乗った歌詞が僕の頭の中に疾風のように吹きすさいだ。まるで、燻っていたこの心の黒い隙間の一つ一つに、まるでステレオから次々と放たれる弓矢が突き抜け、矢と共に燻りが消え去ってゆくように。


「なんだこれは! この、全体から漲るパワーは…。こっ、この力強くも乾いた歌声には自信が満ち溢れている! しかも、なんというストレートな歌詞なんだ。う、打ちのめされそうだぜ!」


 一瞬にして僕の心は奪われた。どの曲もどの曲も何度も何度も聴き続けた。音楽なんてただ聴くものだけだと思っていた僕の心が一変した。歌の歌詞なんて全て甘いものばかりだと考えていた僕の心が一変した。ここまで、力強く表現できるとは…。今までの書き綴った想いをそのまま歌にすれば…。詞だからってわざわざ抽象的にする必要なんてない。この、今までの想いを、今までの叫びを、歌に乗せて、僕は彼のように歌いたい。僕は身体の底から熱いものが込み上げてくるのを感じた。


 別に歌手になりたいとかそういう問題じゃなく、僕はただ単に歌にしてメロディーと歌詞で表現してみたくなった。明確な今後の方向に僕の心は躍った。そこで一つの大きな問題点に突き当たった。


「楽器が一つもない…、少しずつ貯めた小遣いも、ちっぽけな金額しかならないし…」


 その日の晩、僕は母さんにアルバイトをしてもいいのか相談することにした。想像の付く返答がくることはわかっていたけど、聞いてみないことにはわからない。

弟二人と母さんと僕の四人の食卓…、僕は意を決した。


「母さん、俺アルバイトしようと思ってるんだけど?」


「えっ? タケル、あなた美大に入る為にあの学校に入ったんじゃないの。そんなくだらない事している暇があったら勉強しなさい!」

やはり想像したとおりのわかりきった答えが返ってきて、僕はすぐに尻込んでしまった。

(やはり駄目か。かといって強硬手段を選べるような僕でもない)

 部屋に戻ったの僕は机に座り、頬杖をつき試入試問題集を開く。

(両親は僕が美大に進学することを望んでいた。でも、なぜ美大? 美大行って僕は何をするのだろう。卒業して何をするのだろう。画家になって欲しいのだろうか。デザイナーになって欲しいのだろうか。僕は昔、小学校の卒業アルバムに、将来の夢として《イラストレーター》と書いたことがあった。だからだろうか、人より絵だけが少しだけ秀でただけだからという理由にすぎない)僕はもう何も考えられなくなった。ただただ何も出来ず、テレビゲームに夢中になっている時間さえ気づくと胸が痛くなった。この痛みはなんなのだろう。確かに、入学当初は美大に入ることが夢だった。夢というか、目標というか。でも、現時点での自分の夢って一体…。何かが、誰かが、頭の中を駆け回っている。でもそれが何で誰で何なのだろうかが全くわからない。まるで僕は夢も目標もない死人のようじゃないか。

「目標も夢も持ちえず、荒野を彷徨う生ける屍、ルンルンルルン」

(ああっ! ノートにストックしておかなければ…)僕は急いでペンを取り、ノートに書き綴った。

 翌朝、目が覚めると外は薄い霧雨が降っていた。もう五月だというのに薄ら寒い。学ランの下にトレーナーを着て駅へ向かった。今日も僕のお気に入りの可愛らしい子が電車に乗ってた。そしていつもの様に途中から友達が加わった。山手線に乗り換える。そこまでは変わることのない同じ流れだった。

しかし、毎日同じで終わるはずの日常がこの日は違っていた。二人が下りていくはずの駅で二人は下りようとしない。

(もしかして、いや、まさか)

また、僕の馬鹿な妄想が始まる。

“巣鴨~ 巣鴨~”目的の下り立つ駅に着いた。僕はいつものように降りる(なんてな…、何もあるわけがない)そして僕がホームを歩き階段に差し掛かった瞬間、背後で走って近づいてくる足音が…。

(えっ!)

僕が振り向くと、霧雨煙る巣鴨駅にまるで二つの白い花が咲いた様な香りが僕の鼻を擽った。

「あの、すみません、どこの学校ですか?」

振り返ると僕は二人に囲まれた。

(ええええっ、マジで!)

勿論初めての経験だ。顔が、身体が膠着し熱くなり何も喋れない、妄想が的中したにも拘らず、声が出ない。

「ぅぇ?」

そういう状況に慣れていなかった僕はまるで情けない返事をしてしまった。しかし、彼女達はそんな僕の反応を訝しげに思うこともなく会話を繋いでくれる。どうやら二人は僕の一学年上で、毎朝僕のことを見ていたとのことだった。

(信じられない!)

「明日から一緒に通学してもらえませんか?」

「えっ! ずぇんずぇんいいです、是非そうしまそー…」

なんという感動! 校舎へ向かう僕の周りはパステルカラーに包まれた。しかし、登校後、学校の仲間たちはその事実を認めようとする奴はいなかった。


 しかしながら、結局、翌日から気付けば口下手で女性に慣れていない僕はその二人のペースに合わせることばかり考えて会話は途切れ途切れ。間も上手く保つ技法もなく、夏休み前には会うこともなくなった。

だからといって特に何とも思わない。それが当たり前な自分でもあるし、よく考えれば相手のペースに嵌りすぎて自我を押し殺してしまっただけの簡単な失敗だ。失敗は常に自覚し、前進する為の要素にすればいいだけ。同じ失敗をして初めて落胆すればいいんだ。僅かな期間だけでも優越感に浸れたのだから良しとしようじゃないか。僕はそんな大そうな男じゃあない。

でもその一件で僕の心に小さな改革が生まれたのも事実だった。それは、覚束ない上に不確かだった一つ一つの自分自身の行動も意味を形成する一部であり、世の中に僕という一固体が、確実に存在しているという事実を肌で感じるようになった事だった。


(生活している視点を高く上げてみれば、本当にわかりきっている人生の中。極めて小さなマスの中をあくせくと生きている。細かく小さな一瞬の刹那、あらゆる出来事に心を揺らす。笑い、喜び、怒り、憎しみ、泣き、悲しみ、明日に期待し…)

「予感し震えて、っと。こんな感じでいいかな。これをどうこうするわけじゃなく、今はストックすることだけを考えていればいいのさ。そうしていれば必ず眩い光の明日が見えてくるはず」

僕はこうして書き綴ることが、今まで以上に楽しくなっていた。


 夏休みが終わると、密閉されていたのか、教室は一層と異臭を放ち、更に床は泥まみれだった。そんな環境に嗅覚と視覚が再び免疫を取り戻し始めた第二週目、友人の石原がふと僕に話しかけてきた。石原は身長も体系も僕と然程変わらない男で、この頃よく話すようになった友人だ。


「タケル、タケル~ 俺、昨日ギター拾ったんだぜ!」


「えええぇっ 本当かよっ!」

僕は思わず石原へ向かって身を乗り出した。

「なんか、ゴミ捨て場に置いてあってさ、傷も殆どないから持って帰ったんだよ!」

 石原は僕がギターを欲しがっていることを知っていたことから、第一に僕に話を持ちかけてくれたようだった。

「それ、俺に譲ってくれないか」

僕は即座にその話に飛びついた。

「だったら、帰り俺んち寄る?」

石原は自慢の長髪を靡かせた。


 夏休み中のバイトで貯めたお金では、まだまだ自身でギターを購入するには足りない。その話を聞いた後の授業はほとんど手につかない状態だった。放課後、石原と共に高田馬場駅で降り、石原の家を訪れる。相変わらず拾物や無駄な物の多い部屋。そろそろ部屋の中にバス停が置かれるのではなかろうかというガラクタばかりの床の上に無造作に《それ》は横たわっていた。

「おお、マジだ。嬉しいよ!」僕の鼻息は荒くなる。

「ほらな、全然壊れていないだろ。教本もあるから貸してやるぜ」

僕は石原に感謝し、ゴミ袋を上下に重ねて慎重にギターを包んで浮かれ足で帰宅した。

 ヤマハのアコースティックギター。僕は借りた教本にあった《乾杯》をマスターしては、直ぐに《なごり雪》のアルペシオをマスターした。練習曲がその二曲しかなかったので、僕は楽器屋でコードブックを購入して今まで書き綴ってきた想いを曲にした。夢中になって弾き続けた。その傍ら、浜田省吾を聴いては興奮と感動を繰り返し続け、気付けば窓の向こうに見える山の木々は色づき始めていた。

「カーステレオかーらー流れ出す メロディーそれは夢の歌~ 流れる街を見つめ口ずさむメロディーそれは希望の歌~」

ギターを手に入れて早一ヶ月、大体のコードが弾けるようになっている。何をしても三日坊主だった僕がまだ一カ月とはいえ、ここまで習得出来たのは自分でも驚異的なことだ。再び自作の曲を通しで弾こうとしたその時、何か気配を感じたのか、寒気が走った。


「…? ん?」


神経を研ぎ澄ませてみる…。


「…風邪かなぁ?」その後、再び同じ感覚を感じるようなことはなかった。


『……』


 再度ギターを握り締め、弦を弾こうとした時にふと虚無感が僕を襲った。(しっかしなぁ…果たして、ギターを弾いたところで何になるのかな。やはりこんなことをしている時間があるのなら絵を描いたり勉学に励んだりした方がいいのではないのだろうか)

実際にギターを手にしてしまうと、いつもいつもどっちつかずな考えがよぎっては頭を痛める。

「は~…」

青春とは悩める日々の事をいうのだろうか…。

“喜びには悩みあり、悩みには喜びがなくてはならない”

とかゲーテは言っているけど、まったく持って意味不明だ。いつもいつもこうして、答えの出ない問いを、自分自身に語りかけては気持ちを沈ませる。一度落ちると、僕は自分という名の入れ物から離れ、遠目で自分を見てしまう。一つの逃避なのだろうけど、そうすることによって持ち直すことが多いのも確かではあった。


 そんな悩める少年な僕の日々…。よく晴れた午後の昼休みの教室、同じような趣味を持つクラスメイトの小村に話しかけられた。

「タケルってさ、音楽やってるみたいじゃん。音楽とかやっているなら、なんか送ってみればいいんじゃないの? これとかどう?」渡されたのは、あるレコード会社のデモテープオーディションの告知だ。

「へぇー こんなものがあるんだ」

しかも、そのレコード会社は浜田省吾が所属しているレコード会社だった。

周りの友人に[いい曲ではない]だとか[暗いよ]だの[アホっぽい]と酷評ばかりの反面、賞賛してくれる声も少なからずあったことから、果たしてプロはどういう反応をみせるのだろうか、と興味が涌いてきた。


大空を羽ばたく者 青き海をすり抜ける者

大地を駆け回る者 風に揺られざわめく者も

誰もが彷徨い続けている 狭き視界に飛び込むものだけを見て

それぞれ違った場所など何処にもなく すべて《性》に基づき生きる

問われる資格など誰も持たない 答える事さえも 意味を持たない社会の囲いの中 空を仰ぐだけ 永遠の名は死ぬまで感じて


歌唱、そして最後のギターのバッキングを終え、ステレオに繋ぎ天井から垂らしたマイクのスイッチを切る。

「終った…」何度も録り直し、取り敢えず納得のいくものだった。

そう、遂にデモテープが完成したのだ。コミックバンドっぽい曲と、現実逃避的な曲と、詞的表現を重視した3曲を収録。ま、モノは試しだ。別にプロになるわけでもなしに。と思いつつも内心僕は期待感に胸を膨らましていた。

「写真も必要なのか…」

要は曲次第だし、顔も自信ないので適当な写真を封入して糊付けをした。陽が暮れる休日の夕陽は山火事の様にこれから身を落とす山を真っ赤に照らしている、丘の上まで自転車を走らせ郵便局から封筒を送った。丘の上から見下ろす夕陽に照らされた真っ赤な住宅地が、いつもと違った色に見えた様な気がした。僕は自転車にまたがり、浜田省吾の歌を口ずさみ、夕陽に包まれながら緩やかな坂を下り家路に着いた。

「タケル、あんた何やってたの!」

家に着くなり母さんの怒号が乱雑とした玄関に響いた。

「歌を歌ってたんだよ」(やれやれ、言わなくてもわかるだろうに)

「近所迷惑だからやめなさいよ!」と一言怒鳴り、母さんは自室へ戻っていった。僕も部屋に戻りベッドに腰掛けた。

「ふぅ…。誰もいないと思ってたんだけど、母さんいたのか…」

少しだけ僕は恥ずかしくなった。思えば僕はカラオケ以外では歌を歌ったことなんてなかったからだ。一息ついて気を取り戻した僕は明日学校帰りに買いに行く安いエレキギターの購入代金を数えることにした。

やがて陽は落ち、闇は僕と部屋を侵食し始める。そんな時間に家のインターホンが鳴り、母さんが僕の名を呼んだ。

「タケル、お友達みたいよ」


玄関に出ると外に立っていたのは中学時代の友人、木本だった。あまりの久しぶりさに僕はびっくりした。何年振りだろうか。

「お! 久しぶりじゃん。どうしたんだよ急に!」

「ちょうど、お前の家の前を通りかかったから、いるかなぁと思ってさ!」昔と変わらない彼のクシャっとした笑顔。

外は暗くなっていたが、街灯に薄暗く照らされた階段は明るく、僕らはそこに腰掛けた。

「タケルはよぉ、今高校行ってるんだよな。やっぱり卒業したら大学とか行っちゃうわけ?」

木本が僕に聞いてきた。僕が言葉に詰まっていると、

「俺はもう今すぐにでも高校なんて辞めて板前を目指そうと思ってるんだよな。勉強も好きじゃねえし、だからってわけじゃないんだけど、最近板前やってる親父の姿が格好良く見えて仕方ないんだ。昔はこれぽっちもそんなこと思わなかったのになぁ」友人は苦笑しながら言った。

「もう夜は冷えるし、ちょっと部屋にでも寄るか?」

「いや、そろそろ帰るし、いいよ」と彼は言いつつも、長い時間僕らは街灯に照らされ寒さに縮こまりながら、思い出話なども語り始めていた。

 更に話題はあいつは今何をしているんだとか、あの娘は結婚したんだとか、他愛もない世間話をし、やがて「また会おう」と言い残し、木本は帰っていった。

 部屋に戻ってきた僕は木本の話を思い出し、なんだか胸が苦しくなる。木本には進学すると話したが、そこには全くと言っていいほどの信念なんてない。そして、理想も目標もない自分を恥じ、自分の存在意義さえも疑問に思い始める。一体、僕は何処へ向かっているのだろうか。この先に光を見い出すことは出来るのだろうか。このままでは身を切り裂くような辛い未来しか待っていないのではと感じはじめていた。そんな事ばかり考えながら気がつけば、年を越えていた。

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