9 恥
使用した毛皮の外套が大きく立派なものだったためか、熊の降霊はこれまでの不正降霊よりも長持ちした。
次の町の城壁が見えてきた辺りで時間切れとなって、毛皮は灰と化す。
カナは頭巾を深く被り、肩掛けを巻いて口元を隠し、手袋を嵌めた状態へ。更によく洗った木靴も履いた。少年戦士らから奪ったものと、盗賊団から奪ったものが混ざっている。
さて、町に入るには門で審査を受けねばならぬ。
前の町ではロベリアが冒険者用の門を楽に通ったが、あれはあの町の冒険者だからこそ出来たこと。つまり、審査が緩いことをよく知っていたからだ。
この町ではそうは行かぬ――どころでは、ない。
「ロックハート家のロベリアさま、ピアニィさまでございますね。プコスの町にご訪問いただき、ありがとうございます」
ピアニィが家紋の入った短剣を見せたところ、一発だった。
顔や体を隠しあまつさえ人力で馬車を牽くカナのことも、不審がられはしたものの別段追及されることはなく、そのまま素通しのありさま。
これが貴族の力。
「申し訳ないですが、こちらで少々お待ちください。今、町長の屋敷に連絡を取り、歓待の準備を――」
しかも歓待して貰えるらしい。
冒険者として、金はあっても名前を使うことの出来なかったロベリアは、半笑いとなっていた。
話の速さと楽さを喜びつつも、それが彼女にとっては呪いでもあるのだろう。
やがて慌てた様子で町長の使者が訪れ、屋敷に案内されていく。
事前に話を通していない突然の訪問にも拘わらず、使者は嫌な顔ひとつしなかった。
ロックハート家が、この地をよく治めているからか。
単に使者が男で、こちらがロベリアとピアニィという見目麗しい少女だからかも知れぬ。
いや、ピアニィに比べると、ロベリアは一段落ちるが。
「本日はご視察とのことですが」
「ええ、軍や冒険者の様子を見て回ろうと。ロックハートたる者、やはり現場を知らねばなりませんから」
「ご立派なお考えです」
使者と適当な会話をしながら。
その頃にはカナも馬車内に移り、馬車は使者が連れてきた馬が牽いていた。
町長の屋敷は――規模や質の程は、カナの目にはよく分からぬ。
先日の町で訪れた冒険者ギルドの建物と同じくらいか、とは思う。
町長――中年の肥満体の男が出迎えてきた。
「ようこそ、おいでくださりました。ロックハート家のご息女さまのご訪問とあらば、いつでも歓迎いたしますよ。まずは旅の疲れを癒してください」
にこやかな態度に嫌味はない。
戦士としての才は特にないようだが。
「ご配慮、痛み入ります。こちらは3名とお伝えしましたが……」
「はい、ロベリアさま、ピアニィさま、それにカナさまと仰いましたか。失礼ながら、カナさまはどちらからいらっしゃった方で……?」
ピアニィはすぐには答えず、まずは屋敷の中へと案内してくれるように述べた。
ここはまだ玄関先だ。カナの姿を晒したくはないのだろう。
町長は微かに首を傾げながらも、鷹揚に頷いてみせた。
馬車を使用人に任せ、エントランスホールに入っていく。
「ではカナさん」
ピアニィが呼び掛けてきた。呼び名は『さま』から『さん』に変わっている。
下っ端気質のロベリアはともかく、ピアニィは姉に釣られて『さま』で呼んでいたのみなのだろう。
「ああ」
カナが頭巾を取ると、褐色の肌色と輝く銀髪が露になった。
居並ぶ使用人たちが息を呑んだ。
町長は満面の笑み。
「蛮族を手懐けたのですな! それも珍しい銀髪……! 厄介な奴らですが、なるほどこれは美しい。そしてしかし、屋外に出せば混乱を呼ぶかも知れませんな……。それで先に屋内へ……」
町長は頻りに頷いて納得している。
ピアニィは曖昧に微笑んだ。
「蛮族は捕えても殆どの場合は自害してしまうものですが、よく調教なさっているようです。暴れる様子もない」
カナに向けられる町長の目は、人間を見る目ではなかった。
ペットか奴隷か、といったところ。
それは侮辱ではある――が、流石のカナも、それを理由に殺すことはしなかった。大事の前の小事である。
その様子に、ロベリアは露骨にホッとしていた。
失礼な奴だ。
ともあれ、そのロベリアが述べる。
「えー見ての通り、蛮族ではあっても無分別じゃない人です。私とピアニィに次ぐ扱いをしてくれるようにお願いしますよ。私のですからね! 私の!」
「心得ました。では、これ以上の立ち話も何です、まずは湯浴みをなさっては? その間にお食事のご用意を」
その言葉に姉妹揃って喜色を浮かべ、しかし浴室に向かう前にロベリアが気付く。
「あー忘れてましたけど、馬車の中の首ね、あれ盗賊団狩ったやつですんで……。それから被害者の骸も」
「なんと! ロックハートのご息女は流石に勇猛ですな。では僭越ながら討伐報酬もご用意いたしましょう」
治安悪化の一因である盗賊には、公によって賞金がかけられているらしい。
冒険者たちはギルドを通してそれを受け取るが、貴族ならその仲介を受ける必要もない、と。
ついでと言っては何だが、ピアニィの護衛騎士も丁重に葬られることになろうか。
ともあれ、まずは脱衣所に導かれた。
侍女の手で脱がされそうになったのをカナが自ら脱ごうと拒んだ際、相手の侍女が涙目になる程度の悶着はあったものの、おおむね問題はなく進む。
カナはその褐色を、ロベリアとピアニィは白の裸身をそれぞれに晒した。
ピアニィは染みひとつないキメ細かな美しい肌をしているが、反面、ロベリアは傷痕が目立った。
例えば腹に刺し傷の痕、腕に切り傷の痕、胸に火傷の痕。
そのありさまに目を見開くピアニィ――妹の視線から逃れるように、ロベリアは背を丸め、身を縮める。
「お姉さま、そのお体は……」
「冒険者やってましたからね……。実家と違って、魔法薬も無尽蔵に使えるわけじゃなし。回復魔術にも限界がありますし。そりゃあ色々と……。せめて顔とか、見えるところだけは何とか治すんですけどね。落ち零れには似合いの、未熟の証です。カナさまもそう思うでしょ?」
すぐそこに侍女らがいることも忘れたように、ロベリアは自嘲の笑みを浮かべてカナを見る。
カナもまた、ピアニィのように瑕疵のない体をしていた。
ピアニィの金髪と白い肌を黄金や宝石に例えるならば、カナのそれは獣の美しさ。
人跡未踏の秘境の奥地に棲む幻獣とでも言おうか。猫のようにしなやかで、獅子のように猛々しく、狼のように気高い、匂い立つまでの獣性がそこにある。
殊更に筋肉質なわけではなく、引き締まった上に過不足なく脂肪の乗るその身のなだらかな曲線は、最早原始的な造形美の一種だろう。
侍女らもピアニィも、自嘲していたロベリアでさえ、頬を上気させ暫し見惚れるありさま。
一方でカナ当人は泰然。
視線に対しても、言葉に対しても。
「お前は戦ったのだろう、ロベリア。ならば傷痕は誉よ。降霊使いは精霊の生命力を得ることで傷痕も消えてしまいやすいが、そうでないなら、それは決して恥じるものではない。胸を張れ」
ロベリアは紫髪を揺らし、青い目を白黒させた。
「え、で、でも……こんなの綺麗じゃないですし……」
カナの語ったことは、所詮は樹海人の価値観だ。外人には外人の価値観が、ロベリアにはロベリアの価値観がある。それを蔑ろにはすまい、とカナは思う。
何となれば、ではどうすれば良いのか、が今は分かるのだ。
ロベリアは傷痕を恥じている。
恥じぬ心に変えようと諭すことは失敗した。
ならば体の方を、恥じる必要のないそれに変えるのみ。
カナはそっと身を屈めてロベリアを緩く抱きながら、その胸元、火傷痕に触れる――唾液をたっぷりと纏った舌で。
「ひぅ……ッ!?」
生温かく濡れた感触があるだろう。
唾液を擦り込むように、ある種執拗なまでに丹念に舐る。
ほんのりとしょっぱい肌の味。
「あっ、ひ……! な、な、なん……! なに! なに!? カナさま!?」
貴族とそのペットなら、対外的にはやはり『さま』呼びは不審だと思うのだが、完全に頭から飛んでいるようだ。
未だ湯に触れてすらいないのに、既に茹ったような顔をして、ロベリアは震えた。
ピアニィは手で自らの顔を隠しながら、指の間からそれを見る形。
「傷痕が嫌なのだろう」
「そういう話でしたっけ!?」
「そういう話だ。見ろ」
舌を離し、その唾液に濡れた胸元を指し示す。
後方で侍女らが驚きの声を上げた。
ロベリアが見下ろす胸元で、火傷痕は明らかに薄まっていた。
「……はぇっ?」
『は?』と『え?』の中間くらいの声音。
カナは相変わらず泰然。
「降霊使いは精霊の生命力を得ると言ったろう。わたしほどの使い手なら、それを体液に凝縮して受け渡すことも出来る。消せるぞ。他の傷痕も」
「他の……傷痕……」
ロベリアは呆然と我が身を見下ろした。
下腹部に裂けた傷痕、太腿内側に抉られた傷痕。
「えっ……」
「ちょうど裸になったんだ。湯を浴びる前に――」
「カナさまのえっち!!!!!!!!!!」
ロベリアは大理石の湯殿に逃げ去り、滑って転んだ。
「ぎゃーっ!!」
「ああっ、お姉さま!」
赤が散った。
新しい傷を作ってどうする。