彼を殺したのは
関東の内陸都市は、ぬめりつくような暑さだった。
買い物を終えたA大学附属病院の精神科医佐貫四郎は空調の効いた院内に戻り、一息ついた。
「いろいろあったけど、良かったじゃない。やっぱり、結婚してこそ、落ち着くんだよ」
「は、はあ」
話好きの看護師長に捕まっているのは、佐貫の同期の医師大輪和夫だ。
院長の娘で看護師でもある梅原沙友との結婚が決まってから、あちこちで捕まり、話を聞かされている。
「沙友ちゃんはさ、院長の娘だけど、あたしの部下でもあるんだからね。泣かせたら承知しないよ」
「は、はあ、はい」
(あいつ、また、気を遣ってやがる)
四郎は内心舌打ちした
◇◇◇
コンコン
四郎のいるカウンセリングルームのドアがノックされる。
「どうぞ」
四郎の声に応え、入ってきたのは和夫だ。
四郎に促され、和夫は椅子に腰かける。
「どうだ?」
四郎の質問に和夫は力なく答える。
「だめだ。眠れていない」
「やっぱり、夢に出てくるのか? 有理夏が?」
「そうだ。あいつはやっぱり俺のこと怒っているんだ。自分だけ結婚して幸せになる。俺のことを」
四郎は横を向き、溜息をついた。
矢島有理夏
四郎と和夫の高校時代からの友人で、A大学医学部で共に学び、A大学附属病院でも共に勤務した。
そして、和夫の元婚約者であった。
「元」なのは有理夏がもうこの世のものではないからである。
「そんなことを言ったら、俺にも責任がある。有理夏にあの新薬を処方した時、有理夏を励まして、処方を受けるように勧めたのは精神科医のこの俺だ」
「いや、院長の勧めもあったとはいえ、実際にあの薬を処方したのは俺だ。よりによって婚約者だったこの俺なんだ」
◇◇◇
あの時のことを思い出すのはもう何度目だろう。
小児科医だった有理夏はその才能と人柄で将来を嘱望されていた。
先の看護師長など「あたしがいくら慰めても泣き止まない難病患者の子が矢島先生と話すと笑うんだよ」と嘆くほどだった。
それだけに有理夏にモーションをかける男はたくさんいたが、彼女が選んだのは医師としての能力にこそ優れたものがあるものの、身長は160ないちんちくりんでさえない和夫だった。
やっかみの声も多かったが、幸せな感情を隠そうとしない有理夏の姿に徐々に消えていった。
そんな幸せな二人を襲ったのは有理夏の内臓の奇病だった。
◇◇◇
「和夫っ! おまえがそばで見ていながら、何でもっと早く気が付かなかったっ?」
四郎は和夫を罵った。
「ごめん。有理夏。つらいはずなのにいっこうにそんな素振りも見せなくて……」
和夫は泣き崩れた。
「残念だが、若い分、進行も早い。普通ならもう手遅れなんだが、ひょっとすると……」
院長の言葉に四郎も和夫も色めき立った。
「院長。まだ、何か手があるんですか?」
「実は…… まだ、ヒト試験は終えてないんだが、画期的な新薬が出てきている。あれなら効くかもしれない」
四郎も和夫もその話に飛びついた。
和夫は有理夏に語った。
「まだ、試験を終えていないんだけど、絶対に効くって。有理ちゃんが第一号の成功事例になって、後の患者を救うんだよ」
「そうだね。夢があるし、医者冥利に尽きるね」
有理夏は微笑した。
四郎は有理夏を励ました。
「病気なんて、笑ってりゃ治っちゃうんだよ。新薬と有理夏の笑顔があれば、すぐに治るわ」
「そうだね。笑わないと」
有理夏はまた微笑した。
◇◇◇
だが、有理夏は治ることはなかった。
死後、珍しい症例であるため、遺族の同意を得て、病院で解剖に付されることとなった。
その結果に、当事者はみな戦慄した。
「こっ、これは?」
有理夏の内臓はドロドロに溶けていたのだ。
和夫は絶句し、院長は叫んだ。
「ふざけるなっ、こんな新薬絶対認可させる訳にいかないっ!」
◇◇◇
製薬会社は成分から考えて、内臓がドロドロに溶けるなどありえないと猛烈に抗議したが、結局、その新薬が認可になることはなかった。
院長の娘沙友が傷心の和夫に猛烈なアタックをかけ、婚約に持ち込むのは、この後のことである。
「なあ、四郎」
長い沈黙を破り、和夫が口を開く。
「精神科医としての所見ではなく、一人の友人として話してくれ。有理夏は俺を怒っているだろう。怨んでいるだろう。最愛のはずの婚約者に怪しい薬を飲まされて、内臓をドロドロにされて死んだ上、その婚約者は別の女と結婚するだと。怒って当然だ。だが、それでも、俺は……」
「有理夏を愛していた」
四郎も口を開く。
「では、一人の友人として言う。俺だって有理夏を愛していた。和夫だから譲ったんだ。俺だって怪しい薬を飲ませることに加担した。それなら、俺だって怨まれることになる。これが愛する者への仕打ちかと言われても、何も反論できない」
夜は更けていった。
◇◇◇
「和夫が倒れた?」
四郎がそのことを聞いたのは、一週間ほど研修で病院を離れ、戻ってきた時だった。
「そうなんだよ。急に倒れて、そのまま意識がなくて、今、沙友ちゃんが泣きながら看病しているけど、佐貫先生は大輪先生の親友でしょ。行ってあげて」
看護師長に促され、和夫の病室に駆け付けた四郎が見たのは、寝台で昏々と眠る和夫と憔悴しきり椅子に座り込む沙友だった。
「どういうことなんだ? 梅原さん」
四郎に問われた沙友は力なく答えた。
「わからないんです。本当にわからないんです。うちは総合病院だから、お父さんが各科の先生に診てもらったけれど、誰も原因が分からないって……」
「CTスキャンは撮ったのか?」
「それが不思議なんです。技師さんが何回撮ろうとしても、撮影できないって、他の患者さんのは普通に撮れるそうなんですけど……」
四郎は眠り続ける和夫の顔を睨みつけた。
(和夫、お前、どういうつもりなんだ)
◇◇◇
和夫が死んだのは、四郎が訪ねていった晩だった。
やはり、珍しい症例ということで、遺族の同意を得て、解剖に付されることになった。
だが、自らメスを握った院長は開腹するやいなや絶句し、そして、叫んだ。
「解剖は中止だっ! なかったことにする。死亡診断書は私が責任をもって書くから、みんな、このことは忘れろっ!」
和夫の内臓はドロドロに溶けていたのである。
◇◇◇
和夫の遺体は明日にも火葬にされることになった。
火葬にされる前の最後の晩は婚約者の沙友が立ち会う予定だったが、疲労困憊し切っているため、代わりに親友の四郎が立ち会うことにした。
和夫の遺族は今は遠隔地に住んでいるため、明日、こちらに来ることになっている。
四郎はふと和夫の死に顔を見た。
(和夫、おまえ、まさか笑っているのか?)
四郎は懐からスマホを取り出すと、登録を調べた。
(あった。まだ、残っていた)
四郎はその名前江黒佳苗の通話ボタンを押した。
◇◇◇
「あら、誰かと思えば、佐貫君。久しぶりねぇ。こんな夜更けに何のご用?」
「江黒。久しぶりだな。そして、急で悪い。今どこにいる?」
「今は所用でA市に帰ってるの。佐貫君と大輪君はまだ大学病院にいるんだっけ」
「和夫は死んだ。そのことですぐ来てもらいたいんだが。おまえ、まだ、霊媒師やってるのか?」
「まあ、やらせてもらっているわね。お医者さまからすれば縁起の悪いあたしを呼ぶって、どういう訳?」
「理由は後で言う。とにかく、すぐ大学病院に来てくれ」
「分かった。でも、こっちも仕事だからね。特別料金もらうよ」
江黒佳苗。四郎、和夫、有理夏の高校時代の友人。A大学でも一緒だった。もっとも、佳苗は宗教学科だったが。
高校時代から霊視能力があると公言し、周囲から気味悪がられたが、有理夏はそういうことを全く気にしない性格であったし、不思議と四郎と和夫とも馬が合った。
大学時代にはもう霊媒師として活躍し始め、卒業後も疎遠にはなったが、霊媒師としての活動を続けていると風の噂で聞いていた。
◇◇◇
「ふーん」
和夫の遺体を一瞥した佳苗は右手の人差し指と親指で自らの顎を挟んだ。
「確かに大輪君。亡くなったんだね。それで、あたしに何を聞きたい訳?」
「その辺に有理夏がいないか?」
「!」
いったん絶句した佳苗だが、一連の経緯を聞いた後は、納得したようだった。
「成程。有理夏と大輪君の死に方が同じで、これは有理夏が大輪君を怨んでやったんじゃないかと」
「そうなんだ」
「ふむ」
佳苗は眼をつぶり、あたりの気配をうかがった。そして、言った。
「有理夏はここにいないよ。あんたたち、有理夏のせいにしてんじゃないよ」
「!」
「今日はころあいも良く満月ね。あたしの能力も増幅されるから、佐貫君にも見えるかも」
佳苗はカーテンを開け、月の光を部屋に入れると、部屋を消灯した。
「佐貫君。眼を閉じて。あたしが佐貫君の手を握った後、『もういいよ』って言ったら、眼を開けて、大輪君のお腹を見て」
四郎は佳苗に言われたとおりにし、「もういいよ」の声を聞いて、眼を開いた。
「!」
四郎は見た。和夫の腹部にいくつものこぶし大の紫の丸があるのを。
「江黒。これはいったい?」
「大輪君自身が大輪君を傷つけたんだよ。精神的にね。その結果がこれって訳」
「なんてこった。精神科医の俺は有理夏に加えて、和夫も救えなかったのか」
「佐貫君」
佳苗は静かに言った。
「有理夏はここにいない。大輪君もここにいない。後は貴方しかここにいないんだよ。その意味をよく考えて」
その言葉が四郎に届いたかどうかは分からない。
◇◇◇
「佐貫先生。これはどういうことかね」
あわてる院長の目のまえには、四郎の「辞職願」が置かれていた。
「こんなことされちゃ困るよ。親友の大輪先生が急死してショックなのは分かる。でも、ここで君に出て行かれては、大輪先生と並ぶ当病院のホープに抜けられることになる。私の立場も考えてくれ」
「申し訳ありません。全て私の自分勝手なわがままです」
四郎は頭を下げた。
「だけど、どうしてもこのまま精神科医を続けていくことは出来ないんです。わがままをお許し下さい」
四郎はその場を去った。
◇◇◇
関東の内陸都市は今日もぬめりつくような暑さだった。
四郎は静かにA大学附属病院を立ち去らんとしていた。
そんな四郎に一人の女が声をかけた。
「佐貫君」
「あっああ。江黒か。昨晩は手間かけたね」
「やっぱり、あたしの言ったこと聞いてくれなかったんだね」
「分かるか? もう、立っているのもぎりぎりなんだ」
「見えるもの。佐貫君のお腹の上のたくさんの紫の丸が」
「そうか。出来たら最後は病院に迷惑かけたくなかったが、後、どのくらい歩けるか、自分でも分からん」
「そう。あたしは有理夏と違って優しくないから、この場を立ち去らせてもらうね。急死した精神科医のすぐそばに黒ずくめの霊媒師の女がいたなんてネットで書かれたくないもの」
「そうだな。でも、江黒。最後に一言だけ言わせてくれ」
「何?」
「おまえは優しいよ」
「ふん。ありがとうと言っておくね」
四郎が大学病院を少し離れたところで倒れ、そのまま死ぬのは二十分後のことだった。
立ち会った大学病院の院長は「事件性なし。したがって、司法解剖の必要なし」で強引に押し切った。
そのため、四郎のドロドロに溶けた内臓は誰にも気づかれることはなかった。
◇◇◇
佳苗は強い日差しの中、ゆっくりと最寄りの小さな駅に向かって歩いていった。
佳苗は心の中で小さくつぶやいた。
(有理夏。本当はそこにいるの?)
次の瞬間、ねっとりとした空気を吹き飛ばすような風が吹いた。
(そう。本当はそこにいたのね。貴方はあたしの友人だと思うから、本音で言わせてもらうね。貴方はあたしのほしかったものを何でも持って行っちゃうんだね)
今度は風は吹かなかった。
(ふふ。答えたくないのか、本当はいなかったのか分からないけど。まあいいか)
目的の小さな駅はすぐそこに見えていた。
ちゃんとサイコホラーになっていたでしょうか。感想聞けると嬉しいです。