花束を君に
───花束を君に
哀愁の気配漂わす
薄桃の唇に浮かんだ笑みが
美しいとただ思う
ハンス・ドレイド・セルヴィンには愛しい息子がいた。一人では起きられないくせに夜更かしが大好きで、笑うと頬のえくぼが可愛らしい一人息子だった。ハンスたちには子供が恵まれなかったため、待望の第一子だったのだが、先日流行り病で亡くなってしまった。そしてその後を追うかのように妻もまた、病に伏せて連日ベッドで寝ている。
屋敷から少し離れた所で道が開ける。そこに広がるなだらかな丘陵地を眺めることが最近の彼の日課になりつつある。痛めた右足をかばって杖をつき、黒い外套に身を包み、一日中眺めを望む。何も考えたくない。
風が運んでくる春の匂いや、空を縦横無尽に飛び交う鳥の羽音、朝を告げる鶏。そっと五感を研ぎ澄ませば感じられるそれらも、今の彼にはただの雑音。否、そう捉えるしか彼の心に安らぎはないのだ。少しでも心に隙間が生まれれば、すかさず愛息子の死に様が瞼に甦ってくる。全身に浮かび上がる斑点をかゆいかゆいと泣きわめく姿が何度ハンスの精神をずたずたに切り裂いたことか。ああ、何も考えるな。
ここ一帯には広大な農地が広がり、そのすべてがセルヴィン家の領地だ。初めてこの土地を与えられ、ここへやって来たのが五年前だったか。四季折々の顔を見せる大地が美しくて、妻と二人、これから訪れるであろう未来に希望を抱いたのだ。だがそんな日々が続いたのも数年で流行り病が領内の村で蔓延し、視察に行った際菌を貰い受け、息子に移してしまったのだ。最近になってようやく流行り病も落ち着きを見せているが、村人の被害は甚大だった。約二割の住民が亡くなり、農作物の収穫にも支障が出た。天災が残した爪痕は、深くハンスの心を抉ったのであった。
「お前とまた、茶会がしたいよ………」
ぽつりと呟かれた言葉はハンス自身にも気づかれないまま、丘を滑る春風にさらわれて遠くへ運ばれていった。心地よい風が彼の外套を撫で、ブロンドの髪を煽る。
「旦那様。侍従長がお呼びでございます」
弱々しく丸まったハンスの背中に使用人の少年が声を掛けた。小さくその体が震え、何事もなかったように背筋を正し、踵を返して屋敷への帰路を歩き出した。頬を撫でる風がどことなく冷たい気がした。いつもよりも険しい顔をしたハンスに、少年が気を使って古今東西の報せを伝えようとするが、ハンス耳には全く入らなかった。
不意に、辺りを不思議な静けさが覆いかぶさる。背筋が凍った。ああ、いかん。何を考えようとしているのだ。そのような世迷言、間違っても口にするでない。自らを諭すように口元でそう呟きを繰り返す。そういえば、と先程使用人の少年が口にした話が脳裏をよぎった。ランス国王が開戦を決意、だったか。相手国は隣国のカーミラ共和国であり、国交をせよというランス国王の再三の警告を無視したため、となんて物騒な話だ。だいたい十年前に五年も続いた戦争が終わったばかりだというのに、王は国民をロボットとでもお思いなのか。少年がそう憤っていたことは覚えている。全くその通り、と素直に同意できない立場故に、国家を前にした自分の無力感に苛まれたため、この話題は失敗だったと頭の隅に追いやる。
妙なものだ。息子のことを思い出さないために何も考えないようにしていたのに、いざ考えることがなくなってしまったら、急に疲れが押し寄せてくる。手足が重たく感じてきて、自然と目線が下がる。ふと、衣服のポケットに擦れるものを感じて覗いてみると、使い込まれた白いハンカチが出てきた。金色の刺繍糸で縫い込まれた文字。誰からか貰ったはすだが、それが誰からの貰い物か思い出せない。記憶に霧がかかってもどかしさが募る。思い出そうとすることさえ億劫に思えてしまって止めた。
遠くに屋敷が目に入ると、先程の悪寒が盛り返してきて無意識に冷や汗がつたう。どくどくと早くなる鼓動がハンスを急かして心なしか早歩きになる。すると屋敷からこちらへ駆けてくる侍従長が見えた。
「旦那様!奥方様が!」
ああ、ついにか。
その知らせを聞いた瞬間、ハンスに訪れたのは不愉快なことに、安堵だった。心をきつく縛り上げる糸がするりとほどけていったような感覚。肩の荷が下りたような錯覚。そしてそれを感じている自分が憎くて仕方ない。
だが、そんな心中とは裏腹に体が反射的に駆け出す。屋敷に一直線に向かい、庭を横切って重い樫の木を押し開く。綺麗に敷かれた絨毯に汚れた足跡が付くのもお構いなしだ。そしてもうそれを咎める人もいなくなる。いつもより長く感じる階段を上りきって、妻の寝室に駆け込んだ。
寝台に横になる妻の姿に、くまの濃い瞳にわずかに残っていた希望が掻き消えた。痩せこけた手足がやつれて青白い。目元の皺が濃くて、一気に老けたように見える。昨晩は高熱で息も粗く、汗もたくさんかいていたのだが、目の前の妻には生気が感じられない。ゆっくりと長い、途切れ途切れの呼吸がハンスの心拍を上昇させていく。
扉が軋む音に、寝台を囲んでいた使用人たちが一斉にこちらを振り向いた。ハンスの顔を見るとまだ泣き跡の残る顔で部屋から退室していった。ハンスは誰もいなくなった部屋で呆然と立ちすくんでいた。今にも手をとりたいのに、そうさせてくれない自分がいる。認めるな、と足を止めさせるそれを無理矢理振り切って、恐る恐る歩み寄った。椅子を引き、妻の顔を覗きこむ。その寝顔は疲れきって死人のようだけれども、初めて会ったときと何一つ変わらない、この世で一番美しい伴侶だ。その冷たい手をとる。
耳元で妻の名を呼ぶ。
返事が無いのは分かっていたことだが、実際に返ってこないとなるとやはり苦しい。そっと妻の手を自分の頬にあてがう。ハンスの手よりも一回り小振りで、容易く包み込める手を、確かめるように握りしめた。小さな手だね、なんて呟いたら、小さく握り返してきたのだから驚いた。
「小さいでしょう?」
ゆっくりと瞼を押し上げて綺麗な瞳が覗く。その瞬間、鼓動が大きくなって、全身の血が自らの役目を思い出したかのように勢いよく流れ出す。そして気づく。
私はここにいる女性に恋をしているのだと。
「もう………分かるわ。きっと私はすぐに死んでしまうわね。そんな顔をしないで頂戴」
瀕死の人間とは思えない強い声。だがそれは最後の力を振り絞ったものだとすぐに分かる。そんな妻の姿に何かがこらえられなくなって頭を撫でた。笑う妻の瞳に玉のように浮かんだ涙。ぬぐおうとして、やめた。
「覚えているかしら。初めて会ったのは舞踏会だったわね。あなたは踊りが下手で、何度も私の足を踏んだのよ。その度にぺこぺこ謝って。おかしな人だな、って思ったのだけれど………気がついたら好きになっていたわ」
思い出してくすりと笑う。それに覚えているよ、と返す。そしたら嬉しそうに笑うからまた胸が苦しくなる。
「あなたがくださったプレゼント、いつも変わらず花束なの。はじめはまたなの、って思っていたのに次第に楽しみになってきたのだから、笑っちゃうわね。どれだけあなたが好きなのかしら」
楽しそうに目を細める妻。だがその瞳は既にここを見ていない。焦点の合わなくなっていく瞳がハンスを探すように左右に揺れる。そしてハンスの手を握り返す力がゆっくりと抜けていく。
「初めてここに来たとき、凄くわくわくしてたわ。これからどんな素敵なことがあるのかしら、って夜も眠れないくらい。………えぇ、とっても楽しかったわ。人生で一番よ。ありがとう」
声が震えていたのは、もう限界だからだろうか。それとも泣いていたからだろうか。どちらにせよ、ハンスの頬を涙がつたっていた。赤みの抜けた頬に手を添えて、優しく何度も何度も撫でる。そしてそっと語りかけた。
「私は話すのが苦手だから、お前にそう何度も自分の気持ちを伝えられなかったが、庭の手入れや紅茶をいれるのを、いつも楽しそうにしているお前を見ると、お前の大切なものを私も大切にしようと思えたんだ。建国祭やクリスマスは質素に。だけど誕生日は豪華に祝うお前の性格は分かりやすくて、出会ったときから何も変わってないのがとても愛しかった。出会った頃に、午後三時のお茶会に遅れてきたお前は、本当は寝坊したくせに、馬車を引く馬の機嫌が悪かったと誤魔化したよな。お気に入りの帽子を寝癖を隠すために深く被っていたけど、お前のその金の髪のはねは隠しきれてなかったよ。それがお前の移り変わるような表情みたいにくるくるとしていて、私は吹き出してしまったなぁ」
そう言うと、妻は拗ねたように頬を膨らませた。
「滅多に笑わないあなたがあれほど笑ったのはあの時だけよ。そういうことだったのね」
「ああ」
視線が絡まる。どちらとなく沈黙が訪れた。
こつんとハンスは額と額を合わせた。今にもちぎれてしまいそうな弱々しい声が彼の口から溢れ出す。
「神様は自分の妻を救うために黄泉まで追いかけたのに、私はお前を笑顔にするプレゼントを花束しか思い付かない。今だってそうだ。私は死にゆくお前に何ができる?」
呆れたような、そんな笑い声が返ってきた。見つめると、熱を帯びた視線が返される。
「もしも明日世界が終わるとしたら、私はあなたとまたお茶会を開くわ。二人きりの庭で私の夢の話を聞かせてあげる。私はたとえ最後の日でも、そうやってあなたと変わらない日々を過ごしていたいのよ」
その答えに軽く目を見開いて、それからハンスは笑ってみせる。どこか憑き物がとれたような表情になった彼に、妻は笑った。二人の顔が近づいて、唇と唇が軽く触れ合う。
口づけは刹那。お互いの体温を感じるのには充分だから。
顔を離すと、今度はハンスが口を開く番だ。柔らかい笑みを浮かべて、
「ならそのお茶会で、用意していた牛乳も底をつくくらい、お前の好きなスコーンを食べよう。私の好きなマカロンはお前が作ってくれ。お前が作るのは世界一だからな。そして夜は私たちが出会った舞踏会の話をしよう。もう何回もしたけれど、私のダンスは滑稽なんだろ?最後の夜を笑って過ごせるなら、それがいいじゃないか」
静かに頷いて妻が続ける。
「えぇ。そして最後は二人同じベッドで向かい合って眠りましょう。朝起きたら一番に、世界一愛しい顔を見れるのよ。そんな朝は来ないけれど、ちょっぴり期待して眠れるでしょう?」
そうだな、とハンスが返した。
もう彼にも分かっている。これが最後のくだらない話だと。日に日に細くなっていく腕を、だんだんとなくなっていく食欲を、眠り続ける妻を一番近くで見てきたのだから、その最後くらいは察せられる。大概なかっこつけのハンスはそういった感情を表には出さないが、内心とても悔しいのだ。愛する者を奪われる痛みを押し込めて、横になる妻に笑いかけた。
にっこりと笑い返されたのを合図に、ずるりと握りしめる手から力が抜けて、滑り落ちる。妻は心臓を押さえて、肩で荒い呼吸をしていた。慌てて手を握りとめると、その拍子にハンスの胸ポケットから白いハンカチが毛布の上に落ちた。妻の視線がハンカチに留まり、淀みかけていた瞳が大きく見開かれ、光が差す。次々に堪えきれないかのように涙が溢れ出して、たどたどしく言葉を紡いだ。
「あ………それ………その、ハンカチ───」
ずっと霧がかっていたハンスの記憶が晴れ、パズルのピースがはまる。
思い出した。そのハンカチの送り主と、約束を。
白いハンカチ。隅に刺繍されたその言葉。金色の刺繍糸が陽光を浴びて煌めいた。
「With You Forever」
夜露が地面に静かに落ちるように、口をついて出たのは大切な約束。両目からとめどなく溢れてくる涙をぬぐおうとしない妻の姿に、愛しさでいっぱいになる。窓から差し込む真っ白な光に、部屋中が包まれる。その真ん中で泣きながら笑う姿は、今までで一番美しかった。両手で妻の頬を包み込み、額を合わせる。ゆっくりと唇を再び重ね合う。
「ずっとお前と一緒だ」
初めてのお前からのプレゼント。私はいつもと変わらない花束。釣り合わないね。私がそう言うと、君は笑って素敵よ、って言った。
そんなお前の笑顔を守ると誓ったあの日。二人で交わした遠い日の約束───
With You Forever ずっとあなたと一緒
朝、私は空を見ていた。雲ひとつない空だった。真っ白な太陽の光が地上に降りてきて、静かにお前を連れていった。穏やかな春の日のことだった。
───花束を君に
静謐な気配漂わす
うつむき気味な碧眼が
懐かしいとただ思う
───約束を君に
真っ白な二人の断ち切れぬ誓いを
きっと来世でも───