5.その一歩を思い切って
遠征の準備が着々と進むかたわら、軍団長は机に向かって黙考していた。下書き用の蝋板に鉄筆を走らせ、へらで消し、また何行か刻んで。
眉間にしわを寄せて考えながら試行錯誤しているもので、いつにもまして近寄り難い。窓の近くに飛来した鳥まで、恐怖に打たれて落ちそうだ。
下っ端兵士はもちろん、慣れている直属の腹心までもが遠慮して、執務室の前を忍び足でそそくさと通り過ぎてゆく。
そんなありさまのところへやって来たミハルは、天の助けとばかり歓迎され、山のような伝言と書類を抱えて入室するはめになった。
「ぅおーい、入るぞヴィレム」
はっ、とヴィレムが顔を上げ、目を丸くするなり急いで席を立ち、助けに駆け寄る。
器用に積み上げられた箱や書類を崩さないように一部受け取り、前が見えにくいミハルを誘導して、残りを机に運ばせた。
どうにか無事に全部下ろすと、やれやれ、とミハルは息をついた。
「忘れないうちに言うぞ。これが宿駅ごとの補給計画の修正したやつ、これが採掘場の詳細見取り図でこっちの箱は要注意の火焔石サンプル、現場で見かけたら近辺に純度の高い結晶ができている可能性が高いから当然はぐれ魔術師の狙い目だし、誘爆の恐れがあるから火や雷系の魔術を使わせるなってお達しだ。そんで馬丁頭から伝言で今回はモハラとマイニスは出せないから……」
次々と流れるように繰り出される言葉にも、ヴィレムはひとつひとつ相槌を打ちながら難なくついていく。
すべての伝言が終わると、ヴィレムは部下を呼び入れ、てきぱきと指示を出した。持ち込まれた案件が瞬く間に片付き、消えてなくなる。
いつもながら惚れ惚れするほど見事な手腕だが、当の軍団長は冴えない顔のままである。どうしたよ、と詩人が首を傾げると、ヴィレムは珍しく少し怯えたような様子で、静かに執務室のドアを閉めた。
これはただ事でない。ミハルはすっと真顔になった。
「何があった?」
いつもの詩人の軽妙洒脱な雰囲気が跡形もなく拭い去られ、幼い頃、共に生き延びるのに必死だった同志の鋭さが顔を出す。だが、それもつかの間のこと。
「……添削、して欲しい」
「――は?」
「手紙を」
「…………」
恐る恐るといったふうにヴィレムが一枚の便箋を机上に広げる。ミハルは灰色の目をぐるりと天に向け、大仰にお手上げの仕草をした。
「おまえね……。いや、そりゃ代筆しようかとは言ったよ、言ったさ! でもそれは、軽く反応を試すなら、って話でな? 本気の手紙に俺が手ェ加えちゃ駄目だろ!」
「……」
「そんな顔すんな! あのな、確かに今の俺はおまえよりずっとたくさんの語彙や表現や、美しい決まり文句なんかを知ってる。けど、おまえが渡したいのはおまえの気持ちであって、上手につくった詩歌じゃないだろ? 俺が添削したら絶対にバレるよ。言い回しは巧みになるだろうさ、だけどお嬢様にはそれが詩人の言葉だってことがわかる。おまえが俺の力を借りたこと、自分の気持ちを伝えるのに他人の小手先の技術を頼ったってことがな」
「…………」
「つーか実際問題、要らねーだろ俺の添削とか! 十年以上前の、ぎりぎりなんとか読み書きできるってレベルの頃にあんだけ書けた奴が、今さら何の御用ですかってんだむしろ俺が代筆頼みたいわ! 絶対見ない、見てやるもんか嫉妬で燃え尽きるからな!」
最後はまた八つ当たりになり、真っ赤になって憤慨した詩人は足取りも荒々しく部屋を出て行ってしまう。幼なじみに突き放されたヴィレムは悄然としていたが、やがてひとつ深呼吸すると、厳しい決意の表情になった。
詩人が叩きつけたせいで開けっ放しだったドアの陰から、怖々様子を窺った通りすがりの兵士にとっては、災難なことだったが。
そんなわけで後刻。
「あの、ユスティナ様。軍団長がお見えですが、いかがしましょう」
「えっ? 珍しいわね、何か遠征のことかしら」
複雑な表情の侍女が取り次ぎ、ユスティナも不審顔になった。用事もないのに、予め伺いを立てることもなくいきなり部屋を訪ねてくるなど、彼らしくない。
「用件はおっしゃいませんでした。ただお会いしたいと。あの、差し出口ではございますが……いつもの数倍、威圧感というか緊張感がすごいので、どなたか殿方の立ち会いを求められたほうがよろしいのではないでしょうか」
「まさか」
思わずユスティナは失笑した。あるじがヴィレムを恐れないので、侍女も他の者よりは公平な目で彼を見ているはずだろうに。
きっと何か重大な用件なのだろう。そう推測し、通すよう命じたユスティナだったが、入室したヴィレムを目にした瞬間、侍女が正しかったかもしれないと考えを改めた。
もちろんそれは、彼を恐れたがゆえではない。自分の手に負えない案件が持ち込まれたのではないか、と危惧したのだ。
(こんな様子は初めてだわ。いつも厳しい顔つきではあるけれど、決してこんなに……ピリピリしていなかった)
ゴクリと固唾を飲んで身構える。いったい何を言いにきたのだろう。
彼女の緊張を見て取ったか、ヴィレムはわずかに気配を緩め、申し訳なさそうに目を伏せた。が、立ち尽くしたきり口を開く気配がない。
壁際に控えている侍女も不安に落ち着かず、何度もちらちらとドアに視線をやるばかり。
「……どうしたのですか、軍団長。わたくしに伝えるべきことがあるのでしょう」
痺れを切らせてユスティナが促すと、ようやくヴィレムは一歩進み出た。
「出発前に、これをお渡ししておきたく」
かすれ気味の声でそれだけ告げ、一通の封書を差し出す。
予想外のことにユスティナは戸惑い、何が起きているのかわからないまま受け取った。手紙? 書類? なんなのだろう。告発や直訴の類かしら、と物騒な考えまでが脳裏をよぎる。
令嬢の手に封書がおさまったのを確かめると、ヴィレムは「では」ともう踵を返して退出しようとした。慌ててユスティナは呼び止める。
「待って! すぐに見ますから、そのまま」
「……っ」
大きな背中がぎくりとたじろぎ、「いや、しかし」とかなんとか低い呻きが漏れる。
ユスティナは侍女が素早く用意したペーパーナイフを使って封を切り、せわしなく言った。
「じきに遠征に出てしまうのでしょう。少しお待ちなさい、すぐに読んで返事を……、え?」
言いながらもう中身を広げて一行目に視線を走らせ、思ったのとまったく違う文言を見てあっけに取られた。
『私は十年来、ある小鳥を見守り続けて参りました。』
様式も定型文も無視した、いきなりの書き出し。これはどう考えても、告発だの直訴要望だのといった殺伐案件ではない。ユスティナは驚きつつも、その文言にこめられた真情を感じ取ってどきりとした。
『その鳥は小さく、決して目立つ存在ではありません。
彩り鮮やかで華やかな羽も、遠くまで響く声もない。
ですが私は知っています。
満月の光のごとき羽の美しさを、
か弱く見える翼がいかに力強くはばたくかを。
時をわきまえてさえずる優しい歌声が、
いかに聞く者の心に響くかを。』
読み進めるにつれてユスティナの白い頬が上気し、ほんのりと薔薇色に、さらには夕陽の朱に染まっていく。相変わらずヴィレムは背を向けたままだ。
侍女がきょろきょろ二人を見比べているうちに、とうとうユスティナは恥ずかしさのあまり便箋で顔を隠してしまった。
「あの、お嬢様?」
「……お願い、あっちの部屋に行って」
消え入りそうな声でユスティナは言い、続き部屋を指さす。侍女は目を丸くし、素っ頓狂な声を上げた。
「まあ、まあぁ! そういうことでしたら尚さら、ここを離れるわけには参りませんわ!」
「だったら壁を向いて耳を塞いでいて! ……本当に、一生のお願い」
顔を上げられないまま懇願するユスティナは、既に耳まで真っ赤である。当然ヴィレムも、短く刈り上げた襟足に続く首筋がほやほやに茹だっている。
侍女は呆れて主人を見つめ、それから大きなため息をついた。
「そうまでおっしゃるのでしたら、致し方ございませんね。畏まりました、あちらに控えております。ですがお嬢様、必ず後で、何があったか伯爵様にお話しくださいましね。でなければわたくしが、ご注進に上がりますよ」
「……」
こくこく、とユスティナは無言でうなずく。侍女はやれやれと天を仰ぎ、じろりと軍団長の背中を一睨みしてから、芝居がかった動作で隣室に引っ込んだ。
第三者の気配が遠ざかってから一呼吸、二呼吸。
ユスティナはどうにか心を落ち着かせ、改めて手紙を最後まで読んだ。
綺羅星のごとく並ぶ美しい言葉は、これまで彼女が一度としてかけられたことのないものだった。むろん伯爵家の長女として賛辞を受けることは珍しくないが、すべて、誰にでも使える、当たり障りのないものでしかなかった。
お美しい、お優しい、聡明でいらっしゃる……それらが嘘やおべっかだったとは思わない。少なくとも館で接する人々はおおむね実直だ。
だが、これほどまでに彼女自身を見つめてくれる言葉があっただろうか。
華やかな妹が振りまく明るいきらめきの陰で、いつも霞みがちだった姉。しっかり者と褒められはしても、惜しみなく無償の愛を注がれることはなかった。
(わたくしだけを見て、愛してくれる人はいなかった。……いないと思っていた。でも)
『貴く可憐な小鳥を、この不器用な手で
どうして捕まえられましょうか。
私はただ、何者もかの鳥を脅かさぬよう守り、
遠くから姿を見ていられるだけで幸福なのです。』
確かに一人はいたのだ。十年前からずっと。
『ですがひとつ、願わくば。
愛しい小鳥の名を呼ぶことを、どうかお許しください。』
結びの一文に撃沈され、ユスティナは再び便箋で顔を覆う。
紙の音にヴィレムがびくりとする。だが、待てと命じられた後で、下がってよしとまだ言われていないので、進むも退くもならず、身じろぎしただけだった。
長い沈黙の末に、ようやく細い声が便箋の陰からこぼれ出た。
「……んで」
あまりに小さな声で聞き取れず、ヴィレムは恐る恐る肩越しに振り返る。お嬢様が便箋の陰に隠れているのを見て、彼は目をぱちくりさせ、戸惑いながら向き直った。
「呼んで、ください。名を」
声は震え、ほとんど泣き出しそうだった。ヴィレムは気遣いの表情になり、思わずのように歩み寄る。三歩で我に返り、四歩目を踏み出していた足を引き戻して姿勢を正した。
大事な小鳥が飛んで逃げる様子はない。
彼はほっと安堵に目元を緩め、深々と頭を下げた。
「はい。――ユスティナ様」