1.白獅子軍団長の純情
朝靄が立ちこめる庭園を、カシャン、カシャン、と金属の擦れる控えめな音が規則的に移動していく。
北方辺境伯であるヴィマザル家の館をぐるりと一周してきたそれは、最後に正面玄関まで来て止まった。
靄の中からぬっと現れた巨躯の鎧姿に、玄関脇に立っていた衛兵が顔をひきつらせて敬礼する。
「異状ありません、軍団長」
「こちらも異状なしだ」
低い声で端的に応じ、ヴィレムは大扉の横にある通用口をくぐった。背後で衛兵がほっと小さく息をついたが、聞こえないふりでそのまま足を進める。
いつものことだが、ヴィレムは内心ちょっとだけへこんだ。直属の部下なら、この軍団長は大柄で強面で目つきが鋭くて怖いわりに、めったに怒らないし無闇に厳しくもないと承知してくれているが、末端の兵は認識が違う。
さっきのようなやりとりを除けば会話する機会もないから、人柄を知ってもらうこともできない。と言ってこちらから気さくに声をかけるというのも、何を話せば良いのかさっぱりだ。いいお天気ですね? まさか。
せめてもっと親しみやすい容貌だったら良かったのだが、とにかくまず体格がごつすぎるし、髪を短くしているため、額の古い傷痕がまともに見えてしまう。
(あいつが羨ましい……)
幼なじみの詩人を思い浮かべ、こっそりため息をつく。姿も話しぶりも人懐っこくて、いつも皆の人気者だ。あんな風に誰とでも気安くおしゃべりができたなら……
と、そこまで考えたところで、廊下の先から人影が現れた。
「あ……おはようございます」
優雅な微笑とともに軽く会釈したのは、侍女に付き添われた伯爵令嬢ユスティナだった。これから朝食の席に向かうのだろう。
ヴィレムはさっと姿勢を正して畏まった一礼を返し、無言で廊下の端に避けて進路を譲る。
ユスティナはいつものように、少し困ったような、何か言いたそうなぎこちなさを口元に浮かべて、しずしずと彼の前を通り過ぎていった。
頭を下げたまま、心だけで淑やかな足音の後をついていく。やがてそれが聞こえなくなると、ヴィレムは寂しさと満足の半ばする顔を上げた。
(今日もお嬢様にお声をかけていただけた)
気の利いた返事はできなかったが、不快にさせた様子はなかった。ちょっと微笑んでくれさえした。最初は後ずさりされたことを思えば、大進歩だ。
初めてヴィレムがユスティナを目にしたのは十年前、十三歳で見習いとして軍団に入った時だった。
子供の頃から体格と筋力に優れ、何かと怖がられたり頼られたりしていたから、それを活かして食べていこうと思ったのだ。生まれ育ったのは貧しい土地柄だったので、いずれにしてもまともな仕事に就こうと思ったら、領主館のある都市ベツェレンまで出るしかなかった。
洗練された美しさや華やかさ、優美なものを目にしたことがなかったヴィレム少年にとって、館や庭園、領主一家の姿は衝撃だった。
中でも、当時九歳だったお嬢様の愛らしさときたら、これまで彼が持っていた『女の子』の概念をひっくり返して粉砕する威力があった。
(天使だ……)
絶対にあれは同じ人間じゃない。魂を抜かれそうになりながら確信した。全身が白薔薇の花弁でつくられているような、ふわふわ柔らかくてかぐわしい存在。
その時は他の大勢と一緒に並んで遠くから眺めただけで、むろん直接お言葉を賜ることもなかったが、指導役の隊長が教えてくれた。
一人前の兵士になり実績と信頼を積めば、外回りから館の近く、そして内部へ、最後は領主ご一家の身辺警護にまで就くことができるのだ、と。
そうすれば服や鎧も立派なものを作ってもらえるし、食事も豪勢になるし、個室ももらえる……隊長は夢のような話を続けて新入りたちを励ましたが、ヴィレムはただ、あの可憐なお嬢様に一歩でも近付きたいという望みの虜になっていた。
十三歳の少年が九歳の少女に抱いた純然たる憧れは、数年かけて思春期の目覚めを経た後も、実に清らかなものだった。
現実の女というより、うっかり地上に生まれてしまった天使に対する崇敬。邪悪や穢れいっさいを寄せ付けないよう護り、賛美すべき存在。
……そんなわけだから、二十歳もとっくに越えた一人前の男でありながら、ヴィレムはお嬢様の微笑ひとつで満足なのであった。
今朝も今朝とて心は春のお花畑よろしく暖かくふわふわしながら、しかし顔にはそんな気配の片鱗すらもあらわさず、のしのしと食堂へ入る。
もちろん領主一家とは別の食堂だ。軍団長とは言っても、特別な日でない限り食事を共にすることはない。個室に運ばせても良いのだが、彼は広々した食堂のほうが好きだった。
「おー、ヴィレム。おはよーさん」
幼なじみの詩人が、いつもの席から間延びした挨拶をくれる。彼に会えるというのも、ここに来る理由のひとつだ。
片手をちょっと挙げてそれに答え、ひとまず食事を取りに行く。これまたいつもと同じ、大鍋いっぱいに作られた煮込みとパン。
配膳係が目を合わせないようにして鉢を差し出すのも、やはり毎回のことだ。
熱々の煮込みがたっぷり入った鉢に、大きな平パンを二枚、蓋のように載せて運ぶ。パンは保存用に乾燥させてあるものだから、スープやポトフなどの汁気に浸さないと食べづらい。
近くで良質の火焔石が採れるので燃料不足の心配はないのだが、何しろパン焼きは大仕事なので、まとめて焼いて乾燥保存するのが普通だ。
「相変わらずだなぁ。今朝は焼きたてパンが手に入るのに」
幼なじみに苦笑されたが、ヴィレムは黙ってわずかに肩を竦めただけで、食事を始めた。
領主一家のパンだけは頻繁に焼かれるので、軍団長も望むなら、ほかほか柔らかいパンを食べられるのだ。
しかしヴィレムはそんなところで特権を使い、「一人だけいいもん食いやがって」という恨みを買いたくないので、見習い時代から変わらず皆と同じものを食べていた。量だけは三倍に増えたが。
「ま、昔っから部下に慕われる司令官ってのは、一兵卒と同じメシを食うもんだってのが定番だけどな。戦地じゃあるまいし、平和な時に多少の贅沢するぐらいかまわないだろうと、俺は思うけどなー」
「…………」
「いかなる淑女の香水も焼きたてパンほどの幸せを与えてはくれない、って言うだろ。職人が腕をふるって焼いたのを冷めるに任せるなんて、もったいない」
「…………」
「ああ、まぁな。おまえが食うよりは、そりゃ、おいしいおいしいって褒めてくれるお嬢様とかお館様が召し上がるほうが、職人的にはうれしいだろうけどさ。どっちにしろ余るんだし」
ちなみにここまでの流れで、ヴィレムは一言も発していない。ごくわずか顎を引いたり、眉をちょっと寄せたり、その程度の反応だ。
そんな微かな意思表示を間違いなく読み取って勝手にどんどん話をつなげていくのだから、この才能には恐れ入る。軍団長の性格を把握している部下でも、ここまでは無理だ。
気楽にぺらぺらしゃべっていたミハルが、周囲の様子をさりげなく観察してから、身を屈めてひそっとささやいた。
「で、今朝はどうだった」
「…………」
「そうか」
こくりと小さくうなずいただけのヴィレムに、詩人は面白そうな、それでいて思いやりのこもった笑みを見せた。
二人の間だけで通じるやりとりは、ユスティナお嬢様に関することだ。
今朝も会えたか、挨拶ぐらいできたか、今朝もお美しかったか、といった質問と、それに対する肯定。
藍色の目を少し緩めた強面軍団長に、ミハルは「なぁ」と辛抱強く勧める。
「本当にもうそろそろ、何とか働きかけてもいいんじゃないのか? せっかく軍団長にまでなったってのに。対面したら挨拶返すだけで精一杯だってんなら、手紙を書けよ」
「駄目だ」
それだけは、とばかりに即答し、ヴィレムは煮込みの蕪を匙で崩す。ミハルはへしゃげた蕪に同情的なまなざしをくれて、ため息をついた。
「なんなら俺が代筆して、お嬢様の反応を確かめてやろうか? 実際よく頼まれるんだよ、そんで何組くっつけてやったかねぇ。確かな実績と信頼、お抱え詩人ミハル君があなたの真心を形にいたしますよー」
「…………」
「……まぁごり押しするこっちゃないけどさ。あんまりぐずぐずしてたら、お嬢様の婿取りが決まっちまうぞ? まさか、それでも一生見守れたら満足だとか言うなよ」
「なぜ?」
ただ忠実な兵士の一人として、安全を守り一生を見届けられたら、それはそれで至福ではないか。
大真面目にそう考えて問い返したヴィレムに、ミハルはお手上げの仕草をしたのだった。