星の海
夏休みになった。
夏休み中の美術部の活動曜日は月・火・金。私たちが集まるのはその曜日だけで、基本的には他の曜日は各々がそれぞれ過ごした。私は主に一人の時間は夏休みの宿題をしていた。
日が暮れてから私はよく散歩にいっていた。日中に温められたコンクリートが、余熱を帯びている。私は夜のほうが好きだった。人も少なくて静かで落ち着いた世界。蝉の声ももうしない。代わりに鈴虫の声がリーリーと響いている。
コンクリートに塗られた白線の上をバランスをとりながらフラフラと歩く。落ちたら死亡。でも、途切れてしまった。特別ルールを執行する。五秒間だけなら無敵。これでまた命をつなぎ止める。
「よっ、ほっ、はっ」
と言いながら信号のない横断歩道を飛び石する。最後の白線に元気よく着地。
……した前に人の足が見えた。
「……なにやってんの? こんな誰もいないところで……」
「へっ!? あっ、こ、これはですねっ」
声が裏返る。目の前にいたのはよりにもよって数少ない友達。私のたった二人だけの友達の一人、フミくんだった。
「……いつもそんなことしてんの? 一人で? こんな時間に?」
「ふぇっ!? そん、な、わ、けないじゃ、ないですか!」
嘘です。そんなわけあります。
「あれ……? それなに持ってるんですか?」
フミくんは普段見ないような長い手荷物と大きなリュックを背負っていた。
「ああこれ? ……内緒」
「あ……、そうです……よね……。ごめんなさい。立ち入ったことを」
「わぁ! ウソウソ。冗談だよ。そんな泣きそうな顔しないでくれよ。これは望遠鏡だよ」
「星を見に行くんですか?」
「うん、もうちょっと歩いたところになにもないところがあってさ、そこが星を見るのには最適なんだよ。最近見つけた場所でさ」
「いいですね。私はそういうことしたことがないです」
フミくんは一瞬考えて、私に言った。
「よかったら、一緒にくる?」
***
住宅地を抜けて、大きな畑の横を通る。道を外れて段々と雑草が生い茂る獣道を抜ける。気付けば森の中に入っていた。スマホで足元を照らす。フミくんは私が転ばないように手を繋いでくれていた。
「フミくんはこういう真っ暗なところ怖くないんですか?」
「んー、暗いだけなら平気かな。夜の墓参りとかは苦手だけどな」
男の子と手を繋いだのは初めてだった。意識をしてしまうと急に顔が熱くなった。真っ暗でよかった。顔が見えなくてよかった。たぶん、今の私は耳の先っぽまで真っ赤に火照っていると思う。心臓の音が聞こえてしまいそうだった。
ドキドキドキドキ。
手に汗が滲んでないかな。私の手、気持ち悪くないかな。フミくんの手は意外と大きいな。こうやってちゃんと触れたことは初めてだったな。
暗闇の中で、離れないように強く握ってくれた。私もこっそりと握り返した。この時間がずっと続いてほしいと思った。
私は人が怖い。大人も同世代も。自分より年下はちょっとマシ。でもやっぱり怖い。その中でも一番怖いのが同世代の男子。いつも品定めをされているような気持ちになる。
たぶん、そんなことは自意識過剰なのだと分かっているけれど、やっぱり怖かった。自分のことがつまらない人間だって思われることが怖かった。実際つまらない人間なのは間違いないのだけど、それを改めて評価されると死にたくなる。
でも、楓ちゃんとフミくんだけは大丈夫だった。この二人だけは一緒にいてほしいと願った。この二人が私の小さな世界の全てだった。
その中の男の子。私が唯一笑って話せる男の子。頼りないのに優しい。運動も出来ないのに、喧嘩もきっと強くないのに、心は強くあろうとしている。そんな男の子。
森を抜けると、なにもない草原が目の前に広がった。サァァァ、と風が草を擦り合わせる。
「こっち」
その言葉と共に私の手はひかれていく。少し歩いたところに建物が見えた。人の住んでいる気配がない。壁はツタが生い茂り、妖艶な雰囲気を醸し出している。
「足元気をつけて」
原型が分からないゴミを避けながら歩き、私たちは階段を登る。二階をスルーしてそのままもう一階上に上がる。屋上に出た。
「……わぁ!」
「なっ? 綺麗だろ?」
満天の星空が私たちの上に広がった。星が近い。フミくんが荷物を降ろし、望遠鏡を組み立てていく。私にはよく分からなかったので、隣でその様子を見ていた。
「はい、どうぞ。ご覧下さいませ。お嬢様」
「なんですかそれ……」
フミくんの意味の分からないノリに付き合わされる。教えてもらったとおりに手前のレンズを覗いた。茶色の大きさ惑星。写真でしか見たことのない。木星だ。私はその美しさに言葉を失ってしまう。
「すごいだろ?」
「……はい」
「その星は僕らと同じ世界に存在しているんだよ。そんな星が、この頭の上で光っているだけ存在しているんだ」
「……はい」
「たったそれだけで、僕は自分がちっぽけな存在に思えるし、同時にこの世界の壮大さに腰を抜かしそうになるよ。毎日ずっと、この世界の上に存在していたのに僕はそのことにも気付いていなかったんだ。そう考えるとさ、この世界ってなんでも起こりそうじゃないか? それこそありえない奇跡だって、なにが起きたって不思議じゃない気がするんだよ」
ハッ、とフミくんは自分が熱弁していることに気付いて口をつぐんだ。少し照れくさそうにしたあと私の顔を見て笑ってくれた。私もそれに応えるように微笑む。
「悪い……。こんなこと人に話したことなくてさ、つい興奮した」
「え? 楓ちゃんにも言ってないんですか?」
「言ってないよ。ていうか僕が天体観測をしていることもアイツは知らないよ。だってそんなこと言ったらアイツも絶対来たがるじゃん。でも、女の子を夜に連れ回すのはちょっとな」
「……私も一応女の子なんです」
確かに楓ちゃんと比べたら霞んでしまうのは否めないけれどさ。
「あー……、留花ちゃんにはなんか見せてあげたかったんだ」
「え……?」
私の胸は音をたてて跳ねた。せっかく落ち着いていたのにまた心臓は自己主張を始める。
「星を見たら、笑ってくれるかなって思ったんだ。笑った顔が見たかったんだ。たまに悲しそうな顔を一人でしてるとこ見てたからさ。余計なお世話だったかな。ごめんな」
「……ううん、そんなことないですよ。とっても嬉しいです。私、今とっても幸せですよ。もう悲しくないです」
私のことを思って誘ってくれたなんて。申し訳ない気持ちと一緒に、温かいものが胸いっぱいに広がっていく。冷たい心が満たされていく。
一時間ぐらい見たあと、あまり遅い時間になっても家族が心配するからという理由で帰り支度を始める。
「もしよかったら、また見に来る?」
「え……、いいんですか?」
「いいよ。でも、アイツには内緒な」
「はい……」
そうして私たちは夏休みの間、何度も二人で星空を見に行った。その度にフミくんは目を輝かせながら天体の話をしてくれた。
その一つ一つがどれも楽しくて、私はどんどんフミくんに惹かれていっていることがわかった。楓ちゃんに内緒にしていることは少し後ろめたかったけれど、フミくんの決めたことだから口を出さなかった。
森を抜けるときにいつも繋いでくれる手を愛おしいと感じるようになった。ずっとこんな日が続いてくれたらいいのにと思うようになってしまった。
でも好きになりたくなかった。だって私は、この三人でいるときが好きなのだから。誰かが誰かと付き合ったりしてしまうと、もう一緒にはいられなくなる。それが嫌だった。私は男女の友情を信じていた。というよりも自分にそう言い聞かせていた。
***
「フミくんって好きな人とかいないんですか?」
「あー、あんまそういうのよく分かんないんだよな。好きになった人もいたけど、特になにかをしようとか思ったことはなかったし」
「じゃあ付き合ったこともないんですか?」
「ないよ。でももしも告白されることがあったら一回付き合ってみようかなって思ってるよ。付き合っていくうちに好きになることだってもちろんあるわけだからね。でも、そもそも告白されることなんてまずないから、そんなことを考えるだけ無駄なんだけどさ」
「そうですか。じゃあフミくんが告白されないことを祈ってますね。彼女が出来てしまったら二人で星を見に行くことは出来なくなりますし」
「ふはっ、なんだよそれ。祈られたりなんかした元々出来ないのがもっと出来なくなるじゃんか」
「冗談ですよ。そんなことしなくてもフミくんみたいな運動オンチな人はモテませんからね。私も安心です。祈るまでもないですよ」
「……だんだん僕の扱いが酷くなってないか」
「そうですかね。これでも丁寧に接していますけどね」
クスクスと笑いが溢れる。フミくんは優しいから、私が気を使わなくても自然体で接してくれる。私もつい、それに甘えてしまう。そんな関係がここちよかった。
なにより、嬉しかった。自分にもこんな風に心を開けることが出来る男の子がいてくれることが。
私にはこの世界にたった二人だけ、心で話せる人がいる。
一人はフミくん。運動オンチで根暗で頼りない男の子。好きなことには一生懸命で、その話をし始めたら興奮して我を忘れたりもする。そういうときはちょっとキモかったりする。ダメなところが目立つ人。でも、それを帳消しにしてしまうほど優しい人。
もう一人は楓ちゃん。美人で頭脳明晰、運動神経抜群。言いたいことはハッキリという。みんなから人気があって人気者。でも、寂しがり屋で甘えん坊だったりする。そんなことをみんなは知らないけれど。強くて優しい人。同い年だけど私の憧れの人。
その二人と一緒にいられる時間が愛おしかった。私の宝物だった。
しかしこんな幸せはいつまでも続くものではなかった。私は幸せになったことがなかったので知らなかったのだ。幸せにも終わりがあるということを。
「留花ちゃんに報告があるの。あのね、アタシたち付き合うことになったんだ」