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練習曲 作品10-3 ホ長調

「紹介するね! コイツが私の幼馴染の平井文宏。同じ学校の一年生だよ」

「は……初めまして」 

 初めて同学年の男の子と話した。男の人と話すなんてお父さんくらいしかなかったから、どう会話をしていいのか全く分からなかった。

「アタシはフミくんって呼んでるから、留花ちゃんもそう呼んでいいよ」

「は……、え、い、いいんですか……」

「別にいいけど」



 もしかしたらフミくんも恥ずかしかったのかもしれない。私とは目線を合わせずに、ぶっきらぼうに許可をくれた。そんな姿が可愛いと思った。それが第一印象だった。

「じゃあアンタも留花ちゃんって呼びな」

「は、はぁ!? なんでだよ」

 驚きのあまり声がひっくり返っていた。顔を真っ赤に染めて抵抗している。楓ちゃんとは本当に仲良しなのだろう。自然な距離感が微笑ましかった。

「じゃ……じゃあ、留花……ちゃん」

「は、はいぃ」

 私も人のことを笑えなかった。思いっきり声がひっくり返ってしまう。そんなやり取りを楓ちゃんが隣で「アハハハ、アンタらなにやってんのよ、カッコ悪いわね」って腹を抱えて笑っている。

 私たちは街を歩き始めた。滅多に街に来ない私にとって目に映るもの全てが新鮮でキラキラ輝いて見えた。服屋さんに入ってその値段に驚愕したり、雑貨屋さんで最新の文房具を手にとってみたり、露店で売ってるクレープを頬張ったりした。全部が楽しくて、世界に光が満ちていくような気がした。こんな毎日なら生きていたいと思えた。あの日、私は確かに一度死んでしまった。でも、楓ちゃんが私を見つけてくれたから私は生まれ変わることが出来た。気付けば三人でずっと笑っていたような気がする。あっという間に時間が過ぎていった。






 ***






 私たち三人は全員帰宅部だったので、なにか同じ部活に入ろうと楓ちゃんが提案した。体育系はフミくんと私が無理だったので、必然的に文化系の部活から選ぶこととなった。いくつか部活見学にいった結果、満場一致で美術部に決まった。理由は、広々とした美術室を好きなときに使ってもいいことと、部活顧問の先生が放任主義だったこと。


 入部してからというもの、私たちは毎日放課後美術部に足を運んだ。誰かが誘うわけでもなく自然に集まって各々喋りながら好き勝手なことをしていた。楓ちゃんは根が真面目なのもあって色んな絵を描いていた。フミくんは毎週月曜日に先生がこっそり買ってくるジャンプを読んでいた。私はここでも変わらず読書をしていた。ただ、昔のような苦痛はもうなくなっていて、ダラダラと記憶にも残らない話をしながら好きなテンポで読んでいった。

 そんなことをしていると春はとっくに過ぎ去って、暑い夏がきた。



 夏服に衣替えをした楓ちゃんは眩しいくらいに可愛かった。女の私が見てもドキドキしてしまうくらいだから、男のフミくんから見たらもうとんでもないことだろう。隣にいるフミくんをバレないように横目で見た。案の定とんでもないことになっていた。とんでもないことになっていたので、詳細は伏せておく。

 彼女の笑顔は夏の光に反射していつも以上にキラキラと光る。焼き尽くすような殺意をもって降り注ぐ日光が私たちの世界を濃い色に染めていく。あぁ、もう夏になってしまったんだなぁと、手のひらで日光をさえぎりながら空を見上げてみた。焦げ付く土の匂いが風にのってやってくる。草木は青く生い茂る。私はこの夏、世界の中にちゃんといた。




「暑いねー」

 大きく開け放たれた窓の両側のカーテンが風を纏ってふわりと大きく揺れている。窓の向こうには青が濃い空と白くて大きい雲がぷっくりと浮いていた。

学校用の大きな扇風機が首をガタガタ言わせながら回っている。机にもたれた楓ちゃんが猫のようなアクビをする。大きくて可愛いやつ。本気でやり過ぎて涙がでていた。

むにゅうと眠たそうな顔をしたかと思うと、楓ちゃんはそのまま眠りについてしまった。

そよそよと揺れる髪が風鈴のように涼しさと儚さをくれる。なによりもその夏の景色が私にとってとても美しかった。この空間を切り取ってずっと残したいくらいだった。


 フミくんは相変わらず、黙々と同じジャンプばかりを一週間かけて読んでいた。たまに後ろから覗くとエッチなページも読んでいた。あまりに夢中になって読んでいるものだから、私はなにも言わずにそっとしておいた。

そんなフミくんも楓ちゃんのあくびに誘われたのか、大きく背伸びをして「ふぁあ」と気の抜けた声を出したかと思うと、机に突っ伏して寝てしまった。どこからかプールの塩素の香りがした。鼻の奥がツンとした。




 二人共寝てしまったようだ。スースーと優しい呼吸が子守唄のようにハミングして繰り返している。今日は風が冷たい。火照った体を冷ましてくれる。蝉は遠くで鳴る。私も机に持たれて本の続きを読む。スラスラと頭に入ってくる。この物語に負けないくらい、いや、こんな物語よりも数百倍今の私は幸せ者だと思えた。全てが愛おしい。


 ――――気付けば私も眠ってしまっていた。鈍った五感がゆっくりと再起動していく。まだ腕の中にある真っ暗な視界の中に聞こえてきたのは、楓ちゃんの歌声だった。



 楓ちゃんの透き通った綺麗な声で奏でられるその曲は、美しくともどこか儚げで、今にも消え入りそうだった。優しい音が私の体にゆっくりと馴染んでいく。クラシックに詳しくない私でも聴いたことのある曲だ。でも名前までは知らない。

「楓ちゃん」

「あっ……、ごめんね。うるさかった?」

「ううん、そんなことないですよ。今の……なんという曲ですか? とても好きなメロディでした」

「ショパンの別れの曲」

「……別れ……ですか」

「本当の名前は『練習曲 作品10-3 ホ長調』っていうんだよ」

「ええっ、これで練習曲なんですか?」

「そうなんだよ。でもね、ショパン自身が『かつてこれ以上の綺麗な旋律を作ったことはない』って言うくらいすごく曲なの」

「詳しいんですね……」

「小さいころ、少しだけピアノ習ってたからね。今はもう全然弾けないけど」

 楓ちゃんは小さく笑って、ピアノを弾く真似をした。その姿が小さい女の子みたいで、私もつられてクスクス笑った。



「その曲、私好きです。優しくて心が穏やかになります」

「アハハハ、アタシも好きだよ。一緒だと嬉しいね」

「……はい」

 そんなことを言ってくれた人が、私の人生にいただろうか。考えるまでもなかった。


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