世界から忘れられた女の子
小学校を卒業と同時に私はこの街にきた。父親の転勤がきっかけだった。
私は、今と同様に小学校でもあまり友達が出来ずハッキリいっていじめられていた。友達は一人もいたことがなかったし、作り方も分からなかった。
私は休み時間のたびに近所の図書館から借りてきた本を読んでいた。色んな本があったけど、私はいつも恋愛小説を読んでいた。理由は、誰かに必要とされて誰かを必要とすることが、私の人生で一番期待出来なかったからだ。一番遠い物語に触れることで、私は物語の中に没入出来た。
様々な本を片っ端から読み漁ってみたが、やっぱり私はハッピーエンドで終わる物語が好きだった。いつか自分も、たった一人だけでいいから心から信じられる人を見つけたかった。
現実の私は彼氏どころか、友達の一人すら見つけられない。現実では叶わないから、私はよく物語の主人公に自分を重ねた。結ばれる相手が優しい人であればあるほど、私の胸は高鳴った。でも、物語はいつか終わってしまう。物語の寿命はページを開くたびに減っていく。自分が物語を殺していく。最後のページまで読み終わると、物語が死んでしまう。物語の時間はそこで終わってしまう。
心にぽっかりと穴があいて、そこに感情が注ぎ込まれる。現実世界から受ける誹謗中傷が、私の内面を傷つけていく。悪意のない純粋無垢な悪意が、私の心をゆっくりと破壊していって、綺麗な形を維持出来なくしていった。
そして私は自分の傷だらけの心を、色も形も全部分からないように隠した。何枚も何枚も皮を厚くして、両親が求める自分を演じることに徹した。そうするとなにも知らない両親は自分のことを認めて褒めてくれた。友達がいないことを悟られないように放課後は出来るだけ毎日教室に残ってそこでも本を読んでいた。そんな中での父親の転勤。ラッキーだと思った。もう生まれ育った地元では人間関係を築くことは無理だと分かっていたから。
しかし、地元を離れて中学に入学してもやっぱり変わらなかった。当然だ。おかしかったのは地元の土地柄ではなく自分自身だったのだから。この歳になっても未だに友達の作り方が分からない私は、休み時間に手持ち無沙汰になることを恐れてやっぱり本の世界に没入する。もはや本を楽しむというよりも、依存だった。読むことを強要された読書は次第に苦痛に変わっていく。
あれほど大好きだった恋愛小説は自分にとって空虚な物語に変わっていく。それでも私が手にとってしまうものは愛が溢れるものばかりだった。空っぽの心に物語を浸して、それを殺し終えるとまた空っぽになる。
だから、私にはなにもない。支えてくれるものも、支えるものも13年間生きてきたのに、一つもなかった。誰も私を見てくれないから、私がどれだけ世間とズレていて歪な存在なのか確かめる術もなく、今更そのズレを修正する勇気もなく、私は自分の殻にどんどん閉じこもっていった。
下らない毎日を淡々と過ごした。なにもない日常。楽しみはないが、苦しみはいくつかあった。出来るだけ自分の影を薄くして目立たないようにして過ごした。ただ、体育などのペアを組む授業は本当に苦痛で仕方なかった。その中でも相手の表情を見る瞬間が一番辛かった。
あの「なんで私がこんな根暗で気持ち悪い女と組まなきゃならないんだよ。あーもうサイアク」という内面が透けて見える表情が怖くてダメだった。誰も必要としていない、むしろいなかったほうが喜ばれる存在なのだと自覚することが怖かった。
*
そんなある日、事件は起こった。豪雨のときだった。その日は朝から雨がすごい勢いで降り続いていて、放課後になっても変わらなかった。本来ならばいつもどおり、閉門の時間まで図書室で過ごすのだが、この日に限って私はさっさと帰宅してしまった。大きな理由はないが、強いていうなら濡れた靴下がいつまでたっても乾かなかったので気持ち悪かったからだ。
その帰り道、道路で横たわる小さな影を見つけた。子猫だった。原型は留めているが、血が流れていた。この雨の中での事故だ。ドライバーに気づかれずに轢かれたのだと思う。轢かれてしまったことも気付いてもらえなかったのだろう。
私は無視出来なかった。タイミングを見て道路に飛び出し、小さな体を拾いあげた。案の定持ち上げた瞬間もうダメだと悟った。子猫はもう冷たくなって体も固くなっていた。死後硬直だろう。
ごめんね、痛かったね。
私は血まみれの猫を抱えて、雨の中立ち尽くした。私もこの子と同じように誰にも気づかれることなく死んでいくのだろうなと思った。そうしていると、同じクラスの男子三人とすれ違った。この豪雨の中血まみれの子猫を抱えて立ち尽くしている私のことを随分不信に思ったのだろう。彼等の会話が雨音をかき分けて小さく耳に届いた。
「あいつ、とうとう猫を殺したぜ。きもちわりー」
次の日、いつものように教室に入ると一瞬ざわついたのが分かった。みんなが奇異の目で私の存在を認識していた。コソコソと私を嘲笑う声が聞こえた。内容の殆どは私のことが気持ち悪いということ、小動物に手をかけた変質者だということばかりだった。私は流石に居た堪れなくなって教室を飛び出した。
「戻ってこなくていいよ、あんな気持ちわりー女。クラスメイトじゃねぇよ」
という男子の声が廊下まで響いて、そのあと爆笑の渦が巻き起こっていた。私は悔しくて走った。出来るだけ遠くに逃げた。
上履きのまま、校舎から飛び出し、建物の影まで走って隠れて声をあげて泣いた。初めて学校で大きい声をあげた。私の声色を知っている人なんてこの学校にはいない。だから泣いても私だってバレない。
始業のチャイムが鳴る。関係なかった。私は泣き続けた。私はなにも悪いことなんてしてない。猫を抱えたことも絶対間違っていない。あの子をあの雨の中車道に放置したら、後続の車は絶対に気づかないで轢いていく。
なんで間違った陰口を言う人間が正義で、言われてる私が悪人なんだ。なんで奴らはなんの疑いもなく自信満々に正義面して私を裁くんだろう。この世界は狂ってる。狂ってるとしか思えなかった。でも、普通の人たちから見て狂っているのは私だった。もうどうすることも出来なかった。
死のうかな。もう疲れたよ。
寿命でこの命が尽きるまで私はずっといらない存在だ。なんのためにたくさんの命を毎日食べて生きながらえているのだろうか。私が自殺したらお母さん悲しむかな。それとも怒るかな。「人様に迷惑をかけるな」って怒鳴られそうだな。
なんで、みんな優しくしてくれないの。なんでみんなはみんなに優しくするのに、私には優しくしてくれないのだろう。私が誰にも優しくしないからだろうか。でも、優しくする相手がそもそもいない。私は一人ぼっちだから。
「どうしたの? こんなところで泣いてるの?」
声がした。それは人生で私に向けられた言葉の中で最も優しい言葉だった。その声の主は続けて言う。
「わっ! アンタ目真っ赤でめっちゃ腫れてるよ。ちょっと待ってて、動いちゃダメだよ」
声の主は女の子だった。制服のリボンの色が同じだったので同級生だと思う。その子はパタパタと音をたてて走っていった。三分くらい待っただろうか。女の子は氷の入ったビニール袋とタオルをもってきてくれた。たぶん、保健室で借りて来てくれたのだろう。私はその氷を腫れ上がった瞼に当てる。
「せっかく可愛い顔が台無しだよ。なにかあったからこんなところで泣いていたんでしょう? 私でよかったら話聞くよ。見ず知らずの人のほうが話しやすいでしょう?」
彼女は私の隣に座ってくれた。私の呼吸が落ち着くまでなにも言わずに待っていてくれた。私はようやく口をひらいた。
「……ありがとう」
この学校に来て初めてこの言葉を使った。それが幸せだった。
彼女こそ、私の一番の親友であり平井俊一の彼女でもあった女の子。
吉井楓。
私が一番好きな女の子。
***
私は生まれて初めて自分の気持ちを言葉にする出来た。吉井さんの温かい言葉が私のぶ厚く育った心の皮を一枚一枚丁寧に剥がしてくれた。生まれてずっと友達が出来なかったこと。子猫を助けたのに勘違いされて迫害されたこと。ずっと陰口を言われ続けて生きてきたこと。家族でさえ、本当の私を知ろうとはしてくれないこと。
今までのことを全部話した。全部話すのに15分もかからなくて、そのことにショックを受けたことも全部話した。吉井さんは全部聞いてくれた。黙って聞いてくれたらから、肯定してもらえたような気持ちになれた。だから最後まで話せた。私の言葉を聞いてくれたから。
吉井さんは私の頭をポンポンと撫でた。人の体温に初めて触れた。本当に今日は初めてのことばかりで、頭が処理しきれなかった。私は頬を真っ赤に染めてしまう。
「今まで大変だったんだね」
「……はい」
それだけでボロボロと涙が溢れる。瞼を擦ろうとしたらその腕を掴まれた。
「こすっちゃダメ! 擦るから腫れ上がるのよ」
そのいいつけを守り、涙は押さえるだけに止めた。
「そうそう、偉い偉い」
「……子供扱いしないでください」
「アハハ、ごめんごめん。だってアンタ童顔だからさ」
屈託のない笑い声が温かかった。私はその声をもっと聞いていたいと思えた。
「ねぇ、あたしたちってもう友達よね」
「そ……そうなんですかね」
「今度遊びに行こうよ」
「……でも」
「あ、ごめん。嫌なら無理しなくていいんだよ」
「そうじゃなくて……、私なんかと遊んでも楽しくないですよ……」
バシン! と音がでるほど強く頭を叩かれた。思わず声が漏れる。
「自分のことそんなふうに絶対言わないこと! アンタ自分のこと大切にしてないでしょ!」
だって、なにも大切にするところがないのだから仕方がないじゃないか。誰もいらない自分なんて自分でもいらないもの。
「自分のことを大切にしない人間はね、周りにも大切にしてもらえないんだよ。アンタのその自分への扱いを見て、周りの人間も『コイツは大切にしなくていいんだな』って勘違いして付け上がるのよ。だからもっと自分を大切にしなさい。分かった?」
「……はい」
「素直でよろしい」
「……だから子供扱い」
「実際、おこちゃまでしょうよアンタ。あ、あと今日の昼休み教室に遊びにいくから勝手にどっか行かないでね。何組だっけ?」
「……2組」
「わかった。じゃ後でね。留花ちゃん」
初めて下の名前で読んでもらえた。
「あ……はい、……吉井さん」
「カエデでいいよ。ルカちゃん」
「カ……カエデちゃん。……ありがとう」
「うん」
楓ちゃんは手のひらを覆う丈の長いセーターを振りながら、お別れをした。教室に戻るとまたざわめきが起こったけど、寝たふりをしてやり過ごした。
四限目終了のチャイムが響くと、私はそわそわして楓ちゃんを待った。私が人と話しているところを見たクラスの人たちはどんな反応をするんだろう。びっくりするのかな。「うわ、あいつ日本語話せるんだ」とか言われちゃうかもしれない。ドキドキする。色んな意味で期待と不安が混じり合う。
――――そのときだった。私の教室の扉は勢いよく開かれた。
結構な音がしたのでみんな何事かと思い教室が静まり返る。扉の向こう側には、楓ちゃんが立っていた。お弁当をもって。
楓ちゃんは黙って教室に入ると、そのまま教卓に上がった。そして真っ直ぐ前を向き教室を見渡した。
何かが始まる予感がしたので、クラス全員の注目が一人の少女に集まった。一度教卓をバンと両の手で叩いた。ビリビリと空気が揺れる。緊張の糸がビンビンに張られた中で彼女は息を大きく吸い込み、言った。
「このクラスにいる私の友達の雨木留花ちゃんが、ありもしない酷い陰口を言われてるって噂を聞いたんだけど!」
私を含めみんな目が点になる。楓ちゃんは構わず続ける。
「この子は猫を殺したりなんか絶対しないよ! 男子が見たって言ってるのは、雨の中車に轢かれた子猫を助けたところだ! 勝手な憶測で変な噂をたてるな! この子は人一倍優しい子なんだ。お前らの中で一体何人の奴が雨の中轢かれた子猫を助けてやれる!?」
楓ちゃんの心からの叫びは全員の耳に届いた。
「変な噂を立てた男子共、こっち来て留花ちゃんにちゃんと謝れ!」
その命令に三人の男が席からゆっくりと立ち上がる。のそのそと罰の悪そうな顔をして私の席を囲んだ。その様子をクラス全員が固唾を呑んで見守る。異様な光景だった。
「……悪かったよ」
一人の男子が謝罪すると、残りの二人も被せ気味に謝罪してくれた。
「あ、わわ……、そんな、い、いですよ。誤解が解けてよかったです……」
と少しテンパってしまった。あと自分の声量が適切なものだったか心配になった。
教卓の上でその様子を見ていた楓ちゃんは私と目が合うと、今抗議した人と同じとは思えないほど優しい微笑みを浮かべた。
「じゃあ留花ちゃん、お弁当食べに行こ!」
楓ちゃんは力強い手で私の腕を引っ張った。シーンという音が聞こえそうなくらい静かな教室を後にした。
中庭のベンチにつくと、並んで座った。お互い顔を見合わせる。すると緊張の糸が解けてプッと吹き出し、二人で腹を抱えて笑った。笑いすぎて涙が出た。体力が尽きるまで二人で笑った。クラスの人たちの顔を思い出すと、正直胸がすいた。
「はぁー、緊張したー。怖かったぁー」
目に涙をためて楓ちゃんは脱力した。
「怖かったんですか?」
「そりゃ怖いよ。自分が正しいって思ってても、それが相手にちゃんと伝わるかなんて分からないじゃないの」
「怖かったのに勇気を出して、こんな私のために闘ってくれたのですか……?」
「アハハハ。だってアタシたち友達でしょ。当たり前だよこれくらい」
楓ちゃんは私の頭をグリグリと撫でた。
「これでもう大丈夫だよ。なんかあったらまた言うんだよ」
「ありがとう……ございます」
「さぁ、お弁当食べようよ。お腹減っちゃった」
楓ちゃんは持ってきたお弁当をパクパクと男子みたいな勢いで食べた。そんなところがなんか可愛かった。
「今度の日曜日私の友達紹介するよ。ちょっと変わった奴だけど仲良くなれると思うからいいよね」
「お、おお、お願いします」
楓ちゃんはたった一日で私にたくさんのことをくれた。私はもう楓ちゃんが大好きになっていた。何より彼女のハッキリと自分の意見を言う姿勢が私にとって憧れになった。