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リコリスの魔女  作者: 桂香
1章 「狼の森」
5/13

5話 「人狼落としの」

何も聞こえない、静かな森の中。

僕たちは数メートル離れた位置で、木々の影からこちらを見ている金色と無言の睨み合いをしていた。

どちらも動かず、まるで時を止めたかのように変わらない視界。

空気が凍ってしまったのではないかと錯覚してしまいそうだ。


「……良くないねぇ」


ふいにぼそりと女がこぼす。

だが、僕はその言葉に同意しなかった。

それは、恐怖で満足に声が出せないからでも、緊張で口の中が乾いてしまっているからでもない。


「良くないだと? ……最悪、の間違いだろう」


僕の返事に女は少しだけ笑う。


「かか、違いないねぇ」


力ないその言葉が余計に僕の不安を煽る。


「ウゥゥ……」


押し殺した唸り声を響かせながら、その鼻先が持ち上げられていく。

そして、見えない空を仰いだ人狼が口をゆっくりと開いた。


「アウオォォオオン……!!」


思わず体が痺れてしまいそうな遠吠えが、森を震わせる。

……それでも、僕は女の真似をして、無理やりに口元を吊り上げた。

どんなに絶望的だったとしても、そう簡単に殺されてやるわけにはいかない。

少しでも暴れて、少しでも生き延びる為の策を尽くさなくては。


「グルルルル……」


昨晩の人狼は、多量の出血によって弱っていたこともあり、どうにか攻撃を避けきることができていたわけだが……。

見たところ、あれには怪我も見当たらない。

眼光も鋭く、敵意も体力も十二分に満ちているといった様子、つまりは万全の状態だ。

……また、冷静にこの状況への対処を考える時間も、僕たちにあるわけもなく。


「グルオォンッ!!」

「っ!」


前触れもなく人狼が吠え、こちらに向かって飛び掛かってきた。

走れば数秒はかかるであろう距離を、たった一度踏み切ったその勢いのみで、僕の前にまで迫ってくるその爪。


「くっ……!」


もし判断が少しでも遅れたなら、引き裂かれる。

恐怖と緊張で体が震えていたものの、どうにか右腕の爪を剣で受け止めることができた。


「ガアァァッ!!」


続けて左腕が頭に向かって斜めに振り下ろされるのを、首を傾けて避ける。

髪が数本抜かれたようだが、頭がもがれるよりはましだ。

そう、痛みを無いものとし、人狼の体を向こうへ押し返した。


「グルッ、ウウゥゥ……!」


しかし、それを受け止めずに、一旦後ろへと下がることで僕をかわす人狼。

そして、体勢を崩すことなく今度は右腕が振り被られる。


「うあ……?!」


逆に押すものが失われた空へ向かって、自らが押し出した剣に引かれ、前方へと傾いていく僕の体。

視界の端に映るのは、迫り来る爪の鈍い光。

剣で受け止める為にその切っ先を返す時間はない、避けるには速すぎる。

……どうしようもないと諦め、身を固くした瞬間。



「何をっ、やってんだい……!」

「ぐぇっ?!」


ふいにシャツと上着が後ろへと引っ張られた。

首元を絞めたそれに聞かせられないような悲鳴をあげ、僕は地面へ尻餅をつく。


「げはっ、ごほっ……」

「Ken・ルクス、イッルシオ!」


見上げれば、女がその手から赤い火を生み出しているところだった。


「お、お前、魔法を……!」

「これくらいなら何ともないからねぇ、んなことよりさっさと体勢の立て直し、さっ!」


そう言いながら右手に乗った小さな火を投げる女。

人狼の目がそちらへ向いた瞬間、僕の手を取って引きずるように走り出した。


「なっ、森に火を放ったりしたら……!」

「そぉら、走りなぁっ!」


女に取られた手が空に放り投げられ、倒れそうになりながらも踏みとどまる。


「ッーー!」


振り返ったそこにあったのは、あっと言う間に燃え広がってゆく炎の海。

あぁ、なんてことをしてくれたんだ。

足と頭まで止めた僕は、呆然とそれを見つめる。

暴力的なまでに僕の目へ焼き付くそれは、まるで悪夢を見ているかのようだった。


「ーー隙あり、ってねぇ!」


恐怖も絶望もない交ぜになった僕の耳へ響く声。

颯爽と宙を跳ぶ女の緑髪が、炎の赤へ反発するように輝き舞う。

その左手には人のことを言えないほどに、ボロボロの三角帽子がはためき。


「グルォオオンッ?!」


右手には、今まさに赤く染まった白銀に輝く細剣があった。

足の筋を切断したらしく、人狼はその場に膝をついて悲鳴をあげる。


「何をぼぅっとしてんだい! 死にたくなきゃ、さっさと走りなっ!」


炎の囲いからこちらへ飛び出てきた女は、また僕の手を取って走り出す。

つられて動き出す足と共に、あの炎が村にまで伸びてしまったら、と頭の方も動き出した。

このままでは森も村も、すべて焼け野原になってしまう。


しかし、ふと違和感を覚えた。

走りながら、振り返れば確かに燃え盛る炎が見える……見えるのだが、それは一向に人狼を囲ったまま、最初見たその場所から、少しも燃え広がってはいなかった。


「……止まっている、のか?」


しかし、理性なき獣と大差ない人狼には、恐ろしい炎に見えているのだろう。

足の筋を切られた状態では飛び越えることもできず、立ち往生しているようだった。


「森火事なんて洒落にならないからねぇ、あれはただのフェイクさ。かかかっ」


まったくもって、心臓に悪いことをしてくれる……。

こちらを見て得意気に口の端を吊り上げる女の顔が気に入らず、僕は顔を背けた。

…………本当に、嫌な奴だ。



*=*=*=*



後ろから聞こえる足音、女と僕の息の音。

森の中を走っても走っても、一向にその距離が変わらない。

それどころか、縮まっているような気すらしてくる。

足が満足に使えないはずの状態で、どうすればこんな芸当ができるのか。

振り返るのも恐ろしく、僕はただ前だけを見て走っていた。


「ったく、人狼ってのはなんでこうすばしっこいかねぇっ!」


女の方も追ってくるその足音が、そう遠くないことを感じているらしい。

焦れったいと言わんばかりにそう叫ぶが、それでこの状況が何か変わるわけではない。


「はっ、はぁ……あの足が欲しいものだな……!」

「冗談! あんな毛深くて汚らしい足なんて、ごめんだねぇ!」


軽口を叩く余裕くらいはあるらしいが、いつまで続くことか。

体勢を立て直そうにも、こうぴったりと追われていてはどうにもならないというものだ。

何か、何か少しの時間だけでも、身を隠せる場所があれば……。


「!」


女に手を引かれるまま走る視界に、一瞬だけ掠めた見覚えのある景色。


「あ、あれだ……!」

「何かあったかいっ?!」


前を走り続けていた女が叫ぶ。

きっとこいつも限界のはずだ、僕は引かれるままだったその手を掴んだ。


「ああ、ついてきてくれ!」

「っ、お、おうともさ……!」


走る僕たちの前方に見えるのは、一際目を引く一本の大木。

そう。昨晩の、根元に小さな洞窟がある、あの場所だ。


「ハッ、ハッ……!」

「っ……しつこい奴め……!」


人狼の息遣いが聞こえる、ということはかなり近いのだろう。

焦燥感に駆られながらも、洞窟の入り口付近まで、やっとのことで辿り着いた。

あとは、うまくいくかどうか……。


「ここは、昨日来た……いや、でも、ここに来たからってねぇ……!」

「いいから……はぁ、お、お前はそっちに……」

「…………何か策くらいはあるんだろうねぇ?」


疑うような目で僕を見る赤い瞳。

策と呼べるほどのものじゃない……が、逃げ切ることができないのなら、このまま走り続けていても先は見えている。


「なければ、ここで死ぬしかないだろうな」

「……かかっ、そうなったらあの世でも二人仲良く遊ぼうかねぇ」


強がって笑えば、女は呆れたように微笑み返して、木の影へと身を潜めた。

見上げた視線の先には、この森では珍しい本物の空が垣間見えている。

いつの間にか夜になっていたらしく、暗闇に慣れた瞳には月の光が眩く、目を細めた。

偶然もいいところだが、今の僕にとって……この場所へ月光が差していることに感謝せずにはいられない。

視界の悪い場所で魔獣との一騎打ちなど、自殺行為に等しいのだから。


「………………」


これで準備はすべて整ったはずだ。

しいて言うならば、遺言の準備はできていないが……生きて帰る者には必要のない物だろう。


「グルルル……」

「! 来たな……」


唸り声のする方には、先ほどと同じ金色の瞳。

切られた足を引きずりながら、無事である三本の足でゆっくりと距離を詰めてくる。

おそらく急に立ち止まった僕たちの行動を、訝しんでいるのだろう。

全身の毛を逆立て、辺りを強く警戒しながらも更に近づいてくる人狼。


「くく、意外と人狼ってのは慎重なんだな」

「ッ、ウウウゥゥ……!」


嘲るように笑ってみせれば、どうやら怒ったらしい。

鼻先に何重もの皺を寄せて、牙を剥き出しに僕を睨む金色。

きっと、これがうまくいかなかったなら……僕は見るも無残に引き裂かれてしまうのだろう。

うっかりと想像してしまったそれに、冷や汗が伝っていった。


「グルアアアァァッ!!」

「!」


ふいに駆け出した人狼。

三本足だというのに素早いそれに、なるほど、これなら追い付かれるのも道理かと感心してしまった。

しかし、最初ほどではないその動きは、どうにか目で追える範囲内だ。


もう一拍。


タイミングを間違えれば、いとも簡単に死ねるだろう。

あと五秒かからずに、僕の前へと辿り着くであろうそれに、真正面で剣を構える。


「ガルァアッ!!」


振り上げられた右腕が僕の頭を真っ直ぐに貫こうと、目と鼻の先へ迫ってくる。

柄を握る手が汗ばんでいるのが情けなくて、唇を噛み締めた。

しっかりしろと自分を鼓舞し、その瞬間を見極めるべく神経を集中させ……。



――――ここだ。



構えた剣を下ろし、横へと体の軸をずらして避けた。

不意打ちや視界の悪い場所でなら、難しいその行為も……この場所であれば、動きを合わせることができる。

それに、さすがは獣というべきか。その攻撃は、ほとんど変わり映えしていないのだから……。


「ッ?!」

「二度も見せられて……そんなものを受けてやるわけ、ないだろう……!」


爪が空を貫き、人狼の目が見開かれる。


「ッ、グルアァッ!!」


しかし、前のめりになったその上半身が、こちらへ捻られた。

体勢が崩れているとはいえ、自分の間合いに入っている獲物を逃がすつもりはないらしい。

ここまでくると本能というよりは執念だな、などと思いつつ下ろした剣で足元を払う。


「ガウァッ?!」


既に不安定だった足を引っかけられ、使えない足で踏みとどまることなどできるわけもない。

頭から地面へと突っ込んでいく人狼。

しかし、そこにあるのは森の柔らかな地面などではない。



まるで落とし穴のようにぱっくりと口を開けている、洞窟の入り口だ。



「ッ……?!」


昨晩出会った手負いの人狼は、なぜこの洞窟にいたのか。

外に出るほどの体力がなく、弱っていたからだろう。


ーーそう、この入り口まで這い出て来れるほどの体力が、残っていなかったのだ。


足を一本やられた状態で、これを登ってくるのはなかなか骨が折れるはずだ。

燃やされないだけマシだろう、と憎々しげに僕を睨む人狼へ笑いかけた。


「ギャオオォォォンンッ……?!」


落下していく人狼の悲鳴が小さくなっていく。

見えていなかったとは言え、落とし穴へと自ら飛び込んでいったようなものだ。

さぞかし驚いたことだろう。経験したからこそ分かるが、あれは心臓が止まるかと思った。

だが、人狼に同情している場合ではない。

僕は踵を返し、下へ落ちた姿を確認する間もなく、呆気に取られていた女の手首を掴んで走り出した。


「あ、あんた……意外とえげつないことするねぇ……」


少し非難するような色のあるそれに、思わず吹き出してしまう。


「背中を押されなかっただけ、あいつはまだましだろう?」


更に付け加えてもいいのなら、顔面を踏まれるという追い打ちもないのだ。

寧ろ、生易しいくらいのものではないだろうか。


「う……」


僕の精一杯の皮肉はどうやら効いたらしく、女が返事に詰まって口を閉じた。

……まぁ、そうは言っても、あれだけの勢いで飛び込んだのだから、いくら魔獣の身でも無事というわけにはいかないだろうが。

もしも、頭からあの地面に着地していたら、そう簡単には動けないどころか、そのまま……ということもあるかもしれない。

今更ながら、背筋が少し寒くなる。人より丈夫にできている自分の体に、心から感謝だ。


「わ、悪かったよ……」

「くははっ、まったくだっ」


後ろから聞こえてきた罰の悪そうな謝罪に、とうとう堪え切れなくなって笑い声をあげた。

この女に出会ってから今までで、初めて優位に立ったような気がする。ああ、なんて清々しい気持ちだろう。

上機嫌になった僕は握った手を引いたまま、昨晩通った道を辿って村へと走って行った。



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こんばんは、桂香です。

お話を分割して上げ直した関係で、5話目の投稿となりました。

タイトルは即席でつけていったので、あとで変更があるかもしれません。


さて。

「人狼落としの」ということで、初依頼の際に訪れた、クロルがエリカに突き落とされた洞窟が舞台になりました。

ちなみにこの洞窟の描写は、うっかり滑って十段くらいある階段の一番上から下へ飛び込むことになった体験を元にしていたり。

防火シャッターに思い切り背中をぶつけて着地したのは、良い思い出です……。

……あ、クロルの突き落としも実体験が少し入ってます。

子どもの頃って、とても貴重な体験ができますよね……(遠い目

というわけで、読んでくださってありがとうございましたー。

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