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リコリスの魔女  作者: 桂香
1章 「狼の森」
4/13

4話 「森の異変」

「……お、お騒がせしました」


どうにか一段落ついたのか、カウンターへと戻ってきたファニスは、気まずそうに苦笑いをして目を伏せる。


エプロンを着けてからの彼女は大忙しで、朝食の客が帰らない内から昼食の客まで入ってきて、ずっと慌ただしく動きまわっていた。そして今はもうお昼過ぎ、というよりは夕方も近いくらいの時間だ。まぁ、途中で女がちょっかいを出していたせいでもあると思うが。


「いや、元はと言えば僕たちが悪いから……」

「そんなことはないだろうさ。このお嬢さんが急に喧嘩を吹っかけてきたのが悪いだろうねぇ、かかかっ」

「あ、あなたがカットさんやクロルさんに迷惑をかけるからっ……!」

「待て待て待て、もういい加減にしろ」


今にも掴みかかりそうな勢いで体を乗り出すファニスと、それを更に煽るような馬鹿にした笑みを浮かべる女の間を手で切る。

さすがに同じやり取りを何度も繰り返したくはないというものだ。


「ご、ごめんなさい……」

「………………」


申し訳なさそうに頭を垂れるファニスと、無言で視線を逸らす女。


「それで、だ。僕たちもここで誤解されるようなことをしていたのが悪いからな、何か困っていることがあれば言ってくれ。僕たちのできる限りで何とかしよう。ただ、その代わりにこの件はなかったことにしてもらいたいんだが……どうだろうか」


女に謝らせるのは至難の業。だからと言って、ファニスに見なかったことにしてくれと言うのは彼女に悪い。

ならばファニスの依頼を引き受けることで、女は迷惑料を支払い、ファニスはそれを受け取って水に流す……これでもファニスは腑に落ちないかもしれないが、一番実現しやすそうな案ではある。問題はこれを受け入れてもらえるかどうか、だ。

そう二人の様子を窺えば、どうやら心配する必要はなかったらしい。


「はい、あたしはそれで構いません」

「仕事だって言うなら、断る理由はないねぇ」


どちらも了承したところで、早速と依頼を聞こうとすると、ファニスが急に大声をあげた。


「なんだい、やかましいねぇ……」

「う、うるさいわよ。ちょっと頼まれ事を思い出して……って、そっか。これをクロルさんたちにお願いしようかな……?」


考え込むように口元へ手を当てて、僕とそれから女の方とを見るファニス。

薬屋の娘である彼女へされた頼み事が、果たして僕たちにできるものなのかは、甚だ疑問ではあるが……できる限り何とかすると言ってしまった以上、逆立ちしてでもこなさなくてはならないだろう。それでも無理なら、謝るしかないが。


「……うん、そうしよう」


やがて、小さく頷いたファニスは僕に笑みを向けた。


「あのね、最近ちょっと狼を不安がってる人が多くなってきてるの」


この村の周りを囲うように、広く生い茂る【イサークの森】。

確かに、この森は狼の森、と称される程に多数の狼が住み着いてはいる……のだが。


「だが、イサークの狼たちは……」


皆まで言う前に、ファニスは分かっているというように頷いた。


「そう、なんだけどね……。遠吠えが近くなってる気がしてる人とか、狼の影みたいなのを見たって人も実際に増えてるんだよ。不安で眠れないって言う人もいるし……」

「……気のせいじゃないのかねぇ?」


つまらなさそうにそう言いつつ、女はカウンターへ頬杖をつく。

まるで、自分には関係ないとでも言うように。


「だとしても、この村に育ててもらったあたしとしては、そんな突き放したこと言えないのよ。……あなたとは違って」


真剣な表情をして訴えるファニスに、女はそれでも鼻で笑ってみせた。


「まぁ、あんたのことなんて、どうだっていいさ。ようは、私たちに何をさせたいのかっていうことだけが聞きたいんだからねぇ」

「……本当に、むかつく女。性根どころか、心臓まで腐ってるんじゃないの?」

「だったら、どうだってんだい」


侮蔑するような目を向けられてなお、女はそれを真っ向から睨み返す。

さっきまでの態度はファニスを面白がっている様子だったが、おそらくこれは違うだろう。

どんな気持ちなのか……ということまでは、出会って日の浅い僕に分かりようもないが。


「……ふぅ。あなたに何を言ったって無駄なのは、分かった。もういい、あくまで必要最低限のことしか話さないわ」

「かかっ、最初からそうしてほしいもんだねぇ。時間ばっかり食って仕方ない奴だねぇ」


女の挑発的な言葉に、一瞬だけ動きを止めたものの、ファニスは淡々と依頼内容の詳細について話し出した。


「依頼内容は、狼を追い払う為の薬を作るのに必要な材料の採取よ。このリストにあるものを全部集めたら、私の家に届けてほしいの」


差し出された紙の切れ端には、箇条書きで三つの材料が書かれている。

一つは臭い草、二つ目はリコリス、そして最後の三つ目は……。


「イサークの、泉の清水……?」

「あれ、クロルさんは知らないんだ」


僕が首を傾げていると、ファニスが意外そうに驚く。

そして、裏から取ってきた地図をカウンターに広げ、指をさした。


「この辺りにあるんだけど、知らないですか?」

「そんなところに泉なんて…………あ」


思い出した……。そうか、あの場所か。泉としては覚えていなかったせいか、思い出すのに時間がかかったが、あの場所で間違いない。

しかし、あれは水たまりと言っても差し支えないほど、小さなものだったはずだが……。


「………………」

「クロルさん?」

「!」


ふいに声をかけられ、我に返った。

いつの間にか俯いていた顔を上げれば、ファニスが不思議そうに僕を見つめている。


「やっぱり分からないですか? 結構、有名だと思ってたんだけどなぁ……」


考え込んでいた僕の様子を見て、少し納得できていないような顔をしながら、リストの三番目にペンを向けて線を引こうとするファニス。


「え、あ、いや! 思い出した、大丈夫だから消さなくていい」


慌てて止めると、少しきょとんとした顔をしたものの、小さく頷いて微笑んだ。


「そうですかっ。ふふっ、さすがはクロルさんですね!」


やっぱりそんなわけないですよね、と言いながらリストを畳む様子を見ていると、何だかいいように手のひらで転がされたような気分になってしまう。

……おそらく、本人にそういうつもりは毛の先ほどもないのだろうが。


「他のは、そうね……臭い草は泉の周りに生えてるし、リコリスはイサークの祠近くによく咲いてたかなぁ」


村から見て……西に約一キロの位置に祠、北に約五キロの位置に泉。


「……往復でざっと三時間ぐらいか?」

「うん。ゆっくり歩いても、たぶん四時間で全部集まるかな。でも、帰りは夕方ぐらいになると思うから、準備は念入りにした方がいいんじゃないかな……」


森の中じゃ道具なんて手に入らないんだから、と忠告するその姿は、まるで母親のようだ。これで僕の七つ年下なのだから、本当にしっかりしている。

……いや。それとも僕の方が、二十の割に頼りなさすぎるということかもしれない。


「あ、それと泉の水はこの瓶一本分で大丈夫だから、お願いね。クロルさん」


そう言って渡されたのは細長い、狼頭の形をした蓋付きの瓶だ。

彼女の店【狼竜の息吹】という薬屋で、よく使われている薬瓶で、確か店の看板にもこの狼頭の絵が描かれていたような気がする。

蓋から伸びる取っ手に軽く親指で引っかけ、それが小気味の良い音を立てて開くのを確認してから、鞄の中へと仕舞った。


「クロルさんにまで迷惑かけることになっちゃって、ごめんなさい」


それを黙って見ていたファニスが、ふいにそう言って謝る。

俯いたまま、少し気まずそうに上目遣いで僕を窺う様子は、まるで小動物のようだ。


「まぁ、僕も悪いところがなかったかと言われれば、微妙なところだからな」

「………………」


……これはどうも、気に病んでしまっているようだが、どうしたものか。

後頭部を撫でつつ考え、あまり良い言葉が思い浮かばずにため息をこぼした。


「まぁ、なんだ……ファニス、僕はお前の兄貴分だ。お前が困っていると言うのなら、こんな理由がなくても助けるんだから、あまり気にするな」

「!」


う、うむ……我ながら臭いことを言ったな……。

何とも言えない気恥ずかしさに落ち着かない僕は、誤魔化すようにファニスの頭を撫でた。


「えへへ……クロルお兄ちゃん、顔赤くしてそんなこと言っても、格好つかないよ?」


あどけない笑みを浮かべながら、幼い頃と同じように僕を呼ぶ彼女。


「年上をからかうな、まったく……」


ずっと大きくなったとは言え、あの頃と変わらないのだなと柄にもなく懐かしさを感じた僕は、少しの照れくささに目を逸らして笑みをこぼした。


……さて、今日のすることも決まったことだし、早々に出発するか。

女に声をかけるべく振り返ると、じっと僕を見ていたらしい赤い瞳と視線がぶつかった。

その表情は複雑なもので……何を考えているかはおろか、怒っているのか、ふて腐れているのかすらも分からない。分かるのは、機嫌が悪そうなことくらいだけだ。


「話は、終わったのかねぇ」

「終わったが……まさかお前、何も聞いてなかったのか?」

「おうともさ。あんたたちの会話なんて聞いてたら、眠くなって仕方ないからねぇ」


椅子から立ち上がった女はゆっくりとした動作で歩き出し、帽子のつばを軽く撫でて僕を振り返り見て笑う。それでも、昨晩のようなものではないことくらいは分かる。


「…………とりあえず、行くか。それじゃあファニス、また後でな」

「うん、気を付けてね」


背中へと投げかけられた言葉に軽く手を振って答え、先に外へ出た女を追いかけた。



=*=*=*=



酒場の扉を開くと、そのすぐ横に女は立っていた。どうやら待っていてくれたらしい。


「……やぁ、それじゃあ行こうかねぇ」

「あ、ああ」


歩き始めた女の横へついた僕は、ちらりと横目にその表情を窺う。

前を見据える赤い瞳、少し吊り上がったままになっている口の端……昨日と同じではあるのだが、どうも様子がおかしいような気がして仕方ない。


「お前、具合が悪かったりはしていないか?」

「? 急に何を言い出したんだい、あんたは」

「いや……」


カウンター席で夜を明かしたりしたのだから、体の調子が悪くなったりすることもあるかもしれない。そう思っての言葉だったが、投げかけてみると確かに突然過ぎる。


「っ……、くっ……!」

「うん?」


どうしたものかと考えている僕の横で、何か変な声が聞こえる。

女の方へ視線を戻せば、腹を抱えて小刻みに震えていた。


「おい、本当に大丈夫か? 調子が悪いなら、少し休むか?」

「っはぁ……い、いや、大丈夫さ。ふ、ふふふっ」


よく見れば目の端に涙を溜めて、笑っているらしい。まったく人騒がせな……。

僕の肩を掴んで息を整えつつ、それでもまた笑いがこみ上げてくるらしく、未だに体を震わせて笑っている。


「参ったねぇ、これは……ふふっ」

「何がだ」

「いんやぁ、あんたは本当にろくでもない男だってことさ」


色々気遣ったりしてやっていたのに、この言い草はあまりにもというものではないだろうか。楽しそうに笑う女にため息を一つこぼすが、それすらも笑われる。


「……それはそうと、お前はこの村の人間じゃないんだよな?」

「ま、そうだねぇ。それがどうかしたのかい」

「なら、この森と狼、それからこの村についての話をした方がいいだろうと思ってな」

「イサークの狼とハウンド族の話かい」

「ふむ、さすがに少しは知っているらしいな」


当然と言えば当然かもしれない。この村でイサークの狼たちについての知識なしに暮らすのは、相当に難しいことだ。何も知らないで森へ入ったりすれば、次の日を待たずに物言わぬ骸へと変わるかもしれないのだから。


「……まぁ、ねぇ」


小さく頷いた女は視線を遠くへと投げ、薄い笑みを浮かべた。



この森、イサークの森に住む生き物を大まかに分けるなら、マーマウの人間と狼、そしてハウンド族の三種類だ。数では狼が一番の勢力となるが、知恵や武器による戦闘が可能な人間も、戦力としてはそう劣っていないだろう。


そしてハウンド族は、その身に人間の血と狼の血を持つ獣人であり、特徴は狼の耳と尾を生やしていることだ。獣化した姿が人狼と見分けがつかない為、魔族と勘違いされてしまいやすいが、明確な違いが一つだけある。


それは理性の存在だ。魔獣である人狼は、理性を失い獣の本能に従って行動するが、彼らは獣化していようとも獣の本能を抑えることができる。


そんな彼らのこの森での役回りは、狼と人間が衝突しないように橋渡しをするという、言わば仲介役だ。故に両者とは友好関係であり、この森で一番安全な立場にあると言っていい。


そして、このハウンド族を介して狼と人間は相互領域不可侵の協定を結んでいる為、狼の森の只中にあの村が存在し得ることができる……というわけだ。



「だからこそ、昨日のあれが気になるってものだねぇ」


鬱蒼とした森の中を歩きつつ、女がそう苦々しく呟いた。

動物と言えど、物量や統率力のあるイサークの狼は、魔獣……もしくは魔族にすら一歩も引かず、決して彼らを狩る側へ立たせたりはしないだろう。

何せ狼竜の眷属であるとまで言い伝えられているのだ、この森の中であれば、人狼など敵ではないはず……。


そして、海以外の場所からこの森へと入るには、どうしても狼たちの目に触れるのだから、本来であれば魔獣などが入ってこれるわけがないのだ。

敵ではないとは言え、狼たちにとってあれは、人間よりも危険な相手のはずなのだから。



「っと……目的地に到着したらしいねぇ、あれがその祠だろう?」


そう言って女が指差す先には、確かに小さな祠があった。

石造りのそれは質素で、ともすれば見落としてしまいそうなほどに小さいものの、手入れの跡が見てとれる。おそらく、村の人間たちが掃除をしているのだろう。


「この中に見えるのが、イサーク様ってやつだねぇ……かか、こうして見るとただの狼にも見えるねぇ」

「……あまり罰当たりなことを言っていると、天罰が下るからな」

「かっかっかっ! ま、イサークってのは狼竜だっていう言い伝えなんだ、あながち間違いってわけでもないだろうさ」


確かにその通りではある。狼頭を持ち、その背には二枚の翼を生やしていると言い伝えられる狼竜……それこそがイサークという神。しかし、眷属である狼と同じだと言われてしまっては、この森の守り神と呼ばれるイサークの威厳がなくなってしまう。


「…………んむ?」


どうしたものかと頭を抱えていると、女が何かを見つけたらしく、祠の向こう側を見つめたまま動かなくなった。声をかけても良いものやら分からず、とりあえず音を立てないようにゆっくりと女のすぐ横へと近づいていく。

まさか、こんな村のすぐ傍で何かが出てくるとは思えないが……念の為に、と腰の剣へと手を伸ばした。


「おお、やっぱり松明草じゃあないか」

「は……た、たいまつぐさ……?」


……が、妙に明るい声をあげて女が駆け出していく。

よく理解できない僕は柄に手をかけた体勢のまま、その背中を目で追うだけだった。


「そうさ、見た目が火のように見えるから松明草って言ってねぇ……あの娘の言っていた、リコリスってのがこれさ」


摘んだそれを僕に見えるよう持ち上げる女。

なるほど、確かに火のように見えないこともないが……それよりも、随分とはしゃいだ様子で次々とその花を摘んでいく女の方が気になって仕方ない。

そんなにこの花が好きなのだろうか。


「ほら、これだけ集めればまるで炎のようじゃあないか。かかっ」

「あ、ああ……」

「どうしたんだい、間の抜けた顔して……むぐ」


怪しむように近づけてきた顔を手で押しやり、ため息を一つ。

まったく……機嫌が悪くなったり急に笑い出したり、妙に意味深な顔をして、かと思えば今度は花ではしゃいで。

いちいち気にかけているこちらが馬鹿らしくなってくる。


「はぁ……そうだな。じゃあ、何本か摘んだら、今度は泉に向かおう」

「おうともさぁ! …………ほらほら、見てくれよねぇ」


数が多い分には困らないだろう、と僕もしゃがみこむと、また女が呼びかけてくる。

今度は何だと顔を上げると。


「似合うかいっ?」


わざわざ帽子を取った頭にリコリスの花を乗せる女。

何だか期待するような目でこちらを見ているが……花びらというよりは糸のようなものが放射状に広がるその花は、まるで頭から血が飛び散っているように見える。


「………………」


さすがにそんな答えを求めていないことくらいは分かるが、まさかこれを似合っていると答えるわけにもいかずに、僕は黙って視線を逸らした。



*=*=*=*



あれからずっと、期待するような視線に耐え続けて歩くこと小一時間。

いい加減諦めたのか、帽子を被り直した女と共に歩いている途中、ふと思い出す。


「人狼、か……」


月の魔力に抗えず、親しい相手ですらもその歯牙にかけてしまう哀れな生き物。

我に返った時、その手が血で染まっているのを見て、愛する人の冷たい骸を見て……果たして何を思うのだろうか。


「ん、さっきの話の続きかい」


耳ざとく独り言を聞きつけた女が、僕の顔を覗きこむ。


「あれについて調べるなら、ハウンドと直接会うのが早いだろうさ。……ま、そう簡単じゃないけどねぇ」

「そうだな……噂によれば、この森の奥地に住んでいるとか、常に集落ごと移動してるというのもある。真偽のほどは定かじゃないがな」


奥地と言えば狼の領域になる上、魔女が住んでいるという噂もあるくらいだ。まず人間が近付くはずもないだろう。まぁ、物好きが一人二人消えてはいるのかもしれないが……。


「何はともあれ、早く採取を済ませて戻ろう。ここは長居すべき場所じゃないからな」

「……そうだねぇ。でも、もてなしを受けないわけにはいかないだろうねぇ」

「は? 何を言って……」


ふいに感じる視線。

振り向いても見当たらないその主。しかし耳を澄ませれば確かに聞こえる、微かな唸り声。

一頭や二頭ではない……それに、辺りをどうやら囲まれているらしい。

ゆっくりと後ろへ下がり、女と背中をつけて剣の柄へと手を添えた。


「いつから居た……?」

「さぁねぇ。私も気が付いたのは、ついさっきさ」


明確な数は分からないが、それでもたった二人でどうにかなる数でないことは確かだ。

村から歩いて大体一時間半……狼たちの縄張りはまだ先のはず、だとすればこれは。


「……狼でも、魔獣でも問題ありだな」

「それ以前にこの状況が、既に問題ありありだろうねぇ。かかっ」


何も笑い事ではないだろうと思いつつも、どうしたものかと頭を回す。

このまま膠着状態がいつまでも続くわけもない。一瞬でも隙を見つければ、間違いなくこの潜伏者たちは襲撃をかけてくるだろう。

そして長時間の緊張状態が続いた人間が、少しも気を抜かずにいることなどできない。

…………もっても、あと数分といったところだろう。


「さて、ちょいとお手を拝借ってねぇ」


打開策を考えていた僕の背後で、この場には合わない呑気な声が聞こえたかと思えば、左手に女の指が絡んできた。何か小さな物を持っているらしく、硬い感触もある。

何事かと振り向いた僕の視界に映ったのは。



「――――さぁて、隠れんぼの始まりさ」



繋いだ手の間からこぼれ出す、赤い光。

その光は放射状に周囲へと伸びて、女の体と僕の体それぞれに絡みついてゆく。


「な、なんだこれは……?!」

「おっと、手を放したら赤目の鬼に見つかるからねぇ。気を付けてくれよねぇ」


女はさっきよりも僕の手を強く握りしめ、にやりと口角を上げてみせた。

そうして女に引かれるまま、僕たちは村と反対の方角へ走り出す。


「お、おい! こっちは逆じゃ……!」

「狼に食われたいって言うなら止めないけどねぇ、それなら手は放すからねぇ」

「な、何言って……?」


振り返り見た先には、木立ちの影からその姿を現した無数の狼。

ぎらりと光る赤い目が、突然消えた僕たちを探すように周囲を見回していた。

あれがもし襲ってきていたらと考え、頭を振る。あまり心臓に悪い想像はするものじゃない。ぞくりと背中を駆ける悪寒に身を震わせながら、僕は前へと顔を向けた。



=*=*=*=



それからどれだけ経ったかは分からないが、狼たちをどうにか撒いたらしい。

昼でもなかなか日の差し込まないこの森は、時計でも見ない限りは正確な時間を知ることが難しく、その余裕のない今、まるで途方もない時間を逃げ続けているような疲労感が僕たちを襲っていた。

静寂のみがこの場に座りこんで、無駄に体が緊張していく。

聞こえるのは木々の鳴る音、そして二人分の足音。狼の気配は、感じられない。

女の言っていた通り、やはりあれには僕たちの姿が見えていなかったのだろう。今思えば、最後に振り返り見たあの時も、狼たちはこちらを追ってきてはいなかった。


「………………」


握ったままの手へと視線を落とせば、赤い光は依然として指の隙間から漏れだしている。

この光はどうやら姿を隠すどころか、僕たちが走る足音も、僕たちの匂いすらも閉じ込めているらしく、いとも簡単にあの場を離れることができた。

魔法に疎い僕でも、これが初心者にも扱えるようなものでないことくらいはわかる。

しかし、これほどの魔法を使える人間が、なぜ魔法が禁止されているこの村に滞在しているのか。そんなことを考えていると、女がふいに座り込んだ。


「お、おいっ」

「ああ、大丈夫だから気にしなくて平気さ。少しばかり、疲れただけだろうからねぇ」

「………………」


それはつまり、僕と女の手からこぼれるこの赤い光が原因なのだろうか。

魔法を使ったことのない僕には、何をどうすれば良いのか、さっぱり分からないが……このままにしておくわけにもいかない。


「水でも飲むか?」

「かかっ。気にしいだねぇ、大丈夫だって言ってるじゃあないか」

「いや、そうは言ってもなぁ……」

「私のこれは魔力を消費して疲れてるだけだからねぇ、リコリスの蜜でもあればすぐに回復できるだろうが……ま、少し休めば大丈夫さ」


からからと気楽そうに笑う女の額には、汗の粒が浮いている。

魔力の消費による疲労など経験したこともない僕には分からないが……恐らく、相当に辛いのだろう。まるで風邪でもひいたかのように、顔が少し赤らんでいる。


「……もう少し休むか?」

「いんやぁ、この結界石が効いてる内に少しでも安全なところへ行かないとねぇ」

「結界石……今、お前の手との間にある物がそうか?」

「それ以外に何があるって言うんだい、かかっ……」


呆れたような目を向けられ、少し釈然としないものの黙って肩をすくめた。


「これは適当な石にあらかじめ魔法を封じ込めておくものでねぇ。だから呪文も魔力もいらない……握って、その魔法の名を頭に思い浮かべるだけで、誰にでも使えるってわけさ。ま、一度使えば砕け散るってのだけは、いただけないけどねぇ」


顔だけこちらへ振り向かせ、得意げに説明する女。

変わった奴とんでもない奴と、出会ってから何度も思ったが、こいつには本当に驚かされてばかりだ。


「……本当に、お前はすごいな」

「ん、ま、まぁねぇ」


素直に気持ちをこぼすと、意外そうに目を丸くされたうえにそっぽを向かれる。

照れてるのだろうか、それともそんなに僕が褒めるのは珍しかっただろうか。

しかし、呪文も魔力も必要なく魔法を使用できると言うのなら、あの村で暮らすのには必需品なのだろう。そんな物を使って平気だったのだろうか。


「………………呪文も、『魔力も』いらない?」


改めて口に出して、僕は我に返る。

この手に握られた石をただ使うだけなら、魔力を使わずに済む。

それならなぜ、この女は魔力を消費しているんだ。他の魔法を使っているようには見えないということは……つまり。


「……野暮なことは訊くもんじゃないからねぇ」

「え、いや……」


見透かしたように釘を刺され、思わずしどろもどろになってしまう。

おそらくはそういうことだ。石を使うだけでなく、それ以上のことを……例えば、その魔法の効果を二人分に強化するとすれば、魔力を消費するのではないだろうか。


「……なぜ、そこまでして僕を助けるんだ?」

「はぁあ? 今度は何を言い出したんだい、あんたは……」

「別に僕を助ける理由など、お前にはないんじゃないのか? お前の魔法をばらさないように見張る為、僕と一緒に居ると言っていただろう」


それなら、あの場に僕だけ置いて逃げれば、自らの手を汚すことなく僕の口を塞げる。

額に汗をしてまで、嫌味な笑みを浮かべる余裕もないほどに辛い思いをしてまで、僕と一緒に逃げる必要はないはずだ。


「色々と理由はあるけどねぇ……まぁ、あの村の人間だからと答えておこうかねぇ」


足を止めてそう言った女は、こちらを振り向かない。

ただ、その肩が荒い呼吸によって上下するのが、痛々しくて目を背けてしまう。


「……さぁて、そろそろお喋りの時間は終わりだねぇ」


そんな呟きが聞こえた直後、放すなと言われた手が解かれた。

同時に、赤く輝いていた石が音を立てて割れ、辺りにその光をばら撒く。


「うお、っと……!」


急なことに体が少しつんのめり、女の背中へ危うくぶつかりかけてしまうが、どうにかこらえて踏みとどまった。

文句の一つでも言おうかとあげた視界には、こちらを少し振り返り、引きつった笑みを見せている女が。


「エリカ様お手製の結界石は、狼の目くらいなら簡単にだまくらかせるがねぇ……」


そしてゆっくりと後ろへ下がり、僕の横へと立つ。

視線で促された先を見れば、そこには見間違えることのないあの色が、木々の隙間からこちらを睨んでいた。


「――――魔力を持つ魔獣には、効かないのさ」


金色に輝く、人狼の瞳が。




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