3話 「賑やかな朝」
翌朝、僕はまた人魚の瞳に入り浸っていた。
手を微かに震わせ、ゆっくりと傾けたマグの中身へ口をつける。
本当であれば昨晩のように一息で飲み、早々に酔ってしまいたいのだが、少し動かしただけでもこの首が悲鳴をあげるのだから、仕方ない。
それというのも、ベッドと呼ぶにはあまりにも冷たく硬い床で、一晩を越したのが原因だ。
寝起きは最悪だった。枕代わりにした腕は痺れ、腰や背中はぎしりと音を立てそうなくらいに痛み、今もまだ少しの違和感が残っている。
「………………」
あの女のせいでいつもの宿には泊まれなかったものの……あいつが酒場の主人にごねたおかげで、野宿になるところを酒場の空き部屋に一泊できたのだから、あまり文句を言うものではないのかもしれない。
……いや、そもそもあいつのせいだということを考えると、それもどうなのかと思うが。
「よう、クロル。昨晩はよく眠れたか?」
呼びかける声に顔を上げると、酒場の主人カットが奥の調理場から、店のカウンターへ出てくるところだった。
顎に少し生えるヒゲと、だらしなく伸びた栗色の長髪がどこか疲れたように見える。
どうやら、昨日の分の食器をすべて片づけ終わったらしい。
「ああ、カットの兄貴か……おかげ様でな」
引きつらないよう笑みを浮かべて、そう答えた。
寝心地が良かったとは、お世辞にも言えないが……部屋をただで借りたのだから、文句は言えない。
「そうかそうか、そいつは良かった。…………ふああぁあ……」
安堵したように頷いたカットは、眠そうに大きな欠伸を一つこぼした。
酒場と言えば、夜に賑わう場所の代表ではあるが……食堂などがないこの村では、朝の早い商人や漁師たちにとっても利用しやすいのだろう。さすがに夜ほどではないがそれなりの客入りがあるのだ。
今はちょうどその中間、夜の客も朝の客も居ない時間であり、店の中を見回してみても僕たち以外に客は見当たらない。
「……そろそろファニスが来る時間だろう。どうせ客も来ないだろうからな、カットの兄貴も寝てくるといい」
酒場の主人と言えど、カットも人間だ。どこかで眠らなければ死んでしまう。
そこで、一番忙しい夕方から早朝までをカット本人が店を開ける代わりに、朝から昼をファニスという薬屋の娘に任せているのだ。
これがなかなかにしっかりした娘で、明るく人当たりも良い為、彼女目当てで昼間から酒場へ入り浸る夜の客も居るらしい。
「そりゃあ、俺だってそうしたいのは山々だがなぁ……」
カットはそう言いながらカウンター席を見た、というより……僕の隣を見た。
「すぅ……すぅ……」
そこにはカウンターへ突っ伏したまま、穏やかな寝息を立てて眠りこける女が。
宿代などなく、カットに部屋を貸してもらうこともできなかったこいつは、どうやらこの場所で夜を明かしたらしい。
カットの方としては、こいつが店の中に居ると思うと、安心して寝られないということなのだろう。
何せ、両手で数えきれないほどの回数、こいつには色々と面倒をかけられているらしいのだから、それもまた仕方ないのかもしれない。
「まぁ、当分は起きないだろうからな。大丈夫だ」
「………………」
疑うような目で、女と僕とを交互に見るカット。
今まで色々とやらかしてきたこいつを信用することは、なかなかに難しいのだろうが……僕としては、それくらいのことなら信じてやっても平気なのではないかと思ってしまう。
根拠がない分、説得力は少しもないのだろうが。
「……ふぅ、分かったよ。クロル、お前も痛い目に遭わないよう気をつけろよ」
「ああ、大丈夫だ」
にやにやと口の端を持ち上げながら、からかうように笑うカット。
……どうも、明後日の方向に誤解されているような気がする。
そんなことは天地がひっくり返ったとしてもありえないのだが……まぁ、強く否定すればするほど面白がられるのがおちだろう。僕は軽く流して苦笑いをこぼした。
「油断してると、女ってのは怖いぞ? 特にそいつはな」
そう捨て台詞を吐くと、後ろ手にひらりと振りながら自室への扉を開いた。まったく、いらない世話というものだ。
*=*=*=*
カットが奥の部屋へと姿を消してすぐ、隣の影がもぞりと動いた。
「やぁ、ボロ布の兄さん」
「……お前、起きていたな?」
「何のことやらさっぱりだねぇ、かかっ」
女は体を起こして、気持ちよさそうに大きく伸びをする。そして窓の外、上り始めた日に目を細めて緩い笑みを浮かべた。まるで機嫌の良い猫のようだ。
「さて、今日は何をしようかねぇ」
それから頬杖をついて、こちらを向く女。子どものように無邪気なそれは、遊ぶ相談でもするかのようなものだった。
「……勝手にすればいいだろう」
うっかりと女の調子に乗せられ、一瞬でも童心をくすぐられてしまった自分が恥ずかしく、ついぶっきらぼうな答え方をしてしまうと、そいつはわざとらしく目を丸くして驚いた仕草をする。
「何を他人事のように言っているんだい。私は、あんたと一緒に何をしようかって考えてるのにねぇ」
「は?」
聞き間違いだろうか。今日も僕と一緒に行動すると、そう言われたような気がする。
首を傾げる僕の手から酒の入ったマグを奪い、口をつけてにやりと笑った。
先ほどまでの無邪気さはもう、どこにも見当たらなかった。
「何も不思議じゃあないだろうねぇ。あんたは私の秘密を知っているんだ、妙なことを考えないように見張るぐらいのことはするだろうさ」
「お、お前、昨日は僕がそんなことできないだろうって……」
「おうともさ。あんたにはできない、できないだろうが念には念をってねぇ?」
「………………」
言葉を失い、口を閉じる。
確かに、こいつと友人関係という繋がりができるくらいのことはいいかと許したが、それとこいつに付きまとわれることは別の話だ。
しかし、昨晩のあれを見てしまった以上……これを振りほどくのは、なかなか勇気がいる。
どうしたものかと頭を悩ませるが、良い案など浮かぶわけもなくため息がこぼれた。
「ま、今日も一つよろしく頼むよねぇ」
それを面白そうに横目で見つめる女の顔が、気に食わない。まったくもって。
「怖いもの知らずのくせして、随分と慎重なんだな」
せめて嫌味くらいはと吐いたその言葉は、やけに情けなく自分の耳へ戻ってくる。
「そりゃあそうさ。私も死にたくはないからねぇ、かかっ」
女はそう笑いながら、僕の肩へと寄りかかってきた。
しらふのそいつの体は冷めていて、それでも秋の空寒さが溶けていくようだ。
心地がいいとは認めたくないが……無理に引き剥がすのも、もったいない。
「……それならせいぜい、僕が裏切らないようにしっかり見張るんだな」
「ご忠告感謝するよってねぇ、かかかっ」
更に垂れ流した嫌味はあっさりと女に飲み込まれ、微笑まで浮かべられてしまう。
魔法を使われなくても、どうやらこいつには勝てないらしいな。そんな少し情けない敗北を認めた僕は、女のそれに苦笑を返したのだった。
「おはようございます、カットさん」
ふいに酒場の扉が開いた。
振り返り見れば、この場に居ないカットへの挨拶をするファニスが視界に入る。
彼女が愛用している、短めの青いスカートがその裾を空に泳がせ、太ももが少し覗いた。視線を上げれば、透き通ったリンゴ酒のように艶やかな髪が肩の上で踊るのが見える。
そして、少し伏せられた碧眼がゆっくりと上げられてゆき……。
「……って、あれ? クロルさん?!」
僕と目が合うと、大きな瞳を丸くして声を上げる彼女。
この時間に酒場で入り浸っている、というのは確かに珍しいだろうが……そんなに驚くようなことだろうか。軽く手を振ると、ファニスはすぐ傍まで駆け寄ってきた。
……が、少し離れたところでまた立ち止まる。
「そ、その人は、誰ですか?」
震える指先が示すのは、もちろん僕の肩へと寄りかかったままの女だ。
「ああ、昨日知り合ったばかりの奴で、エリカ・アンブレザーだ。本人曰く、奇術師だそうだが……まぁ、名前くらいは聞いたことがあるだろう」
気が強くしっかりしているとは言え、ファニスはまだ十三の年若い娘。
こういうものはやはり見せない方がいいのだろう。僕は女を向こうへ押しやって、苦笑いを浮かべながらそう説明する。
それを聞いたファニスは、女のことを睨みつけた。
「……なるほど、この人が噂の。見るからに怪しいというか、胡散臭いというか……」
対して、振り向きもせずに僕のマグをまた傾ける女は、嫌な笑みを浮かべている。
そして、ファニスの怪しむような言葉を聞いた直後、まるで獲物を捕らえた狼のように、その赤い瞳を細めて輝かせた。ああ、きっとろくなことを考えていないのだろうな……。
「――――黙って聞いていれば、随分な言いようじゃあないか」
そう言うなり、女はゆっくりと立ち上がって、ファニスの目の前まで歩み寄る。
「あれ、聞こえてたんですか。てっきり、耳が遠いのかと思ってたんですけど」
「かかかっ、それであの言いようかい。いい性格してるじゃあないか、小娘」
「あなただってあたしのこと無視してたでしょ、お互い様よ」
「あんたの小さな声なんて聞こえなかったのさ。何しろ、耳が遠くなってねぇ?」
「はっ、おかしいじゃない。あなた、黙って聞いていればって、自分で言ったじゃないの」
突然、目の前で始まった女二人の口論は、皮肉や揚げ足取りが混ざり合って、いかに相手を言い負かすか、という勝負のようになってきてしまっている。
止めるとしたら僕しか居ないのだが、こんなものに口を挟むほど浅はかではない。
空になったマグへ酒を注ぎながら、ため息をこぼした。
「第一、いつもいつもカットさんに迷惑ばかりかけて。いい年して恥ずかしくないわけ?」
「恥ずかしくはないねぇ。それに悪いとも思わないさ」
「何それ、開き直ってるの? あったまに来た、その性根を叩き直してあげるわよ!」
……とは言え、これはさすがに止めないといけないか。
ファニスの肩を叩くと、驚いたように振り返る。すっかり僕の存在は忘れていたらしい。
「もうやめておけ、その女はそういう奴なんだ」
「っ、クロルさん……この女の肩を持つんですかっ?!」
「いや、僕が持っているのはお前の肩なのだが……」
「面白くありません!」
道化を演じれば、少しは怒気を抑えてもらえるかと思ったのだが、どうやら逆効果だったようだ。…………そんなに面白くなかっただろうか。
「そ、そうか……悪い」
「あ、い、いえ! っもう、あなたのせいなんだから!!」
素直に謝れば、言い過ぎたと慌てたのか首を勢いよく振り、それから真っ赤な顔で女に怒鳴るファニス。今のは、全面的に僕が悪かったと思うのだが……。
「かかかっ! なるほどなるほど、そういうことか。あんたも隅に置けないねぇ?」
しかし、気を悪くした様子もない女は、寧ろ楽しそうに笑った。
……なぜ僕が隅に置けないのか、少し理解に苦しむが……もしかすると、この女には面白く感じられたのだろうか。さっきのあれが。
自分で言っておきながらなんだが、やはりこいつは随分と変わっているらしい。
「話を戻すが……なるべく穏便に済ませたい。お前の方もそろそろ、こんな奴に構っている場合ではなくなるだろう?」
「へ……? あ……」
顎で促した先には、先ほどから店の中へ入ってきていた客たち。
とても注文などできる雰囲気ではなかったせいでもあるが、二人の口論を見世物のように楽しんでいる者までいる。
「ご、ごめんなさい! 皆さん、今すぐ注文取りに行きますので、ちょ、ちょっとだけ待っててくださーいっ!!」
それにようやく気が付いたファニスは飛び上がった。一つのことに集中すると別の何かがお留守になってしまうのは、相変わらずのようだ。
「……さぁて、それじゃあ昨日の話の続きでもしようかねぇ?」
慌ただしく駆け出したファニスの背中を苦笑しながら見送っていると、先ほど僕が注いだばかりのマグを、至極当然のように取りながら、女がそんなことを言い出した。
「何のことだ。……まさか、また何だかんだと理由をつけて、僕に酒をおごらせようという魂胆じゃないだろうな」
「かかっ、違うさ。昨日は、私が勝手にあんたの素性を想像遊びするだけで終わったからねぇ。正解を教えてもらおうかと思ったのさ」
ま、私はそっちでも構わないけどねぇ。そう笑いながら言って、またマグを傾ける。
……今飲んでいるそれも僕の金で払ったものなのだが、とは思ったものの、言ったところできっとのらりくらりといいように転がされて終わりだろう。
「………………」
「いやぁ、そんなにへそを曲げないでおくれよねぇ。さすがの私も、大の男にそうされちゃあ弱いってものさ」
「うるさい、バカ女」
からからと僕を面白がって笑う女に悪態をついて、ついでにため息もこぼした。
「で、どうなんだい?」
それでもお構いなしで昨晩と同じように、ずいと顔を近づけ、嫌な笑顔で僕を見つめる女。
まったく、何が僕に似ているだ。昨日の自分の顔面へ冷水をぶちまけてやりたい気分になりながら、視線を女から逸らした。
「はぁ……僕の素性、だったか。聞いたところで、面白いものではないと思うがな……」
「そういう問題じゃあないだろうさ。私は自分が奇術師であると言ったし、ついでに秘密まで見せてやったんだからねぇ?」
「……あれは見せられた、というのが正しいだろう」
もしくは、魅せられた……かもしれないが。
エールの入った瓶に口をつけながら思い出すのは、あの炎。
もしも……あれに焼かれたとしたら、それはどんなに苦しいものなのだろうか。
全身が一瞬ひやりとしたのを咳払いで誤魔化し、口を開く。
「まぁいい。僕は、この村で生まれ育った人間だ」
「ふふん、だろうねぇ? あの視界の悪い森の中、依頼の場所まで迷わず辿り着いたんだ。村の人間じゃなきゃあ無理だろうさ」
なるほど、確かに言われてみればそうかもしれない。
そうは思っても、決して口には出さずに鼻だけ鳴らしてそっぽを向く。この得意げな顔を見ていると、何が何でも同意したくなくなってしまうのだから仕方ないだろう。
……どうも、幼い子どもに戻ってしまった気分だ。
「職業、というのは少し違うのかもしれないが、一応この森について調査する探検家のようなものをしている。そのついでということで、昨晩のような依頼をこなしたりもする為か、魔獣退治の傭兵と勘違いされることも多いな」
「ふぅん? そこをわざわざ分けて言うということは、一緒にされたくないってことかねぇ? かかっ」
「当然だ。僕は悪戯に森で暮らす生物の命を奪ったりはしない。……とは言え、生きるのにやむを得ず、ということは少なくないがな」
「だけどねぇ、昨日の様子を見た限りじゃあ、命のやり取りができるほどの腕前には見えないけどねぇ……」
「ああ、基本的に攻撃することを考えてはいないからな」
瞬きを数回繰り返し、女が理解できないというように眉をひそめた。
「はぁ? 武術ってのは敵と戦う為の手段だろうさ。それがどうすると攻撃しないなんて、間抜けな形になるんだい」
まったく、好き放題言ってくれるな。こいつは。
そうは思っても、女の言うことには一理も二理もあるというものだろう。
この世界にある剣のほとんどが、両刃なのは自分の行方を遮る敵をどうあっても斬り殺す為だと、いつだったか飲んだくれた冒険者が言っていた。
……本質は結局、そこにあるのだろうと思わないわけではない。
「自分が傷つけられなければ、相手を傷つける理由はない。それなら、相手に傷つけられないよう、避け続ければいい。それが、僕の剣だ」
だが、他人を傷つけてまで貫きたいものなど、僕にはないのだ。
それならば、なるべく剣などは抜かずに交えずに、鞘の中へ入れたまま朽ちてしまった方がいい。誰の邪魔にもならず、助けにもならない役立たずのまま。一人で。
「…………それは、独りで生きるっていうことかい」
ふいに聞こえたその言葉に、僕の心臓は妙にどきりと跳ね上がった。
ゆっくりと視線を女へ向ければ、そいつは少し機嫌の悪そうな顔をして、赤い瞳を鋭く光らせる。
「それは守るものがある奴の言葉じゃあない。何もかもを捨てて、諦めて達観したつもりになっている道化の戯言さ」
あんたは、道化じゃあないだろう。
そう言って睨むその目に、僕は何も返すことができなかった。
しかし、すぐにそれは細められ、笑みへと変わる。
「あんたのことを好きでいてくれる奴がいる限りは、そんなことを言うもんじゃあないさ」
優しいその声色は不思議と懐かしいような気もしたが、どうも思い出せない。
誰かのものと似ていたのか……いや、それよりも僕のことを好きでいてくれる奴とは、誰を指しているのだろう。
今のところ、僕の知り合いはカットとファニスくらいしか知らないはずなのだから、おそらくはこの二人のことだ。しかし、好きでいてくれているとは思えないのだが……。
目の前の微笑を見ていると、わざわざ彼らと僕との関係を明らかにしてしまう必要はないかと思う。少し鬱陶しいが……まぁ、これくらいはいいだろう。
「かかっ、何すっとぼけた顔してんだい。……ほぅら、そこの小娘も盗み聞きばかりしてないで、さっさと手を動かした方がいいんじゃあないのかねぇ?」
「! ぬ、盗み聞きなんてしてないわよ! たまたまちょっと聞こえてたから、何を話してるのか気になっただけで……」
近くのテーブルで注文を取っていたらしいファニスが、肩を怒らせてそう叫んだ。
「気になって、つい耳をそばだてていたんだろうさ。そりゃあ、立派な盗み聞きだねぇ」
「~~っ!! ほんっと、あんた性根腐ってるんじゃないの?!」
ファニスの反応がいちいち大きいせいか、女の興味はすっかり向こうへ逸れたらしい。わざわざ近づいていって、挑発的に笑ったり煽ったり……よくあれだけ他人で遊べるものだ。
「………………」
僕はと言えば、助かったと思いつつも女の言葉が引っかかっていた。
あの言い方、そしてわざわざ道化なんて言葉を使った意図は、つまり。
はたと我に返り、僕は取り残されたマグを自分の元へ引き寄せた。あまり他人の言葉を深読みするものではない。
他人を避けたいのならば、それが一番だ。
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