2話 「満月の夜に」
何でこんなことに。
暗い夜の森を歩きつつ、僕は頭を抱えていた。
「おや、元気がないねぇ。酒でも飲み過ぎたかい?」
隣でけらけらと笑いながら皮肉を言う女に、ため息をこぼす。
「……ちょっと黙っていろ」
「まぁまぁ、そう怒らないでおくれよ。仕事は楽しくするのが一番だろう?」
「誰のせいでこんなことをする羽目になっているか、よく考えてから口を開け!」
我慢できずにそう声を荒らげれば、おどけた様子で笑われる。あぁ、苛つく。
カモ認定された後の僕は、それでもまぁ面倒事にならないだけましか、と渋々ながら酒を奢ってみることにした。
……しかし、それが大間違いだった。
こいつはガブガブ、ガブガブとまるで水のように酒を飲み、あっという間に懐の金では払いが足りなくなってしまったのだ。
薄々分かってはいたが、女の懐は寂しいどころか、ただの一銭も持っていなかった。とは言え、最初から期待していなかったせいか、腹も立たなかったが……。
結局のところは酒場の依頼を引き受け、それをこなした分の報酬を支払いにあててもらうこととなった。
僕としては、自分の飲み食いした分だけ払って出てしまおうかとも思っていたが、酒場の主人に女のお目付け役を頼まれてしまったのだから仕方がない。
あの酒場をよく利用させてもらっている身としては、そこの主人の頼みを無碍にはできないだろう。
「かっかっかっ! さぁ、どこからでもかかってこいってねぇ!」
……こいつは、どうも違うようだが。
今頃になって酔いが回ってきたのか、危なっかしい足取りで歩く女は、今にも転んでしまうのではないかとハラハラさせるような挙動ばかりだ。
「しっかり歩け、ほらこっちだ」
そんなことを僕が心配する筋合いはないのだが、ついつい袖を引っ張ってしまう。
仕方ないだろう。何せ、主人にお目付け役を頼まれてしまったのだから。
「でぇ、ボロ布の兄さん」
「誰がボロ布だ。…………誰が」
ちらりと格好を確認して、その通りだと納得してしまった自分に腹が立つ。
女の方はと言えば、腕を左右に振って遊びながら声を弾ませている。
どうも僕の腕が一緒に振れるのが楽しいらしく、その様子はまるで子どものようだ。
「かっかっかっ。で、ボロ布の兄さんよ。仕事ってのは、何だったかねぇ?」
「………………」
思わず絶句。あまりにも、あまりにもというものではないか。
……しかし、こういうふざけた奴だというのは、分かっていたはずだ。あの酒場で声をかけられた時から。一つ深呼吸をして、少し頭を冷やしてから口を開く。
「主人から受けた依頼は、村近くにある洞窟に住み着いた魔獣の退治だ」
「魔獣、ねぇ?」
この世界で人間を敵視するものの代表、魔獣。
様々な種族が存在し、飛行する者や火を吐く者、独自の言語や文化を持つ者、人間の姿に変身する者でさえいるという。とにかくもその種類は多岐にわたり、その数は数百以上にものぼるという噂だ。
一説には世界の端、と呼ばれる未踏の地からやってくると言われているが、その生態や目的などの一切は、百年以上も研究されている今でも不明のまま。
分かっていることと言えば、人間に襲いかかってくること……つまり敵であることだけだ。
「何が住み着いたかは分からないと言っていたが、一応小型のものだそうだ」
「ほー……ま、この辺りなら十中八九、狼の類だと思うがねぇ?」
女がつまらなさそうに言う通り、僕もそうだろうとは思っている。
何せ、村の周りをぐるりと囲うように鬱蒼と茂るイサークの森には、狼の群れが住み着いているのだ。それが洞窟を住処にした、それだけの話だろう。
「……狼なら、いいけどな」
主人もきっとそれは分かっているのだろう。
しかし、それでも魔獣かもしれない以上、討伐せずにはおけない。あの村の過去は、それだけ強く傷跡を残しているのだ……僕たちの心の中にも。
「例え魔獣が出てこようと、大丈夫さぁ。私が居るんだからねぇ、かかっ」
「ああそうか、それは頼もしい限りだな」
「おうともさぁ、かっかっかっ!」
皮肉っぽくそう返してみても、女はへらへらと笑って僕の腕に寄りかかってくる。
親しくもない相手によくもまぁ、これだけ馴れ馴れしく振る舞えるものだな。
僕はこめかみを押さえつつ、またため息をついた。
それから少し後、僕たちは目的の洞窟の前へ立っていた。
「ふむ……」
大木の根本にできていたそれは、木の根によって支えられているらしい。
手近にあった根を手で掴んで軽く振れば、地面から剥がれることはないものの頼りなくぐらついた。これでは、いつ崩れてもおかしくないのではないか、と入るのを躊躇したのも束の間。
「そーれ、お先にどうぞってねぇ」
女の声が聞こえて、その意味を理解した時には手遅れだった。
「うわぁああっ?!」
酔って千鳥足の女には任せられないなと、率先して動いたのが間違いだったのか……それとも、自分の背後に立たせたのが間違いだったのか。
木の根の隙間から様子を窺っていた僕の無防備な背中は押され、あっと言う間に洞窟の中へと転げ落ちていった。
「だっ……!」
地面へと叩きつけられた全身が痛みに悲鳴をあげる。
暗くてよく見えなかったが、そんなに深くはなかったらしく、骨が折れたりはしていなさそうだが……文句の一つも言わなければ気が済まない。
痛みに痺れる体をどうにか起こし、まだ入り口に居るであろう女に叫ぼうとすれば。
「いってぇ……何するんだ、よ……?」
そうして振り返り見た僕の視界いっぱいに映る、女の足。
「二番乗りぃってねぇ」
「ぶっ?!」
次の瞬間には、顔面へと着地された。
当然、人一人を支えきれるほど頑丈にはできていない僕の頭は、重力に逆らうことなく地面へと倒れてゆく。
「あだっ!」
「おっと、悪いねぇ。ほんの少しずれちまったよ、かかかっ」
未だ額へ足の先を乗せたままの女が、苛つく笑い声をあげた。
後頭部が痛みにじりじりと焼け、怒りで頭が爆発してしまいそうだ。
「どこに着地するつもりだったんだ! もういいから、早くそこから足をどけてくれ!」
「いやぁ、悪いことをしたからせめて、ねぇ?」
何のことだと思う間もなく、女は自分の着ている長いローブを揺らす。
……当然、その真下にある僕の視界には、その中身が見えるはずなのだが。
「――――何も、見えないな」
灯りもつけていない洞窟の中で、そんなものが見えるわけもなく。
「まぁ、暗いからそうだろうさ。残念だったねぇ、かかっ」
楽しそうに笑う女の声に、ああ遊ばれたと肩を落とすことは、なかった。決して。
「……ん?」
ふいに額から足が離れ、視界もまたローブの中から脱出する。
何とも言えない気持ちで体を起こすと、落下直後にはまったく見えなかった洞窟の中が、多少見えるようになっていた。おそらくは、さっきのアレで暗闇に目が慣れたのだろう。
「ボロ布の兄さんよ、あそこに何か居ないかねぇ……?」
対して女の方はまだらしく、自信なさげにそう声をかけてくる。
仕方なく女の指差す方を見れば、少し離れた位置に座り込んでいる人影を見つけた。
「人だ……!」
もしかすると、気付かずにここへ落ちてしまって怪我でもしているのだろうか。
「そう、なのかい……?」
「くくっ、お前でも怖いものはあるのか。だが、あれはどう見ても人だろう」
まだよく見えていないらしい女は、そう言いながら後ろへと下がってゆく。
こんな奴とは言え、やはり女なのだなと変に感心しつつも、僕は人影へと近づいていった。
「そこの奴、怪我をしているのか?」
ぴくりとも動かない人影は、その呼吸の音だけを洞窟に響かせている。
さっきから反応しないところを見ると、もしかしたらあまり怪我の具合が良くないのかもしれない……。
僕は更にもう一歩近づき、肩へと手をかけた。
「なっ?!」
すぐに手を引っ込める。
なぜなら、その場所が大量の血で濡れていたからだ。
本当に重症なのかもしれない。僕は慌ててその場にしゃがみ込み、体を揺すった。
「大丈夫か、おいっ!」
そうして間近で呼びかけると、その人影はやっと頭を上げ僕と視線を合わせた。
金色に輝く、魔に取りつかれた邪眼で。
「っ、うぐっ……?!」
次の瞬間、僕の体は後方へと吹き飛ばされた。
木の根に背中を打ち付け、そのままずるずると地面へ尻をつける僕の歪んだ視界に映るのは、数メートル先に輝く二つの瞳。
やがてそいつは天井を仰ぎ、その大きな口を開いた。
「アオオォォンッ……!」
狼の遠吠えが、洞窟を震わす。
鼓膜が破れそうなそれは、腹の中にまで響き渡り、僕の中に恐怖を植えつけた。
のそりと立ち上がったそれは、ゆっくりとこちらへ向かってくる。
そうか、今日は。今夜は。
………………【満月】の夜だ。
「グルルルル……」
上から注ぐ月光の元へその身を晒したそいつの姿は、人狼のそれだった。
影に隠れた女には気付いているのか、それとも気付いていないのか。
そいつは一瞬も僕から目を逸らさずにいる。
そして。
「ガアアァァァッ!!」
「くっ……!」
地面に組み伏せられ、すぐ目の前へと迫る狼の牙。
咄嗟に抜いた剣で、どうにか噛み付かれずには済んでいるが……。
「グルルッ、ヒト、クウ……!」
まだ人間の意識が辛うじて残っているのだろうか。
そいつは唸り声の合間に、片言の言葉をこぼしている。
……とは言え、理性の方はほんの少しも残っていないらしいが。
「く、食われるわけには、いかないな……っ!」
小さな洞穴にぽつんと座り込んでいた人影に、慌てて声をかけたらこの有り様か。
なんて厄日だろう。変な女には絡まれ、顔面は踏まれ、いいことなんて一つもない。
「ガウッ、ガアァァッ!!」
ガチガチと何度も牙が噛み合わさる音が、耳に響く。
このままでは、食い殺されるのも時間の問題だ。
あの女に助けを求めるのは避けたかったが、命には代えられない。
「お、おいっ……見てないでっ、助けてくれ……!」
「人狼が住み着くとか、どうなってるのかねぇ? この森は」
こちらを見つつ、そんなことを訊ねてくる女。今まさに、その人狼が襲っている僕へと。
「ぐっ、お、お前! 早く、助けっ……!」
こんな状況でまでふざけられては堪らない。呑気に考えこんでいる女に声をかけると、にやりとそれはもう気持ちの悪い笑みを浮かべられた。……ああも悪人面という言葉がぴったりの笑い方をする奴、初めてみたな。
「そうだねぇ、助けてあげないこともないけどねぇ……」
「なん、だよっ! くっ、うぅ……!」
「この仕事が終わったら、晩飯を奢ってくれよねぇ」
「は、はぁっ?!」
何考えてるんだこいつ。この状況になった原因を、まさか忘れているのか。
「! ガァアアッ!!」
女の言葉に僕の注意が向いた瞬間、隙ありと言わんばかりに首元へ狙いをつけた人狼の、鈍い光を放つ牙が襲いかかる。ああこんな女に殺されるのか、と歯を食いしばった次の瞬間。
「Ken・Eoh・Ur……フレイムブラスト!」
目の前を駆け抜けてゆく、炎の奔流。
あっと言う間に僕の上へと乗っていた人狼を吹き飛ばしたそれは、火の粉とその香りだけを残し、すぐに消えてしまった。しかし、焼かれた人狼の方はそれで済むはずもなく。
「ギャアアァァァッ!!!」
悲痛な叫び声を上げながら地面を転げまわっている。
ところどころに見える焼けた皮膚が痛々しくて、思わず顔を背けると、女がすぐ横を通り抜けた。何をするつもりかと視線を戻せば、人狼のすぐ傍で立ち止まる。
「キュゥン……ゲフッ、ガフッ……!」
そして、息も絶え絶えに吐血する人狼の額へ右手を伸ばし。
「Ken・Rad・Lagu・Yr・エクスハティオ」
「なっ……!」
言葉を失うとは、このことか。
呪文を唱えた女の周りに赤い火の玉が無数に浮かんだと思えば、瞬く間にそれらは人狼の体へと集結してゆき、巨大な業火へと育ったそれが熱風と共に燃え上がった。
「ギャオオォォォンッ?!」
見るのもはばかられるほど、苦しみにのたうち回る人狼。
その体を覆っていたはずの毛皮は黒く焦げて、肉の焼ける臭いが鼻をつく。
「………………」
やがて動かなくなったその骸を足で踏みつけ、女はこちらを振り返った。
三角帽子の影に隠れた赤い瞳が、やけに光って見えて、僕はつい後ろへと逃げてしまう。
「かかっ。私は魔獣が嫌いでね、燃やさずにはいられないのさ」
そう言うと、そいつは僕の近くまで歩いてきてしゃがみこんだ。
「お前……魔法が、使えるのか……?」
訊ねる声が震えた。
魔法を使えるということ自体は、この世界で珍しくもないことだが……この村だけに限るのなら、魔法の使用は禁忌とされている。
「かかっ。私は魔法使いだからねぇ、使えるのが当たり前さ」
女が自らのローブについた火の粉を軽く払いながら、呆れたような目で僕にそう言うが、そういう問題じゃない。そう、そんなに単純な話ではないのだ。
「……僕の前で、なぜ使った? あの村に滞在している以上、知っているんだろう」
「魔法禁止令、魔法を使った奴は即刻、舌を切って火あぶりの刑……だったかい」
何でもなさそうにそう言う女。それを知っていて、何故。
実際にふらりと立ち寄った旅人が知らずに魔法を使い、処刑されたこともあるのだ。
これは語られるだけの脅しなどではなく、行われたことのある本物の刑だというのに。
「ばれなければいいさ」
「僕が告げ口するとは、思わないのか」
「思わないねぇ」
間を置かずにそう断言され、二の句が告げずにいる僕を笑う女。
「あれを目の前で見て、そんなことができる奴には見えないよ」
「――…………」
口を開こうとして、また閉じる。
「さぁ、仕事は完了さ。さっさと帰って、晩飯を奢ってもらおうかねぇ。かかかっ」
愉快そうに笑いながら、一足先に出ていく女の背を見送り、ため息をこぼす。
一言くらい、何か言ってやろうと思ったのに……あんな目をされては、何も言えないじゃないか。僕は女の寂しそうな目を思い出しながら、続いて洞窟を出た。
*=*=*=*
「はぁぁぁ…………」
酒場を出てから、軽くなった懐に肩を落とす。
依頼の報告が終わり、主人の想定していた魔獣よりも危険な相手だったことを考慮し、いくらか報酬が増えて喜んだのも束の間。
それならば、仕事終わりの一杯を飲もうと女が駄々をこね、仕方なく飲んだのだが……報酬のほとんどが、あいつの腹の中に納まってしまった。
おかげで今日は夕飯どころか、宿の心配をしなければいけない有り様だ。
一度は命を助けられたからと酒を奢ったが……これはあんまりというものではないだろうか。大体、あいつがあんなに飲まなければ、危険な目に遭うこともなかったのだし。
「ごちそうさん」
後ろから跳ねるように聞こえてくる、嫌味な声。
これ以上まとわり付かれるのはごめんだ。今日の宿代すらも飲まれてしまったというのに。
僕は振り返りもせず、黙って広場へと足を向ける。故郷である村の中で野宿とは、何とも世知辛い話だ。
「まぁまぁ、そう怒らないでくれよねぇ」
早足で歩く僕の隣へと難なく追いつく女。どこまでも不愉快な奴だ。
「ついて来るな」
「やぁ、怖いねぇ」
くつくつとおかしそうに笑う女に苛ついて仕方ない。
反対へと顔を背けながら歩いていると、袖が少し引かれてつい、そちらを見てしまう。
「私はただ、あんたと仲良くなりたいだけなのさ」
何をぬけぬけと。絶対に話してなどやるものか、肩を怒らせながら歩けば、ぴったりと隣へ付いて来ていた女の気配がしなくなった。
足音も、僕のものだけしか聞こえない。
「………………」
こうなったらなったで気になるのが人情というものだ。
腹立たしいが、立ち止まって振り返ってみれば、女は少し後ろで立ち止まっていた。
黙ったまま、ぼろぼろの帽子を下へと引いて顔を隠すようにして。
「……はぁ。だとすれば、方法を大いに間違えているだろうな」
その姿が同情を誘い、ついついまた言葉を返してしまう。あぁまったく。
僕の言葉に女は顔を上げて、困ったような笑みを浮かべた。
「何せ友達など居ないもんでねぇ。慣れてないんだ、許してくれよねぇ」
これだけ馴れ馴れしく話しておいて、今更何を言っているのやら。
肩を竦めつつ、歩調を緩めて歩き出せば、すぐに隣へと追い付いてくる女。
「物心ついた頃から一人でねぇ、ぶっちゃけてしまえば一人の方が楽さ」
「……なら、何で僕に声をかけたんだ」
「寒かったんだろうさ、たぶんねぇ。かかっ」
まるで他人ごとのように笑う瞳が、ひどく寂しそうに見えた。
あの洞窟で見たのと同じ……そして、僕のとも同じ。
「……クロルだ、クロル・ツイスト」
「ん、急になんだい?」
「僕の名前だ。どんな関係も、相手に名前を教えることから始まるからな」
誰もが避けるような爆弾と友達になろうだなんて、愚の骨頂というものだろうけど。
僕とよく似た彼女のこと、もう少し知ってみてもいいかもしれないと思ったのだ。
「寒いなら手を取り合えばいい。……僕が、お前の記念すべき一人目の友人になろう」
差し出すのが遅くなったこの手を、女は少し呆れた笑みを浮かべながら、しっかりと握ったのだった。
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