1話 「緑髪の魔法使い」
もし、この世界にあの世とこの世、そして神の国が存在するのなら。
この場所はおそらく、そのどこでもない。
アレンティアと呼ばれる広大なこの大陸、生の楽園と謳われるこの世界で溢れかえるのは、生を奪い合う争いだ。
ある者は名誉の為、またある者は正義の為と理由は様々だが、どれだけ大層な大義名分を振りかざしたところで、することは何も変わらない。
己の道を阻む者は悪しき敵だと決めつけ、話し合う余地もなく理解し合う努力もなく、ただただその力で敵をねじ伏せた方が善であり正義とする。
実力主義といえば聞こえはいいが、それが蔓延る世界など血生臭くて仕方ない。
白くもなく黒くもなく、複雑に混ざり合ったこの世界にあえて名前をつけるのなら……。
――――ここは、灰色の世界。生者と死者の狭間で生きる者達の世界だ。
剣と魔法、生と死、善と悪……様々なものが入り乱れる中で、誰もが息を詰まらせながらここでは生きている。
これはそんな世界の話、泥と血に汚れた一冊の手記による物語。
「……ふむ」
ペンの羽根を撫でながら、僕はため息をこぼす。
書き出しはこんなもので良いだろうか。それとも、もう少し格好つけずに書くべきだろうか。頭を捻りつつ、やはりこういうことは苦手だと机の上を指で叩く。
きっとあいつなら達者なあの口と同じく、面白いくらいにペンを紙の上へと滑らせるのだろうに。愛用のパイプに煙草を詰めて嘆息した。
まったく、すぐにあいつを頼ろうとしてしまうのは悪い癖だ。これは自分で書くと決めたはずだろうと、頬を叩きパイプを咥え、ペンを握り直す。
そう。これはいつかこの世界について知ろうと思った、誰かの為の本。
あいつが書かないと、書けないと言うのなら……この役目は他の誰でもない、僕にしかできないことだ。どうにかして書き上げなくてはならない。
「……………………あー……」
だが、そんな薄い義務感で文章が浮かぶわけもなく、ペン先はまたインクの海へと溺れていった。こんなことならいっそ、全てを忘れてしまおうか。
「楽しくないことなら、忘れてしまえ……ってな」
あいつの口癖を呟いてみると、笑いがこみ上げてきた。
本当に自分勝手な奴だったな……利己的で刹那的で、これ以上ないくらいのダメな奴。
そのくせ美味しいところばっかり掻っ攫って、嫌味っぽく笑うんだ。
窓の外へと視線を投げれば、妙に明るい月と目が合った。
そういえば、あいつと初めて会ったのも、ちょうどこんな月夜の晩だったな……。
年を取ると感傷的になると言うが、なるほど。確かにそうらしい。
我ながらじじ臭いなと笑いながら、今日は筆を休めて旧友の記憶に浸ることにした。
「くくっ……」
口の端が微かに釣り上がるのを自覚しつつ、埃に塗れた記憶をそっと手に取る。
そう急ぐことはない、ゆっくりと書こうじゃないか。
時間は限りあるものとはいえ、幸運なことに僕のそれは、まだ残っているのだから――――……。
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リコリスの魔女
~第一章 狼の森~
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晩秋の夜長、馴染みの酒場で一人エールを呷る。
窓の外を眺めれば、夜空へぽっかりと浮かぶ満月が照らす広場で、明朝の商いに備える商人や馬車が見えた。積み込んだ樽の数は一つ二つ三つ……奥のを合わせて六つ。
漁村であるこの村で買い付けるとすれば、やはりリート魚の塩漬けなどだろうか。
リート海岸で簡単に採れるうえに安価で美味い、この村一番の名産品であるリート魚。
ここの人間ならば、一日一回は食べないと落ち着かないという程のもので、その調理法は多岐にわたる。
塩漬けの燻製にしたものも酒に合って美味いが、やはりこれは焼いて食うのが最も美味い。
運ぶ間に傷むことを考えると、塩漬けにするのが当たり前なのだろうが……。
目の前の皿に載った焼き魚をつつき、もったいないなと少し苦笑いをこぼした。
ここはアレンティア大陸西端、水都領の小さな漁村【マーマウ】。
リート海岸のすぐ近くに位置するこの村は、漁村と言いつつも周囲を【イサークの森】と呼ばれる深い森に囲まれており、食料や資材の調達にも到底困りようがないほどに豊かな場所だ。
とはいえ、豊かな土地とは他の生き物にとっても住みやすい場所であり、またその生き物との共存は必ずしも上手くいくとは限らない。
森は狼、海には魔獣……ここは村があること自体、不思議なほどの危険地帯となっている。
更に、四年前には魔獣からの襲撃を受け、村人の半数以上が殺されたりと悲惨な過去を持ってはいるが、今は見ての通り商人が立ち寄る村にまで盛り返している。
しかし、その過去はこの村に大きな変化をもたらした。
それはつまり、魔獣退治を専門にしている荒くれ者が増えたことだ。そのせいで、以前の穏やかだった村とは雰囲気もだいぶ変わり、少々騒がしくなってしまっている。
酒場の中へ目を向けてみてもそうだ。
向こうのテーブル席には、嘘か本当かも分からない武勇伝を大げさに語る男ども。
それに調子を合わせて、黄色い声をあげながら酒を注ぐ女ども。
ああいう騒がしいのは苦手だ。そうだな……ちょうど、このカウンター端の薄暗い雰囲気が、僕には合っている。
外からやってきた者の中には、森を切り拓いてしまおうと考えている者まで居るという噂だが、幼い頃からこの森と生きてきた僕には、とんでもない話だ。
他の村人たちのように、ああいう人間たちともうまく付き合えたなら、おそらくはこの変化をもう少し前向きに捉えられたことだろう。
視線をまたカウンターへと落として、ため息をこぼした。
別に僕も、一人が好きというわけではないのだ。
言葉を交わす相手でも居れば、と思うことも時にはあるが……その為にあの喧騒へ混じろうとまでは思わない。
せっかく居心地の良い場所に居るのだ、あまり欲をかくものではないだろう。
「………………」
もう一口と、手酌で注いだそれを喉へ流し込めば、それはまるで水のようにただ腹の中へと落ちていった。
「やぁ、今日も一人寂しく手酌かい? これは懐だけじゃなく、身も心も寒そうじゃあないか。かっかっかっ!」
ふいに背後から声をかけられた。
開口一番でこれとは、随分なご挨拶だ。ただ一人で飲んでいただけだというのに。
顔を上げればそこには、話したことのない緑髪の怪しい女が立っていた。
すらりとした長身を薄汚れた灰色のローブで覆い隠し、頭の上にはひどくぼろぼろの三角帽子。
怪しさが臭ってきそうなその女の風体に、僕は思わず身を引いてしまう。
「……関係ないだろう」
ぶっきらぼうに返してみたものの、女は気にも留めていない様子で隣へと腰掛けた。
どうも面倒な奴に目をつけられてしまったようだ。村が変わってこういう奴が増えたのも、僕にとっては弊害と言えるのかもしれない。
「………………」
うんざりとしながら、再び手元の安いエールを呷る。……さっきよりも少し美味いような気がしてしまう自分が嫌になった。
「そう邪険にしないでくれよねぇ。私はあんたと話したいだけなのさ」
「………………」
「かかっ、つれないねぇ」
女は呆れたように笑いながら、持っていたマグをカウンターへと置いた。
どうやら中身はもう入っていないらしく、寒々しい音を立てるそれ。
寂しいのはどちらの方だ、と少し笑いが込み上げるも、すんでのところを飲み込んだ。
そうしていると、おもむろに僕の前へと右手が差し出された。
「私はエリカ・アンブレザー。この大陸を転々と旅している、しがない奇術師さ」
「………………」
黙ってそれを見つめる。
握手を求められているのは分かるが、よろしくするつもりもない相手のそれを取るわけもない。再び酒に視線を落とすと、その手は視界の端から静かに消えた。
……さすがに悪いことをしただろうか。少し後悔していると、今度は僕のマグと顔の間へ割りこんでくる女のそれ。
「なんだい、本当につれない奴だねぇ。握手くらいしたって罰は当たらないだろうにさ」
そういうお前は本当にしつこい奴だなと内心で呟けば、ふいに差し出された右手の指が鳴らされ、次の瞬間にはそこに黄色い花が咲いていた。
蜘蛛の巣のように開いたそれは、どこかで見た覚えがあるような気がする……この辺りに咲いている花だっただろうか。
「……ま、これはお近付きの印さねぇ」
女は僕の前にそれを置いて、にんまりと笑みを浮かべながら、必要以上に近くへと寄ってくる。おかげで、花のものではない……どこか甘い匂いが漂い、僕は眉をしかめた。
マグを口元へ持ち上げれば、嗅ぎ慣れた安酒の臭いが落ち着かせる。
「あんた、いつもここに居るじゃないか。何をしている人なんだい」
だが、更に腕が当たってしまうほど近寄り、視界の端で僕の顔を覗きこんでくる女。
話し相手は確かに欲しいと思っていたが、こいつはいけない。面倒事はごめんだ。僕は窓の外へと視線を逃して、女が諦めてどこかへ行くのを待つことにした。
「かかっ、黙り比べってわけかい? いや、私は話し続けてるんだから根比べって方が正しいのかねぇ?」
「………………」
「そうだねぇ、じゃあ勝手に想像してみようかねぇ。んー……他所から来た商人には見えないし、漁師にも見えない……ただの呑んだくれにも見えるが、その腰のはお飾りってわけでもないねぇ」
ベルトから下げている剣を見て、それから品定めでもするような目で舐めるように、僕のことを見る女の視線。
そんなものに晒されて居心地が良いわけもなく、つい身動ぎしてしまう。
「かかっ、あんまり見つめられるのには慣れてないってかい? 可愛いねぇ」
「………………」
「兄さんよ、沈黙は金というがねぇ。黙ってるばかりじゃあ、ただの怪しい奴さ。少しは何か喋ったらどうなんだい」
「うるさい。大体、怪しいのはお前の方だろう」
はっと気がついた時には女が笑っていた。
「どうだろうねぇ、黙り坊の兄さんよ? かっかっかっ」
「………………」
マグの口を噛んで、にやにやとこちらを見る女から視線を逸らす。
あんまりにも喋り続けられるものだから、ついつい言葉を返してしまった……。
まったく本当に面倒な奴に捕まったな、これは。深い溜息をつきながら、横目で見ればさっきと同じように笑ったまま、こちらを見ている。
一度言葉を返してしまった以上、僕がまた何か返事をするまで、女はそうしているつもりなのだろう……。
少しも気は進まないが、仕方なく僕は口を開いた。
「……いつも一人で手酌はお前だって同じだろう」
今日も、と最初にこいつが言った通り……直接話したのは初めてでも、僕はこいつを知っている。ここ、マーマウにたった一軒の酒場【人魚の瞳】に、最近入り浸っている怪しい奴だ。
とは言えこいつの場合、僕は知っていると言うより、僕も知っていると言うのが正しいだろう。何せこの酒場の利用客で、この女を知らない人間などおそらくは居ないのだから。
「いんやぁ? 懐は確かに寂しいけどねぇ、一人寂しくってのは違うんじゃあないかねぇ?」
気色の悪い笑みを浮かべたまま、そんなことをのたまう女。
だが、周囲には人っ子一人居ない。まるで僕たちの周りだけ、見えない壁でも張られているかのように。…………当然のことながら、その原因は僕ではなくこの女だ。
喧嘩にイカサマ、詐欺に盗み……悪い噂の絶えないこいつに、好き好んで近づく奴など居るわけがない。
僕もいつ爆発するか分からない爆弾の隣など、丁重にお断りしたいところなのだが。
「……どこが違うんだ」
機嫌の悪さを隠しもせずにそう言うと、女は僕の肩へとしだれかかってきた。
何事かと見れば、赤い瞳と視線が絡まる。いや、絡め取られると言うべきだろうか。
「私には、注いでくれる奴が居るからねぇ……?」
どこにだ、と訊くより先に僕の眼前へと差し出されるマグ。
……爆発はしなかったが、どうやらカモだと認定されたらしい。
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はじめまして、こんばんは。
「小説家になろう」さんへの初投稿となります、桂香です。
(……と言っても、「pixiv」さんとの重複投稿なのですが……)
「リコリスの魔女」、こちら未だに書いている途中のお話ではありますが、同じ世界観の中で書きたいお話ばかりが、頭の隅に積まれていっている状態です……。
薄暗く、明るいハーレム系のファンタジーとは程遠いので、果たして需要があるのかどうなのか……というところを見たいと思い、こちらにも投稿させていただきました。
(R15は人狼の描写が少し重いかなと、念の為に添えました)
読んでくださった皆さんが楽しめたらいいな、と思いつつ、ゆるゆると書いていきますので、どうぞよろしくお願い致します。