05
「おい、大丈夫か?」
いや、死ぬかと思った。
暖かな森の生活から一転して残雪の登山は軟弱な現代人にはきつい。
幸いな事に山頂を目指す訳では無く低い峠を越える旅だったし、何故だか背中が温い様だし。
ただ、雪と云うより氷の張った道は酷く滑る。
たった今も滑って滑落しかけた処だ。
拙いと思った瞬間、ぐにゃりとした何かを踏んづけて体勢を保てたが。
「これで四度目か、お前は運が良い様だな。山神に好かれているようだ。」
ああ、何にでも好かれた方が良いのは確かだ。
陽に焼けた八人の男たちはこの山越えのベテランたちだった。
バラシスの湊町を拠点とするハンターギルドの男たちは、大概がダダ(バルーの父親の四番目の妻の五男)の世話になっていると云う。
だから、たいして稼ぎにもならない年に二回の交易を交代で請け負っているのだそうだ。
聞けば大したことでは無い。
僅かな金を借りたり、迷った道で出会ったり、些細な口論の口利や仲裁など。
だが。
『あの時にダダが居なければ今の俺は無い。』
みんなが口を揃えてそう云う。
それぞれのターニングポイントに不思議なほど嵌っているらしい。
最初に出会ったノアルにしろ、俺の身を案じてくれたバルーにしろ、魔族と云うのは面倒見が良いらしい。
「まあ安心しろ。ダダは嫌とは言わないだろうし、万が一でもお前の腕ならどこの飯屋でも使ってくれるはずだ。」
「おお、俺らも推薦してやろう。」
良かった。
この旅の間、飯当番をかって出た甲斐が有る。
アリア大陸の最西端、ババラ岬の小さな街が楽しみになって来た。
森を抜け、山を越えると麓の村に辿り着く。
そこには驚愕の事実が俺を待っていた。
「さぁ、きつい行程も此処までだ。後は馬でのんびり行こう。」
ヨタヨタと荒れ地を進んで十日。
二人を先発させて残りの六人は俺と云うお荷物を抱えてポクポクと進んだ。
普通ならどれほどゆっくりでも六日で着く筈だそうだが。
仕方が無いだろう。
馬なぞテレビで競馬中継を見たぐらいだ。
生の馬は温かい体温を持ち、意味不明に鼻を鳴らし、横目で俺を見る。
申し訳ないが今はお互いに我慢しよう。
俺のすぐ後ろで誰かがくつくつと嗤った。
初日には立てないほど膝が笑っていたが、慣れとは恐ろしいものだ。
駆け足までは行かないが小走り位にはついて行けるようになって居た。
馬の小走りと云うのも変だが。
やっと色彩が豊かになって来た。
「見えるか、あれが俺たちの海。俺たちの街だ。」
示された指の先に鮮やかな藍。
金茶色の石壁に同じ色彩の可愛い長を思い出して、ひび割れた唇が綻んだ。
たどり着いた。
バラシスの湊町だ。
街の門をくぐったのは既に夕方に近い時間。
小さい街だと聞いて居たが、呆れるほどの活気に満ちていた。
「そうか、長も兄者もお元気か。」
ダダは確かに魔族だった。
銅色の肌に少々小ぶりな山羊の様な角を持つ。
だが、魔族の森に住む住人とは異なり酷く怜悧な面差しを持っていた。
先発した二人から粗方の事情を聞いて居たため待ち構えていたと云う。
「確かにあの森は魔力の無い者には命取りになる。だが、人間嫌いの兄者に心配されるとは・・・マサヤ、相当気に入られたな。」
優しげな微笑みにどう返事をすればいいものか。
だから、疑問に思っていたことを聞いてみた。
「魔族は長命で出生率が低いと聞いたが、あんたは五男だそうだな。他に四人も同腹の兄弟が居るのか?」
「いや、俺たちは七人兄弟だ。」
それはまた・・・子沢山な事で。
「俺の母親は人間だからな。ちなみに俺の妻も人間だ。」
異種族婚はアリア大陸では珍しいが、隣のシルバーナ諸島では驚くことではないと云う。
実際、街中を歩けば耳の尖った綺麗な女性や、猫耳、犬耳も多く見かける。
ああ、これがファンタジーとやらか。
そのシルバーナ諸島との交易が盛んなバラシスは小さいながらも栄えているらしい。
国と云う括りは無いが完全に独立している。
だから魔の森との交易も利益が無くてもやって行けるとダダは笑った。
石造りの三階建ての結構大きな家がダダとその家族が住まう家だった。
行き場の無い俺を置いてくれると云う。
少なくとも働く場所と住処を見つけるまで。
何だろう。
日本より良くされているようだ。
妻女と子供たちに紹介された後、俺は自分用の部屋に案内された。
広くは無いが綺麗に整えられた室内にはベッドと衣装箱、小さな書き物机と椅子が置かれてある。
窓の外は活気の有る街の通りが見渡せた。
「マサヤ。」
窓からの景色を見ていた俺にダダが声を掛ける。
「その皮袋は兄者からの餞別だろうが、その指輪は何処で手に入れた?」
「指輪? ああ、これか。」
森で何度か試したがこれを外すと言葉が通じない。
「バルーが云うには魔道具だそうだ。俺をこっちに連れてきたはずの一人が無理やり嵌め込んだ。今は助かっているが。」
「ほう、それは良かったな。それならシルバーナ諸島でも困るまい。訛りが酷いからな、奴らは。」
ダダの妻女、マリーンの作る夕飯は美味かった。
子供たちも成人した長男と嫁に出た長女は居ないが、まだ二人の男の子が賑やかに歓迎してくれる。
森の果物を土産に出すと喜んでくれたが、俺は久しぶりに飲んだ酒に気持ち良く爆睡してしまったようだ。
「判らぬと思っているのか。如何に半魔と云えどこの眼は誤魔かせぬぞ。」
その夜、熟睡した男の部屋でダダは低い声で告げる。
答えたのは形の無い影だった。
『許されよ、我の存在はマサヤの知らぬ事。出れば酷く驚くであろう。』
「知らぬ間に契約など出来まい。何故其処に潜む。」
『我の契約者の依頼でこの男の身を護るためだ。我が脅したため墜ちてしまった責任を感じている。どうか我の主が迎えに来るまで預かって戴きたい。』
「迎え?」
『今頃は魔の森に向かっておろう。』
「唯人が魔族の森になど入れるものか。」
『さて、それは彼ら次第であろう。』
「・・・・・・・おかしな真似はするなよ。魔獣とて不死では無い。」
『もとより承知。我が出るはマサヤの命に拘わる時のみだ。』
半魔の男が部屋を出て行ってからクロウはため息をついた。
やれやれ、つまらぬ悪戯をしたばかりにエライ目に合う。
山越えでは何度も身を挺して庇って踏み倒され、馬を宥めすかしてまっすぐ歩かせ、主よりも乏しい魔力の半魔に頭を下げねばならぬとは・・・
『早く来てくれねば、身が持たぬわ。』
安らかな寝息の中に憮然とした呟きが漏れた。