郵便屋の仕事(5)
横間さんの手紙を書き終わった後、僕は店の裏にある風呂場に行った。
食事はしなくても問題ないし、食事をしないから当然排泄もしないけれど、体だけは毎日洗わないとどうしようもないので、店の裏に作ってあるのだ。
鍵を開けて中に入り、今度は中から鍵をかける。
人も、霊も入ってこないように、厳重に。
「……はぁ」
服を脱いで、軽く頭を振る。
風呂に入るときは、僕が唯一フードをはずすときだ。
誰にも見られるわけにはいかない。
少し古いシャワーは金属音を鳴らしながらお湯を出した。
どちらかというと灰色に近い黒髪が、水に濡れて束になる。
「シャンプー、どこやったっけ」
独り言を呟きながら、前髪を手で持ち上げ、一日ぶりに良好になった視界に自嘲気味に笑った。
この風呂場に鏡は存在しない。
僕が、意図的につけなかった。それだけだ。
この「化け物」と揶揄される目を自分で見ることができないから。
見るのが、怖いから。
「まだまだ、弱いな、僕も」
シャンプーを手にとって、ぐしゃぐしゃと頭を掻き回す。
師匠がいなくなって、もう3年がたつというのに、僕はまだまだ精神的に弱いままだ。
師匠は「お前はもう大丈夫だから、この店は預けるな、じゃ!」と言って、僕にこの店を押し付けて、どこかに旅に出てしまった。
一応まだ連絡は来るから、師匠も生きてはいるんだろう。
日本にいるんだか、海外にいるんだか知らないけれど、いつ戻ってくるんだろうか。
本当に、適当な人だ。
修行だなんて言って、僕を「怨念」の中に突き落としてみたり、僕の記憶力をあてにして、競馬の統計を作らせてみたり。
「……」
師匠のことを考えたら、なんだか頭が痛くなってきたので、考えることを放棄する。
一瞬頭の中に浮かんだ白髪の髪の毛をいつも輪ゴムで束ねていて、アロハシャツを着るのが大好きだった「ご老体」を頭を振って消し去った。
やっぱり、もう帰ってこなくていいです、師匠。
店のほうに戻ると、誰かが来た形跡は無かった。
今日は珍しく、睡眠時間がたっぷり取れるかもしれない。
僕は部屋の電気は切り、枕もとにおいてある小型ライトだけつけて布団を頭からかぶった。
明日は横間さんの手紙以外の配達は無い。
一軒しか配達が無いのは、久しぶりのことなので、明日も客の数によっては自由な時間が増えそうだ。
中学校の定期テストまではまだまだ日にちがあるので、学校に行く必要もない。
だからといって、明日何かすることがあるかと言えば答えは「NO」なので、明日は上手くいけば半日近く寝て過ごすことができるだろう。
「……とりあえず、今日は寝よう」
僕は自分に言い聞かせるようにそう呟いて、まぶたを閉じた。
翌日、僕は昨日と同じ電車に揺られながら、また昨日と同じ目的地を目指していた。
昨日はばったり杉原さんに出くわしてしまったが、今日は昨日よりも早い時間帯だし、彼はいないだろう。
僕は確信じみた何かを感じながら、ぶら下がるように吊革につかまっていた。
「……あれ?」
そうしていると、車内の様子が何かおかしいことに気づく。
そのままの体勢で、きょろきょろと周りを見回すと、昨日もこの電車に乗っていたサラリーマンがいることに気づいた。
しかもあの人は、昨日怨念をぶつけられかけていた、あのサラリーマンだ。
その人の肩に、「怨念」を抱えた霊が乗っかっていた。しかも、昨日僕が「消した」霊とは別の。
(……どんだけあの人死人に恨まれるようなことしてんだよ)
僕はそう思いながら、新聞を読むサラリーマンを見る。
今度の霊は、昨日のとは違い怨念を「ぶつける」のではなく「乗せる」タイプのようだ。
怨念をぶつけるほうが弱い思念で強い効果をもたらすことができるが、その代わり周りの人間にも被害が被る可能性があるのに対し、怨念を乗せるのにはかなり強い思念がないとあまり効果は期待できないが、周りの人間に被害は全くでない。
……らしい。
これは師匠が言っていたことだし、僕は怨念をぶつけられたことも乗せられたことも無いので本当のところはわからないが、きっと間違ってはいないんだろう。
適当な人だったけれど、知識だけは多かったから。
今度の霊はサラリーマンに怨念を「乗せ」ようとしているだけの様子なので、僕に被害はなさそうだから、不用意に霊を「消す」のも怨念を「かき消す」こともしない。
冷たいと言われるかもしれないが、そもそも、そこまで人間に恨まれているあのサラリーマンもどうなのだ。
僕に被害が来ないなら、僕の知ったことではない。
そんなことを考えている間に、あのサラリーマンは怨念と霊を肩に乗せたまま電車を降りていった。