郵便屋と怨念(4)
遅くなりました。
申し訳ありません。
3月3日 修正しました。
「以前の配達で電車に乗っているときに、怨念乗せられかけてる男性を見たことがあるんですけど、多分裕二さんだと思うんです」
もう一度アパートに視線を戻しながらそういうと、二人は眉間にしわを寄せて僕を見た。
が、口を開こうとはしなかったので、僕は先を続ける。
「一番初めに見たときは僕や他の乗客にも被害がありそうだったから怨念霧散したんですけど、二回目は僕や乗客には被害がなさそうだったから放っておいたんですよね。
まさか、ここまでなるとは想定外もいいところですけど」
まあ、本当に同一人物かどうかは会ってみないとわかりませんけど、と付け足して、マンションに向かって歩き出すと、
『裕二を、助けてくれるのか?』
中条さんは今更そんなことを言い出した。
さっきまで半分無理やりに連れてきておいて、と僕は少しあきれたが、小さくうなずく。
「……これは、下手をすると裕二さんだけの被害に留まりそうにありませんからね」
群がっている霊の数からして、この状況は異常だ。おそらく、このマンションに住んでいるほかの住民にも何らかの被害が及んでいるはずだ。
郵便屋の仕事の枠は超えているが、仕方あるまい。
これは「僕個人」も被害にあってもおかしくない状況だ。自分を認識する存在にすがってくる霊もたくさん今まで見てきた。この怨念を背負った霊たちが、僕のところへ押しかけてくるのだけは避けたい。自身に被害が行く前に片付ける必要がある。
「とにかく行きましょう。部屋はどこですか?」
僕が尋ねると、中条さんが『着いて来い』と言って、進み始めた。
マンションの5階の廊下は、真っ黒い霧が立ち込めているようだった。
まだ昼間で、明るいはずなのに、四方八方を怨念持ちの霊が囲んでいるからだ。
「……これはやばいな」
僕はポツリと呟いて眉をひそめた。額に脂汗がにじむ。乱暴に汗をぬぐって、霊たちと目を合わせないように突き進んだ。
普通の人間なら、すぐに怨念に当てられてくたばってしまうだろう。僕は怨念の影響を受けやすいけれど、師匠からの指導(もしくは虐待、いじめ)によって、ある程度までは耐えられる。だが、何の準備もなく、しかも霊を見ることができない人間はどうなるか。
原因不明の体調不良。原因が分からないために薬も効かない。寝ていてもこれだけの怨念が延々とぶつけられ続ければ落ち着くことはない。
ここに来て初めて僕は裕二さんの心配をした。
『鍵はそこの裏に置いてあります』
「了解しました」
薫さんの言葉に、扉をすり抜けることのできない僕はうなずいて鍵を拾う。
鍵穴にそれを差し込んで回すと、かちゃんと軽い音を出して鍵が開いた。
僕は無遠慮にドアを開けて中に入る。インターホンなんて押すわけがない。どうせ、押したって半の葉帰ってこない。
「失礼しまーす」
『……』
軽い調子で靴を脱ぎながらそう言った僕を見て、中条さんは無言でいっそう眉をひそめる。僕のその軽い口調を責めるように、僕を軽くにらんだ。
だが、責められるいわれもないので無視を貫く。
正直言って、僕はこの部屋に入りたくはない。だが入らなければならない。だから、顎を垂れた玉のような汗を振り払うように、あえて軽い調子でそういったまでだ。
部屋の中は、廊下の霧とは比べ物にならない。そこには良くぞここまでと言いたくなるぐらいの「怨念」が立ち込めている。
「裕二さーん、どこにいらっしゃいますかー……あ」
『お兄ちゃん!』
僕の軽い声とは対照的に、薫さんの声はまるで悲鳴のようだった。
だが、彼女の声は彼には届かない。死者の声は、生きている人間にはめったに届くことはない。だが、薫さんの声が届かないのは、それだけが原因ではない。
「……やばいな」
床に寝転がる、否、倒れている彼の、頬はこけ、顔色は白をとうに通り越して青く、目は苦しげに閉じられていた。
僕の声すら届いていないのかもしれない。
裕二さんは不法侵入である僕の声にも何の反応も示すことなく、時折小さなうめき声をもらすだけだった。
とりあえず、裕二さんをベッドまで運ぶため僕は全意識を両腕に集中させて彼を引きずった。
これ以上彼からエネルギーがなくなったら、本当に死んでしまうかもしれないから、特に慎重に。
そしてベッドまで運び終えると、手早く「鍵」をかけた。
これは物理的な鍵ではなく、店のものと似た「内側に居るもの以外を拒む鍵」だ。
『外に居た霊が消えた……』
その様子を見ていた中条さんが唖然とした様子で呟いていたが、今は忙しいから無視。
「これから僕がいいと言うまで、この部屋から出ないでくださいね。
この部屋に入れなくなりますから」
必要事項だけ告げて、僕は換気をするべく窓を開けた。
彼に「乗せられた」り「ぶつけられた」りした怨念は消えることはないが、少しだけでもこの黒い霧のような怨念が霧散されることを期待して、だ。
それだけやって、一息つくと、薫さんが裕二さんの顔を覗き込んでいるのが見える。
『お兄ちゃん……』
霊の姿はほとんどの場合普通の人には見えないということもあるだろうが、衰弱しきった彼は、何の反応も示さなかった。薫さんの目が、見る見るうちに涙ぐんでいく。悔しそうに、唇をかむ。
「……」
僕はその様子を少しだけ眺めてから、彼に近寄って、影響の出ない範囲で怨念を霧散させる。
顔色は変わらないが、少しだけ寝息が安定したように思われた。
「やっぱり、僕が電車で見た人と同じ人ですね……」
『……なんで、怨念全部取っ払ってやらないんだ?』
僕の呟きに反応することなく、中条さんがそう問いかけてきた。
それは、非難と言うより、純粋に「疑問」のようだった。
「怨念持ちではない中条さんたちにはわからないと思いますが、霊って自分の怨念に敏感なんですよ。
自分の怨念が全て消されたら、対象に何かあったと思って、ここにまたやってきます。
怨念持ちの霊の力は、計り知れません。僕が対応できる霊かどうかもわからない。
だから、怨念をかけた相手を探ってから出ないと、全ての怨念を霧散させることはできません」
僕の答えに、中条さんは何か口を開きかけて、止めた。