気色
男が会社から出て来る。男のスーツには、多少香水の臭いがした。彼は、仕事の締め切りに追われるサラリーマンにすぎない。青のりネクタイをはずすと、買い換えたばかりの本革鞄に入れた。男の髭は、だいぶ濃くなっていた。朝、電気カミソリで剃った後でも、もう中学生のようにすっきりとならなかった。男はこの1ヶ月ほとんど寝ていなかった。あたりは暗く、人影はほとんどなかった。
男は、人生の中でやけになったことのない利口な男だった。だが、今日始めて嫌気がさしていた。やせていて、背は高かったが全体に貧弱だった。5年も10年も、少ない休みで、事務を続ければ、筋肉はすっかり落ちてしまう。自分の足を見て、入院しているスポーツ選手みたいだと思った。また、会社帰りにビールと弁当を買って、誰も待っていない、小さな部屋へ帰ろうと考えていた。コンビニの入口で、ヤンキーが5人ほど、とむろしていた。男は冷たい目で、ヤンキーの前にたった。ヤンキーは道をあけようと思わなかった。しかし、男は早く帰って寝たかったから、
『道をあけてくれませんか。』
と丁寧に言った。しかし、ヤンキーは特に自由を持てあましていた 。リーダー格の金髪男が、
『誰に口聞いてんねん。』
と男の胸ぐらをつかんだ。ヤンキーは背が低かったので、男の体は持ち上がらなかった。ヤンキーの中の誰かが、男の頭をはたいた。男は金髪男に、
『お前、ほんまに気色わ。』
と言って、何度もその顔面を殴りつけた。
生きることに意味があるんか、よく知れない。まだ9年しか生きてへんし、よくわからへん。僕がまだ、小さいころは、死のことを夜に考えよると、ゆっくり空白が頭の上から降ってきて、眠れんようになることが、ようあった。おかんに『死んだらどうすんねん』って聞いたら、
『生まれる前に戻るだけや。』
と投げやりに言われて、僕は、なるほど、そうに違いない。と思った。おかんは、ときどきもっともなことを言う。ごもっとも。
僕が、もっとも小さいころには、おかんの中に入っとったことを覚えとった。でも今は、思いだせへん。それについては、いっさいご存じない。
生きとる意味なんて、僕は一生わからへんかもしれん。また、明日考えよう。とりあえず、今日は寝よう。
昨日、とりあえず、などと考えたんがあかんかったんや。僕は、9年6ヶ月も生きてきて、今一生で一番、後悔しよる。どうやら僕には、『背負う人』がみてとるようや。
朝起きて、台所にいったら、おとんが何かを背おっとる。ベンジョンソンみたいな体をしとって、新聞が頭の部分についとるやつや。僕は
『あーなんかへんなんおるな。』
と思った。おとんの背中の後ろに、しらんやつがおる。ベンジョンソンの体をした新聞さんは、新聞を読んではる。スポーツ欄に釘付けや。おかんがおとんに、
『今日は、ご飯食べながら、新聞読まへんのやねえ。』
としゃべりかける。おとんは何も言わずに、ぼんやり、ご飯を食べとるし。新聞さんは、いつもの、おとんのように、だるそうに両足をくんでいる。反対に、おとんは行儀よくご飯を食べた後、いそいそ出かけて行った。少し遅れて、新聞さんも、バタバタとあわてながら、おとんの背中にひょこっと乗っかったのだ。
遅刻しかけの、僕は、背負う人をみて驚いているわけには、行けへんかった。すぐに顔を洗って家を出た。
冬の朝は、半ズボンの僕たちには、めちゃ厳しい。試練の山々から、吹きそそぐ風を、横から受けながら、駅々へ向かうサラリーマンたち。僕の目の前をペットタウンから都会へ背おう人が、いっせいに歩きだしてはる。多くの人々の背中に、背おわれる人がいる。背おわれるひとは、いいやつなんやろうか?ゴルフクラブの頭に侍の体と刀を持っている奴。目覚まし時計の上半身と、ストリッパーの下半身をしている奴。どいつもこいつもおかしなやつばっかや。ホッチキスの頭を持ちながらタイガースの選手の下半身の奴が、僕に向かって手を振っている。僕は、気ちがいになったようや。
学校では、文化祭を明日に控えて、ピリピリしている。学校の中に背負う人はおらへん。文化祭の演目は、毎年少しも変わらへん。一年生は、入学したてなんで、校歌斉唱を全員で歌わされる。2年生は、教科書に載っているスイミーの演劇や。去年は僕たちがやった。毎年、うまく盛り上がる芝居やねん。大勢の魚が、舞台中を動きまわる。敵の魚を倒すために、一匹だけ色違いの魚であるスイミーが、
『僕が、目になろう。』
てゆうて、敵と同じ大きさの魚を、群れによってつくりだすんや。
3年生の僕たちは、『三井の晩鐘』という演目をやる。滋賀の昔話であまり盛り上がらへん。創立以来行われとるけど、暗いので、評判は今一つや。
三井寺とは、浜大津の近くにある寺のことやが、僕は行ったことがなかったんで、劇の最中、近所の石山寺にダブらせて考えてしまう。そうすると、実際この話が、石山寺で起こった話やと勘違いしてしまうんや。
石山寺は、京都が都になる前からあると、おとんがいっとった。日本の中心である京都より偉いんなら、三条駅前の土下座像をこちらに向けんといかん。おかんは、京都を褒めて、滋賀をよく馬鹿にしよる。
『大津に住んでるってゆうと、みんな京都やと思うんや』
って。けれども琵琶湖の水があるから、京都や大阪は、おまんま炊けるんやないか?あほっていうやつらには、南郷洗堰止めたればええんや。でも、京都は祭りが多いで、やっぱ負けとる。滋賀は田舎や。
石山寺は、石でできた丘に苔が、びっちり生えてはって、ひんやりしとる。一人で、石の山へ上っていくと、多宝塔ちゅう小さい塔があって、おかんにゆわせると『おもむき』があるらしいですわ。僕には、『おもむき』はわからへんけど、じっとみよると、球体の胴と大きなそりの屋根が、びっちり、すいこまれてきはって、小さな角度で、そびえてはる。結構、僕も好きやでえ。
僕らは、一限目から、芝居の稽古をするんや。やる気もあらへんし、役者でもないねん。けども義務教育やから、しやーない。クラスメイトのあほ谷君とばか口君が、ベラベラしゃべりよって、女の担任におもいっきり、どつかれてはる。大人の権力やね。こあい、こあい。あほ谷君が、ずっと猪木のものまねを
『あんだーコノヤロー。』
ってやってて、ばか口君がやられたふりをする。今度は、担任のヒザゲリが、いい角度で入った。教師には、狂気にとりつかれた子供を、暴力で現実へ戻す権利が認められとる。
劇の冒頭は、朗読で始まるんや。学年で一番教師の寵愛を受けとる優子嬢の語りや。
昔々、琵琶湖のあたりは、広くて、大きな空地やったんやって。でも、土地はえらい貧相で、人々はいっつも神様にお願いしはったんやって。
そうすると、テカテカライトがあたって、神様への大合唱が始まる。
神様、神様、ねえ神様、雨を降らせてください。私達のすべてが、ひからびます。神様、神様、太陽を出して下さい。私たちのすべてが育ちません。
なあ、神様、昼寝なんかせんと、我らの大地に喜びを!
ライトが消え、ナレーションが入る。
神様はめっちゃ働きはって作物がようとれるようになったんやって。でも、このへんの人は、元々、ええ加減な人が多かったから、くっちゃね、くっちゃねしよって、すぐに畑や田んぼが、荒れたんやって。またまた、人々は、神様にお願いしはったん。
スポットライトが舞台の真中にあたり、学年で一番、なまけものの健ちゃんが叫んだ。
『神様、神様、畑たがやしてーな。』
すると、5組のやくざ教師の声で、
『なめとったらあかんでー、くずが、勘弁せんでー。』
と言う。舞台には、神様と、巨大な足が出てくる。足が高くあがり、地面を強く踏みつける。巨大な足が、大地から引き抜かれた。地響きが、体育館に共鳴し、舞台に大きな琵琶湖の穴があらわれる。そこに次々と、家や人や物が、吸い込まれていく。やがて雨が降りだしすっかりと青くなった琵琶湖が現れた。
最後に、優子嬢が、
『だから、琵琶湖は、今では大きな足跡を、この地に残しています。』
と言った。しばらく沈黙があって、でっぱの先生がやってくる。
『はーい。ストップ、ストッブ。いい感じやで。じゃあ、今日はここまで、明日、本番やからな。』
とマイクを使って言った。
夕日が琵琶湖の水面にうつる、夕日が目にしみよる。明日は、文化祭やから、嫌な気分や。小さな体育館で、6時間も押し込められる。おまけに、僕は今日の朝、背おう人が見えたんやから、病気に違いない。
僕は、ランドセルを坂の上の石垣に置き、チョコを食いながら、やがて、一人二人帰宅するサラリーマンを見ている。サラリーマンはたちは、何も背おってへんかった。もう、病気は直ったようや。京都や大阪から、帰ってくる人々の背に、坂の下の琵琶湖から、夕日があたる。僕の背中に緑緑と並んでいる家たち。唐橋は、いつも車で、渋滞している。JRの鉄橋に、電車がかかり、琵琶湖の上を、速度を落とさず走る。黄金色に光るレールや無邪気な音が、琵琶湖の匂いへと変わる。山々が湖面に水を運び、湖は、ただそこへ存在する。湖で釣りをする老人が、うとうとして、夕闇に気づくこと。そんなことは、子供が、親に『うちはうち、よそはよそ。』と言われるくらい、よくおこることや。
昨日の練習通り、本番でも琵琶湖が創造される部分はうまくいった。神話である部分から、実際の民話の部分へ入っていく。随分前から、繰り返し練習していたこともあり、僕たちの間では、物語の早送りや、スローモーションやが、本番中何度も続いていた。それは、以前、僕たちはが演じていた場面に、新たに重ねて、セリフを入れているように感じた。
物語は、浦島太郎的に、蛇を助けた若者が鶴の恩返し的に女性と結婚する。男はやがて女性が蛇であることを知り、蛇は、赤子と真玉を残して、琵琶湖へ帰ってしまう。赤子は真玉をなめて、育っていくが真玉は評判となり、殿様の耳に入る。若者は、あっという間にそれをとられてしまい、彼は、湖へ入って蛇にどうすればいいか聞く。そんな話や。
僕は、物語の筋を追いながら、まったく集中力を欠いている。自分が、まるでそこにいないみたいや。最後は、蛇の女性の悲しみを学年全員で合唱する。
ああ、悲しきあなたに申しましょう。
さしあげた真玉は、私の片目。
気色がいずれも、見えなくしても。
惜しいとは、思いはしません。
三井寺の晩鐘を聞きましょう。
昼夜の区別は、つくのやから。
朝に夕べに、湖上から
風の流れと時の経過が、
音色になって、わかりましょう。
(ナレーション)
これが、今も三井寺に残る大きな釣鐘の由来である。
幕の外で、この演劇をみている将来の自分がいる。
随分、年をとっているように見える。彼の口が動き何か言っている。
拍手の中で確かに僕はこう言ったのだ。
『あい変わらず、気色の悪い話やなあ。ほんまきしょいわ』
と僕は、もう何十年も前から、このねっとりとした風土を背負っていると思った。
滋賀の話です