神の花嫁
時は平成に元号が変わり数年が過ぎた頃。まだ昭和の名残が強かった頃だ。
私はその時三十になってまもなく、民俗学を専攻とする助教授だった。
新しい民俗学の研究に何かネタはないかと資料をあさっていたところ、とあるマイナーな文化を見つけた。
「神婚祭…?」
その山奥の小さな村では、結婚式を村まるごとお祭りにして祝うらしい。それを「神婚祭」と呼ぶのだとか。
人間同士の結婚式なのに神婚? 神前式という意味だろうか?
なにやら興味を惹かれ、私は次の研究のレポートをそれに決めた。
村の名前は亜湖野村と言った。
祭りの時期にあわせて私はその村に赴いた。
自然が溢れていて空気がいいが、……まあ正直な感想を言うと他に特色はない田舎の村だった。
村の宿は民宿だった。観光名所もない村で、独特の祭りも外にはほとんど知られていないが、それでもたまに客が来ることはあるらしい。このときは私一人だけだったが。
なかなか美人な女将が歓迎してくれた。名前は『小宮織江』というそうだ。
「いらっしゃいませ。遠いところからようこそ」
「お世話になります」
滞在予定期間は六泊七日を予定している。例の祭りは明日開催で、その後は祭りの成り立ちやこの村自身について詳しく調べていく予定だ。
「この村では、結婚式を村総出でお祭りにすると伺いました」
「はい。正確にはある家のものが結婚するさいにお祭りにしていたのを、時代にあわせて行事化したものです。ですからする結婚式は真似事なんです。
でも、お客さんは運がよろしいわ。今年は真似事ではなく、本当の結婚式ですから」
私の娘が結婚するんですよと女将は嬉しそうに笑う。
「それはおめでとう御座います」
「神婚祭のことや歴史などについて聞きたいのですが」
「それでしたら、……縫衣、縫衣、いらっしゃい」
「はあい」
呼ばれて現れたのは、中学生ほどの女の子だった。長く伸ばした黒髪が艷やかで、顔立ちも笑顔もかわいらしい。
「縫衣、お客さんのお話し相手になってあげて」
「縫衣です。遠いところから亜胡野村へようこそ、お客さん」
「私の姪ですの。まだ村から出たことのない子でして。良ければ外のお話をしてあげてくださいな」
十四歳になったばかりだという少女は、品があり所作が美しかった。私の娘……あやもこういう少女になってほしいものだと思う。まだ四歳になったばかりだが。
縫衣ちゃん───こう呼んで構わないと許可をもらった───は、本当に村の外に出たことがないそうだ。
でも来年にはついに出るのだと嬉しそうに言う。
「この村には中学までしか無いから、高校は外に行くんです。寮のある学校を選ぶか、家族ごと引っ越しするかのどちらかで。繭子ねえさん……明日結婚式をする私の従姉妹は、寮を選びました。伯母さんがここで民宿をやってて離れられなかったので」
その従姉妹が結婚しないなら、明日の祭りの花嫁役は彼女縫衣ちゃんがやる予定だったらしい。
真似事の結婚式のときの花嫁役は、十五歳前後の少女がやるものだそうだ。随分若いというか幼いとすら思う花嫁だ。理由は祭りの始まりがとても古いかららしい。
「私も、繭子ねえさんと同じ高校に行く予定なんです、けど………。村長が、許してくれなくて」
ここ数十年、子供の高校進学にあわせて引っ越しする家族が多く、かつそのまま帰ってこず、村は中年から年寄りばかりが多くなっている。
今の二十代は二十ニ歳になったばかりの、明日結婚する繭子さんひとり。十代にいたってはいまや縫衣ちゃんひとりだけなのだと。
だから、と縫衣ちゃんは少し忌々しそうな顔になって言った。
「自分の息子と結婚しろって言われてます。
高校なんて行かなくていいから、さっさと結婚して子供を産めと」
「……そんな時代錯誤な」
もう時代は平成だ。その価値観は古いと言わざるを得ない。
そもそも先程の言葉から、その村長の息子は彼女よりかなり歳上なのではないかと察せられる。ますます時代錯誤だ。
「子供や若者がいないからってだけじゃないんですよ。
私が“小宮”だからです。それも実質最後のひとり、みたいなものだから」
「小宮だから?」
昔々、のおはなしです。
その頃この村では長く雨が降らず、作物が育たず飢饉に見舞われていました。
村人たちは村の神様に祈ります。どうか助けてくださいませと。
すると当時の宮司に神様が降臨し、村人をひとり花嫁に捧げよと告げたのです。
村人たちが選んだ花嫁は、飢饉で親を失い身寄りを亡くした娘でした。
しかし娘は花嫁として捧げられることを嫌がり、そのきょうだいが代わりに嫁ぐことになりました。
幸い神様は受け入れてくれました。
そして村には雨が降り、飢饉から救われたのです。
その一年後、花嫁になるはずだった娘の夢にきょうだいが現れます。その腕には赤ん坊が抱かれていて、
『自分が産んだ神の子だ、人の世で姉さんに育ててほしい。この村の繁栄を祈っている』
と渡されたそうです。
そうして目覚めた娘のそばに赤ん坊がいたんだとか。
娘はその子を大事に育てました。この男の子が小宮家の始祖です。
そして以後、神様への感謝、村の繁栄の象徴などの意味を込め、小宮家の結婚式は村総出で歓迎してお祭りにしたのですよ。
神様にあなたの子孫は、私達は幸せに暮らしておりますと伝えるために。
これが神婚祭の始まりです。
「では小宮の家は神の子孫なのかい」
「まっさか! そんなことあるわけ無いじゃないですか。ただの言い伝えですよ」
縫衣ちゃんはけらけらと笑い飛ばした。それまでは淑女然としていたが、その様子は年相応に見えた。
「まあでも、この伝承を信じてる人がいるんですよ。お年寄りは特に。………村長がその筆頭で」
繁栄を約束した小宮の血筋を絶やしてはならないとか、男児を産めとかうるさいんですよと、辟易した顔で彼女は愚痴をこぼした。
繭子さんも高校には行かず恋人とさっさと結婚しろと村長に言われたらしいが、振り切って寮制の学校に入り、さらに学びたいことができたと大学にも進学してしまったらしい。
このたび卒業してようやく帰ってきて、やっと恋人と結婚すると宣言したということだ。
繭子さんの恋人、明日の花婿は八歳も年上の村人の若者らしい。経七年も帰らなかった恋人を律儀に待ってくれていたそうだ。
「…そういえば聞き忘れてました、ごめんなさいお客さん、お名前教えてください」
「ああ、名乗ってなかったか。こちらも申し訳ない。私は中村比佐志。助教授だよ」
「ごめんなさい、助教授ってなんですか?」
「大学の教職員のひとつだ。教授より下の権限の役職だね。してることはあまり変わらないけど」
「じゃあ、教授さん」
「まだ教授じゃないんだけどな」
「良いじゃないですか。教授さん」
私達はそれからもしばらく話をした。
結婚式は神前式で、村の入り口から唯一の神社まで花嫁行列を行う。神様……ご神体の前で三三九度の盃を交わし、あとは村人みんなで屋台や酒宴で盛り上がる、というのが定番らしい。
村の名前がどうして亜湖野なのかという私の質問には、わかりませんと首を横に振られてしまった。神婚祭が始まった頃に変えたらしい、という話を聞いたことがあるくらいでその前の名前もわからないと。
図書館もあるとのことなのでそこでわかるだろうか。祭りのあとに行ってみるか。
私の質問が一通り終わったあとは、縫衣ちゃんから私への質問タイムとなった。主に私の出身地などについての話となったが、残念ながら十四歳の少女が喜びそうな話題は持っておらず、ずっと研究ばかりしている私は地元の観光名所などにも詳しくはなかった。
結果的に私が話せたのは今の妻と恋人時代に行った無難なデートスポット、これまで研究で赴いた県などについてだったが、縫衣ちゃんは楽しそうに聞いてくれた。
とくに妻とのやりとり………デートやプロボーズのシチュエーションなどの話に目を輝かせていたのはじつにこの年頃の少女らしかったが、なんとも面映い気分にさせられた。
縫衣ちゃんがあくびをした。
時計を見ると、時間はもう夜の九時を過ぎていた。
「ごめん、すっかり話し込んでしまって。もう寝なくてはね、明日は早いんだろう」
「いいえ、お話楽しかったです。色々聞かせてくださってありがとうございました。
じゃあおやすみなさい、教授さん。明日の神婚祭、楽しみにしててくださいね」
縫衣ちゃんがふすまを開けて出ていく去り際、彼女のスカートのポケットから何かがこぼれ落ちたのを見た。
拾うと、それはビーズで作られた小さなマスコットのブローチだった。
妻も娘と最近作るのにハマッているものだ。
おそらくは彼女の手作り。丁寧にワイヤーで作られたちいさなイチゴのパフェ。器用なものだ。
追いかけるかと思ったが随分眠そうだったし、下手したら彼女の部屋に行くことになる。年頃の少女の部屋に夜赴くなど良くないだろう。
明日に返してあげればいいかと上着のポケットにしまった。
どこかの暗い部屋の中。少年の後ろ姿が見えた。
明かりを消した暗い部屋なのに、何故かその少年の姿ははっきり見えた。
白い着物を、着ているからだろうか。
しかしその着物、男性用には思えない。花模様の引き振り袖………。これは、女性用の、晴れ着のたぐいではないのか。
それも不思議だったが、その後ろ姿に妙に既視感を抱いた。
知ってるような気がする。
つい最近、こんな背中を、後ろ姿を見たような。
“………を”
何か聞こえた。
“……を、…いし…す”
引き振り袖の少年がわずかにこちらに振り返る。
その顔は何故か影で見えない。ただ口元が動いていた。
“…いを、お…………ます”
“この村から、連れ出してください”
最後の言葉だけ、ハッキリ聞こえた。
目が覚めて、一瞬ここがどこかわからなかった。
鳥のさえずりがする朝日の中で、ようやく亜湖野村に来てるのだと思い出す。
「…………」
何か夢を見ていたような気がするが、内容は思い出せなかった。
この時には、どうしても。
✱✱✱
まだ日が昇ってまもない時間に起きてしまったなとぼんやり思っていたところ
。
「失礼いたします。中村さん、中村さん。こんな朝早くからすみません。起きてらっしゃいますか?」
と、ふすまの向こうから言葉をかけられた。
織江女将の声だった。
「はい、起きてます」
「こんな格好で早くに失礼いたします、おはようございます」
織江女将は髪をゆるくまとめ、おそらく化粧もしていないすっぴんで、寝間着の上からガウンをさっと羽織っただけの姿だった。
これはまさか、寝起きなのか?
こんな姿で客の前に?
驚く私に織江女将からは、
「突然なのですが、今日の結婚式に参列してほしいのです」
と言われた。
「え? 私も参列、ですか?」
「はい。村長がぜひに、と」
私は外から祭りを眺めて写真に収めるつもりだった。
しかし村長が、こんな早朝からいきなり電話をかけてきて、
「今年は真似事ではなく本物の結婚式なのだから、せっかく来てくださっているお客さんにも参列していただこう」
とじつに機嫌よく言ってきたらしい。
結婚式の当日の朝に。一番忙しく準備を始める花嫁と花嫁の母のところに、だ。
……それは迷惑な…と思わず顔をしかめそうになってしまうが、なんとかこらえた。
こういう閉鎖的な小さな村では、村長は一番の権力者だしな…。
「本当にすみません、準備もございませんでしょうに。亡き主人の着物がなんとか着られると思いますので、すぐにご用意を」
「ああ、いえ大丈夫です。結婚式のお祭りだと伺っていましたので、一応スーツと白のネクタイくらいは持ってきているんです。それで良いでしょうか?」
「まあ、そうなのですか。……式には和装だと漠然と決められていますけど、お客さんですもの。スーツで構わないと思います。
……急な参列を求めたのは村長なんですから、文句なんて言わせませんわ」
ニッコリと笑う織江女将は少々怖かった。………まあ迷惑に思うよな。
「式の間、お側に縫衣をおつけします。段取りなどの案内は縫衣になんでも訪ねてくださいな」
「有り難いですが花嫁の従姉妹になるでしょうに、良いのですか」
「良いんですよ。急な参列を求めたのは村長ですからね」
………二回も言ったな。本当に迷惑に思っているというか、怒っているんだろうなこれは…と肌で感じとった瞬間だった。
あのままさっさと顔を洗い髭を剃り、軽い朝食をもらい手早く食べ終えて、スーツに着替えてネクタイを締めた。ポマードで髪をかきあげて整えたところで、
「教授さん、おはようございます。入っていいですか?」
と遠慮がちな声がした。縫衣ちゃんだ。
私が入っていいよと答えると、「失礼いたします」と丁寧にふすまが開けられる。
縫衣ちゃんは薄く化粧をして髪を結い上げて飾り立て、季節に見合った柄の晴れ着に身を包んでいた。
「今朝はすみませんでした、村長が」
「いやいや。縫衣ちゃんが謝るようなことじゃないから。今日はよろしく頼むよ」
「はい。あの、結婚式に出たことはありますか?」
「西洋式なら何度かは。でも神前式は初めてなんだ」
「そうなんですね。私がちゃんと段取りをお教えします!」
気合のつもりなのか拳を握って答える縫衣ちゃんは微笑ましかった。
村総出の祭り、『神婚祭』は壮観の一言だった。
主役の花嫁は明治時代に主流とされた赤、黒、白の三枚襲というなかなか豪勢な花嫁衣装を着込み、己の足で歩くのではなくこれまた豪奢な神輿に載せられて担がれていく、花嫁行列。その行列も、屋台をしている人間以外の村人全員ではないのかと言うくらい長い。
江戸時代の頃に入手して以来ずっと使われているという、桐箪笥やら鏡台やら、どれも当時から高級品ばかりな『嫁入り道具』も共にずらずらと運ばれていく。
これは十分、観光客を呼べるのではないだろうか。
とくに外国人に受けが良さそうだ。古き良き日本の神前式として。
神社は水芽という名前だった。意外だったが、神の子孫とされる小宮家は神職なわけでは無いらしい。
いつもは閉められている神社の御神体も、こたびは神に祭事を見せるためにご開帳された。
御神体は、緑の石で大きく形造られた立派な龍だった。
やはりこの村で祀られていたのは雨神だったか。昔語りから水神だろうとは思っていた。
ふと、風に乗って鉄の匂いがした気がした。
「………?」
顔を回してくんくんと鼻を鳴らすと、やはりどこかから少し匂う。鉄………いやこれは、
血の匂い、か?
「教授さん、どうかしたんですか?」
「あ、いや………、その、血のような匂いがしたような気が…してね」
「え…」
縫衣ちゃんも顔を回して鼻を鳴らす。
「……ホントだ……かすかにそんな感じの……猫とか鳩とかに怪我してる子でもいるのかしら…」
彼女は神社にたむろしている猫や鳩たちに近づいて確かめようとしたらしいが、鳩はささっと逃げてしまった。猫は人馴れしているようで逃げなかったので抱き上げようとしたが、晴れ着だったため躊躇して手を止めていた。
仕方なく目視で確認してきたようだが、怪我してる様子の子はいなかったらしい。
「……まあ血の匂いと断定したわけじゃないし……そもそもこんな晴れの日に言う言葉でもなかったからね。私の気のせいだろう。忘れてくれ」
「………そうですね…わかりました」
水芽村長は神社の宮司であり、かつて神が降臨した宮司の子孫になるらしい。
すでに還暦も過ぎているようだがじつに豪快で若々しく見える、恰幅のいい男性だった。
「いやあめでたいこった。繭子や、子をはよう産めよ。たくさんな」
「村長、こんなところでやめてください」
酒に酔ってるとはいえ、なんとも品のない発言をする。気分が悪くなった。
だがそう感じたのは少数派だったらしい。村長と同年代や少し若い中年たちはそうだそうだ今夜から励めよと豪快に笑っている。
「来年には縫衣の番だなぁ! 倅とはよう子を成せよ、縫衣」
「村長! やめてくださいと言ってるでしょう!」
給仕をしている織江女将が、厳しく諌めるように村長を呼ぶ。
縫衣ちゃんも眉をひそめながらきっぱり答えた。
「村長、私はそれを承諾した覚えは一度もありません」
「オヤジ、その話はやめてくれよ」
縁談が進められている当人、村長の息子も乗り気ではないらしい。
村長の息子は二十代半ばほどの若者だった。随分遅くにできた息子のようだ。母親似なのか村長とはまったくと言っていいくらい似ていない。
背が高く端麗な顔立ちの、ハンサムな青年だと男の私も感じた。年頃の少女なら見惚れるのではないだろうか。
その年頃の少女の縫衣ちゃんが彼との結婚を断固拒否してるのは、勝手に決められることに反発しているのか、純粋に彼が好みのタイプではないのかもしれない。
「いくらあなたが村長でも、縫衣はうちの子です。………好きにできるなんて思わないでください」
縫衣ちゃんを抱き寄せて織江女将は言う。随分警戒しているようだ。
早くに亡くなった妹夫婦の忘れ形見なのだと言っていた。とてもとても大事にしているのだと伝わってくる。
「まったく、織江も小宮だろうに。何を言っとるんだか」
「小宮が、小宮がってうるさいのよ、もう………」
ろうがい、と小さく花嫁の繭子さんが舌打ちしながら言い、花婿がなだめている様子が見えた。
✱✱✱
祭りのあと。
軽めの夕食の配膳に来てくれた縫衣ちゃんは、そのままの流れで私の前に座った。
「教授さん。お祭りは楽しんでいただけましたか?」
「ああ、華やかでよかったし歴史を感じて興味深かったよ。正直外に宣伝すれば観光客が呼べると思う。とくに外国人に受けるんじゃないかい」
「村をなくしたくないなら現実的な意見だと思うんですけど、村長がその気が全然ないみたいですから、難しいでしょうね」
あくまで身内だけの祭りという感覚らしい。
私はひとりだったから、ひとりくらいなら混ざってもいいということだったようだ。おそらく十人二十人……といった大人数は受け入れたがらないだろうというのが縫衣ちゃんの見解だった。まあ村の規模からも難しいところもあるだろうな。
「村長たちが失礼な発言してたでしょう。嫌な思いをさせたと思います。ごめんなさい」
「縫衣ちゃんが謝ることじゃないさ。まあ………品のない言葉とは思ったけどね」
「あの人たちはしょっちゅうああなんですよ。昨日も言いましたけど村長をはじめ、一部の人達は神婚祭の始まりのお話を………小宮は神の子孫である、という話を盲信してるんです。
小宮の血筋を途絶えさせてはいけないと思ってるみたいで」
「小宮が神の子孫なんて、あり得ないのに」
「………君も、村長さんたちとは正反対の意味で固執しているね。その主張を」
「実際にあり得ないことなんですよ。だって、姉の代わりに嫁いだのは弟だったんだもの」
「………おとうと?」
「そうです」
───選ばれた花嫁は、飢饉で親を失い身寄りを亡くした娘でした。
しかし娘は花嫁として捧げられることを嫌がり、そのきょうだいが代わりに嫁ぐことになりました───
そういえば縫衣ちゃんは確かに、『きょうだい』という言い方をした。
そうだ、妹なら妹だと言えばいい。なのに『きょうだい』と言ったのだ。
きょうだい………姉弟、だったのか。
姉の代わりに神の花嫁にと捧げられたのは、その弟。
十五歳になったばかりの、少年だったらしい。
「男の子が、子供を産めるわけないじゃないですか」
「………」
神の花嫁が少年だったこと。それはこの村では知れ渡った常識らしい。
それなら小宮が神の子孫ではないと考えるのは自然のことだ。しかし、村長たち一部は本当に信じているという。
じつは神婚祭のときの、真似事の結婚式で十五歳前後の少女が村にいないときには、同じ年頃の少年が女装をして花嫁役をすることもあるという。
伝承を盲信する村長たちはむしろそのほうが正しいと言い切り、ここ十数年は少年がやるほうが多かったらしい。
もしかしたら村から若い人が消える理由の一つだったりしないだろうか、それは。
「神様は、少年の花嫁を受け入れてくださったのか」
まあ神からすれば性別くらいたいして気にならないかもしれないな。
私がそう考えたところで縫衣ちゃんは言った。
「そもそも、神様の花嫁になるってどういうことだと思います?」
…………。
これまでは花嫁を女性だと思っていたから、神との間に生まれたという小宮の始祖の伝承を受け入れていたが。
少年であったのならば話は変わってくる。
元々、神の花嫁になるということは………
「………………人身御供、かな」
「はい、そうです。………そして、人身御供に適してるとされる存在は何ですか?」
年頃の少女の前で口にするのは少々はばかられたが、彼女が望んでいるとわかったので素直に話す。
「………幼子か……純潔の乙女、だな」
「はい、そうです。………本来神の花嫁になるはずだった“姉”は、人身御供の条件をなくしたんでしょうね。
相愛の相手がいて合意だったのか、彼女を惜しんだ誰かに無理強いされたのかはさすがにわかりっこありませんけど。
その証拠が一年後の『“夢に出てきたきょうだいから渡された神の子”という赤ん坊』です。
そういうことなんだって、私は考えています。
だから本当に、あり得ないことなんですよ」
「………」
縫衣ちゃんは呆れるどころか軽蔑してるように言った。
「こんな簡単でわかりやすい話なのに。どうして、あの人たちはああなんでしょうね」
「小宮ってね、女系なんですよ。男の子はほんとに全然生まれなくって。
私の兄が二人目でした。始祖以来の男の子だって、もうものすごく歓迎されたらしいです」
「…お兄さん?」
「はい。いたんです」
「亡くなりました、三年前に」
彼女は淡々と告げた。
両親もすでになく、唯一の兄も亡くしたのだと言ったまだ十四歳の少女に、私は何を言っていいのかわからなくなった。
「……それは……、…………その、……病気とかかな」
「殺されたんです」
「え」
「兄は、殺されたんです。村は病死として片付けたけど。私は知ってます。
お兄ちゃんは、この村に殺されたの」
はっきり断言した彼女に、私は本当に二の句も継げられなくなってしまった。
✱✱✱
この村に来て三日目となる朝。私は朝食を持ってきてくれた織江女将に、縫衣ちゃんの兄について訊いた。
「縫衣の兄? ああ、絹司くんのことですね。……あの子、彼のことも、中村さんに話したのですね」
「……病気ですか?」
「……え、ええ……そうですね。病気ですわ」
織江女将の表情が曇り、一瞬魔があった。
絹司くんは妹思いの優しい子であり、小宮での始祖以来の男子ということで、村では本当に歓迎かつ大事にされながら育てられていたらしい。
だからといって天狗や殿様気分になって驕るようなこともなく、笑顔のかわいらしい普通の少年だったのだと。
しかし、どれだけ大事に慈しまれようとも対処できないことはある。
病気はどうしようもありませんでした、と織江女将は本当に悲しそうに目を伏せた。
他に適任者がいなかったため十四歳のとき、十五歳のときに神婚祭で、女装して花嫁役を果たしたそうだ。
その十五歳のときの神婚祭から、半年ほどたった頃だったらしい。
病名は言われなかったが相当重くつらい病気だったようだ。
随分と苦しい死に方をした、と。
その最期は、その死に顔は当時十一歳の縫衣ちゃんには見せられるようなものでは無かった、と。
それでもと止める織江女将を振り切り、兄の遺体を確かめた縫衣ちゃんは、しばらく泣き暮らしてたそうだ。
本当になんと言ったらいいかわからない話だ。
暗い気分になったが研究とレポートはまとめなければ。私はそのためにここに来たのだから。
神婚祭の具体的な始まりの時期や、亜湖野村の名前の由来など、調べたいことは沢山ある。図書館に向かってみるか。
「君は……」
「よう、お客さん。散策か?」
道すがらたまたま会ったのは村長の息子だった。
昨日の和装もよく似合っていたが、ただのシャツとスラックスでも様になっている。スタイルのいいハンサムは何を着ても似合うようだ。
本当に村長とは似ていないし、正直こんな田舎村にいるのはもったいない美男子だとつくづく思う。
「図書館に行こうと思っているんだ。神婚祭を始め、この村の詳しい歴史を調べたくてね」
「そうか、図書館はあっちの方にある。まあ何がどんなふうに伝わっているのかオレは知らないけどな」
「ありがとう。………そういえば、訊いてもいいかな」
「なんだ」
「君は、縫衣ちゃんとの結婚を村長……お父様から勧められているようだが」
「オヤジが勝手に言ってるだけだ。オレが連れ添う相手はすでにいるからな」
「おや」
どうやら婚約者がいるらしい。父親の村長には反対されているということだろうか。
「どんな人なんだい、君の婚約者は」
「………優しい奴だ。そこまで自分を犠牲にするなって叱ったことがあるくらいにな」
「まあ今は、さすがに本人も怒ってるけどな」
………? 喧嘩でもしているのだろうか? もしかして縫衣ちゃんとの縁談が原因か。
まあこれ以上は辞めておくか。若者の恋路や家庭の事情に首を突っ込みすぎるのは良くない。
「………図書館はあちらだったね、教えてくれてありがとう。ああ、最後にもう一つ訊きたいんだが……」
「なんだ」
「この村が『亜湖野』村になる前の、名前を知っているかい?」
「名前なんてなかったぜ。だからあこの村になったんだ」
彼はあっさりとそう言って、そのまま立ち去っていった。
……その後図書館でざっと調べたが、彼が言ったように『そもそも村には名前がなかった』という記述は見つからなかった。
彼は村長の息子だからそれを知っているのか。もしかしたら家に代々の個人の書物でも残っているのかもしれない。
明日頼んでみようか。
そうすることにして昼前に切り上げ、小宮の民宿に戻って昼食を頂き。その膳を下げに来た織江女将が、真剣な顔で言ってきた。
「………中村さん。すみませんけれど、ご同席を頼めますかしら」
「? 何への同席でしょうか」
「これから、繭子の結婚生活について具体的に話し合いをするんです、村長たちと。縫衣もまじえて…」
「………それは、赤の他人で外の人間である私が同席していいものなのですか」
「村長たちは許さないかもしれませんが、そんなの関係ありません。どうか、縫衣のそばにいてあげてください。
……私も繭子も、あの人たちの言いなりにはもうならないと決めましたから……絹司くんが死んでしまったときに」
「………わかりました。同席させていただきます」
✱✱✱
「私は彼及び母も連れてこの村を出ます。もちろん縫衣ちゃんも連れていきます」
「そんな勝手は許さん! お前も織江も縫衣も“小宮”だぞ! 小宮の自覚がないのか!?」
「いつまでそんなこと言ってらっしゃるんですか! もう時代は平成ですよ!」
どうやら繭子さんはこの村に帰ってきたつもりはなく、お別れの儀式として神婚祭をしたらしい。
旦那さんも母の織江女将も、そして縫衣ちゃんも連れてこの村を出ていく。二度と帰ってくるつもりはない、と。
それを断固として許さないと叫ぶ村長と侍る村人たち。
どちらも己の主張を譲らない平行線の会話だった。
何も聞かされてなかったらしい縫衣ちゃんは驚いていたが嬉しそうに笑った。
「ありがとう繭子ねえさん、伯母さん。でも私だけじゃないわ。お父さんとお母さんと、お兄ちゃんも連れて行って。……全員無理ならお兄ちゃんだけでも」
「ええ、ええもちろんよ。みんなでこの村を出ましょう」
「そんなことは許さんと言っている!」
この人は本当にそれしか言わないな……。
「神の子孫が村を守るのが神との約束ぞ! この村が滅んだらなんとする!!」
「滅んじゃえばいいじゃない」
縫衣ちゃんが言った。
「な、なんだと…?」
「滅んじゃってもいいじゃない、こんな村」
「縫衣ちゃん……?」
様子がおかしい。目が据わっている。膝のスカートをギリギリに握りしめている。
「縫衣!! 小宮でありながらなんてことを言う!!」
「うるさい!!! あんたたち全員、死んじゃえばいいんだわ!!! お兄ちゃんにひどいことした奴ら、みんな!!!!」
「縫衣ちゃん!?」
あとで思い返せば彼女はきっと、この場に来た最初のときから我慢していたのだろう。
色々とずっと溜めていたものが、ついにこのときに限界に達したのだろう。
縫衣ちゃんはボロボロ泣きだして、村長たちに向かって叫んだ。
「私が知らないとでも思ってたの!? あんたたちがお兄ちゃんに何をしたか!!!
あんたたちみんなで、お兄ちゃんを犯したでしょう!!!!」
空気が凍りついた。
織江女将は顔を青ざめさせ。繭子さんは何を聞いたのか理解できない顔をし、彼女の旦那さんも硬直して。
私も理解するのに数秒を要した。
おかした?
………犯した、か?
まさか。
縫衣ちゃんが村長に、村長の息子に、村長にはべる男たちに指を突きつけていく。
「あんたも、あんたも、あんたもやったんでしょう! ときには複数人で、あんなこと!
お兄ちゃんに……!!
なんでよ、なんでお兄ちゃんがあんな死に方しなきゃならなかったの!!! ひどい……ひどい! あんなっ」
「ッ必要な行いだったのだ!! 神の子を作るためだ!!」
「バカ言わないでッッ!!!」
───縫衣ちゃんの追求に対する村長の言葉は、肯定を意味していた。
男たちは何も言わない。表情を消しているもの、それが何だと堂々と開き直ったかのような顔のもの、気まずそうに顔をそらすものと分散されていた。
すべて、肯定してるのと同じ動作だった。
───それは、彼女の兄、絹司くんが十五歳になり、去年のようにまた神婚祭の花嫁役を努めたあとからはじまったことだという。
小宮の始祖を産んだ神の花嫁、「弟」は十五歳で神の子を産み落とした。
村長たちは彼が生まれたときから……十五歳になれば、『そうする』つもりだったのだと。
毎年通りの神婚祭のあと。花嫁衣装のまま村長に呼ばれた絹司くんは、………ただの炭酸水だと称された、中にしびれ薬を仕込まれたものを飲まされた。
そして…………、それ以降のことは、彼のためにも記さなくてもいいことだろう。
そしてそれは、半年続いた。
その半年は、実妹である縫衣ちゃんが兄の異常に気づくには十分な時間だった。
そして止められる前に、彼は死を迎えてしまった。
その死因は、失血死だったという。
臀部からの大量出血………腸がひどく大きく裂けていて、それで死んだのだと。
その身体には明らかな暴行の痕跡も見受けられたのに。
それでもあくまで“病死”として片付けられたのは警察官も村の医者も、陵辱に加担した一味であったからだ。
………私が思っていた以上に、盲信者は多かったようだ。いや、今の村に残っている者たちの多くがそうなのか。むしろ、だから残っているのか。
外に出ていった者は、彼らのその思想についていけなくなったからだったのかもしれない。
村長は、悪びれず言い放った。
「村人も小宮も少なくなり、村が消えそうになっている時期に誕生した始祖以来の小宮の男子だぞ。
ならばその役目は再び神の子を産み落とし、村に繁栄をもたらすことだ」
ゾッとする。
これまで何度か聞かされてはいたが………村長は、その側をはべる彼らは本当の本当に、“神の花嫁”になった少年が神の子を産んだと、“小宮”はその神の子の子孫だと、信じている。
男が、孕んで子供を産んだ、と。
小宮の男は孕めて子を産めると、……妄執して。
十五歳の少年に。大の男たちが、よってたかって………その尊厳を破壊し尽くしたのか。
なんと、おぞましい。
ただの欲望の捌け口に弄ぶだけでも、殺人に匹敵するひどい行いなのに。
そんなあり得ない妄執のせいで。
十五歳の少年が命を落としたというのか。
ただただ、おぞましかった。
「………ふとん……」
青ざめて呆然としていた織江女将が、ぽつりと言った。
「ふとんを、捨てたわ。絹司くんの、十五歳の神婚祭のあと……」
「伯母さん…?」
「血で汚れてどうしても落ちないから捨ててほしいって。……申し訳ないけど縫衣ちゃんが汚してしまったみたいでって、絹司くんが……。丁度初潮が始まる年頃だったでしょ……だから、あんまり不審に思わなくて…」
新調するふとんは大人サイズにしてくれと言われたことも、成長期に入るのだからと変に思わなかった。
縫衣がそのしばらく後初潮が来たとこっそり教えてくれたとき、以前汚したふとんについてなにも言わなかったことも、恥ずかしいのだろうと思って訊かなかったのだ、と。
「………そういえばあの頃、伯母さんからだよってお兄ちゃんが、大人サイズの新しいふとんくれた……。お兄ちゃんのふとんも、いつのまにか新しくなってた…」
「……それはオレがやったんだ」
最初の話し合いのときからずっと黙ったままだった村長の息子が、はじめて口を開いた。
「オレがあいつに新しいのをくれてやって、あいつは妹のを伯母から新調する。そうすればあれはお前の血のあとだってバレずに処分できるはずだ、ってな」
伯母は妹の部屋には掃除しにいくが、年頃の男になった自分の部屋には入らないようにしくれてるから上手くすり変えられたと、後から助言とふとんのお礼を言われたと村長の息子は神妙な顔で言った。
「……なんでそんなことしたの。自分たちがしたことを知られたくなかったから?」
「違う。オレは、やってない」
村長の息子は縫衣ちゃんと目を合わせて、しっかり応えた。
「オレは、あいつを傷つけたりなんてしていない。誓う」
村長の息子の彼も兄を犯した加害者のひとりだと認定していた縫衣ちゃんは、その真摯な返答に驚いていた。
その言葉は本当だと私も感じた。彼は少なくとも、陵辱には加担していないのだと。
織江女将は絹司くんの遺体を清めた。故にその死因を、彼の身に何があったのかを悟った。だから縫衣ちゃんに遺体を見せることを拒んだ。
しかし、そのおぞましい行為が連日行われていたことまでは知らなかったらしい。
「子供を産ませるなんて………そんな理由で……絹司くんがあんな目にあったのはそういうことなの? ……あの日だけじゃ、無かったの……」
「そうよ。十五歳の神婚祭のあとから、毎晩のようにずっと………!」
村長と今この場にいる男たちだけではない。他にも絶対に加担している奴がいると縫衣ちゃんは叫ぶ。
「……絹司くんにあんなことをしたその犯人たちを村長が隠してることは察してたわ………、私………次は縫衣があんな目に合うんじゃないかって、思って」
織江女将はそれで、あんなに村長たちから縫衣ちゃんを守ろうとしていたのだ。
繭子さんも、泣き出す。何も知らなかった、聞いてなかった……と。
「死んじゃう日の少し前……絹司くん、私に電話してきたの。縫衣を、縫衣をお願いしますって。村の外に連れ出してくれって。
だから私、絶対に縫衣ちゃんをここから連れて行くって………、……あの時にはもう、何度もそんな目に……?」
「そうよ。何度も。何度も犯されたの! 子供を産ませるんだって言って!!!」
「バカげてる、ふざけてる。男が妊娠するなんてそんなことある訳無いのに!
そもそもあんたたちが犯して、それでなんで神の子が生まれるのよ! それで出来るとしたらあんたたちの子、人間の子じゃないの! なんでそんなこともわからないの!?」
「絹司は本当に産んだのだ! 神の子を!」
「何よそれ! イカれてるのも大概にしてよ!」
「本当に産んだのだ! 腹が膨らんで、たしかに産み落とした! アレが死んだのはそのせいだ!」
「バカ言うのもいい加減にして!!!」
村長はバカの一つ覚えのように産んだと連呼し、………男たちも次々と同意していった。
絹司はたしかに孕んだ、と。
「子作り」をはじめて半年後。
腹にうごめくものを宿して、わずか一昼夜で臨月のように膨らみ、大量の血と共に“それ”を産み落として死んだのだと。
これについては、陵辱には加担していない村長の息子も『そういうふうに死んだことは間違ってない』と答えた。
一夜孕み、という言葉が浮かんだ。
いや、あれは神の子は一度の交わりで宿るという意味で、一昼夜で出産ということではなかったはず、だ。
本当に、村長も彼らも狂っている。
そんなことがあるわけが、ないのに。女性でもそんなことは。
あるとしたら想像妊娠という病気だ。
しかし村長はむしろ誇らしげに答えてみせる。
「証拠はある。今神の子は神社のご神体の下にお納めしてあるのだ。まだ卵で、お目覚めになられておらぬがな」
「た、卵?」
「神の子だ、人とは違うのだ。人の形をしてなくとも、卵生でもおかしくはなかろう」
証拠を見せてやるという村長の言葉に、私達はみなで水芽神社に向かった。
移動の間、縫衣ちゃんは私の服の裾をシワが出きるほどきつく握りしめながら、村長と侍る男たちの後ろ姿を睨みつけていた。
男たちがご神体の龍の石像を丁寧な手つきで持ち上げる。
血の匂いが、した。
「見よ! 絹司が産み落とした“神の子”だ」
ご神体の下の箱に収められていた、村長が言う“神の子”。
それは人の手のひらより大きく丸く、歪な表面をして僅かに脈打つ、赤黒い塊だった。
赤いのは、血なのか。だから血の匂いが……。
しかし、これは。
これは…………
「………これが? お兄ちゃんが腹から出したものだっていうの……?」
「まだ孵化しておられぬが、たしかにこれは生きているのだ。時が経てば生まれるであろう」
「………………胎盤…………?」
「教授さん?」
「これ、胎盤じゃないか?」
「胎盤って………えっと、赤ちゃんと一緒に出てくる…?」
「正確には赤ん坊の後に出てくる。赤ん坊と母体を繋ぐ臓器だ……」
実物を見たことはないが、妻が出産する際に色々と調べた。その際に絵や写真で見たものと、それはよく似ていた。
というより、それにしか見えない。
「なんだと? ……卵ではないと?」
「違う。胎盤は赤ん坊じゃない…」
「………これが胎盤なら、お兄ちゃんが産んだっていうなら」
「赤ちゃん………いるの? 本当に産んだの……? お兄ちゃん……」
あり得ない、ことだ。
この胎盤は、生きている。
赤ん坊が出て、へその緒を切られ、子宮から剥がれでてくるはずのもの、なのに。
……まだ、母体と繋がって……いるかのように。静かに脈打っていた。
確かなのはこれは胎盤で。
胎盤があるということは、生まれたということ……で。
───ならば、子は、どこにいる?
「ハハハハハハ! やはり神の子は産まれたのだ!!! これで村も再び」
【ならぬ】
それは明らかに、ひとではないものが発する声だった。
【ならぬ】
無表情のまま口を開くのは、村長の息子だった。
その表情を消した顔は美しいゆえ、まるで能面のようで、ひどく恐ろしく感じた。
【産まれたのは、吾子ではない。お前たちへの、呪の塊】
あこ? あこ……。
吾子、か……?
昔の、自分の子への呼称だ。
産まれたのは自分の子じゃない?
何故、そんな言葉を。彼は。
「………あなた、だれ…?」
縫衣ちゃんが呆然としたままつぶやいた。
突然何を言っているのだろう。
しかし次の瞬間、村長をはじめ、繭子さんや織江女将もどよめきだした。
「お前は誰だ!? わしには息子なんぞおらんッ!! 娘だけだ!!」
「そうよ、そうよ……村長のところにはお嬢様ひとりしか…!!」
「誰よあなた!? ───あなたなんて知らないわ!」
私もそこで、彼の名前を知らないことに気づいた。
そうだ。誰も彼の名前を呼んでいなかった。
私も、訪ねもしなかった。
そんなおかしな状態にも気づかなかったのだ。この時まで……。
そもそも……今の村に二十代の人間は繭子さんだけだと、縫衣ちゃんは言っていたのに。二十代に見える彼に違和感を持たなかった………。
まったく村長に似ていない、村長の息子。誰も名前も知らない。そして今、その存在は無いものだという。
なら………今目の前にいて、人ならざるような声を発する“彼”は………?
吾子。自分の子。
産まれたのは自分の子じゃない。
「………神、様…?」
私がまさかと思いながら紡いだ言葉に、“彼”は頷いた。
【この村でそう呼ばれる存在は我のみ】
突然、雨が降り始めた。
一気に全身ずぶ濡れになる。
“彼”の姿はその雨に溶けるように消え、またたきの合間に現れたのは、
神社よりも大きい、全身青に輝く神々しい───龍だった。
【人間とは度し難きものよ】
【我が妻が望んだから転生させてやったものを。よくもあのような行いを】
【許さぬ。許さぬ。我が妻の身も心も傷つけよって】
【もう、この村は要らぬ。妻もそう望んでいる】
【すべては土へ。水へ流れ】
【自らの行いは自らへと還るだろう】
その言葉を残して、龍はその御身をくねらせて雨が降る天へと登っていった。
途端。
村長の腹が一気に膨らみ、臀部がはじけとんだ。
それはどれほどの衝撃だったのか。村長は驚愕の顔のまま絶命したのがわかった。
下半身が血まみれになった男が白目のまま己の血だまりに倒れる。
「ヒッ───!」
繭子さんたちの悲鳴はさらに強くなった雨にかき消された。
村長だけではない。
今度は繭子さんの旦那さんも、腹を膨らませ臀部からはじけとび、絶命した。
それから次々と場の男たちが───同じようになって絶命していった。
絹司くんの尊厳を壊した男たち。
それには、………繭子さんの旦那さんも、含まれていたのか………。
繭子さんが、へたり込んだ。目の前で夫が死んだこと………その死に方が、その理由を、悟ったのだ。
雨が、どんどん強くなる。
このままここにいてはいけないと、本能で感じた。
「縫衣ちゃん! 逃げるんだ!」
「えっ…教授さ」
縫衣ちゃんの腕をつかんで走り出そうとして、繭子さんや織江女将にも声をかけたが、……彼女たちは地面に膝をついたまま、動かなかった。
「織江伯母さん…繭子ねえさん!?」
「行って、縫衣ちゃん」
「行きなさい、縫衣……。中村さん、姪をお願いいたします…」
このときの私は、縫衣ちゃん一人を連れていくのに精一杯であり、動けない彼女たちをどうしようもできなかった。
───今思い返すと、彼女たちは動けなかったのではなく、みずから動かなかったのではないかと思う。
もう何もかもどうでもよくなってしまったのかもしれない。
絹司くんの苦痛を察してあげられなかったことへの償い、だったのかもしれない。
これは七年も村から離れていた繭子さんには元から不可能なことなのだが、本人はその罪悪感で押しつぶされそうだったのかもしれない。
なにせ、自分の夫………七年間待ってくれていたと信じていた恋人も、それに加担していたのだから。
真相はわからない。ただ、彼女たちが私に縫衣ちゃんを託したことだけは確かだった。
肌に当たると痛いほどの豪雨が、村に降っていた。
時折、悲鳴が聞こえる。強い雨音にまじり何かが弾けるような音も。
あまりに強い雨に目もろくに開けられない。水を大量に吸った服が重い。もはや足首が浸かり水路になりつつある道を走るのは恐ろしくしんどい。それでもひたすら縫衣ちゃんの腕をつかんだまま、
村の外を目指して走る。
この手を離してならない、と強く思った。
「教授さん……!」
縫衣ちゃんが止まってほしい、伯母さんたちが、と言っている声がとぎれどきれ聞こえていたが無視した。
するしかなかった。
どちらかというと弾けとんでいない村人のほうが多かったと思う。
外で人を見かけないのは家も潰しそうな勢いの豪雨に、家の中に駆け込み出られなくなっているのだろう。
彼らを助けてやることは、私ひとりにはできなかった。
直感で走っていたが幸い方向は合っていたようで、やっと村の入り口───唯一の橋までたどり着いた。
そこでこれまた信じられない光景を見た。
橋の向こうには、雨が降っていなかったのだ。
まさにそこが、境界線であるように。
橋の下の川はものすごい勢いで増水していっていた。
そして、私達が渡りきってすぐだった。
橋が、轟音を立てて崩れ落ちたのは。
ありえないことだった。
車が通れる、鉄とコンクリートでできた橋が。まるでダイナマイトで吹き飛ばされたかのように、粉々に崩れて下の増水で荒れた川へと飲み込まれていったのだ。
「……お兄ちゃん…?」と縫衣ちゃんがつぶやいた。
「縫衣ちゃん。このまま逃げよう。夜明けまでかかるかもしれないが、頑張って麓の街まで」
「ありがとう、でもいいんです。私は村に戻らなきゃ」
「何を言ってるんだ、そんなことは駄目だろう。それに橋だって、もう」
「戻れますよ。実はある場所に、村につながる道があるんです」
「駄目だ! 君は逃げるんだ。それが織江さんや繭子さんの、……絹司くんの意志だ!!」
こちらには雨が降っていないのも、橋が崩れたのも。そういうことだ。
このときになって私は思い出したのだ。亜湖野村に来た夜に見た夢を。
女性用の晴れ着を………いやあれは花嫁衣装だったのだ………白で花模様の引き振り袖をまとった、少年の姿。
顔は見えなかったしそもそも私は彼の容姿を知らない。それでもあれは絹司くんだったのだと確信している。後ろ姿から感じ取った既視感は、縫衣ちゃんに似ていたからだ。
夢の中ではうまく聞き取れなかった言葉が、今このときに理解できた。
“縫衣を、お願いします”
“この村から、連れ出してください”
彼はそう言っていたのだ。
彼女をこの村から連れ出すこと。外に逃がすこと。それが彼の希望だ。
織江女将と繭子さんも同じだ。
だから……
「君だってわかってるだろ!? だから橋が崩れたとき彼のことを……」
「わかってます」
縫衣ちゃんは頷いた。
「わかってます。兄が私をここまで連れてきてくれた。もしかしたら教授さんが来てくれたことだって、お兄ちゃんの導きだったりするかもしれません」
神様のお嫁さんみたいだからそれくらいできるかも、と彼女は笑った。そんな場合ではないのに。
「でも、私は戻らなきゃ。だって」
「お兄ちゃんと一緒にいたいんです」
「お兄ちゃんにひどいことした人たちや、何も知ろうとしなかったひとたちが一緒なんて可哀想だもの。
それに伯母さんと繭子ねえさんだけなんてずるいわ。
私も一緒に、逝きたいんです」
「………」
「三年前、私は何もできませんでした。お兄ちゃんがどんな目にあってるか知っていたのに。
お兄ちゃんは気丈に言いました、私がこんなに目に合うよりいいって。自分は大丈夫だからって。そんなことあるわけ…無いのに」
「お兄ちゃんが死んだとき私は思いました。もっとワガママになっていたら良かったかもしれないって。
必死にここから出ようって、逃げようって私がゴネてたら、お兄ちゃんは私と逃げてくれてたかもしれないって」
「もうお兄ちゃんの言うことなんか聞いてやるもんかって今思ってるんです。
だから、私は戻ります。
お兄ちゃんの願いなんて聞かない。私は、お兄ちゃんのところに逝きます。
ここまで連れてきてくれて、……村に来てくれてありがとうございました」
気がついたら私は彼女から手を離していた。
「さようなら中村さん。この村のこと、私達のこと、あなただけでも知って、覚えていてくださいね」
これが、彼女の最後の言葉だった。
彼女は振り返らずにある方向に走っていってしまった。
しばし呆然としてしまったあと慌てて追ったが暗い藪の中、その姿はすぐに見失い。私は結局彼女を見つけることはできなかった。
それから。
亜湖野村は十日降り続いた局地的な恐ろしく強い集中豪雨により、大きな土砂災害が起こり村が全て埋まり村人は全滅した、とテレビや新聞で報道された。
これが、亜湖野村で起こった最後の記録。
もう三十年ほど前の、ずっと私の中でしまわれていた記憶だ。
本当は世に出さず、ずっと私の中に収めておこうと思っていた。
しかし今日………返しそこねてしまっていた彼女のビーズマスコットを久方ぶりに見つけてしまって、何かに書かなければいけないという衝動にかられた。
縫衣ちゃんからの……あるいは絹司くんからの、記してほしいというお告げだったのかもしれない。
だから私は今日、ここにこの記録を記した。
この話が実話なのかフィクションなのかどうかの判断は、読んだ者に委ねる。
某大学教授 中村比佐志
終.




