序章 機械仕掛けのビル
とろけそうな真っ黒な夜だった。雲間からさす、わずかな月明かりだけが、世界をぼうっと浮かび上がらせていた。
俺ぐらい不幸な奴はいない、と芦沢一樹は人生を呪っていた。そりゃそうだ。このオフィスビルしかない孤島のような都心の一角にあるライブハウスで、スムーズジャズのライブを観たあと、街路のベンチに座って一服して感慨にひたってたら、いきなり後ろからケツのポケットに差した財布を抜き取られ、しかもその犯人の後姿が、どう見ても十歳くらいのツインテの少女だったのだから。
あわてて追うと、どこぞのビルのあいているガラス戸の中に入られ、脇の階段を駆け上がった先の壁にあった丸時計の針が、なんと終電間際の時間をさしていた。これが不幸でなくて、なんだというのか。
だが、もうこうなっては仕方ない。
すべきは、あのガキを捕まえて、財布を取り返すことだけだ。
一樹が階段を怒とうのように三階ほど駆け上がると、前方にそのツインテのガキの後姿があった。壁の非常灯に照らされた背中は、どす黒く見えるので、おそらく赤かピンクの服だろう。
一瞬ストップすると、階段途中の少女も止まり、振り向いてやや小首をかしげた。そして、表情は暗くて分からないが、なにかすまなそうな声で言った。
「……やっぱ、怒ってる……?」
「あたりまえだろーがあああ――!」
思わず怒鳴ると、少女の姿はふっと消えた。踊り場を曲がったにちがいない。
駆け上がり自分も曲がると、目先の階段の上で、濃い色のスカートの端が、右のほうへひらりとなびいて消えた。
部屋に入ったな。
あがると、果たして右には扉が開けはなしてある。
中はどっぷりと闇のようだが、かまわず飛び込む。脇の壁をさわるとスイッチにふれ、ぱっと灯りがついた。
四畳半ほどの広さ、白い天井にのびる蛍光灯の白い光、白い壁、目の前のこじんまりしたデスクと黒い丸椅子。
仕事部屋か。
上でなにか動いたので、見て驚いた。あの少女が天井から逆さに頭を出し、こっちを眺めている。顔の両側のお下げ髪が垂れて、二つのとがった先が床を指している。
はじめて顔をはっきり見たが、やはり大人なんかの見間違いではなく、完全に十歳ほどの女の子だ。目はぱっちりと大きく、整ったかわいい丸顔だが、今はハの字眉で、すまなそうに彼を見ている。
いったいどうやってあがったのか、そんなところから頭を出して大丈夫なのか、などと疑問に思う余裕もなかった。ただあきれて怒り、指さして、また「おい、そんなとこでなにしてんだっ!」と叫んだ。
もし、もっと落ち着いていて、相手が真顔か怖い顔だったら、あるいは幽霊と思ってビビったかもしれない。天井裏から顔を逆さに出すとか、とても小さい子供に出来る気がしない。が、彼は頭に血がのぼっていた。
少女は怒鳴る男に対し、さっきと同じ困惑の対応をした。
「やっぱり、まだ怒ってるんだぁ」
声は前ほどすまなそうではないが、眉は変わらずハの字、ただ、言い終わると口元がややつりあがり、苦笑になった。
それで、さらにカッとなった。
「こんのガキぃぃ!」とデスクに飛びあがる。「ふざけんな!」
捕まえようと手を伸ばすと、頭はさっと引っ込んだ。せまい部屋のせいか、天井はけっこう低く、その一部の板が外されて四角い穴ができており、大人一人くらいはそこから入れそうである。
一樹は丸椅子を机にあげて台にしようとしたが、足が車なので動いてしまう。見回しても、ほかに足場になりそうなのが見当たらない。だが、ここまで来てあきらめるのは悔しすぎる。
ついにヤケクソで椅子を横に倒し、その上に右足をかけて、天井までジャンプした。穴に上半身を突っ込んでふちに両ひじをかけ、両足がばたつく。それでも踏ん張って身を引きあげ、なんとか中に入ることができた。
そこは、せまい通路だった。数メートルおきにある壁の継ぎ目から、蒼白い月明かりらしきものが漏れていて、まわりは薄暗いが、なんとか見える。
前方からかすかに音が聞こえるので、そっちへ這っていく。あのガキも這って逃げているにちがいない。まったく、すぐ謝って財布を返せば、こんなことしなくてすむのに。とんでもねえ、はた迷惑ビッチだ。いや、まだガキだから小ビッチか。
進んでいくと、ガキの物音がなくなり、かわりに、ガクン、ガクンという機械の動くような重い音が聞こえてきた。なにかヤバい気がしたが、後戻りはできない。なおも進むと、機械音に混じって、プシュー、プシュー、という蒸気を吐くような音さえしてきた。もうとうに零時はまわってるはず。こんな夜中に、こんなビルの高みで、いったいなにをやってるんだろう。
ガクンガクンが目の前に迫ると、広い場所に出た。
驚いた。
壁の穴から這い出た彼の前に、巨大なでんでん虫のような歯車がいて、先ほどからの耳障りな音をたてながら、こっちへ向けてぐるぐる回転しているのだ。直径はざっと二メートルはあろう、床に下半分ほどめり込んでいて、見ている彼に対し斜め右を向いてすえつけられ、角ばった鋭い牙のような無数の歯を、何度も床下へ押し込んでは、また背後から上げて、下へ送っている。
壁の上にある明り取りの小窓から来る月光で、部屋の中は蒼白くぼうっとはしているが、様子はよく見える。見渡せば、似たような歯車が部屋の奥まで大量に並んでごろごろ回っており、地下駐車場くらいの広さと分かった。
目の前の歯車の隣に、メーターやら赤や黄色の色つきボタンやらが並ぶ角ばった銀の装置みたいのがでんとあり、平べったい頭から、さっきから聞こえているプシュー音とともに、白い霧のような蒸気を天井へ向けてえんえん吹いている。
部屋はかなりうるさい。十個以上の歯車に、蒸気を吐く装置が加わって、不協和音の大合奏をかましているのだから当たり前だが、一樹にはこの様子が、とても現代日本のそれに見えなかった。近世のヨーロッパあたりの、どこかの工場の一角にまぎれこんだ感がメチャクチャする。あるいはガリヴァー旅行記とか、蒸気で動く飛行船の出るスチームパンクと呼ばれるアニメとかに出てくる、どこかノスタルジックな光景だ。子供のころ読んだ絵本でしか会えない、古い異国の代物だ。
そして、この違和感。
いったい、なにをやっているのかわからない。
ふつう歯車なら、いくつものそれが互いにかみ合って、なにか別のもっと大きなマシンなんかを動かす動力になっているものだが、これは、床にカタツムリの殻みたいに上半分を出して、互いが関係なく、ただ個別にぐるぐる回っているように見える。
じつは下でなにかやっていて、たんにここからは見えないだけかもしれないが、歯車たちが整然と並んでおらず、あちこちを向いてランダムにおいてあるうえに、回転の速さも、あるものは素早くぐるぐるしているのに、隣のは止まりそうなほどゆっくりとギギギッ……みたいにまちまちなので、きちんと仕事をしている感が薄く、ますますその雰囲気の異様さを増している。
「おーい」
女の子の細く甲高い声が、機械音をぬってここまで届いた。またも上からである。
向かいの壁際に、いくつも折り返し点のある細い階段がついていて、その一番上に、例のツインテ少女が両手で手すりをつかみ、上にあごを乗せるようにして、こっちを見下ろしている。顔は分からない。が、一樹は「面白がっている」と決め付け、そっちに走った。
簡素な非常階段だった。カンカンと駆け上がると、ガキもさっと上がり、壁にあく黒い入り口に消えた。
(今度こそ、捕まえてやる!)
猛ダッシュでそこへ飛び込むと、そこはむき出しのぶっとい鉄骨がいくつも絡み合って上へ伸びている、かなりヤバそうな場所だった。
見上げれば、ガキはなんとその上に足をかけ、ここから数メートルほど先に、背を向けてせこせこと登っている。「バカ、あぶないだろ! やめろ!」と叫んだが、そこも周りから機械音がやかましく響いているので、聞こえないようだ。
仕方なく彼も上がった。なんでこんなことしなくちゃいけないんだ、と理不尽だったが、ここでやめて帰るわけにはいかない。もう、ここまで来てしまったのだ。
いや、やめて戻ってもいいのだが、彼には出来なかった。負けのような気がしたし、なんだかんだ言っても子供が危険なことをするのを放置するわけにはいかない。このまま落ちて死なれでもしたら、あまりに嫌すぎる。まるで自分が殺したような罪悪感にさいなまれるだろう、この先一生。
周りから歯車の音がガクン、ガクンと鈍く響くなか、一樹はでかい鉄骨に手をかけ足をかけ登っていった。見上げる鉄骨は数十本がコードのように絡み合い、広大なビルの内側いっぱいに、どす黒いはるか上方まで吸い込まれるように続いて見える。一本の骨の幅は二、三メートルはあり、青黒く光る鉄の棒だが、つかんだり足をかけられる穴が無数にあいており、落ちる心配はあまりない。とりあえず、あの娘は大丈夫そうだ。疲れなければ、だが。
しかし子供の体力は、意外とあなどれない。むしろ、こっちのがけっこう疲労してるから、ヤバいかもしれない。
鉄骨はビル内部いっぱいに詰まっているのに、このやかましい音がどこからしているのかと思ったら、右の何かに袖を引っぱられそうになり、あわてて腕を引いた。すぐそばにあのでかい歯車が、むき出して回っていたのだ。周りをよく見れば、鉄骨のわきや壁際のあちこちに点在し、さっきの部屋と同じように回っているのだが、あそことちがい、ここのは互いにかみ合って動いているようだ。
壁の明り取り窓が少ないのか、周りが暗いうえに、回る騒音がひどいので、気をつけていないと知らずに近づき、はさまれてアウトだ。あのガキ、大丈夫かよ。
なんでこうも心配しなきゃいけないのかと思ったが、人としてなるものは仕方ない。ここを脱出したあとで、みっちり説教してやろう。
お互い、生きていれば、だが。
ガクン、ガクン、ガクン……。
青黒い深海のような世界を、横で回る巨大な凶器をよけながら、手をかけ足をかけ、おっかなびっくり進んでいく。終わりがありそうにない。高層ビルなら、途中で死ぬぞ絶対。やだな、こんな死に方。こんなどこかもわかんねえとこで、なにも事情もわからんまま、この世からふっと消えるなんて。それも俺のせいでは微塵もなく。
「おーい」
うんざりしてくると、またかすかに上から声が。
ガクンの合間からだが、近いのか、さっきより大きい。
「出られるよ、ここ」
なんでもいいから、こんなアホ地獄を抜けれればいいので、急いであがると、声はさらに近づいた。この場に似つかわしくない、なにか、はしゃいでいるような、浮かれたようなトーンだ。
「すごいよ、芦沢さん!」
なんで名前を。あ、財布に入ってる保険証とか見たんだな。
「ほら、街だよ! すっごい、きらきらした、都会だよ! もう、すごいネオン! 赤、青、オレンジ! きんきらだよ! きれーい!」
「な、なに言ってんだ!」
思わず怒鳴った、息切れしながら。
「ここは、ビルのずーっと上だぞ! そんな空のうえに街なんか、あってたまるか!」
「芦沢一樹さん、頭が固いよ」
とがめているようだが、気を悪くはまったくしていない。ただ嬉しそうなままだ。
「大人になると、みんなそうなっちゃうのかなぁ」
(なに、言いたいこと言ってんだっ!)
一樹は、やっと奴のそばにあがった。そこは踊り場になっていて、尻を着けた。
「ほらほら、いこうよ一樹さん」
などとガキが手をつかんで引っぱるが、彼は動けない。
「ちょっと待て、お前よく疲れないな――
えっ、いこうって、どこへ?!」
驚く彼の前に、ぽっかりとそのツインテ少女の顔があり、その向こうに四角い出口があいて、ブルーやパープルのまばゆい光が漏れている。そして聞こえてくる喧騒。車や音楽の絡みあう音、人のざわめき。あきらかに、これは街灯りだ。
だがバカな。ここはビルの最上階付近のはず。外は夜空だろう? もしや、どこかの地面に繋がっている? 入ったとき、そうだったか?
ちがう。
彼は首をふった。
このあたりはビルばかりだが、そんな場所はない。何度も来ているから知っている。東京は新宿副都心の近くで、ここは街全体が平地だ。山もないし、建物の上がまた街とかありえない。
なんだ、いったいどうなってんだ。
なにか怖くなった。
が、少女はえらい力で引っぱり、彼は立ちあがってしまった。
「ほら、いこう、いこう!」
「うわあーっ、ちょっと待てええ――!」
前からくるネオンの逆光で、その顔はよく見えないが、とんでもなく楽しそうだった。よろこびにきらめいていて、黒いからブロンズのようで、ほとんど美しくさえ見えた。
一樹はそのときの彼女の顔を、永遠に忘れることがなかった。命ある限り。
彼は手を引かれて、ネオンの海に飛び込んだ。
二人は門をくぐった。
ここでない未知の世界、光と闇に満ちた異形の谷間、チルアウトゾーンの門を。




