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溺れてなお、君に跪く

作者: るる

俺は無意識に、彼女の手を掴んでいた。


「何か、御用ですか?」


 氷のような冷たい声と針のように鋭い視線。今まで向けられたことのないそれに、ぞわりと肌が粟だった。


 もう彼女は俺のことなど好きでもなんでもないのだろう。その仕草があまりにも如実にその事実を語っていて。


「俺を……俺を、捨てないでくれ……!」


 気がつけば俺はーー彼女の足元で、床に頭をついてそう懇願していた。


 自分でも何をしているのかわからない。しかし、彼女がここから去ってしまうと。そう思ったらいても立ってもいられなくて。


 これが、最後のチャンスかもしれない。


 その焦燥が俺の体を下へ下へと追いやっていく。まるで身体中に金の錘が付けられたかのような感覚。不快なはずのそれに、俺は身を任せることしかできなかった


「隼人さん……?」


 揺れる彼女の声。それだけでぞわりと胸の奥が疼く。名前を呼ばれるだけで、ごくりと喉が鳴る。


「あの時の俺はどうかしてたんだ……君がいない世界がこんなに冷たいなんて、知らなかったんだ」


 視界にちらつく華奢なブラウンの靴の先。ゆっくりとこちらを向くそれに、鼓動が一際大きくはねる。


「私のいない生活は、そんなに味気ないものでしたか? 私と恋人だった時間の方が貴方の人生の中では短かったでしょうに」


 他人行儀な言葉遣いと、頭上から刺さる彼女の視線。


「だからこそだ。君がいなくても大丈夫だと思ってた。でもそれは俺の驕りだったんだ。……情けない話だと思う。でもどうか……愚かな俺を、許して欲しい」


 彼女はただただ無言でその場を動かない。


 それがより一層、俺の想像を掻き立てる。


 葉月の顔には、今どんな感情が浮かんでいるんだろうか。哀れみ? 怒り? それとも、軽蔑?


 その言葉が浮かんだ瞬間、ぎゅっと下腹部が熱をもつ。


 ……いや、何を考えているんだ俺は。


「隼人さん……まさか貴方がそんなことを言うなんて思いませんでした」


 鋭いその言葉が俺の背中に突き刺さった。


 当然だ。こんな情けない姿を見せられて喜ぶ女などいない。ましてや相手は10も年上の男。


 その事実一つ一つに、何故か体が熱を持っていく。俺は、一体どうしてしまったのだろうか。


 視界をよぎる靴の先。その踵がゆっくりと持ち上がり白いレースの裾が視界を覆う。こちらへ伸ばされた白い手が、そっと俺の頬に触れた。


「ふふ、可愛い……」


 どこまでも甘いその声に、俺は言葉を失った。

 まるで体の奥深くを撫でられたかのような感覚と、脳が弾け飛ぶかのような衝撃。それに合わせ、びくりと体が大きくはねる。


「葉月……?」


 僅かに喉を揺らしたその声に、彼女はふわりと口角を上げる。


「隼人さんは、私の事など愛していないのだと思っていました。私に弱みを見せられるほど、私を信用して下さらないのだと」


 彼女の指が俺の首筋を撫でる。触れるか触れないか、まるでくすぐるかのような手つき。まるで俺の心を弄ぶようなそれに、俺は無意識に唇を湿らせる。


「弱い俺など、君は見たくないだろうと思ったんだ」


「そんなことあるわけないじゃないですか。私はずっと、貴方の全てが見たかった」


 想定外のその言葉に俺は思わず顔を上げる。視線が交差した先の彼女。その瞳はどこか仄暗いのに、逃れたくないと、そう思わせるような強い強い重力を発していて。ブラックホールの様なそれから、俺は目が離せなくなった。


「ねえ、隼人さん。貴方の全てを曝け出してくださるなら……そして、愛してくださるなら、私はいつでも貴方の元へと戻ります」


『貴方の元へと戻ります』


 その言葉を認識した瞬間俺は体を起こし葉月を強く抱きしめた。


「なんでも、なんでも見せる。お前が戻ってくれるというなら、それ以上に大切なものなどない」


「本当ですね? どれだけ情けない姿も、恥ずかしい姿も、可愛らしい姿も……全て、見せてくださいますね?」


 耳元から聞こえる艶かしい声だけで体が蕩けそうになる。葉月の言っている意味はよくわからなかった。そんなものを見て、何が楽しいのかと。


 でも……彼女になら全て曝け出したいと。俺は、そう思ってしまったんだ。


「あぁ……君が、望むなら」


 弱々しい俺の声を聞いて、視界の端でにぃと、赤い唇が弧を描く。


「約束ですよ」


 そのどこまでも支配的で、甘美な声にーー俺の心は、囚われてしまったんだ。


 *   *


 それから俺が、『これが俺の望む関係だったのだ』と、そう気がつくまで時間はさほどかからなかった。


 貪る様に愛を囁き、俺をなぶり、どこまでも妖艶な笑みを浮かべる彼女。全て初めてのはずなのに、妙に心地が良くて。


 俺はこんな人間だったのか。


 自分という人間として生きて早32年。まさかこんなところで、己の本性を知ることになるとは思わなかった。


 彼女の華奢な指の跡が残る手首をそっとシャツの袖で隠す。これから会う友人に何か探られたら面倒だ。


「よお、久しぶり」


「あ、あぁ……久しぶり」


 目の前にガタリと音を立てて座る男。久々に会いたいと言われてやってきたが、一体なんの話なんだろうか。


 男は簡単に注文を済ませると、ぐいと机に身を乗り出した。


「なあ、お前大丈夫か?」


「だ、大丈夫って何がだ?」


 俺はびくりと体をゆらし布に覆われた手首をさする。


「いやさ、お前職場であった子と付き合ってたろ。確か……葉月ちゃん、だっけ?」


「あぁ。それが、どうかしたか?」


 そいつはいぶかしむように眉をよせ、口元に手を当てそっと囁く。


「いやそれがさ。俺の元カノって兼業作家だろ? 女性向けの」


 そういえば、そんな話を聞いた気がする。こいつの彼女も葉月が働いていた当時は同じ職場に勤めていた。どこか蠱惑的で、支配的な女で……全くタイプが違うのに、葉月と仲が良かったっけ。


そんなことを思い出していると、やつは続けてこう言った。


「それでさ……この前元カノと酒の席で会ったら、葉月ちゃんに『M男を沼に落とす方法』教えて欲しいって言われたって」


「……は?」


 想定外の言葉に、俺は口の端を引き攣らせる。


 M男を、沼に落とす方法?


「いやそれでさ、お前そういう系じゃないじゃん? だからてっきり別の男に乗り換えられそうなのか、はたまた振られたかと思ってさ」


 混乱する俺をおいて、そいつはなおも語り続ける。


「それで心配になって呼び出したってわけよ。元カノがいうに、押してダメなら引いてみろ、ちょっと高圧的に冷たくしてもいいって言ったらしくてさ」


 高圧的に、つめたく、引くといい……?


 連日の葉月の態度が、俺の中で蘇る。ただそれだけではなかったが……言われてみれば、そんな風だった気がして。


 つまり俺は……彼女の手のひらで、踊らされていたわけか。


 口元に手を当て、机に肘を置く。


 なるほど。彼女は俺をMだと勘違いして、沼に落とすために、俺にあんな酷い態度をとった、と。


 まあ、22の人間らしい行動だと思う。俺の気持ちなど差し置いて、俺を試したのだから。


 あんな、辛い思いをさせて。


「お、おい……? 大丈夫か? 顔、赤いぞ?」


「……大丈夫だ」


 なのにそれが――こんなに、嬉しくて、心地よくて堪らないなんて。


 そう、全ては葉月の思惑通りだった。なのに俺はあんな痴態を晒して、あまつさえあいつに従って。


 考えるだけで、頭がおかしくなりそうだった。頰が火照り、ぞくりと背筋に甘いものが走る。


 ……どうやら彼女の見立ては、間違っていなかったらしい。


「とりあえず、こっちは特に問題ない。心配する様なことはないし、上手くやってる」


「そうか……? なら、いいが」


 俺は短くそう答え、そっと視線を伏せ手首を見つめる。


 付けられたあの跡が、疼いて仕方なかった。

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