天使の抱擁
母が生きている頃は良かった。
聖歌隊で歌っていたことが自慢だった母は、たとえ皿洗いをしている時の鼻歌であろうが家中を美しい旋律で満たした。父も機嫌の良い日はお世辞にも上手いとは言えないギターを持ち出して、母の歌に合わせて爪弾いていた。歌いながら母と手を取り合い、擦りきれた絨毯の上でくるくると回りながらダンスをする、幼い私。人生で一番、幸せな記憶。
「ストップ。ほら、またここ。何度言ったら分かるかな。ピッチが合ってない」
「クソッ! またかよミラ。俺は精一杯やってるし、何度も言っているがピッチがずれてるとも思えない」
ダニーのうんざりした声に、私はマイクから体を離し振り向いた。
「あんたが精一杯やっていようが、ずれていないと思っていようが、事実合っていないの。ちゃんとやってよ」
「分かった、分かったよ。ああ。ちゃんとやってやるとも。最初からこうしてりゃよかった。俺は抜ける。じゃあなミランダ・フープ。あとは自分でちゃんとやれよ」
掛けていたストラップを肩から外しギターを置くと、ダニーは舞台から飛び降り、バーカウンターを足早に横切って開店前のがらんどうのライブハウスから出ていった。
カウンターの奥でその様子を見ていたオーナーが、眉間に皺を存分に寄せ私を見つめている。私は酒と吐瀉物と煙草の匂いが入り交じった空間に、そっと息を吐いた。
言いたいことは分かってる。『舞台に穴をあけたらただじゃおかねぇぞ』もしくは『穴をあけたら、お前をモップにしてこの床がピカピカになるまで磨いてやる』ってとこかしら。
「悪いけど」
私は残りのメンバーを見回して言った。
「今日の出番はないみたい」
呆れながらその場を後にして行く彼らを見送ると、私はマイクスタンドの前に立ち、胸の前で腕を組み怒り心頭のオーナーに向かって、申し訳なさそうに聞こえるよう願いながら謝罪と、昔のツテでそこそこ知名度のあるバンドを代わりに手配することを告げた。
酒屋で安いウィスキーを買って帰路につく。
古いアパートメントの共用玄関につづく外階段に、ボロ着を纏った見慣れた男が手摺にもたれながら目をつむり座り込んでいるのを見て、私は本日二度目のため息を吐いた。
「……パパ。起きて。こんな所で寝ないでよ」
「ん……ああ、ミラ。お帰り。待ってたよ」
きっと彼は何日も体を洗っていない。薄汚れた顔に無精髭。口周りにはいつのものか分からないケチャップのあとが付いていた。夏の汗ばむ陽気が更に酷く、垢とアルコール臭を父の体から立ち上らせる。
父は母が死んでから、酒に溺れずっとこの調子だ。私は手に持っていたウィスキーの入った紙袋を、父の目の届かない場所にサッと置いた。
「ちょっとだけ、ほんの少しでいいんだ。金を貸してくれ。風邪を拗らせたみたいで、薬を買いたいんだ。いいだろ? 必要なんだ」
掠れた声が風邪によるものではなく、長年の飲酒のせいだと私は知っている。金を渡しても、薬局や病院で使われることなんて決してないということも。
肩を掴み揺さぶる父の手を強引に外し、私はバッグから財布を取り出し中身を開いて見せた。娘の乏しい経済状況はこのスカスカの財布が何より雄弁に証明してくれるだろう。
私の態度は、どうやら彼の望むものではなかったらしい。父はあからさまに不機嫌になり、舌打ちを一つ鳴らし私を血走った目で睨み付けた。拳を握りしめ、唇をきつく結んで私も負けじと睨み返す。
「ミラ、なにか問題でも?」
一触即発の中、下の階に住む屈強な体格のデイヴィッドが通りから運良く現れてくれなければ、私と父は路上で見苦しく言い合いになっていただろう。
私はチラ、と父がデイヴィッドを見た時に目に浮かんだ怯えの色を見逃さなかった。本来、父は気弱な男なのだ。
背中を丸め無言でヨロヨロと立ち去っていく父を一瞥し、私はデイヴィッドに礼を言った。デイヴィッドは肩をすくめ、気にするなと慰めてくれた。その時初めて、私はデイヴィッドの後ろに彼の連れがいることに気づいた。デイヴィッドが壁のように彼女を覆い隠していたのだ。私が軽く挨拶をすると、彼女もお愛想程度の笑みを浮かべる。
「今日はライブの日じゃなかったのか?」
「ちょっと仲間とモメちゃって、キャンセルになったんだ」
「なんだよ、リズと行こうと思ってたのに」
デイヴィッドがそう言ってリズと呼んだ小柄な彼女の方を向くと、リズはデイヴィッドが先ほどしたように肩をすくめてみせた。
「あなた、有名な歌手なんでしょ? デイヴから昔TVショーにも出たって聞いたわ。身近にそんな人がいるなんて、ワーオってかんじ」
「こんなおんぼろアパートに住んでいて、ろくでなしの父親にせびられても渡す金すらないのが有名な歌手なら、私のことかも。でもそれこそ、ワーオってかんじ」
自分でもこんなことを言いたいわけじゃないのに、情けなさが喉に込み上げる。
「それは……よく分かんないけど」
戸惑うリズをデイヴィッドが優しく抱き寄せ、俺の恋人を苛めるな、と言外に伝えてきた。
オーケイ。恩を仇で返すような真似はしないわ。
「ごめん。変なとこ見せちゃって。私はライブに出ないけど、代わりに面白いバンドが出るから予定通り見に行ってくれない? 客が少ないと私あそこのオーナーに文句言われちゃうから。文句だけじゃ済まないかも」
そう言って笑ってみせると、二人はホッとした表情で「もちろん」と言い、仲良くアパートメントの中に入って行った。
デイヴィッドとリズが部屋に入っただろう頃を見計らって、隠したウィスキーを回収し、落書きだらけの階段をだらだらと上る。栄光の階段とは、いつ底が抜けるか分からないこの階段と同じようなもの。きっとそれだけのことだ。
建て付けの悪いドアを開け、楽しい我が家にたどり着くと、テレビの前に置かれた萎びた一人掛けのソファーに私はお尻からダイブするように勢いよく座った。キッチンにたまった空き瓶の数には気をやらないことにする。 両足を投げ出し、ウィスキーを紙袋から取り出しもせず蓋を開けて、口に含み流し込む。遅れてカッと喉に焼き付く刺激が走った。
飲んだくれの父と今の私に、いったいどれほどの違いがあるというのだろう。
けたたましく響くインターホンの呼び出しブザーの音に、ギクリとなり目を覚ました。
座りながらいつの間にか寝ていたせいで、体の節々が痛い。窓の外の高かった陽が、気付けば夕闇へと変わっていた。
床に転がったウィスキーの瓶とそれが作ったであろう水溜まりを無視して、私は悪態をつきながら何度もブザーを鳴らす約束のない訪問者を調べるために立ち上がった。
「あんたって子はなんだってこう堪え性がないんだろうね」
マーサは部屋に入ってくるなり、ソファーにふんぞり返って座る私の顔を見てぶつくさとそう言った。
「久しぶりに教え子が歌うっていうから、わざわざ足を運んでみりゃ全然知らない連中があんたの代わりに歌ってるじゃないか。どうせまたケンカして投げ出したんだろ。みんな言ってるよ。ミランダ・フープは正真正銘幻の歌手だってね!」
転がった瓶をマーサは拾い上げると、どこからかタオルを探し出し濡れた床に放り投げた。
「先に投げ出したのはバックバンドのメンバーの方。ピッチがずれてるって何度言っても通じやしないの。私が私の作った曲を間違えるはずないのに。仕舞いにゃ怒り出すし」
口の中がねばついて気持ち悪かった。キッチンに水を入れに行こうと腰を浮かすと、ずい、と水の入ったグラスが差し出された。
「ほら」
私を見下ろすマーサの顔は相変わらずしかめ面だが、水色の二つの瞳は心配そうに揺れていた。
「ありがと」
グラスを受け取り喉を潤すと、水が体の隅々まで染み渡るような心地になる。私は背もたれにもう一度思いきり背中を預けた。
「教会にいた痩せこけた可愛くないガキの時と全然変わらないじゃないか。生意気で扱いづらい。その上クソほど頑固だ」
「レコード会社のお偉いさんは許しがたいほど頑固って言ってたよ。口が悪いなマーサは。元教員とも思えない」
「なら退職してからあんたと出会ったのは幸運だったね」
ニッと口の端をつり上げてマーサが笑うと、皺が波のように幾重にも寄った。
ああ、そうだ。
マーサはあの時もこんな笑い方をした。神様に見放されたような街の教会から、パイプオルガンの音が聞こえてきて。私は棒きれみたいに痩せた子どもで、母を亡くしたばかりで。荒れた父から逃げるように街をさ迷っていた。
教会の一番後ろの席で、明らかに練習と人数が足りていない聖歌隊の讃美歌を聞いていたら、なぜか涙が止まらなくて、そうしたら前に座っていたマーサが急に振り向いて『今日も絶好調だ。素晴らしすぎて天使も裸足で逃げ出しそうな歌声だと思わないかい』そう言っていたずら気にニッと笑ったんだ。涙を見られたくなくて、私が腕で目元をゴシゴシ擦りながら『天使は最初から裸足だよ』と誤魔化すように返したらマーサは大笑いして、壇上の神父様に睨まれたっけ。
「不器用な子だね、ミラ。歌ってごらんよ。それだけしか出来ないというなら、そうすればいいんだよ」
優しく細められた目に、またマーサの昔の姿が重なった。
『ミラ、あんたの歌声は澄んだ青空にのびる飛行機雲みたいだ。余韻が空にとけていくんだ』
マーサは熱心な信徒ではなく、単に神父様と古い友人だから教会に通っていると言っていた。
『だってほら友達の友達は友達って言うだろう?』彼女のジョークはイマイチだったけれど、マーサと仲良くなるには時間はそうかからなかった。
私は辛い現実から逃げるように、足しげく教会に通った。そこには必ず、マーサがいた。
私は神様じゃなく、生身のマーサに会いたかった。
「マーサがもし音楽の教員じゃなくて、数学の教員だったら私は今頃机にかじりついてたかな」
「あんたなら、数字にだって節をつけて歌っていただろうさ」
鼻で嗤うマーサに、私は小さく笑みを浮かべた。譜面の読み方や、歌い方など、音楽の基礎を教えてくれたのはすべてマーサだ。学校のない日はマーサの家で、朝から晩までレコードを聞いて過ごすのを許してくれた。
「残念だったね。せっかくマーサが色々教えてくれたのに、パァになっちゃった」
スマッシュヒットしたデビュー曲で気を良くしたレコード会社は、素早くこの波に乗ろうと必死だった。だけど、私は妥協なんて何一つしたくなかったし、妥協なんて許せなかった。
その結果は極めてシンプルだ。磨かれるのを待っているダイヤの原石はごまんと存在し、彼らが扱いづらい私に固執する理由は砂金より小さかった。
「デビューが決まった時あんなに周りに人がいたのに、契約解消した途端蜘蛛の子を散らすようにいなくなっちゃった。一緒に住んでた婚約者なんて、私が留守の間に金目のものを全部持って出て行ったんだよ。半分は僕の財産だから、って。トイレットペーパー一つ支払ったことなんてないくせに。ほんと笑える」
「そんな奴らいなくなって結構なことだよ。その婚約者の男にはちゃんとトイレットペーパーも送り付けたんだろうね? 自分のケツも拭けないような奴はトイレットペーパーはいくつあっても足りないだろ」
マーサの辛辣な言葉に私はゲラゲラと笑った。マーサはいつも落ち込む隙なんて与えてくれない。
「誰かのために歌うってのはあんたの柄じゃないかもしれない。ならあんたが一番寂しかった時に、聞きたかった言葉を思い出してごらん」
「そんなの考えたこともない」
「なぜ?」
「意味がないもの」
何となく、マーサの顔が見れなくて私はそっぽを向いてそう言い放つ。
すると、私の前に立っていたマーサが、私に近寄り腰を屈め、ふんわりと私を抱き締めた。
「なに、いきなり」
「意味のない抱擁だよ。ごちゃごちゃ言うんじゃないよ」
マーサの白髪の入り交じった金髪が、私の頬をくすぐった。
私はマーサの化粧の香りに包まれながら、ゆっくりと目をつむった。
遠くから、パイプオルガンと、天使も裸足で逃げ出すような歌声が聞こえたような気がした。
射し込んだ夕陽の眩しさで、目を覚ました。 ウィスキーの瓶は床に転がったままで、こぼれたそれは水溜まりを作っている。
あれは、夢か、現か。
鮮明なマーサの声。化粧の香り。
マーサは私がデビューする前に、心臓を悪くして呆気なく逝った。言葉さえ交わせなかった。葬儀はあの教会で執り行われた。私とマーサの仲をよく知る神父様が、帰る間際に私の肩にそっと手を置いた。
くすんだ窓からオレンジ色の光が、隈無く狭い部屋を照らす。
頬を伝う涙が、生暖かった。
私はまた、一人ぼっちだ。
でも、マーサ。
私はまだ間に合うのだろうか。
「最近ずっとその曲聞いてるね。誰の曲?」
ひょい、と急に覗き込まれて愛実はビクっと肩をいからせた。
リビングのローテーブルに置かれたワイヤレススピーカーからは、スマホで再生した曲が途切れることなく流れている。
「びっくりしたー。部屋に入ってきたの全然気付かなかったよ」
「ごめんごめん。驚かすつもりはなかったんだけど」
そう言って駿が缶ビール片手に、ソファーの前にまわり込んで愛実の隣に腰掛けた。駿の濡れた髪から、シャンプーの香りが仄かに漂う。
「ネット記事でたまたま見かけて。音楽ライターが絶賛してたから気になって聴いてみたら良くてさ。ミランダ・フープっていうシンガーソングライターなんだけど知ってる?」
「うーん、聞いたことない。でもいい声だね。ハスキーだけど甘いっていうか。優しい」
駿はぐびぐびと喉を鳴らしながらビールを飲むと「それに曲も、なんていうか光の輪みたいだ」と満足げに息を吐いた。
「詩人みたいなこと言うじゃん。まぁ、昔の人だし、幻のシンガーソングライターって言われてるぐらいだから知らなくて当然かも。売れる直前に契約を解消されて、生活も荒れてこのまま消えていくと思われていたけど、奇跡の復活を果たしたんだって」
ミランダの伸びやかな高音に差し掛かった所で、愛実の言葉が思わず途切れた。 二人の間をやわらかな青い風のような旋律が駆け抜ける。
「……で、復活後アルバムを一枚出して急逝。それがずっとマニアの間で語り継がれてるの。今聞いてるのはダウンロードしたそのアルバム。でもさ、これからって時に不運だよね」
再度、愛実が仕入れた情報を思い出しながら話し終えると、駿は顎を掻きながら少しばかり考え込んだあと、ゆっくりと口を開いた。
「この歌手が自分のことを不運と思ったかは分からないけど、この復活後のアルバムがあったから、愛実はいまこの人の曲を聞けてるんだろ? 愛実にとってはこの人と出会えことは幸せなことじゃないか」
駿の言葉に、愛実は一瞬目を丸くし、肩の力をスッと抜いた。
正直音楽に明るいわけじゃない。でも初めてミランダ・フープの歌声を聴いた時の、得も言われぬ感情が、溢れるように呼び起こされる。
「うん。そう。そうなんだよ。出会えて幸運だったと思う。なんだかこの人の歌声を、ずっと聴いていたくなるの。励ましってほど、大袈裟じゃないんだけど」
「うん」
言葉を選びながらたどたどしく喋る愛実を、駿は愛しそうに見つめた。
こんな時、愛実は駿と一緒になって良かったと、心の底から思う。
駿ならきっと寄り添ってくれる。
この歌声のように。
「あのね、すべては大丈夫、って囁いてくれてる気がするの」