弟に先を越された日のこと
半世紀を超える私の人生において、その日は初めて弟に先を越された日であった。
それは私自身一度ならずとも考えないではなかったことであり、しかし、私にはその勇気が無いがために選ぶことの叶わないでいた道であった。それを私の二歳違いの弟は、まるで背中に翼が生えでもしたかのように、その最後の障害を軽々と飛び越えていったのである。
全く忌々しいことではあるが、弟に完敗である。
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思えば幼少の頃から、弟にはどの方面においても負けたことはなかった。無論、幼少の頃の二歳差というのは大差であるからここで話題にすべきは同時性における比較ではなく等年次におけるそれであろうが、学業の面においても、あるいは運動方面や交友範囲その他の面においても、まぁ同じ遺伝子を受け継いでいる訳であるからどの道大差の付き様はないのではあるが、私の戦績は常勝とは言えずとも無敗と言って差し支えの無いスコアを残しているとは言えよう。例えば、学歴が何かを証明するものでも保証するものではないことは私とて承知しているが、弟はその面において密かに、兄に対して少なからぬ劣等感を抱いているようであることは衆目の一致するところであろう。
また一部においては弟の方が運動神経において優れていた、という観測があることも一応仄聞はしているが、中学時代に卓球で都大会に出場したことがある私に比べれば、弟の運動競技における実績が私のそれに秀でるものではないことだけは確かであろう(尤も、弟が中学時代は吹奏楽部に入部していたことについてここで触れるのは野暮というものである)。
長じてからは、仕事を通じて社会に遺した実績においても、あるいは社会的地位や、下世話な面では年収においても、例えそれが団栗の背比べではあったとしても、弟に先を越されたことはない、と私は自負している。付け加えるなら、身長はこれもほぼ団栗ではあるが、胴囲については弟のそれを遥かに凌駕していると言えよう。要するに、かつては高学歴・高収入・高身長を以って3Kなどと称していたようであるが、まぁ世間一般の平均から見れば大したことはないにせよ、私のそれらは弟に劣ったことは一度もないはずだ(と思う)。何より証拠に、子供がいないのは私も弟も同様ではあるが、少なくとも弟は結婚していないのだ(尤も、人間の優劣が婚姻歴を左右するものではないことも、逆に婚姻歴が人間の優劣を証明するものでもないことを私は知っているから、要するにこれはただの戯言である)。
そんな弟に、その日私は初めて、先を越されたのである。
大人になってからは年に一度も逢えば上等という程度にしか弟には逢っていないのだが、まぁ、世間一般の男兄弟というものはそんなものであろう。その替わりという訳ではなかろうが二、三年に一度くらいの頻度で弟からは電話が掛かってくる、その際の相談内容はいつも、「会社を辞めたい」とか何とかそんなことばかりであり、その度に私はいつも同じことを言うのである。
「もう少し我慢しろ、『嫌だから辞める』などと言っていたら、そのうち辞め癖がつくものである。今しばらく我慢してそこで頑張れば、その我慢は必ず自分の力になる」
結局のところ弟は何度か転職を繰り返しているのだが、残念ながらキャリアアップやスキルアップを求めてのそれというよりは、現実からの逃避に近いものであることが、これまでのところは多かったようである。無論、逃避は時として自分を守る盾になることを私も知っているし、私自身もそれを選択したことはあるのだが、戦うところと逃げる時を正しく見極めなければ、勝ちを拾うこと能わぬであろう。
そう言えば二年ほど前に弟が電話をしてきた際の相談内容は振るっていた。曰く、
「五十歳を前にして、喰うためだけに働くことが虚しくなってきた。もっと、自分らしい人生を送りたい」
その際にも私は言ったものである。
「このコロナ禍にあっては職を失った人も多くいるのだ。仕事があって喰わせてもらえる、会社や世間様に対して感謝をしなければ罰が当たろう」
自分らしい人生、大いに結構であるが、そんな悩みは十代・二十代の頃に済ませておくべきであろうし、そんなことで悩むくらいであれば、今すぐ頭を使い手足を動かすべきであろう。こんな、誰も読まない文章をネットに挙げている兄のように...(無論、こんな文章を書いているという事実は、弟はおろか知人・友人にも内緒ではあるのだが)。
まぁつまり、私にとっては愚かしくも可愛い弟ではあるのだが、ついに兄に先んじて重大な決断を下し、そしてそれを実行することに成功したのである。私には到底真似のできない、それは偉業などとはとても呼べない代物ではあるが、確かにそれは、彼の勇気の発露ではあったのだ。
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2022年秋の一日。
弟は、縁もゆかりもない高層ビルの上層階から、軽やかにその一歩を踏み出した。
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幸いと言うべきか弟らしいと言うべきか、弟の顔には全く損傷がなかった。もしかしたら空を翔べる気にでもなったかのように、そして翼の無い人の身にあっては当然と言うべきであろうが、弟は下半身から崩れ落ちるように太陽系第三惑星の外殻に激突したかのように、彼の上半身には損傷がなかったのである。あるいは、頭から落下した場合と異なり絶命するまでの数秒か数分かの間彼は痛みに苦しんでいたのかもしれない。そう思うと少しだけ胸が傷むが、彼の死に顔に苦悶の表情を見出すことは大海の針1本より難易度の高い課題であり、それは彼の周囲に対する最後の優しさの表現であったのかもしれない、とも思う。
何故そのような重大な決断を下さない前に弟は私に連絡してくれなかったのだろうか。そう思わないでもないのだが、どうせ弟からの相談に私が答えたであろう内容はたかが知れている。
「もう少し我慢しろ、『嫌だから辞める』などと言ってはいけない。今しばらく我慢してそこで頑張れば、その我慢は必ず自分の力になる」
弟には判っていたのだ。そんな答しかできない私が、その後、そんな答を発した自分を生涯責めるであろうことを。だから弟は私に電話をしてこなかった。そう、弟は私などよりずっと、他人を思いやることのできる優しい男であったのだ。五十一で命の灯を消すには勿体ないほどに。
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半世紀を超える私の人生において、その日は初めて弟に先を越された日であった。
それは私自身一度ならずとも考えないではなかったことであり、しかし、私にはその勇気が無いがために選ぶことの叶わないでいた道であった。それを私の二歳違いの弟は、まるで背中に翼が生えでもしたかのように、その最後の障害を軽々と飛び越えていったのである。
全く忌々しいことではあるが、弟に乾杯である。
願わくば、彼の新しい人生に幸多からんことを。
せめて、弟の生きた証を少しでも遺してやりたい、とはずっと思いつつ、やっと書くことができました。
元々弟とはそんなに頻度高く逢っていた訳ではないので、彼が多少遠いところに行ったとしても、実はそんなに実感はないのです。こんなことを書くと叱られそうではありますが、「また逢いたいか?」と聞かれたならばきっと、「子供の頃に飼っていた犬の方がずっと逢いたい想いが強い」と答えることでしょう。その程度にしか悲しくもないし、大して感慨もないのです。
また、これもこんなことを書くと叱られそうですけれど、小説の執筆中、登場人物が亡くなる場面では涙を流しながらキーを叩くことも多いというのに、3,000字足らずの短編とは言え、弟のことを書いていてもちっとも涙が浮かんできません。別に、あまりに悲しくてとか、そういう訳でも全くありません。所詮、自分で作った架空の人物の方に、ずっと愛着を持っているのでしょう。私という人間は。
生前、あまり大したこともしてやれなかった弟に対して、その死後にしてやれることなど何もないのですが、まぁ、最後の贈り物かな?これは。いや、結局は弟の死でさえネタにする、そういう人間なのでしょう。私は。
この数カ月間私を悩ませていたのは、「どした?」と一言だけ、未読のまま私のスマホに遺されたメッセージを削除するか否か。それもここに転記したので、ようやく消去できる気がします。