地図の隙間の地平線
1.はじまりのアサ
グネグネ曲がる仄暗い山道を登りきり、下りに入った瞬間。思わぬ眩しさに瞬いた。目の前いっぱいに広がるのは、輝く海。私は思わず歓声をあげた。
「すごい! きれい」
運転席のパパが嬉しそうに目尻を下げる。
「そうだな」
都会の海みたいに深い青じゃなくて、鮮やかで透き通った色。なんていう色だろう。水色に近いけれど澄んだ緑にも見える。アクアクグリーン? エメラルドブルー? ガラスの粉を撒いたみたいにキラキラしてる。写真、撮らなきゃってポシェットに手を伸ばして、スマートフォンは今使えなかったんだって、思い出す。ぐんと曲がって左手に移った海を、助手席の窓に頬を付けてうっとり眺める。見惚れる。写真に残せないなら、目に焼き付けなくちゃ。
昼下がりの陽光に、凪いだ海がきらめき光る。海岸線は山の緑に阻まれて見えないけれど、きっと真っ白な砂浜なんだろうなって期待する。
次の夏が来たら浜辺にパラソルを差して、可愛い水着を着て、ビーチボールと浮き輪を持って、綺麗な水に飛び込んで、思いっきりはしゃいで、そして、そして……。
「くっ」
胸がずくんと痛んだ。重たい熱いしこりみたいなものが奥の方でぐるぐるする。息ができない。必死に口を開けて喘ぐ。喉の奥から魔女の高笑いみたいな音がする。私が私でなくなるみたいで、ちょっと涙も滲んでしまう。苦しいのに、吐きそうで、息が上手にできなくて、どんどん顔の血の気が引いていく。ハンドルを握るパパが、不安そうに私を見る。
「ミコ、大丈夫か?」
「だ、いじょうぶ」
いつもの発作。
目を閉じて、息を吸って、止めて、ゆっくり吐く。体が震えるけれど、胸の前でぎゅうって手を握りしめて、ゆっくりゆっくり息を吐く。
パパが窓を開けてくれた。
もう十月なのに空気にはまだ夏の熱が残っていて、たっぷり森と海の匂いが染みている。田舎の匂い。なんだか、どこか、懐かしい匂い。茶色ががった癖毛が顎の輪郭をなぞって揺れる。
座席を倒して風に頬を遊ばせていると、少しずつ楽になってきた。低い目線から見上げるフロントガラス越しに信号が見えて、あっ、麓に着いたんだって思う。でもまだシートをあげられない。滲んだ脂汗をハンカチで吸って、ぎゅっと握りしめる。
車は忙しなく右へ曲がって左に折れて、だけど遠くの雲はなんだかずっとそのままで、見守られてるみたいな気持ちになる。こっちはこんなに晴れてるのに、車に乗り込む前にパパが見せてくれたママからのメッセージには、東京は雨です、って文字と一緒にてるてる坊主の絵文字が揺れていた。
遠くに、来ちゃったなって、今更思う。
眩しい光に時折り手のひらを翳す他は、ことこと揺れる車に全身を委ねる。山から見下ろした時、空は海と同じくらいに澄んだ青に見えたのに、下から見上げた空は何だかちょっとほの白い。
指を開いて閉じて遊んでいると、車が止まる。エンジンが切れる。
「着いたの?」
「着いたよ。起きれそうかい?」
「うん」
シートをゆっくり起こして、シートベルトを外し、深呼吸。ハンカチは握りしめたまま外に出る。
「新居だよ、ミコ」
家を見上げて息を呑む。
正直、期待なんてしていなかった。リノベーションって言ったら響きは良いけれど、人が住まなくなった家を、生活が出来る程度に少しばかり手を入れたって、聞いていたから。お化け屋敷みたいなお家、想像してたのに。
びっくりした。
「すごーい!」
絵本の中のお家みたい。白い壁に、ポーチも屋根はいい感じのチョコレート色。古めかしい木の扉にはドアをノックする金具まで付いていてとってもおしゃれ。背伸びしてドアノッカーの輪っかを掴んでコンコンってしてみた。パパが笑ってコンコンってする。私より大きな音がする。
軋むドアを開けて中に入る。嗅ぎ慣れない匂いがして、何だか緊張する。
「広ーい!」
パパは頭をかきながら私を見下ろす。
「確かに広いが、使うところしか綺麗にしてない。開かずの間ばかりだよ」
「全然平気」
「ミコの部屋は階段を上がった突き当たり。白い壁の部屋だよ。段ボールだけ運んでおいたから、整理するといい」
「はぁい。ありがとう、パパ」
ワクワクドキドキ二階に上がる。東京ではマンション住まいだったから、二階のお部屋っていう響きも素敵。
白くて重たいドアを開けると、大きな窓からは あの綺麗な海が見えた。すごい。オーシャンビュー。パパ、私に一番綺麗な部屋を用意してくれたんだなってちょっと涙ぐんだ。広い部屋にはベッドの他は空っぽの豪奢な棚とドレッサー、奥にはクローゼットも付いている。前の持ち主の方のかな。窓にカーテンが着いていないのと、天井からはコードだけが伸びていて、照明が無いのが残念ポイント。段ボールから取り出したハンガーに掛けた冬用コートをうんと背伸びしてカーテンレール引っ掛けて、デスク用のライトをベッドサイドのチェストに置く。恐る恐る電源を入れると瞬きながらあかりが付いてほっとする。あっ、勉強用の机がない。学校に行けないからって勉強が遅れるのは嫌だ。後でパパに伝えなきゃ。
元々荷物は少ないから、あっという間に準備が終わる。キッチンを片付けがてら、オムレツとサラダのお夕食を作って二人で食べた後、リビングでパパのスマートフォンを借りてママと通話した。私、ここ大好きよって言ったらママが小さな画面越しに目頭を押さえた。ママも一緒に行けばよかったかなって言葉を聞きたくなくて、そろそろお風呂に行かなくちゃってパパにスマートフォンを押し付ける。
胸の奥に黒くて重いぐるぐるが来て、身体はかぁって熱くなるのに血の気が引いて、胸が詰まって息が出来なくなる。
初めて発作が出たのは夏休み直前の昼休み。学校で倒れた。それ以来発作が出るようになって、学校にも行けず、勿論夏休みだって台無し。しかも新学期が近づくにつれて症状は重くなった。外に行こうとすると足が震える。
家に閉じこもって学校にすら行けなくなった私に、九月半ばを過ぎた頃、ママが言った。
「昔から胸の病気になった人は、空気の良いところで療養したものよ」
方便だって私知ってる。入院加療をおすすめしますってお医者さんがママとお話してるの聞こえたんだもん。
「ママの地元はね、海が綺麗で山も近くてご飯もとっても美味しいの。空気もいいわ。だからママと一緒に……」
私はそこで首を振る。
「行くんだったら、一人で行く」
ママは。
私が小学校に上がるまで、八年もお仕事をお休みした。復職して、頑張って、せっかく今年の春に副師長になったのに。あんなに喜んでいたのに。またお休みしてしまったら、副師長では居られなくなってしまう。私のために、ママが大事な何かを諦めないといけないなんて、嫌だ。ママは「資格があるからどこでだって仕事は出来るのよ、ミコと居るわ」って言ったけど、私が嫌なんだもん。パパも同じ気持ちだったみたいで、ミコを地元で療養させるなら、サポートするなら俺の番だよって、リモートワークに切り替えてくれた。
でも、それって私、パパに迷惑かけてるって事だもん。早く学校に行けるようにならなくちゃ。
「あ、そうそうミコ」
色々もの思ったお風呂上がり、パパに引き止められる。
「何? パパ」
「明日、氏神様にご挨拶に行こう」
「ウジガミ様?」
あ。そう言えばママも言ってた。
「山のてっぺんに、神社があるんだよね」
パパが頷く。
このお家の隣の山のてっぺんかな。二階の窓からも海が綺麗に見えたんだもん。山から見下ろしたら絶対綺麗。
ワクワクしながら眠りについたら、びっくりするくらい早くに目が覚めた。
パパの部屋はどこだろう。
二階の部屋は全部鍵が掛かっていた。下に降りるとリビングから明かりが漏れている。パパ、お仕事しながら寝ちゃったみたい。スクリーンセーバーが輝くノートパソコンの蓋を閉めて、ゆすっても、声を掛けても目覚めない身体に、二階から毛布を持ってきて掛ける。風邪ひいちゃったら大変だもん。病院の場所も薬局の場所も分からない。着替えて、顔を洗って、トマトジュースだけ飲む。朝の五時半。外はうっすら朝ぼらけ。パパが起きるの、待とうかなって思ったけど、お隣さんだしって、置き手紙をして家を出る。
思った通り、山沿いに歩くとすぐに長い石段が見つかった。朝靄に霞む空気を一つ深呼吸する。森と匂いと土の匂いがする。空気の味なんて意識した事なかったけれど、美味しいって感じた。清々しい気持ち。
長い石段をゆっくり登る。登っても登ってもまだ段は続いていてちょっとめげそうになるけれど一歩一歩上って行く。
そう言えば前、遠足の時もこんな風に長い山道を登ったなぁ。みんなすたすた登るのに、息が上がってみんなについて行けなくて、焦れば焦るほど息が出来なくなって、もうやだ、これ以上登れないって泣いちゃいそうで、そんな時には、いつだって……。
また、不意に胸の奥にぐるぐるが生まれる。立っていられなくなる。石段に手を付いて口ではぁはぁ息をする。どうしよう。やっぱりパパが起きるの、待てばよかった。手足が震えて力が入らない。石段に頬を付けると飛び上がりそうなほど冷たくて、だけど飛び上がることなんて出来なくて、辛くて体を丸めて、倒れたままで、もしかしたら私、ここで死んじゃうのかな、なんて心細い気持ちになる。
「大丈夫?」
差し伸べられた手を取ったのは、声がとっても優しい響きだったから。手に縋って体を起こして石段に座る。背中を丸めて息をする私の背をとんとんとんって撫でてくれる。
手足の痺れが落ち着いて、やっと顔を上げられた。
お礼しなきゃって、隣を見る。
どきんとした。
真っ白な顔に耳に掛かるくらいの長い髪。都会ではありふれている姿だけれども、田舎の少年のイメージとはかけ離れていてドキドキする。それに少年は真っ白なキモノを着ていた。袴は松の葉みたいに濃い緑。
「神主さん?」
挨拶よりも、お礼よりも先にそんな疑問が口から出て、真っ赤になる。
「見習いだよ。親が神主」
少年が笑う。笑うと目がキューって細くなって、なんだか狐みたい。そう言えば稲荷神社の御神体はお狐様だわ、なんてぼんやり思う。神主の息子、だなんて言っているけど、もしかしたら神様のお遣いとかだったりして。
「助けてくれてありがとう」
立ち上がってお辞儀する。男の子も立ち上がる。目線がおんなじくらい。同い年かな。おんなじ学年だったりするのかな。そこまで思ってその気持ちを打ち消す。療養でここにいるんだもん。籍は東京の学校だから転校なんてできないし、転校したらママと完璧に離れ離れになっちゃう。パパだっていつまでもリモートワークじゃいられない。だから早く、治さなきゃ。なんてぐるぐる色々考えていたら、目の前の男の子が笑う。
「せっかくここまで登ったなら、日の出、見て行く?」
言われて腕時計を見る。薄明かりの中時計の針が示した時間は六時五分。
「えっ、もう太陽、出てるんじゃないの?」
この時期の六時はもう明るい。去年の今頃、バレー部の朝練の走り込みで早起きしてたから分かる。六時になる前に朝日は登ってた。
「日の出、今からだよ」
男の子はまた目を細めて笑う。鼻の先に皺が寄っていてますます狐に似てる。
さあって手を伸ばしてくるからその手を掴む。男の子の手を握るだなんて、物心ついてからは初めてかも。さらさら乾いていて、私の手よりも骨っぽい。
初めてのはずなのに、どこか懐かしい気持ちがした。
手を引かれて石段を登り切る。
鳥居の横に並んでいるのは、狛犬じゃなくてシュッとした狐。やっぱりね、と思っていると、男の子が鳥居の前でお辞儀する。慌てて倣って境内に進む。参道を外れて茂みの奥、男の子が指差した先に海があった。水平線がチラチラ瞬き、眩い陽の光が世界に溢れて思わず手を翳す。
「綺麗」
本当に綺麗。
「あっちじゃもう陽も上がってるのに」
「あっち?」
「東京」
男の子は、ああ、と言う顔をした。
「ここと東京だと日の出も日の入りも、三十分は違うな」
地理と理科で習った記憶を総動員する。
「時差?」
「同じ国同士だから時差は無いけどな。日本は東西に長いから」
「不思議だね。ずれた時間はどこに行くんだろう」
男の子は私の顔をまじまじと見る。恥ずかしい事言っちゃったかなってまた恥ずかしくなる。手と手を結んだままだったことに気が付いてさりげなくほどく。
「転校生?」
私は首を左右に振る。
「学校に行けなくて」
療養中の言葉は飲み込む。
「俺と似てるな」
その言葉に驚いて男の子の顔をまじまじ見る。引きこもってるみたいには見えないけれど、日に焼けていないのは、学校に行っていないから?
「シンジで俺もしょっちゅう学校休んでる」
シンジが直ぐに漢字に出来なくて、漸く神事、に思い当たる。
「今日も神事なの?」
男の子は袴を摘んで笑った。
「いや、この後着替えて学校だ」
「そっか」
なんだか少し寂しくなる。なんで寂しくなったのかはわからないけど。
「俺、ヨキヒコ」
差し伸べられた手をしっかり握る。
「私、ミコ」
ママの生まれた町で、学校に行けない私に。
お友達ができた。
2.ミコの秘密
十月は、順調だった。朝、神社に続く長い階段を登って、ヨキヒコと一緒に境内をお掃除する。それからパパに朝ごはんを作って、お勉強。お昼はパパが軽食を作って、午後からは勉強をしたり、パパとお散歩したり、一人で図書館に行ったりもする。水曜日にはパパの車に乗って一時間、市内の病院で検査をしたり診察を受けたりする。狭くてうるさい部屋に閉じ込められてMRを撮ったり、頭にたくさん電極を貼られて脳波をとられたりするのは憂鬱だったけど、こっちに来てからすごく調子がいいから、病院通いも辛くなかった。顔が広いヨキヒコのおかげで、学校に行って無いのに地元の子達に受け入れられて、公園や児童館で遊んだりしているからかもしれない。一人で黙々と課題をするより、同世代の子と話す方がやっぱり楽しいもん。トーキョーの話をせがまれたり、こっちの色んな話を聞いたり。みんなと一緒に遊ぶと楽しくて、学校に行きたくなってきて。そんな私を見て一度東京に帰ってみるかいって、パパ、提案してきたんだと思う。
私もすっごく乗り気だった。ママの故郷はとっても綺麗で、住んでる人も優しくて、たくさん友達出来たんだよってママに報告したくって。
でも……ダメだった。
東京行きの飛行機のチケットを取ってもらって、ママにもハロウィンの夜は一緒に過ごそうね、なんて約束したのに。こっちにくる時には一人で飛行機に乗れたのに。車が空港に近づくにつれて胸の奥の黒いぐるぐるが重たく熱く暴れ回って車の中で吐いちゃった。起き上がれなくて目眩がして、東京のお家に二泊の予定が、病室に二泊。お気に入りのお洋服もぬいぐるみも小説も、全部全部東京の部屋に置いてあって、大好きなママの手作り料理だって楽しみで、たくさんたくさんお話したい事があって、帰りたいってすっごく思ってたのに、ダメだった。ママもパパも悲しませちゃっただろうし、何より私もショックでたまらなくて、退院してからもしばらく寝付いてしまった。
暗黒の夏休みとおんなじ状況。
こうなるとカーテンの無いオーシャンビューの大きな窓も恨めしい。海がキラキラしてる。人の気も知らないで!
十月は神無月だから神事はないんだってヨキヒコは言っていた。だからヨキヒコが神事をするところはまだ見たことがない。でも、十一月は三日と十日、十五日に二十三日、それぞれ神事があって、ヨキヒコは神主の嫡男だから、サイフクを着てマイをホウジルんだって言っていた。色が白くて黒髪で、目がすうっと切れ長なヨキヒコが、平安時代みたいな衣装を着て踊るだなんて、絶対映える。だから晴れ姿、見たかったのに。どちらの神事にも行けてない。次は七五三、それから月末の新嘗祭。新嘗祭には出れるかな。だけど、三日も十日も神事に顔を出してないどころか、朝のお掃除にも行ってない。だからもしかしたらヨキヒコも私の事なんて、忘れちゃってるかもしれない。
中学二年生にとっての二週間って。
果てしなく、長いから。
昼ごはんを食べた後、外に出る気は勿論起こらず、かと言って机に向かう気にもなれず、日課の勉強をさぼってパジャマのままで布団にくるまっていたら、パパが部屋をノックした。
「ミコ、お客さんが来ているけど……どうする」
お客さん? 私に? 誰だろう。
ベッドの中で右へ左へごろごろ転がってからはっと気付いて飛び起きる。
もしかしたらヨキヒコかもしれない。
「パパ、ご案内して」
年頃の男の子が女の子の家に訪問するハードルの高さを都合よく忘れて、誰が来たかも聞かないままに大きなドレッサーの前に座る。パパと二人で療養するつもりでこっちに来たけれど、同学年の子と話す楽しさを知ってしまったら、二人だけの生活はなんだか少し味気ない。学校で倒れて以降切っていない髪は、随分伸びた。もう少しで肩に付く。これ以上伸びたら髪が収集付かなくなるから、そろそろ結ばないといけないけど、髪を束ねる気にもならなくて、もこもこカーディガンのフードを被って、ボタンをぴっちり留めて部屋を出た。
階段を降りる間も無く、香ばしい珈琲の香りに包まれる。パパが淹れた珈琲は美味しいらしい。私はまだ苦くて美味しいって感覚が分からないから、お砂糖もミルクもたっぷり入れる。ママは、せっかくの豆が勿体ないだとか、パパが淹れてくれたのに、なんて眉毛を上げるけど、パパは、甘い珈琲も良いよななんて笑ってくれる。玄関ポーチのタイルに並んだ靴に、やっぱりヨキヒコだって嬉しくなった。ヨキヒコはブラック珈琲飲めるかな、それとも私みたいに甘くするのかな。
「こんにちは」
リビングに挨拶しながら入って行くと、いつもパパが座ってるソファにヨキヒコが座っていた。神妙な顔をして揃えた両膝の上に、軽く握った手をきちんと載せているものだから、ますます神社の入り口を守る狐の像みたいだなって思ったりする。
「ミコ。起きて大丈夫だった?」
「うん」
いつもの定位置、カウチに座るとパパが珈琲を置いてくれる。私がウサギのフードを被ったままだからパパが笑いを堪えてる。私の分はミルクがたっぷり入ったカフェオレ。お気に入りのマイカップ。チューリップのお花の形で可愛いの。お客様用のカップは無いから、ヨキヒコの前で湯気を立てているカップはパパのもの。深くて青いどこかの焼き物。スプーンの上にはお砂糖が添えてある。パパも向いのカウチに座るかなって思っていたら、テーブルのの傍に寄せていたノートパソコンを回収した。
「ごゆっくり」
だなんて私に目配せした後、キッチンのカウンターに座る。上手くやれよ、って言わんばかりにウインクしてくるから、ぷいっと無視した。違うもん。ヨキヒコはお友達だもん。
多分。
パパの珈琲カップを前にヨキヒコが手を合わせた。
「いただきます」
いつもパパが淹れてくれた珈琲、お礼も言わずに飲んでいた事に気付かされる。口を付けかけたカップをソーサに戻して、ヨキヒコみたいに手を合わせる。パパ、ありがとう。
「ミルクは要らないの?」
「うん、要らない」
スプーンに乗ったお砂糖を溶かさず、そのまま飲むから感心する。
「ブラック飲めるのって、すごいね」
大人って感じ。
「背伸びしてたら、飲める様になったんだよ」
ヨキヒコふ笑うと鼻の先に皺が寄って、狐みたいにきゅうって目が細くなる。
「そうそうミコ」
ヨキヒコがズボンのお尻のポッケをごそごそする。もしかして、お見舞いのプレゼント? なんてドキドキ待っていたのに、違った。取り出したのはスマートフォン。
「連絡先、教えてくれる? みんなミコを心配してた。俺たちのトークグループに入らない?」
「……」
私は口籠る。
「あ、あのね」
どこから話したらいいのか分からない。頭がぐるぐるする。カフェオレを一口飲む。
「あのね、スマホ、持ってるんだけど、今ママに預かってもらってるの」
「お母さん? 東京の?」
こくんと頷く。
「私、スマートフォンで、気持ち悪くなっちゃって」
ヨキヒコが困った様な顔をして、スマートフォンを仕舞った。
「ごめん。ミコ、胸が良く無いんだったよね。何か体に機械入れてるの? 電源、切ったほうがいい?」
私は慌てて首を振る。
「違うの、スマートフォンの電波が悪いんじゃなくて、その……」
『ねぇ、ミコはいつ転校してくるの?』
『私、発作持ちなの。胸が苦しくなって息もできなくなって。だからママの故郷のここに療養に来たの。だから、こっちに転校は出来ないんだ』
「……私ね、夏休み前に学校で倒れたの。みんなに言ったみたいに、突然胸がぎゅーって苦しくなって、息が出来なくなってって、そんな発作」
「心臓の病気、なんじゃないの?」
首を左右に振って、カップを両手に包み込む。
「心臓も後で色々調べたけど何ともなかったの」
あの時、初めてぐるぐるに襲われて、息ができなくなった私は。
意識を失って教室で思いっきり倒れた。受け身も取らずに立ったまま倒れたものだから、側にあった机だか椅子だかに頭を強打した。らしい。すごい音と共に床に倒れて、真っ白な顔で目を閉じたまま、声を掛けてもゆすってもピクリともしないのに、頭のコブだけがどんどん大きくなって、大騒ぎになった。らしい。
「駆けつけた保健の先生が救急車を呼んでくれて、運ばれる時も、救急車の中でも、意識はないのに吐いたみたい。まるまる三日、目を覚まさなかったんだって」
全然覚えていないから、私に起きたことなのに、どこか他人事みたい。
「頭の中に、怪我を?」
ヨキヒコが恐る恐る聞いてくる。
「打ったところは腫れたし、ぶよぶよでずきずきして、しばらく青あざになったけど、十日もしたらね、腫れも痛みも引いてきたのの。頭の中も色々検査したけどね、脳に異常は無かったの。でも……」
カップを持ったまま、私は俯く。
「記憶がすこんって消えちゃったの。お父さんやお母さんとか家族のこと、学校で勉強した内容は全部、全部覚えてる。でも、誰と仲良しだったかとか、いつもクラスでどう過ごしてたかとか、そんなお友達との思い出ばかり、全部忘れてしまったの」
退院して自宅に戻って、まずスマートフォンの電源を入れた。届いてるメッセージを読んだら何か思い出すかもしれない。でも、ボタンが押せない。手が震える。目眩がして、お腹の奥がすうって冷えて、身体中に広がった。電源が切れたスマートフォンを握りしめたまま、ベッドの上に倒れる。怖い。怖い。息が出来ない。
ママが部屋に飛び込んで、背中を撫でてくれた。
大丈夫。
大丈夫よ。
ゆっくり、ゆっくり息を吸って、吐いて。
大丈夫だからね、ミコ。
「スマートフォン、あ、これは私のものね。お父さんのとか他の人のとかは大丈夫。それと、鋏。この二つ。近づき過ぎたら絶対発作が起きるの」
「……鋏?」
もこもこウサギのフードから溢れた、くるんと巻いた髪の毛をひと束摘む。
「うん。ハサミ。私髪に癖があるから、ずっとボブにしてたんだけど。鋏がダメになったからずっと髪の毛も切れなくて」
ヨキヒコがそっとカップを置く。揃えた膝の上に手を乗せて私の顔をじっと見る。その真っ直ぐさがこそばゆくて、私は笑う。笑いたくないのに笑いながら言う。
「私、体にはどこにも異常なんて、ないんだ」
どんなに調べても、異常なし。異常ナシ。n p. すなわち、not particular.
なのに発作と検査は私の体を苛んで、二か月で私は五キロも痩せた。
「……ミコ」
「……何?」
「君は無くした記憶を、取り戻したい?」
すごく真面目な声だった。静かで、優しい、密やかな声。
思い出したくない記憶から心を守る為に、身体が異常を訴えてるんだって、分かる。本懐するには痛みや傷と向き合って克服しなくちゃいけない事も。
今までは、無理だった。だからママも入院じゃなくて療養って形で、私を守ってくれたんだと思う。
だけど、これからは?
これからもずっと、思い出したくない記憶に阻まれて、ママに会えない。髪も切れない。いつどこで起きるか分からない発作に怯えて外を自由に出歩けない。
そんなの、嫌だ。
「うん。でも……」
「怖い?」
真っ直ぐな視線に耐えられなくて目を伏せる。
「ススハライって、知ってる?ミコ」
「ススハライ?」
「うん。十二月にはさ、一年の終わりだからって、大掃除、するだろう?」
「うん」
「神社では神事で大掃除するんだ。それを煤払いって言うんだ」
内緒話をするみたいにヨキヒコが体を寄せてくる。
キッチンから一際大きなタイピングの音が響いた。これ以上近づいちゃったら、次はきっと、大きな咳払い?
「うちの神社の煤払いは他と違う。特別なんだ」
ヨキヒコが声をひそめて言うものだから、私も連られて小声になる。
「どう言うこと?」
「この世界には此岸と彼岸、つまり生者の世界と死者の世界がある」
何となくわかる。
「現世と、天国や地獄、って事?」
ヨキヒコが頷く。
「そしてもう一つ、二つの世界を結ぶ、あわい、がある」
「……三途の河、みたいな?」
「ミコは飲み込みが早い」
にゅう、とヨキヒコが目を細める。私、すんって澄ました他所行き用みたいな整った顔より、くしゃってなった狐みたいな笑顔の方が、ずっと好きかも。
「あわい、には、現世の失せ物無くし物落とし物、冥界からの心残りが吹き溜まる。あわいに入り、現世の迷い物を拾い集めて清め、然るべき持ち主に返す。それがうちの神社の煤払いなんだ」
「もしかして、私が無くした記憶も、その、あわい、の中にあるって事?」
ヨキヒコが頷く。
「記憶って、目に見えないよね。あわい、に私の記憶があったとして、どうやって見つけるの」
「あわい、の中では全てのものが目で見て、手で触れられる形で具現化するんだ」
「記憶や、思いも?」
「そうだよ。あわいの中で一番多い忘れ物は、初心、なんだ。色んな形で落ちているよ、絵筆だったり、野球のグローブだったり、大学の赤本だったりする。ひとつひとつ拾って、はたきで塵や汚れを丁寧に落として、袋に入れる」
「袋にって、まさか、持って出るの?」
「持って出るよ」
えーっ。
「あわいを出ると、具現化は解ける。だから袋は空っぽになるよ。だけど気は袋の中に凝ってる。だからその袋に御神籤を入れるんだよ。一枚の御神籤に一つの気が宿る」
「別の人が御神籤を引いたりしないの?」
「しない。不思議と正しく引かれ合う」
私はヨキヒコの顔をまじまじと見る。切れ長の目の奥の夜みたいな瞳はキラキラ瞬いて、嘘や冗談を言ってるみたいには見えない。
あわい、に私の無くした記憶があったとして。それが凄く汚れていたり、傷ついていたり、壊れていたりしたとしても。
ヨキヒコと一緒に手に取って、埃を払って磨いたら。もとの輝きを取り戻すかも。
「ヨキヒコ、私、取り戻したい」
私の記憶。無くした記憶。
ヨキヒコが頷いた。
「一緒に探しに行こう」
「どうやって、あわい、に行くの?」
ヨキヒコが頬を染めた。
「それなんだけど、実は俺、半人前だから、狭間の扉を開く術がないんだ」
朝神社にお掃除に行くと、時々ヨキヒコのお父さんやお祖父さんに会う事もある。ヨキヒコは渋い深緑の袴だけど、お父さんもお祖父さんも袴の色は深い紫で、お祖父さんの袴には模様が付いている。どうしてヨキヒコは紫の袴じゃないの? って何気なく聞いたら、袴の色で階級が違うんだよってヨキヒコが教えてくれた。松葉色、浅葱色を経て紫の袴が許される。だからこの袴の色は、まだ神職の入り口にも立てていない、半人前って意味の色なんだって、そう少し俯きながら口にして、だから、私そっちの色の方が好きだなって言葉を飲み込んだ。
深緑の袴。半人前の証。
ススハライの方法を知っていても、あわい、に入れないんだったら。
探せないって事?
がっかりが顔に出ていたのか、ヨキヒコは慌てたように言葉を繋ぐ。
「あわい、ってさ、つまりはそこに確かにあるけれど、人の目には見えない場所なんだ。その概念を具現化する、可視化するって言うのかな。しっかり掴むそれが出来たら、あわい、へ向かう扉が開く。その……ミコは覚えてる? 俺と君が初めて会った日の事」
もちろん覚えてる。
「あの時君は俺に言った。ずれた時間はどこに行くんだろうって」
確かに、言った。こっちの朝が東京よりも遅いのにも、夕方が長く感じられるのにも、なかなか慣れない。
「その時、掴めたって思ったんだ。ミコの言う、ずれた時間、は見えないけれど確かにあるもの。それならきっとあわいの扉を開ける鍵になるって……だけど、俺は。生まれてからずっとここに居る。だからミコが感じた時間のズレ。空模様から体感する時間と時計の示した時間とのズレってやつが、どうしても掴めなかった」
ヨキヒコは目を伏せる。
「あわいの話、俺、家族以外に話すの初めてなんだ」
「えっ」
「でも、ミコだって記憶喪失の話、はじめて誰かに話しただろう?」
「そうだけど、そんな大事な神社の秘密みたいな事、余所者の私に話したりして、バチが当たったりしない?」
「心配してくれるの? ミコは優しいね。俺だって、今日君にこんな話するつもりはなかったさ。グループトークにミコを誘う、それが俺の今日のミッションだったんだから」
「じゃあ、どうして?」
「……うまく説明できないけど、あわい、に人が立ち入るのが許される十二月間際に、あわい、で解決できるかもしれない君の秘密を知ったから、かな」
「?」
「俺の母さんは八つの時、お祖父さんに至っては五つの時にあわいの扉を開いたんだ。なのに俺は、未だに扉を開けない」
今年が最後のチャンスなんだ。そう小さくヨキヒコが言った。
「数えで十五になるまでにあわいへ通じる扉を開く事ができないと……導きがなければあわいに入れぬ唯人になる。俺の家はずっと昔から土地神様の眷属としてこの町に住む人達の魂の穢れを祓い続けて来たのに……俺の代で途絶えるかもしれない」
ヨキヒコは神事でしょっちゅう学校を休むって言ってた。毎日朝早くから神社にいて、お友達と遊ぶよりお家の手伝いをしている方が多い。それって。もしかして……。
「俺、あの時迷ってたんだ。唯人の俺は神職になるべきじゃないんじゃないかって。そしたら君が。俺に希望を見せてくれたから」
胸の奥に白くて熱いぎゅーんとした感覚が湧く。いつも体を苛む黒くて不快なぐるぐると同じところから生まれるのに、全然違う。それは、初めての感覚、初めての感情。
「ヨキヒコ」
びっくりする程真っ直ぐな声が出た。
「私、ヨキヒコが、あわい、の扉を開けれるように、見えないけれど確かにあるものを形にする。そうしたら、一緒に、あわい、に行って、私の無くした記憶、取り戻せるんだもんね」
「……いいの?」
「いいよ」
ヨキヒコの目に光がともる。
本当はまだ怖い。だけど、不思議なんだけど、ヨキヒコが居たら大丈夫って、そんな気もする。
「ありがとう」
きゅって切れ長の目が細まって、いつもの狐みたいな顔になる。神妙な真顔より、こっちの顔の方がやっぱり好き。
3.ヨキヒコと地図
すっごく。
難しい。
見えないけれど、確かにあるモノ。
空気。初めに思ったのは空気。だけどどうやって空気を目で見える形にする?
風船、気球、凧に幟。
扉は開かない。
音。
理科の授業で音叉を使った。音って振動。振動だったら目に見える。
太鼓の上にビーズを散らして叩いてみたり、音叉の共鳴を試してみる。
うまくいく、って思ったのに扉は固く閉じたまま。
十二月も半ばを過ぎて、今日は三度目の正直。うまくいきますようにと石段を登りながらお祈りする。
巫女衣装を着て登る石段は、段数は変わらないはずのにすごく長く遠く感じる。だけど緋色の袴を身に付けて、深緑の袴のヨキヒコと並ぶと、クリスマスカラーだなってこっそり思う。
あわい、が開くのは夜だから、日がすっかり落ちてから扉を開ける事になる。日が落ちてから、神殿に来てって言われたけれど、でも、流石に夜に出歩くのはできない。こっそり家を出ようにもリビングでお仕事してるパパに絶対見つかる。どうしようって思っていたら、十一月の終わり、お家に女の子達が訪ねてきた。ヒロにアキにルミコ。公園で顔を合わせた事はあるけれど、お家に来たのは初めて。
玄関で礼儀正しく挨拶した後、ルミコが包みを差し出した。持つとずしりと思い。ススハライ用の巫女衣装だよって。開けてみると包の中身は真っ白な白衣に緋袴。
「どう言う事?」
「ススハライの神事の後はね、甘酒配りがあるの」
「巫女やりたいって地元の中高生がね、当番するんだよ」
「巫女衣装可愛いもんね」
「私も巫女衣装着て、配るって事?」
「そうだよ」
「でも、この係って人気なんじゃ無いの? 私、いいの?」
「巫女衣装着たいって子はたくさんいるよ。でもね、巫女係りになるとススハライ当日だけじゃなくて準備期間の十二月中、放課後や休日にも神社で作業しないといけないの」
「ススハライに使うハタキを作ったり、甘酒用の器を洗って清めたり」
「結構大変だから志望者、実は少ないんだよ」
確かに部活に打ち込んでる子や、受験を控えた学年だと難しいかな。今年は私も含めて七人なんだって。六人だと大変だから、出来たら、参加して欲しいなんて、高校三年生のルミコに言われたら断れない。
「お父さん、参加しても、いい?」
「勿論だ。地元の祭りに招待されるなんて、名誉だよ」
三人が玄関でハイタッチする。
「ミコ、一緒にやってくれる?」
「うん」
でも。着方が分からない。浴衣も一人で着れないのに。
「ありがとう。でも、私」
「着方でしょ? 勿論教えるよ」
そんなこんなで急遽私のお部屋で着付け教室が始まる。
「私、ここに来たの久しぶり」って階段を登りながらルミコが言う。
「前ここに来たことがあるの?」
「うん。うち、仕出し屋だから。母親に付いてここに食事届けてたんだ。すっごく小さい頃の事だけど。白状しちゃうと、私、実家を手伝いながら調理師免許取るつもりだから、受験しないんだ。だから融通きくんだよね」
「でも、高校三年で巫女役するなんてすごいと思う」
ルミコはさらっと流したけど、家を手伝いながら資格を取るなんて、私だったら、出来ない。
「ありがと」
「ミコが住んでるこの家はね、迎えの屋敷って言われてるんだ」と今度は同級生のヒロが言う。
「迎えの屋敷?」
「この家は旅人に開かれる家、なんだ」
「ミコ達が来る前は、ヨキヒコのお父さんがここに住んでたんだって」ってアキが言い、ハッと気が付く。
あわいの扉を開いた話の時、ヨキヒコはお祖父さんとお母さんが開いたんだって言ってた。
「ヨキヒコのお父さんは、旅人だったの?」
神主さんの服着てたけど。
「先生だよ。就職先探して大阪だか京都から出てきたんだって。怒ると関西弁になるのが面白いんだよね」
「先生」
「ここらへんはさ、マンションとか無いの。だからこの家がそう言う役目だったみたい」
「遠い昔には旅籠だったんだって。今ではなんだろう、ハウスみたいな感じかな」
「温泉地にあるよね、こういうの」
確かに普通のお家にしてはお部屋が多いし、リビングもキッチンもお風呂も広い。旅館とか寮とか、そう言う建物だったって事なら納得できる。
「でも今はカソカでね」
「そうそう」
「昔は小学校も中学もそれぞれ三つもあったのに」
「今どっちも一つだし」
「クラスの人数も減ったよね」
「だからここも長い事空き家のままだった」
この家にはそんな歴史があるんだ。
ママのお父さんとお母さん、私のお祖父さんとお祖母さんは小さい頃に亡くなって、お家も人手に渡っているのに、ここにこうして住めたのは、そう言う歴史があったからなのかもしれない。私のお祖父さんは学校の先生だったみたいだし、ヨキヒコのお父さんも先生で昔はここに住んでたって言うのなら、教師繋がりの、コネみたいなものだったのかな。ここに来れたの、私ラッキーだったんだ。
「そういえば、ミコ、ごめんね。グループトークの事。スマートフォン、東京に預けてるって知らなくて」
しん、と神妙な空気が流れて慌てる。
「ううん。こっちもごめん、せっかく誘ってくれたのに」
緋色の帯を教えてもらった通りに前できゅっと締める。
「でも、巫女の誘い、おじさんからもオッケーでたから良かったよ」
「療養中だからダメだって言われたら、諦めるよってヨキヒコにも言っておいたの」
「ヨキヒコ?」
「ミコに参加して欲しいって言い出したの、ヨキヒコなんだよ」
「旅人が祭に参加するのは縁起が良いんだって」
へぇって言ったけど、内心ドキドキしてた。しっかり着れるようにならないと。
着物って紐が多い。袴だけでも前紐を絡げて後ろで結び、後ろ紐を前に回してきゅっと結ぶ。ボタンやファスナーと違ってとっても大変。だけど一つリボン結びを結ぶたび、私自身が大事なプレゼントになったみたいで、こそばゆい。
「ねえ」
「なに? ミコ」
「私。お手紙、書くよ。みんなに」
アキが嬉しそうに笑う。
「体調崩したって聞いて心配だったけど、随分いいみたいだもんね」
「帰るのも、もう直ぐなのかな」
「ミコが東京に帰ったら、寂しくなるね」
「違うよ、東京に友達が居るっていうのがいいんじゃない。旅行行ったり、大学行った時、友達居たら心強いよ。ミコ、その時はよろしくね」
「うん」
「でも、ミコも東京に友達いるでしょ。私達が押しかけても迷惑だよ」
どきん。と心が跳ねる。
私に友達、居たのかな。記憶がないから分からない。
でも、東京に友達がいなかったんだとしても。ここで出来た。大事な人といっぱい出会った。
「遠慮しないで遊びに来てよ。東京に来てくれたら、私嬉しい」
みんな嬉しそうに笑う。
「ミコがこっちに来てもいいんだよ」
着ては脱いでを何度か繰り返し、一人でなんとか着付けができる様になって、やっと合格、って言われる。慣れない動作の連続だったから、腕が重だるい。
これから神社で作業なんだって、三人は手早く衣装を着た。魔法みたい。揃ってリビングに降りるとパパが目を丸くして私達を見る。
「みんな、なんていうか綺麗だね」
「ありがとうございます」
「その格好で帰るのかい?」
「これから私達、神社に作業に行きます」
「えっ、今から?」
パパが腕時計を見る。
「はい」
「結構遅くから始めるんだね」
娘の私と同じ年頃の女の子の夜の外出にパパの顔が曇る。
「大丈夫です。十二月はお巡りさんのパトロール、すっごく厳しくなるし」
「遅くなる時は迎えに来てもらいます」
「そうか、それなら安心だ」
みんなに手を振り見送った後、緋色の袴をついと摘む。この衣装のお陰で、夜に家を抜け出さなくても、あわいの扉を開ける手伝いができる。
石段を登り切り、胸に手を当てて息を整える。
神殿の前にはもうヨキヒコが立っている。真っ白な白衣に松葉色の袴。白い袋を携えて、手にはハタキを持っている。私を見るヨキヒコの目の奥に縋る色と自信の揺らぎとを感じて、胸がぎゅうっと締めつけられる。
でも、今日はきっと大丈夫。
手探りだった一度目の空気。
自信があった二度目の音。
共に開かない扉を前にして、ふと気がついた。歳をとる程、人は知識や経験が増える。パパもママも私の知らない事をたくさん知ってる。でも、知っているから無くしてしまった事もたくさんあると思う。それは、感動。見えなかったものが見えるようになった時みたいな、あの感動が扉を開くんじゃ無いかなって。ヨキヒコは国語と数学に強い。漢詩や古文を日常的に目にしているからだろうし、神社に奉納する算額に日々触れているからだと思う。ヨキヒコの社会科の成績は知らないし、もしかしたらもう知っていて、感動なんてなくって、今回も肩透かしになってしまうかもしれない。だけどヨキヒコは私が何の気無しに口にした、時差、で何かを掴んだって言った。だからきっと。
大丈夫。
お辞儀をして鳥居をくぐり、手水場で手と口を清めてからヨキヒコの横に立つ。本殿の前に立つ。トートバッグから手製の地図を取り出す。思いついてから、三日間、試行錯誤しながら作って、今日ようやく完成した。
「それは?」
「世界地図。丸い地球を平たい紙に写すには、何かを犠牲にしなきゃダメでしょう? 距離だったり、方角だったり」
ヨキヒコの目の前で地図を折る。折って重ねて丸くする。
「面積だったりする。ほら見て、メルカトル図法で描かれた地図を正しい地球の形に戻したら」
ロシア、カナダ、グリーンランド。それから南極が折り畳まれて小さくなる。
「みて、地図には有るのに地球儀には無い。伸ばされた面積は折りたたまれて球の内側。これってちょっと、なんだか、あわい、に似てるなって思っ……」
言い切る前に、ごう、と風が吹いた。
長く伸びた髪が頬を打ち、手にした地球儀が転がってゆく。追いかけてようとした私の手を、ヨキヒコが握った。
「ミコ」
ヨキヒコの顔を見る。黒くて綺麗な瞳の中に、チラチラきらきら星空みたいな光が宿ってる。
「扉が開いた」
神殿を見る。固く閉ざされていた扉が今は、ない。扉があった部分にぽっかりと、夜より尚暗くて深い闇が口を開けていた。
「これが、あわい?」
びっくりして声が掠れる。
あわいから風が吹いてくる。少しひんやりした澄んだ空気。
「ミコ」
「はい!」
「俺はあわいの中で夜目が効く。だけどミコにあわいの闇の景色は見えないから」
ヨキヒコが繋いだ手をぎゅっと握る。
「俺の側から離れないで」
真っ直ぐヨキヒコを見返して、強く頷く。
「これ、持って」
ハタキを渡される。使い込まれた飴色の取手に、紙の穂先。紙の房に淡い墨で書かれた[[rb:祝詞 > のりと]]。その文字に目を見開く。ススハライ用のハタキの墨文字を書くのも巫女係の役目。社殿で墨を擦って、お手本を見ながら何枚も書いた。乾かした紙を折って、割いて、纏めて木の枝に結びつける。
たくさん作ったハタキの中で、私が書いた神を[[rb:言祝ぐ > ことほぐ]]祝詞が、巡って私の手の中にある。
「行こう」
「うん」
ヨキヒコの手を強く握り、私はあわいに足を踏み出した。
4.あわいのナカ
夜の一番深い場所。深い海の底の底。
あわい、はそんな場所だった。ヨキヒコは手を離さないでって私に言ったけど、怖すぎて本当は手だけじゃなくて、きゃーってヨキヒコに抱きつきたい気持ち。でも、右手にハタキを持っていて、私は巫女装束に身を包んでいるんだから、怖い気持ちに蓋をして、道すら見えない暗闇にそろりそろりと足を出す。
小学生の頃、修学旅行でこんな真っ暗闇の中を、通った気がする。あの時は左手の大きな数珠だけを頼りに歩いたけれど、今はヨキヒコの手だけを頼りに歩いてる。
東京の夜は明るくて、本当の闇を私は知らない。黒の圧が凄すぎて、歩くだけでも怖い。固い地面じゃなくて、不安定。例えるなら、海の砂浜。
あわい、は、あの世とこの世の境目。
私がいるところはつまり、三途の河、みたいなところなんだもん。
昔絵本で見た賽の河原みたいな場所なのかな。だったら怖い。
暗くて、静かで、冷たくて。
「大丈夫? ミコ。震えてる」
「ちょっと、怖い」
「そうだよね」
「ヨキヒコは怖くないの?」
「お祖父さんに連れられて、何度か来てる」
「……そっか」
「そうだ。ミコ、右手。見てみて。ハタキ」
あっ。
光もないのにハタキが仄白く光っている。
目の前に翳しても闇は消えない。
だけどハタキに照らされて、私、の腕がほんのり闇に浮かび上がって安心する。
「少しは安心した?」
「うん」
ハタキを大事に胸に抱え込む。ハタキの周りがほの温かい。
「ねえ」
「何」
「ヨキヒコはあわいでも夜目が効くって、言ってたよね。あわいがヨキヒコには見えてるの?」
「見えてるよ」
「どんな風景?」
「雪みたいな、花びらみたいな光る欠片が空に舞ってる。地面は降り積もったかけらが積もって、歩く度にしゃりしゃりする」
「綺麗?」
「綺麗だよ」
「落とし物、ある?」
「……あるよ」
「拾わないの?」
暗闇の中、ヨキヒコが緊張したのが分かる。神事なんだもん。無理言っちゃったかなって謝ろうと思ったら、ヨキヒコが立ち止まった。
手がぐっと引かれる気がして、ヨキヒコがしゃがんだのが分かる。落とし物を拾うのかな、そう思った瞬間。ヨキヒコと繋いでいる左手から、思いと記憶が奔流の様に流れ込んできた。
タカシ。これはタカシの記憶。日に焼けた顔に茶色ががった髪をしていて、黒目がちな瞳、すらっとしたシルエット。もちろん女の子のファンも多い。サッカーが上手くて、県のクラブチームに所属してるってアキから聞いた。そのタカシの記憶。
お兄さんのお下がりじゃないキラキラのサッカーボールをプレゼントされたのが嬉しくて毎日蹴って遊び、夜は磨いて抱っこして寝た。ボールが親友。学校帰りも休みの日も飽きることなくボールを追った。小学生の時には上級生のチームにも勝った。みんなが期待を込めた目でタカシを見る。末はサッカー選手かねぇ、と優しいおばあさんの手が頭を撫でるたび、Jリーガーになる夢を育てていった。
強かった。
誰よりも早かった。
フィールドの上でタカシは王様だった。ゲームを支配して自由に勝てた。
地区大会の中でなら。
不意にパチンとタカシの記憶が弾ける。
瞬いて見ると、ヨキヒコが薄汚れたサッカーボールを手にして立っていた。
私は呆然とヨキヒコの顔を見る。
気まずそうにヨキヒコが目を逸らす。
その顔に胸がぎゅうっと締め付けられて、知らない街に一人取り残されたみたいな気持ちになった。
ヨキヒコがあわいの秘密を私に話してくれた事、内心舞い上がりそうなくらいに嬉しかった。他の誰でもない、私だけが特別なんだって。選ばれた気がして、嬉しかった。
でも違った。違ったんだ。私がこの土地の人間じゃない、旅人だから、ヨキヒコはあわいの秘密を私に明かしたんだ。
だって、こんな。
こんな。心の奥の奥の、誰にも見せたくない感情や思い出や大事なことを知られてる人と、しらっとした顔をして付き合うだなんて出来ないもん。
「ミコ。汚れを……払って」
溢れ出そうな感情をごくん、と飲みこんで、震える手でサッカーボールにハタキをかける。
きらきらさらさらとサッカーボールの汚れが落ちて、また、感情の波に攫われる。
心臓が破裂して肺が燃え尽きそうなほど全力で走るのに……追いつけない。
完璧に制したと思ったボールを最も容易く奪われる。
ボール自体に命が宿っているかの様に自由自在に足を捌く。
圧倒的な才能の数々に打ちのめされる。
灰色にくすんでいたボールの下から白と黒の多角形が現れる。
「続けて……ミコ」
涙が溢れて止まらない。タカシの感情に押し潰されそうになる。
女の子達の憧れのこもったキラキラした眼差しが重たい。中学のサッカー部顧問の期待を込めた激励が重たい。
答えたい。答えたいのに。
どんなに走り込んでも敵わない。どんなに蹴り込んでも届かない。
才能の違いに押し潰されそうになる。
圧倒的に実力が無い。センスが足りない。
頑張っても頑張っても、届かない。
補欠にすら、なれない。
ボールを蹴っても、楽しく無い。
もう、疲れた。辛い。
サッカーを。辞めてしまいたい。
最後の埃を払い終えると、ヨキヒコの手の中でサッカーボールが輝いた。
それでも俺は、サッカーが好きだ。
サッカーボールに宿った思いはただひたすらにそれだけだった。
「綺麗」
「そうだね」
ヨキヒコが綺麗になったサッカーボールを袋に落とす。白い袋はサッカーボール分膨らんだ。
この思いが、新しい年、タカシに還る。
「ごめん。ミコが辛くなるの分かってたから、今日は拾わないつもりだったのに」
私は首を振る。
「どうなるのか、見れてよかった」
「……そうか」
流れた涙を手の甲で拭う。
「毎年、こうやってあわいの中で、ススハライ、してるの?」
「そうだよ」
「……辛く無い?」
心が痛くてズキズキする。
「辛いよ。だけどこれが俺の役目だから」
「慣れたって事?」
「慣れたりしないよ。だけど目に見えるだけじゃ無い苦しみや悲しみ、喜びや幸せを人はそれぞれ持っている、そう、毎年思い知らされる」
修行なんだ。ススハライは俺にとって。誰かを救ってるだなんて、思った事もない。
繋いだ掌からそんな気持ちが流れ込む。
「……ヨキヒコ」
「何」
「私の無くした記憶、どうやって見つけたらいいの?」
さり、さり、とあわいを歩く。タカシのサッカーボールを清めて以来、あわいの闇が薄れた気がする。濃密な闇が薄くなり、隣を歩くヨキヒコがぼんやり見える。
「あわいで見つけることができる失せ物は、思いに吹き寄せられる。見つけたいと、願えばいい」
思いに……引き寄せられる。
私、本当に見つけたいのかな。もし見つけてしまったら、自分でも忘れたかった辛い記憶が、ヨキヒコにも知られてしまうかもしれない。そんな事になって、これから先もヨキヒコと友達でいれるかな。わからない。
でも、もし今日このまま、あわい、を出てしまったら、きっともう、次なんてない。だってヨキヒコは言った。あわいにあるのは、失せ物無くし物落とし物、って。捨ててしまったものは、戻ってこない。
手にした仄かに光るハタキを見る。
汚れたボールを優しく撫でると辛い記憶がはらはら落ちて、中から綺麗な思いが現れた。
信じよう。
何を、誰を信じたらいいかもわからないまま、目を閉じて祈る。
帰って来て。私の元へ。
さり、さりと歩いていた足元に何かが絡む。
目を凝らしてみるけど、暗くて足元はよく見えない。
「ヨキヒコ……私の足元」
何が見える、って語尾が掠れる。
「……リボンだ。赤いリボン」
ずくん、と心が痛んだ。鼓動の音が耳の奥でぐわんぐわん響く。
ヨキヒコの手を制し、ハタキを腰の結び目に差して、震えながら足に絡んだリボン飾りを手に取った。
記憶が溢れる。
家が近所だったから、幼稚園の時から仲良しだった、私の親友。
黒く輝くまっすぐな髪を腰まで伸ばして、器用なお母さんから色んな髪型にしてもらっていた。
リン。
黒髪と同じみたいにまっすぐな性格で、本が大好きで、いろんな事をよく知っていて、運動が得意そうなすらっとしたシルエットなのに、走り方がちょっと下手くそで、そんなところも大好きだった。
違うクラスになっても、おうちに帰ったら二人でよく一緒に遊んだ。
リンと手を繋いで走ると、リンの長い髪の毛からはとってもいい匂いがした。
くすんで埃に塗れたリボン飾りを手にしたまま、私は声もなく泣いた。
リン。大好きなリン。
思い出したく無い。大親友を心から消してしまった出来事を、思い出したくなんて無い。
だけどリボンを握りしめる手は固まったみたいに強張って、どんどん記憶が流れ出してくる。
中学生にあがった途端に、小学生の頃には思いもよらなかった謎めいた取り決めがたくさん増える。授業ごとに変わる先生。公開されるテストの結果。先輩後輩って言う線引き。部活動。生徒会。リンとはクラスが違ったし、私は部活、リンは生徒会って課外活動もあって、毎日みたいに遊ぶ事はなくなったけれど、変わらずお互いの家を行き来して、休みの日には二人で遊びに行ったりして、慌ただしくも毎日は充実していた。このまま楽しく、三年間を終える物だと、信じていた。
ヨキヒコが私の手からリボンを受け取る。埃まみれのリボン。リボンの形の髪飾り。
「ハタキ、かけよう」
私は頷いて腰からハタキを抜く。ヨキヒコと繋いだ手もハタキを持つ手もぶるぶる震えてしまう。
大丈夫だよって囁くみたいに、ヨキヒコが手を強く握ってくれる。
中学二年。クラス替えの表を見て私とリンは手を取り合って喜んだ。三年ぶりの一緒のクラス。学校でも一緒に過ごせる。お家はお隣同士でも、苗字の五十音は離れ離れだから席は遠い。でも、すごく嬉しい。
始まりはお昼休みだった。一年生の時、いつも一緒にお弁当を食べていた同じクラスの仲良しの子、レイとサヨコがお弁当の包みを持って私の側に来た。だけどリンが大きな声で「ミコ、一緒に食べよう」って、言ってきた。レイとサヨコが顔を見合わせる。私の目線を追ったリンが二人に気づいた。サヨコが言う。
「私達、みっちゃんと一緒にご飯食べようと思ってて……」
「そう。じゃみんなで食べよう」って。リンが言い、レイとサヨコの返事も聞かずに机をくっつけて島を作る。気圧されたみたいにレイとサヨコが席に着いた。前のクラスでリンと一緒だったんだってアヤも加わって五人でお昼を食べた。笑いながら楽しく食べた。お友達がたくさん増えた。良かったって。そう、私だけが思っていた。
汚れたリボンにハタキを当てる。はたくとほろほろ汚れが落ちた。
小さなボタンの掛け違い。
例えばみんなはちゃん付けで呼びあってるのにリンだけが呼び捨てにしてるところだとか、風紀委員のはずのリンがポニーテールを校則ギリギリの一番高いところで結んでいる事だとか、先生が何か質問あるかって聞いたら必ず手を上げるところだとか、仲間内のみんなはしないけど、リンだけがするとっても小さな事。
リンへの行き場のない小さな不満は日を経るごとに大きくなっていっていたのに私は、気付けなかった。
違う。
気付いていたのに、見て見ぬ振りをした。
誰からも嫌われたくなくて。
もしリンに、レイは呼び捨てにされるの嫌みたいだよっ言ったら、リンは「どうしてそれをミコが私に言うの?」って聞いてくる。嫌だったら自分で言えばいいじゃないって怒っちゃう。かと言って、レイに呼び捨てされるの嫌だってリンに伝えてみたらって言ったら、レイは「普通嫌がっていたら気付くよね。それにそこまで仲良くないしそんな事言えないよ。みっちゃんはリンちゃんと仲良いんでしょ、伝えてよ」って怒っちゃう。どちらにしても、私はどちらかからは絶対怒られて、悪く行けば両方から嫌われちゃう。
だから。
見て見ぬ振りをした。
ポニーテールの高さもそう。下目に結ぶと座った時にお尻で引いちゃうから高めに結んでるんだし、授業の終わりが伸びたのはリンじゃなくて先生の責任だと思う。
呼び捨ての件も、何もかも、今思えばご飯の時とかみんなの前でさりげない感じに伝えたら良かったんだと思う。
みんなにいい顔がしたかったのがいけなかったんだ。
はじめは小さかった感情のもつれはどんどんどんどん大きくなって。
弾けてしまった。
あの日は雨だった。だから部活が休みで、真っ直ぐ家に帰ってた。パパもママも帰ってなくて家には一人きり。夏休み直前でむしむし暑くて、エアコンを入れようかどうか迷ってた。
一通のメッセージが来た。
差出人は、アヤ。グループトークの誘いだった。
タップして参加すると、すぐに既読が三つついた。いつもご飯を食べてるメンバー。アヤ、レイ、サヨコ。
会話の途中だったのか、入室とほぼ同時にメッセージが来た。
『そもそもさ、足遅い癖に立候補するとか、目立ちたいだけじゃん』
その文面に、すうっと血の気が引く。
先週末の日曜日、体育祭があった。クラス対抗リレーのアンカーはリンだった。陸上部や足の速い運動部の子達はもう種目が決まっていて、責任重大なリレーのアンカーだけ、なかなか決まらなかった。だからリンが手を挙げた。走るの苦手だけど、誰も出たくないのならって。結果はもちろん、ビリ。グラウンド半周走る間に三人に抜かされた。
でもあの時誰もリンを責めなかった。抜かされてもビリになっても、真っ直ぐ前を向いて一生懸命走るリンを、風に靡くポニーテールを綺麗だと思った。みんなリンを応援した。最後まで全力で走り切ったリンに拍手が湧いた。一番にテープを切った子よりも、リンがゴールした時の方が盛り上がった。みんなが拍手したのは、リンの一生懸命さが伝わったからだ。目立ちたかった訳じゃない。それに、目立ちたいだけじゃんって書いてるサヤカ本人が、リレーに出なくてすんだのは、リンのおかげだって、言ってたじゃない。
『あ、ミコだ』
『いらっしゃーいミコ』
『そうそうミコはさ、リンの髪、キモいって思わない?』
『長すぎだよね』
『プールの後とかずっと濡れててさー』
『切ればいいのに』
頭が真っ白になる。さあって血の気が足にひいて、世界がぐるぐる回るみたいになる。
なにこれなにこれ。なにこれ。
どう言う事?
今日のお昼も一緒にご飯食べたじゃない。
『ミコはどう思うの?』
手が汗ばむ。答えないと、多分許して貰えない。
『長いよね』
そう一言返して画面を閉じた。
ぴろん。
通知が届く。
ぴろん。ぴろん。ぴろん。ぴろん。
怖くなってマナーモードに慌てて変えて、スマートフォンをベッドに投げた。部屋に居られなくて、暑いリビングで宿題をする。集中出来ない。メッセージが気になるのに見るのが怖い。
夜寝る前に恐る恐る見た。
リンのいるグループトークに五通。リンのいないグループトークに四十五通。
四十五通グループトークを叩いて、読まずに閉じた。もう一つのグループのメッセージを開いて読む。
『夏休み、どこかでみんな、遊びに行かない?』
リンのメッセージに返事が付いてる。
『いいね』
『お祭りとか行きたい』
『海もいいよね』
いつものみんなの感じ。
さっきのは見間違いだったのかなって、四十五通の方のグループを叩く。
『ウザイ』『仕切りたがりなところ本当ムカつく』『いつも偉そうなんだよね』
フリックしてもフリックしても悪意ある言葉の羅列。
何? 何これ怖い。
返信しなきゃと思うのに、指が動かない。
結局どちらにも返事できずに朝が来た。
学校に行くのが嫌だなんて初めてだった。
「ミコ、リンちゃん来たよ」
「はーい」
いつもは嬉しいお迎えなのに今日は気が重い。同じマンションの同じフロアだから、リンとは小学生の頃から一緒に登校してる。それは、アヤもレイもサヨコも知ってる。
でも今日リンと一緒に登校したら、あの三人はどう思うんだろう。だけど、玄関を開けて迎えに来てくれたリンのおはようって笑顔を見たら不安が少し小さくなった。
私は、リンが好き。
「昨日はどうしたの? 返事がないから心配したよ」
「スマートフォンの調子が悪くて」
「そうなの? 困るよね」
「ミコは夏休みどこ行きたい? 私ね、ミコと今年こそは水着でプールか海に行きたいなぁ」
去年、夏休み最後の思い出にって、二人で県外の大きなプールに行ったものの、スクール水着の子なんて一人もいなくて、恥ずかしくなって、水に浸かるどころか着替えもせずにアイスだけ買って帰った事があった。可愛い水着買わなきゃねって言い合って、ちょっと高めのアイス、食べた。
「レイやサヨコはさ、水着持ってそうだよね。アキも去年は親と沖縄に行ったんだって、写真見せてくれたんだ。もしかしたら水着持ってないの、私達だけかもしれないよね。今度可愛いの、買いに行こうよ」
「そうだね」
「やっぱり今日ミコ元気ないよ、大丈夫?」
「うん。ちょっと調子悪いみたい」
心配顔のリンと一緒に教室に入る。お家の前に来てくれたリンを見て、大好きだなぁ、って思ったのに、一緒に登校してるところ、レイやアヤやサヨコに見られたくないって思ってしまった。リンとは出席番号が遠い。だけどレイとアヤとは近いから、授業のグループ分けでは必ずどちらかと一緒になる。もし二人に嫌われちゃったら、グループワークをすごく気まずい気持ちで過ごさないといけない。サヨコとは部活が一緒だし、私よりもずっと上手くてレギュラーだから、サヨコに嫌われちゃったら同級生だけじゃなくて、後輩や先輩からも疎まれちゃいそう。そうなったら、居た堪れない。元はと言えばリンがみんなとうまくやろうとしないから悪いんじゃない。一緒に登校するの嫌だなぁって思ってしまって、その気持ちに傷付いた。
「おはよう」ってクラスに入る。
「おはよ」ってアヤもレイもサヨコも言う。昨日のグループトークが嘘みたいににこにこしてる。
笑顔が、怖い。
ハタキでリボンを撫でる。汚れがはらはらと落ち、下から綺麗な赤が見えてくる。
「ヨキヒコ」
「なんだい?」
「リンはね、本当に髪が綺麗で。私癖毛だからリンの長い真っ直ぐな黒い髪、大好きで憧れてたんだ」
指先でリボンを撫でる。ツルツルのリボン。
「黒い髪には、赤いリボンが映えるでしょ。このリボンを見つけた時、絶対リンに似合うって思って。だから。お誕生日に贈ろうって買っておいたものなの」
事件は昼休みに起こった。
昨日の事が嘘みたいにアヤ、レイ、サヨコ、それから私とリンで机を囲む。
「夏休みは、お祭りいいよね、浴衣着て」
「あ、いいよね。わかる」
「リンちゃん、今度さ、うちらと浴衣買いに行かない?」
レイが私をチラリと見て薄く笑った。
「いいよ、いつ?」
「三十日はどうかな、土曜日だし」
「私は空いてるよ。ミコは?」
「みっちゃんは一緒に行かないよ」
「えっ?」
「だってみっちゃんは夏休み、私たちと一緒に遊びたくないんだもんね」
思わず箸が止まる。
昨日のグループトークの悪口が頭の中を駆け巡る。
レイ、アヤ、サヨコの視線が刺さる。
もしかして。
もしかして。
私のしらないグループトークで。
私の、悪口……
「どうして? もしかして昨日ミコが返事しなかったから?」
リンが箸をパチンと机に置いた。
「返事が出来ないことくらい、誰にだってあるじゃん。後で返そうって思って忘れる事だってあるし。なのにそんな意地悪な言い方、よくないよ、レイ」
「そんな事言っていいの? リン」
「何よ」
「ミコ、あんたの悪口言ってたわよ」
リンがふんと鼻で笑う。
「ミコがそんな事言う訳ないじゃない」
「長い髪がキモチワルイって言ってたよ、ねぇ、みっちゃん」
昨日のメッセージを思い出す。そんな事は言ってない。だけど私は、さっきリンが私を庇ってくれたみたいに、リンの事を庇わなかった。
「ミコさ、前から思ってたけどさ、どっちなの」
サヤカが私をじっと見る。
「『うちら』とリンとどっちなの」
レイはとっても可愛くて、コスメとか洋服とかに詳しくて、一緒に居るとこっちまで可愛い女の子になれる気がする。癖毛の私に伸ばすより生かした方が可愛いよって、色々髪型考えてくれた。とっても好きなお友達。
サヨコは運動神経抜群で、面倒見がとてもいい。バレー部に入ったものの万年補欠の私と違って一年生の時からレギュラーになるほど上手い。レギュラーの練習はキツイのに加えて、補欠の練習は面白みなんてないのに、隙を見つけてはなかなか上手くならない私の練習に付き合ってくれる。とっても好きなお友達。
アキは話がすっごく面白い。古いものから新しいものまでたくさん映画を観ていて話題も豊富。一緒に映画に行った後、買ったパンフレットを指差しながら、たくさんトリビアを話してくれた。話し方もうまくって、もっと色々話を聞きたくなる、とっても好きなお友達。
リン。小さい頃からずっとずっと一緒だった。リンはいつでも真っ直ぐで、裏表もなくって、とってもとっても優しくて。悲しい事があった時、ショックな事があった時、いつだってリンは私と同じくらい悲しんで怒ってくれた。私の大好きな、大事な大事な。
「わ、私は」
蒼白な顔でリンを見る。
リンが広げていた食べかけのお弁当に蓋をして、サヨコをきっと睨みつけた。
「分かったよ、サヨコ。私これから先ずっとお昼、生徒会室で食べるから」
いやだ。
「でもサヨコ。一個だけ言わせて。これは私達だけの問題なのに、部活の人間関係をちらつかせてミコに何かを強いるのはやめて。これっきりにして」
「リン!」
「どう言う意味よ」
サヨコの大きな声にビクッてなる。
「私がいつ、部の事を言った? 一言も言って無いじゃない」
「やめて」
「やっぱりミコもリンの味方なんだね。とろくさいあんたに優しくして、仲良くしてあげてきたのに。いいよ、リンと一緒に行って。だけど、今後一切ミコとは口を聞かなくなるだけだから」
すう、と血の気が引く。サヨコから無視されたら、私。
「副部長のサヤちゃんがみっちゃんの事無視したら、みっちゃん、部活に居辛くなるね」
レイが勝ち誇った様に笑う。
「そう言うの……やめなよ」
リンも顔色が悪くなる。
「どうしたらいいの」
レイとサヤカが顔を見合わせてくすくす笑う。
「みんなさ、リンのそう言うところが嫌なのよ。正義感ぶっちゃって。言わなくてもいい事言って、みんなを不愉快にするところ」
「アキ……」
「ミコもさ、なんでも人の言いなりになるところ、あるよね。だからいつまで経っても付属品みたいなんだよ」
目の前が真っ白になる。
付属品?
もしかしてアキ、私の事ずっとそんな風に見てきたの。
「言いなりなんかじゃないよ。私は……」
私の意思で。
「じゃ選びなよ、うちらか、リンか」
「え」
「リンを選んでうちらに無視されるか、うちらを選んでリンとバイバイするか、選びなよ」
「みっちゃんもさ、リンは髪が長すぎって言ってたよね」
言ってない。
「そうだ、ミコがリンの髪を切ったら、私たちの仲間って認めたらいいんじゃない?」
「いい考え。そもそもこの長さのポニテってさ、校則違反よね。私がネイルしてきた時にはさ、先生にチクった癖に。自分は良いわけ?」
サヨコがリンのポニーテールを掴んだ。
リンの髪。長くて黒くて艶々の髪。
「やめて」
私も思わず立ち上がる。リンのポニーテールを引っ張るサヨコの手を掴もうとしたのに、力で負けて毛束を左手に押し付けられる。
ツルツルでいい匂いのする大好きな髪。
手を離して逃げようとしたけれど今度はレイが私を抑えた。
「ほら、みっちゃん、鋏だよ」
レイが私の固く握りしめた右手の指を無理矢理こじ開けて、鋏の指穴に指を通す。
「大丈夫だよ。リンはミコと違って強いから、髪切られようが一人になろうが、大丈夫だよ。一人じゃいられないミコと違って」
リンの髪を掴んで、鋏を右手に持ったまま、私は動けない。
私が、気付いていたのに気付かぬふりで何もしなかったから?
だからなの?
息ができない。
涙が滲む。
嫌だ。嫌だよ。
蒼白な顔でリンが私を見た。髪を私にひっぱられているせいでリンの左の顔しか見えない。
だけどリンは私に笑いかけてくれた。
「いいよ、ミコ。切って。私は大丈夫」
いつもリンはそうなんだ。真っ直ぐで優しくて。
なのに、私は。
「いやぁ」
あわいに私の絶叫が響く。
リンの髪。リンの長い髪。左手に掴んだ感覚を覚えてる。右手の鋏が何かを切った感覚を覚えてる。
私。私。
あわいでは俺の手を離さないで。
そう言われていたのに私は、手を離した。ヨキヒコの手を振り解いて駆け出した。
「ミコォー!」
ヨキヒコが叫んでる。
だけど無理。私、リンのところに行かなくちゃ。リンに謝らなくちゃ。
「リン!リンー!」
真っ暗な中をただ走る。リンを思って、リンを呼んで走ったら辿り着ける気がして。
時を戻せたら戻したい。
楽しくて不安なんてなにもなくて、幸せだったあの頃に戻りたい。やり直したい。
「リンー!」
涙が溢れて止まらない。リンはいつだって私を守ってくれたのに。
私は。リンを忘れて。リンを思い出しそうになる度に体までもが拒絶して。
リン。リン。
謝りたい。
リンは優しいから、私が謝ったら許してくれる。許されたらいけないのかもしれない。謝って楽になるのはリンじゃない、私だけかもしれないんだもん。
どうしたらいいの。
あわいに膝から崩れ落ちる。
ヨキヒコに渡したはずのリボンが、いつのまにか手の中に帰ってきてる。
汚れてない、綺麗なリボン。
リンのお誕生日のプレゼントに買ったリボン。東京の私の部屋のクローゼットの中に箱に入れて、シールでデコレーションして置いてある。プレゼントのリボン。黒い髪に映えると思って買った赤いリボンの髪飾り。
「リン」
会いたいよ。
リボンを抱いて泣いていると、ふと目の奥に光を感じた。
目を開ける。
リボンが光っていた。リボンの輝きが照らしたあわいに、少女がいる。
「リン⁉︎」
何度も遊びに行ったリンの部屋。
ミコの呼びかけに、机に向かって勉強していたリンが、ふと手を止めた。
『……ミコ?』
リンに向けて手を伸ばす。だけど触れられない。手は空を切る。光に照らされてぼんやりした像はマッチ売りの少女が炎越しに見たら幻想みたい。
『ミコなの?』
「リン、リンー」
リンがこちらを向いた。ぼやけていた姿がくっきり像を結ぶ。
頬のラインで切り揃えられた黒髪に、涙が溢れた。
ぽろぽろ涙が溢れる。
ごめん、の言葉に重なる様に、映し出されたリンよ口が開いた。
『ミコ、ごめん。ごめんね』
真っ直ぐな瞳に見る間に涙が浮いた。
『私のせいで、ミコ』
あわいに映し出されたリンと目が合った。
『ミコ』
「リン、リンの髪の毛……私があの時切っちゃったんでしょ。ごめん。ごめんなさい」
『違う。これは私自分で切ったの』
「……」
『ミコ、私知ってたんだ。レイが初めから私の事、好きじゃなかったって事』
リンが髪を耳にかけた。
『私のお母さんもミコのお母さんと同じ、看護師でしょう? 元々お母さん、髪が伸びたらドネーションしてたんだ。髪の寄付。だから私も髪が腰まで伸びたらお母さんの真似して寄付しようって決めてたの。目標の長さになったから……夏が来る前に切ろうと思ってたんだけど……レイ達が私の髪の事悪く言ってるのに気付いちゃって。意地張ったの。だって、なんだか負けたみたいでしょ。長い髪を笑われた後に切っちゃったら。だから、高校生になるまで伸ばそうって』
リンが瞬き、涙の筋が頬を伝った。
『私がそんなくだらない意地を張ったから、ミコが傷付いた。倒れて頭打って、学校にもこれなくなった。
ミコがね、退院して、だいぶ調子もいいって聞いたから、夏休みにお母さんとミコのお家を訪ねたの。ミコがメッセージを読んでないのが少し気にはなったけど、そんな気にならないだけかなって、深く考えなくて。ミコ、私の姿を見るなり、意識を無くしたの。その時、わかったんだ。ミコが良くならないの、私の所為なんだって。ミコのお母さに全部話した。あの日、学校で、あった事。
その後ミコが……引っ越したって聞いて』
髪を切ったの。とリンが言った。
『ごめんね、ミコ、許してくれる? これからも友達でいてくれる?』
胸の奥がツンとなる。
「友達って、なって欲しいとか、友達でいてあげるとか、そんなんじゃないよ。私はリンが好きで、リンも私が好きなら、それでいい。私、リンとは対等でいたいよ。友達だもん」
『……ミコ』
「リン、会いに行くよ。そっちに帰る」
もっとたくさん話したい。大好きだって伝えたい。
その瞬間、手の中のリボンが眩い光を放った。目を開けていられなくて閉じた瞬間、眩い白が弾け、黒に戻った。
目を開けると、見渡す限り、深い深い闇がある。
ミコはあわいに一人ぽつんと取り残された
5.旅立ちのアサ
あわいの中に一人きり。右を向いても左を向いても、上を見ても下を見ても果てしなく続く重たい闇。
だけどもう、怖くなかった。
絶対帰る。リンに会う。
絶対帰る。ヨキヒコに心の傷を付けたくない。
光って消えたリボンの温もりが今、胸の奥、心の中に灯っている。
胸に手を当てて、闇を見る。
ヨキヒコの元に、戻らなきゃ。
『見つけたいと、願えばいい』
ヨキヒコの言葉を思い出す。
闇に仄白く輝くハタキを翳すと、紙房に書かれた祝詞がちかちか瞬いた。
『神より賜りし力であわいに踏み入り、人の世の穢れを祓い、土地と人とを守りし神の眷属人の子の元へ、どうか私を導いてください』
心の中で強く願う。
暗闇の中で、光を希う。
ヨキヒコに、リンに、会いたい。
ごう、とあわいの奥から風が吹いた。
何かがミコ目掛けて駆けてくる。
ミコは目を開けた。
大きな生き物がミコの前に居た。
四つ脚の生き物だ。ごわごわした白い太い毛に身体が覆われている。犬や猫に特有の獣の匂いはしない。代わりに切り立ての樹木にもにた爽やかな森の匂いがした。息遣いと温もりと、鼓動の音がする。
目の前の命は今までミコが見たどんな生き物よりも大きかった。大きすぎて全容が分からない。
大きな毛むくじゃらの塊が、ミコの前で右に左にと大きく動いた。
恐る恐る手を触れる。優しい温もりが掌から伝う。
思い切って、抱きついた。
ミコの周りに風が吹く。
違う。ミコがしがみ付いている生き物がすざまじい速さであわいを駆ける。
振り落とされない様にミコは身体中で生き物に抱き付いた。
目の端に星が流れる。
星じゃない。
幾つもの人の思いだ。
苦しみや悲しみや怒りや後悔や絶望が、止まない雨の様にとめどなくあわいに降り注ぐ。思いの結晶はあわいにたゆたう綺麗なものにぶつかり、傷付け、汚していく。
綺麗なモノが汚されていく様を見て、胸が苦しくなった。
『目を開けよく見るがいい、幼きヒトの子よ』
頭の中に直接声が響いた。
『削られねば、輝かぬ』
ヨキヒコと払ったサッカーボールを思い出した。ピカピカのサッカーボール。使い込まれていたのに、新品みたいにピカピカのボール。
『ヒトの子に、ウツシヨからのオクラレモノを磨く事など能わぬ。ヒトの子は仕上げを施すに過ぎぬ』
『棲まう相を異にしたヒトの子を救うことなど出来はしない。我らはただ、輔くだけだ』
カミサマ。
私が今抱きついている存在は、きっと神殿の奥のカミサマなんだ。
『カミはあわいに降りられはせぬ。我らはあわいに棲まう、カミの遣い』
石段を登りきり、鳥居の前に立つと見える対の狐像を思った。
ふっさりとした尾を立てて、闇を駆ける白い狐が脳裏に浮かんだ。
「ミコー!」
ヨキヒコの声が聞こえる。声が枯れてしまうんじゃないかって思うくらい大きな声。初めて耳にするヒトの絶叫。
『見つけたいと、願えばいい』
ヨキヒコの言葉を思い出す。
「ヨキヒコー」
お腹の底から声を出す。
「ミコ? ミコー」
私は、ここよ。
身体に感じていた風が止まる。
大きな顔がこっちを見ていた。真っ白な毛並みに満月みたいな金の目をした大きな狐。
白狐が口を開けた。朱色の大きな口の中には、ぴかぴか光る牙がたくさん生えている。
森の匂いが強くなった。
大きな口が迫ってくるのに怖くない。大きな口が、緋袴のお尻の辺りをぎゅっと挟む。
ふさふさの尻尾から手を離した。
白い大狐はミコを口に咥えると、ぽん、とあわいに投げた。
ふわりとミコはあわいを飛んで、何かにぶつかった。身体の下で、ぐえだか、ぐぉう、だかの悲鳴が上がる。
「ヨキヒコ」
ヨキヒコに抱きついたみたいになって、赤くなる。重たいって思われたく無くて急いで離れた。
「ミコ? ミコか」
ヨキヒコの目に光が灯り、褪せていた頬に赤が刺すのを見た。
「白い狐のカミサマが、導いてくれたの」
がばっとヨキヒコに抱き締められて、慌てる。顔が、熱くなる。
「良かった……よかった」
ごう、とあわいに風が吹く。振り返ると、大きな狐のふっさりとした尾が見えた。
貝殻の内殻を思わせる七色に輝く乳白色の世界に、白が滲んで、消えた。
ミコの目に、あわいがくっきり見えていた。
穏やかで柔らかな光が満ちた、美しい世界だった。
さり、と足が地面を踏む。砂だと思っていた欠片は全て、ヒトの思いだった。
しゃがんで両手に掬う。さらさらキラキラと美しい欠片は、ミコの手を滑り落ちた。
見つけられる事を拒んで朽ちたカタチ、夢の残骸は、ガラスの様な粉となり、泣きたいほどに美しく煌めきながらあわいに瞬いた。
「見えるようになったんだね、ミコ」
「うん。さっきは、手を離して、ごめんね」
「いいんだよ。すごく、怖かったけど」
「会いたいって、思ったから」
「俺も」
「ヨキヒコと逸れていた間、私、リンと会ってたの。お話してきた」
「……そうか。じゃあ、ミコは」
「うん、東京に戻る。リンと会わなきゃ」
ヨキヒコは私を見て、笑った。少し悲しい時には鼻の先にシワは寄らないんだな、って知った。
「戻ろうか」
「うん」
もう手は繋がなくてもいいはずなのに、手を繋ぐ。あわいと現世を隔てる扉にはあっけないくらいにすぐ着いた。
調子の悪いモニターみたいに、現世とあわいがチラチラ瞬く四角い扉。
手を繋いで二人でくぐる。
ヨキヒコが持っていたサッカーボールで膨らんでいた白い袋がぺしゃんこになって、私のハタキから光が抜ける。
冬の夜空の星が眩い。
振り返るとあわいへの入り口は消え失せて、木の扉がしっかりと閉ざされている。ヨキヒコに倣って手を合わせてお辞儀をする。
すっごく遅くなっちゃった気がして急いでお家に帰ったら「おや、今日は早かったね」ってパパが言う。今何時って聞いたら、家を出てから十五分も経ってない。
とっても、不思議。
パパと晩ご飯を作って食べた後、ママとの動画通話で私は言う。
「ママ、私、全部思い出した。リンに会いたい。帰りたい」
それからすっごく慌ただしくなる。
帰郷の日はクリスマスイブの日になった。一週間後。
早く帰りたい気持ちと、ススハライに出たい気持ちと。
年末年始のチケットはすっごく高くなるって聞いたから、年が明けて落ち着いてからになるかな、なんて思っていたのに、飛行機にちょうどキャンセルがでたんだって。
私も三学期に合わせて登校する方が、気が張らなくて丁度いい。
病院に行って検査して、髪の毛をさっぱりカットして、お家の荷物を段ボールに詰めて、東京に戻ることになったってみんなに言う。毎日目が回るくらいに忙しい。カーテンの無い裸の窓にしみじみする。
スマートフォンはお家にあるままだから、リンには手紙を書いた。
クリスマスの日、一緒にケーキを食べようって。新学期には、また、一緒に学校に行こうねって。
お揃いの髪型になったから、髪に留めるリボンじゃ無くて、お揃いの何かを買いたいなって思う。イヤリングとか、いいかもしれない。
それとも私もミコに倣って、髪を伸ばしてみようかな。くるんって癖のついた私の髪は、ドネーション出来るかな。リンに聞きたい。
早くたくさん話したい。
冬至の日、ススハライに巫女衣装で出て、こっちの友達とみんなで神社のお掃除をして、甘酒を配った。寒い中で飲む甘酒は、とってもとっても美味しかった。
そうそう、あわいが開いた次の日から、私、入り口の狐の像を丁寧に磨いた。ありがとうって気持ちを込めて。
ヨキヒコは浅葱色の袴をつけて、そんな私をいつもの笑顔で見守ってくれた。
今日もそう。箒で境内を掃きながら、きゅっきゅって音を立てて狐像を磨く私を見ていてくれる。
今日は十二月二十四日。
お昼の飛行機に間に合うように、私はそろそろここを出ないといけない。
「ミコが毎日磨いたおかげで、ピカピカになったよ」
「ふふ」
朝日が狐像の目にちらちら光る。
私はヨキヒコを見る。
浅葱色の袴より、松葉色の袴の方がらしいなぁって思うけど、冬の空みたいな袴の色は涼しげな顔のヨキヒコによく似合ってる。
あわいの中では、見えないモノが具現化する。
白い狐のカミサマに触れられた後、あわいでしっかり目が効くようになった私には、見えてしまった。
赤い糸。
ヨキヒコと私を繋いだ赤い糸。
縁はその都度結ぶものなんだって思う。
私はママの故郷のこの町が好きで、この町の人が好きで、ヨキヒコも好きで、ここに住みたいなって何度も思った。
だけど、私は今日東京に戻る。東京の街で私は大人になる。
これから先もヨキヒコと私の間の赤い糸が繋がりあったままかどうか、分からない。
今は繋がっていて欲しいと思ってる。
でも、未来は分からない。
私はヨキヒコに手を伸ばした。
ヨキヒコも私の手を握る。
最後の言葉。色々考えた。
バイバイ。
またね。
ありがとう。
だけど私は、あえて言う。
今の私の気持ちに正直に。
「ヨキヒコ……行ってきます」
ヨキヒコは目を見開いて、ふわっと笑った。
「行ってらっしゃい、ミコ」
手を離して大きく降る。
初めてヨキヒコと手を繋いだ時、どうして懐かしい気持ちになったのか、いまならわかる。
涙ぐみそうな顔を見られたく無くて、振り返らずに階段を降りる。
私の姿を認めたパパが車のエンジンをかける。助手席にまわって扉を開けたなら、あっという間に町を抜け、山を超えて、ここでの出来事が全部思い出になってしまう。
この町の青い海、綺麗な森、優しい朝日。
期待を込めて、階段を見上げる。
浅葱色の袴を付けた新米神主が、大きく手を振って、答えてくれた。