父へ 「望郷」
父へ 望郷
私には帰るべき所がある。こんなところでモタモタしている暇はない。だが、気持ちばかり焦って、よけい遠ざかってゆく気がする。いまはただ、帰郷の時を待つのみだ。それくらいの強さは持っている。子供が話しかける言葉を私はどれだけ、耳に入れただろう。幼い彼らの声に美しさがあることに気がつけなかった。あれほど大切なときだったのに。私はいま何をしようとしているのだ。いまも大事だと言うことも重々承知だ。私の、嘘にも彼らは付き合ってくれた。その分苦労もさせられたが、どこかで満たされていたことも嘘ではない。これからの私は何処へ行くのだろうか。新しい世界が広がっていると人は言うが。そんなに楽な状況ではない。こけむした、小さな家に独りで暮らしている。頼りない杖を頼りにしながら。生きる私には花の言葉がわかると気がある。ありがとうと。彼らは一人で生きている。私にはそれが出来ない。苦しい。あの頃を思い出すと。私が生き生きしていたとき。老いることが悪いことと思い始めたとき。何か必死だった。ただ任せるべきだった。余りよく知らない人が「なにかいいことあったの」私にたずねる。にこにこしているのが不思議らしい。こんな生活にも希望もあれば夢もある。そして、粋なジョークも、酒を飲みながら思う。私の生活というものは取って代わるものがいないこと。そのことに安堵する。私にはわからないことが多くて、知りたいことが多かったが、いまは静かにしていたい。まわりが、やかましすぎるのだ。むかし、草取りなどというものは自分の仕事ではないと思っていたが。いまは、好きな酒のようにちびりちびりと引き抜くもの悪くないと持っている。酒はやめられない。しゅわっとのどに広がるビールの味、鼻で感じられるアルコール。体の疲労をとると言うよりは疲れさせることがわかっているが、一日の終わりがこんなのも悪くはない。私の一日はこんなものだ。誰にも、不思議がられるものでもない。今は蜂が多いので好きではない。そとだが、明るい太陽光は好きだ。太陽に話しかけることはしない。木には話かける。木には精霊が宿る。私のこころを癒してくれる。癒していることはないのに、彼らはけなげだ。だが強い。私が考えている以上に。むしりなさいと、蜜柑をくれる。金で買った蜜柑とは違った味だ。彼らは商品ではない。私と一緒。昔は、自分を商品みたいに思ったこともあったが今は違う。何が違うのかはわからない。それが年を取ると言うことなのだろう。いま、尊敬する年寄りは沢山いるが、尊敬する若者はいない。尊敬する、とは私の中であまり意味を持たない。だから若者を排除する。それでいいだろう。年寄りは少し偏屈なのがいい。勝手に思う。そもそも、人間は自分勝手だ。自然に生きると言うが、自然はおもねさせてくれない。おそろしい力で我々を脅かす。我々が進化と称する。利便性が上がるたびに、神を信じている。仏は大好きだ。近代文明の恩恵を受けながら生きてきてこんなことを言うのはおかしな事ろうか。科学的でない世界へのアプローチを信じて何が悪い。邪魔くさい定理を理解できる程の頭を持っていないからだと勝手に思っている。私は仏様とお弟子様がたちの行列が通るような光景に出くわしたら、今の生活を全て投げ出して、泣きながらすがるだろう。彼らが私よりもずいぶんと若くても。彼らには確証がある。なにかはまだわからない。でもこれからわかるのだろう。わかりたいと強く思う。科学文明に生きて不可思議を信じることはずいぶんと大変なことだろう、友を失うことになることになるかもしれない。だが、それでも、ついて行くだろう。杖をついてでも。その時私のわかりたいという心は、無くなって行くのだ。彼らの優しさ暖かみは事実だ。それがなければ、本当の知恵ではない。知恵というのも人間が作った言葉でおこがましいが、私は安堵するのだろう。安堵の気持ちは、どこからやってくるのかわからないが。人殺し、盗賊行為を促すようなション便くさいカリスマとは違うだろう。今点在する。するものの多くはカリスマ性だけで成り立っているのが多いような気がする。私はカリスマ性から縁遠いから良く解る。カリスマ性を持っているものがどういう行為に走るか。私は羨ましいと思ってきたが、この年になればわかる。正直に生きるためにカリスマ性いらない。地獄の閻魔様のみ前で嘘をつかないことに、大きいカリスマ性も小さいカリスマ性もいらない。私は、自分のことを実に愚かだと思う。酒を飲んで喜んで疲れているのだから、おろかだろう。他にもずいぶん愚かだ。