逃げ道
……逃げ道はない。
少なくとも、地上には。
絶望したエーレがグラディウスの腕の中で俯いた時、空に大きな羽ばたきが聞こえた。
力強い翼の音。
空気を震わせる咆哮。
思わず恐怖を感じてしまうほどの大きな影が地上に落ちる。
ワイバーンだ。
この国の人間はワイバーンの存在こそは知っていても、こんなに近くで見たことなどなかったのだろう。
皆が固まって空を見上げ、成すすべなく無防備な顔を晒していた。
ワイバーンは質量のある翼を振り、地上目がけて急降下してくる。
威嚇するように唸り、グラディウスとエーレの周りにいた兵をいとも簡単に薙ぎ倒した。
あっけにとられていた王国兵は我に返って応戦しようとする。
だがワイバーンは鋼のような鋭利な爪で盾を切り裂き、太い尾で剣の刃を粉砕した。
屈強な筈の兵士は紙のように吹き飛び、互いにぶつかり合って転がって倒れる。
戦争兵器と呼ばれるワイバーンのぎょろりとした目がエーレとグラディウスに向けられた。
普通であれば息をするのも忘れて固まっていただろう。
だが、全然怖くなんてなかった。
「コレちゃん……?」
「きゅうきゅう」
懐かしい鳴き声だった。
声だけは変わってない。
そのワイバーンは、一回りも二回りも大きくなったコレちゃんだった。
まだまだ成獣のワイバーンよりは小さいが、グラディウスの膝の上で寝そべっていた頃に比べると格段に大きくなっている。
成長期を迎えたのだろうか。
それとも、これが野生の自然の力なのだろうか。
「乗れ!」
ぼんやりとしていたエーレは、いきなりグラディウスに押し上げられた。
コレちゃんの馬ほどの背中にゴロンと乗せられ、続いてグラディウスがひょいと飛び乗ってきた。
コレちゃんがこんなに大きくなっているなんて、そしてこのタイミングでコレちゃんが来てくれるなんてグラディウスも予想外だったのだろうが、一瞬で状況を判断した彼は大したものだ。
「飛べ!」
コレちゃんが翼を羽ばたかせて浮き上がる瞬間、ちょっと恐怖を感じてエーレは目を瞑ったが、再び目を開けた時にはもう空の上だった。
我に返った王国兵が弓矢を空に放っているようだったが、もう空高く舞い上がったコレちゃんには届かない。
あの広場がドンドン遠のいていく。街もドンドン遠のいていく。雲に触れそうな高さまで来た。
人も街も小さい。
誰ももう手が届かないところに居る。
死にたくないと願ったのがまるで夢だったかのような景色が広がっている。
まるで別世界に来たようだ。
「キョロキョロするな。落ちるぞ」
ぎゅ、と力が籠ったのはエーレを抱くように巻かれたグラディウスの腕だった。
馬に乗っていた時のように、彼はエーレの後ろに乗っている。
だが今のグラディウスは、今までとは比べ物にならないくらい近くにいる。
エーレの背中が全面的に温かい。
しかも手綱も鞍もなくてコレちゃんの首に前のめりに掴まっているせいで、グラディウスの顔が近い。
「……だが、コレが来てくれて助かった」
はあと吐き出された溜息が耳をかすめる。
くすぐったい。
なんだか居心地が良いのに、悪い。
「あ、あの。耳元で喋らないでください」
「し……仕方ないだろ。俺だって好きでこんなところで喋ってる訳じゃない」
「喋らないでくださいってば!」
頬が熱くなってきたことに気づいて、エーレは片手で顔を隠した。
良く分からないが、脈が速い。
不整脈だろうか。
それとも安心したことで、これまでの疲労が爆発してるのだろうか。
しばらくエーレは、頬をかすめていく高いところの空気を味わっていた。
少し冷たいので、暑くなった頬を冷ますのにちょうどいい。
エーガルディア王国の王都が完全に見えなくなり、ここが完全に安全なのだと一息ついてから、エーレは首を小さく後ろに回した。
「あの、グラディウスさんって私のことを助けてくれたんですか?」
「聞かなくても分かるだろ」
「なんで助けてくれたんですか?」
「……知らん」
「私が側妃さんを治療したからですか?それとも私が肩の怪我を治療したから?コレちゃんを治療したから?」
「……」
「私に助けられた恩があったからですか?」
「………………うるさい、全部だ。失礼なところも、薬バカなところも、芋の阿保みたいな切り方も、鈍感なところも、優秀な薬師としての腕も、患者を診るまっすぐな目も、髪も手も、全部がお前を助けたかった理由だ」
不貞腐れたような照れたような乱暴なような優しいような複雑な声が耳元で聞こえた。
……なんだ、それ。
良く分からないのに体が熱を持って、心の底から堪らないものが込み上げてくる。
その堪らない気持ちは、熱い涙になってエーレの目からあふれてきた。
「ぐすっ」
「って、なんで泣いてる」
「ぐす、それどういう意味ですか、ずび」
「……自分で勝手に考えろ」
「分かりません」
ぎゅ、とエーレの胴に巻かれた手に更に力が入った。
元々近いと思っていたグラディウスの顔が、更に耳元に寄ってくる。
これは、飛ぶコレちゃんが揺れるからだろうか。
それとも、彼が自分の意思で近寄ってきたのだろうか。
もう、唇が耳に触れそうだ。
「……エーレ」
グラディウスが耳元で何か言う。
そう感じた瞬間に、涙が更に零れてきた。まるで決壊したダムのようだ。
もう駄目だ。
死ぬほどの恐怖を味わったかと思ったら、次は突然誰かを好きだと自覚した。
そうしたら好きだと思った人がこんなに近くにいて、温かくて強くて緊張してドキドキして、もう流石に良く分からなくなった。
限界だ。いろんな気持ちが限界だ。
抱えきれない感情が溢れすぎて泣くしかない。
突然滝のように涙を流し始めたエーレを見て、グラディウスが何も言えずに戸惑っていることが背中から伝わってきたので、エーレは胴に巻き付いている彼の腕を抱くようにぎゅっとした。
何を言えばいいのか、どうしたらいいか分からなかったので、胸のうちが伝わるように強く抱きしめた。
彼のその腕には手の甲から続く古傷があって、確かに芸術品みたいに綺麗な腕ではないけど、エーレを助けてくれたのがこの腕でよかったと思った。
この人が助けてくれて嬉しかった。
怖かったけど嬉しかった。
全部放り投げて助けに来てくれて嬉しかった。
放してと言ったが、放さないでいてくれて嬉しかった。




