武田信玄
天文二十二年の春、関ヶ原で、日の本の国の未来を賭けて東軍と西軍が睨み合った。
全国から集った武将や兵士の数を合計すると、何と十万以上である。
取りあえず、オフ会に一人も来なかったという悲惨な状況にならなくて良かったと、私はホッと胸を撫で下ろす。
しかし味方の東軍が三万で、敵の西軍が七万だ。
数字だけを見れば戦力差は歴然で、決して楽観視できる状況ではなかった。
そして東軍の最高指揮官は私であるが、各勢力の自由意志で行動してもらっている。
本当は自分が指示を出すべきだろうが、軍事は素人で頭が悪いのが致命的だった。
それに、最大戦力を温存する余裕はなかった。
だが勢力圏内に戦場を選べる利点を活用し、陣地は既に構築済みだ。
おかげで守りを固められたので、敵が大軍だとしてもしばらくは持ち堪えられる。
そんなこんなで織田陣営に戻った私は、天幕から出て弟の信長と一緒に戦場の様子を観察していた。
場所は桃配山に築いた陣地で、天幕から出て見張り台に登って遠くを眺める。
「しかし、……動かないわね」
敵勢力は隊列を整えたまま、微動だにしない。
それに対して、隣に立っている信長が口を開いた。
「誰もが自軍の被害を嫌い、それでも勝ちたいのじゃろう」
確かに誰だって利益は欲しい。
だがそのために大怪我をしたり、最悪死ぬのは嫌だ。
「姉上を討ち取る目的で一致団結したとはいえ、戦が終われば敵同士よ。
ゆえに、兵力は温存しておくに越したことはあるまい」
信長の言うことも一理ありで、私はなるほどと思って小さく頷く。
たとえ足利義昭を新たな大樹にしたとしても、今度は管領を巡って争いが起きる。
戦乱の世は終わることがなく続き、一度は団結した各地の大名も、険悪な仲に逆戻りだ。
「……私が勝たないと駄目なのね」
「然りよ」
信長が小さく頷いて、続きを話す。
「まずは姉上の力を見せつけ、全国の大名を平伏させるのじゃ」
だからこそ関ヶ原の戦いを通じて、織田美穂には絶対に敵わないと思い知らせなければいけない。
一時的でも全国の大名を平伏させれば、あとは統治期間中に優秀な弟や同盟国の者たちが、きっと何とかしてくれる。
少なくとも、私はそう信じていた。
「信長、あとは任せたわ」
私は大きく息を吸って、隣に立つ信長に声をかけた。
「何をする気じゃ?」
弟が尋ねてきたので、不敵な笑みを浮かべて堂々と答える。
「この戦で私がやることを、忘れたのかしら?」
「……そうじゃったな」
信長も、ニヤリと笑った。
そして私は、桃配山を取り囲むように布陣している敵を、もう一度しっかり見据える。
「手はず通りに頼むわよ」
「うむ、任された」
既に各々の果たすべき役割は決まっている。
なので、短いやり取りを済ませた私は、心の中で気合を入れて見張り台から勢い良く飛び降りた。
もっとも近くに布陣している敵を目指して、桃配山を駆け下りて行くのだった。
桃配山に布陣している織田軍から離れ、私は関ヶ原の平野に飛び出した。
すると目の前には大勢の敵兵が、アリ一匹逃さないとばかりに、隙間なく取り囲んでいた。
「邪魔よ!」
そこに一直線に突っ込んでいく。狙うは敵将なので、足軽たちに用はない。
私は突風のように薙ぎ倒してしながらも手加減を忘れず、極力殺さずに無力化していく。
稲荷神様の御加護で、とにかく押し通るのだ。
敵陣を無人の野ように駆け回り、各勢力の総大将を探していた。
視力が良いので派手な鎧姿の者はすぐ見つかるが、全てを相手にするには時間が足りない。
すると何処の勢力かは知らないが、遠目に身分の高そうな武士を見つけた。
直感だが、あれがこの勢力の総大将に違いないと判断した私は、慌てて進路変更する。
なお、途中でやたらと他の武将に絡まれたが、いちいち相手にするのも面倒なので、今は無視して逃げに徹するのだった。
足軽など物の数ではないので次々と薙ぎ倒していくと、やがて目的の人物と対面する。
「ようやく会えたわね!」
こちらの声を聞いた、椅子に腰掛けて軍配団扇を持った偉そうな武将が、驚愕に顔を歪ませた。
「女だとっ!? まさか! お主が織田美穂か!」
敵軍を中央突破できる女性など、そうは居ない。
眉唾ものの噂だろうと、私を織田美穂と特定するには十分であった。
すぐにぶん殴って気絶させては力を示すのも何もないので、まずは十メートルほど離れた位置で足を止める。
そして、不敵に笑いながら言葉をかけた。
「その通り! 私が織田美穂よ! 貴方も名乗ったらどうかしら!」
「武田信玄だ!」
何処かで聞いた覚えがあるが、歴史に詳しくないので思い出せなかった。
なので、取りあえずそれは置いておいて話を進める。
「降伏しなさい! 貴方たちに勝ち目はないわ!」
とにかく平伏させれば、わざわざ力を示す必要はない。
なので駄目元だろうと、ぶん殴るより前に降伏勧告を行った。
「降伏勧告か。しかし、それは立場が逆ではないか?」
確かに今の自分は足を止めて、多くの兵に完全に囲まれている。
さらに武田信玄が率いる武将たちも、彼を守ろうと前方に立ち塞がった。
「矢を放てっ!」
武田氏が軍配団扇を振ってそう言った瞬間、私を目がけて鋭い矢が、四方八方から雨のように降り注いだ。
普通の人間にはこれは避けられないし、武器や鎧で弾くにしても何本かは体に刺さるだろう。
なので、武田信玄はゆっくり息を吐いて安堵し、しばし目を閉じた。
そのすぐ後に、放たれた無数の矢が刺さった音が戦場に響き渡る。
先程まで彼の敵が居た場所には、もはや立っている者は誰もいなかった。
「……終わったか」
武田氏や周りの将兵たちは、針鼠のようになって地面に倒れ伏した私を想像したのかも知れない。
だが、そうはなっていなかった。
「何が終わったのかしら?」
人間の目では捉えられない速度で動いた私は、放たれた矢が自分に届くよりも先に、武田信玄の背後に回り込んでいたのだ。
「「「えっ?」」」
標的である自分が全くの無傷なことに、誰もが驚愕に顔を歪ませていた。
そして、信じられないものを見るような視線を、私に向ける。
「なっ! 何故……後ろに!?」
「空のように静かに構えて、雷よりも素早く動いただけよ」
ただ普通に回り込んだと言っても、説得力に欠ける。
そこで私は、適当に思いついた漫画の台詞を引用させてもらった。なお当たり前ではあるが、この言葉には意味も根拠も特にない。
しかし、武田信玄や他の者たちに与えた衝撃は大きく、誰もが驚きや恐怖に身を震わせていた。
「それでどうするのかしら? また矢を射かけてみる?
私は当然避けるけど、貴方は無理でしょうね」
今この位置で矢を放てば、彼だけでなく多くの将兵を巻き込むことになる。
避けられなくても、刀や槍で叩き落とすことはできるかも知れない。
だがそれをしたところで、無傷というわけにはいかない。
私としては力を示したので、そろそろ降参してくれるかなと考えていた。
しかし武田信玄は、まだ首を縦に振らなかった。
「確かに凄まじい速さだ! それでも! 人は雷にはなれん!」
どうやらまだやる気のようだ。
「はぁ、諦めが悪いわね」
私は呆れて溜息を吐いた。
武田氏が腰の刀に素早く手をかけると同時に、周りの武将たちが息の合った動きで勢い良く斬りかかってきた。
「まだ負けてはおらぬ!」
「ちいっ! 面倒ね!」
慌てて跳躍して、総大将から距離を取る。
そして弓矢や足軽では相手にならないと理解したのか、今度は腕利きの武将を揃えて周りを取り囲んだ。
「どれだけ素早かろうと、人間には活動限界がある!
動きが鈍ったところを仕留めるのだ!」
確かに人間ならば、長時間動くと疲れるのは当たり前だ。
それに全方位から休みなく斬りかかられたら、対応するのも一苦労だ。
武田信玄の作戦は理に適っている。
しかし一つだけ見落としているので、私はそこを指摘されてもらう。
「私は稲荷大明神様に、御加護を授けられてるのよ。
どれだけ動いても、全く疲れないんだけど」
織田陣営からここまで走ってきたのもおかしいが、なおかつ息一つ切らしてないのに気づかないものなのだろうか。
「見え透いた嘘を申すな!」
思いっきり否定されたが、私という特殊個体はこの世に一人だけだ。
今回が初遭遇なら致し方なしなのかも知れない。
何より常識ある普通の人なら、絶対に信じない。
ならばその幻想を打ち砕くべきだと考えた私は、呼吸を落ち着けて亀仙流の構えを取るのだった。




