綿花と食料
時は流れて天文十一年の秋になった。
最新の農具は実験や調整を何度も行っているが、やはり一朝一夕にはいかない。
だが、関わっている職人たちは確かな手応えを感じているようで、意気込みは非常に高い。
そして未完成でも作業効率が多少は上がるので、貸し出された村民は大喜びであった。
一方で私は米作りが一段落したので、林さんにお願いして父に話を通して、ある物を取り寄せてもらった。
「言われた通りに入手しましたが、これがそこまで重要なのですか?」
私は改築した借家の囲炉裏の前に座りながら、彼に手渡された巾着袋の中身を確認していく。
中に入っていた物を慎重に取り出して確認し、訝しげな表情でこちらを見つめる林さんに返答する。
「人は衣食住足りて、礼節を知ると言うわ」
「ふむ、管子の思想ですな」
多分だが学校で習って朧気に覚えていたが、誰が言ったのかは完全に忘れていた。
しかし林さんが言うなら、きっとそうなのだろう。
まあそれはともかく、戦国時代は生き地獄で衣食住が足りているとは言い辛い。だからこそ人の幸せを妬み、他国に攻め入って略奪し、自らの糧にするのだ。
私は林さんをじっと見つめて、説明を続ける。
「新農法が広まれば、尾張の民は飢えることはなくなるわ」
まだ成功するとは言い切れないが、村の者たちは確かな手応えを感じている。
なのでこのまま順調に進めば、食に関しては安定供給が可能になり、他国から奪う必要がなくなる。
「でも、衣と住を疎かにして良い理由にはならないわ」
「確かに、その通りでございますな」
食べなければ生きていけないが、残りの着る物と住む場所も大切だ。
林さんが同意してくれたので、私は続きを話していく。
「そこで、この綿花の出番よ」
「なるほど。しかし、これを手に入れるのには苦労しました」
三河の寺院や仏閣に銭を握らせて裏ルートから仕入れてきたらしいが、そういった事情はどうでもいいので、私は堂々と発言した。
「そもそも大陸からの輸入に頼りっきりって、私からすれば頭がおかしいとしか思えないわ」
だがこう言っておいて何だが、未来の綿花は隣の大陸に頼りきっている。
しかし今は、常に様々な物資が不足している戦国時代だ。
せめて生活必需品ぐらいは自国で生産しないと、とてもではないが領地経営が成り立たない。
そんな私の発言を聞いて、林さんが苦笑しながら返答する。
「はははっ、美穂様に言われては立つ瀬がありませんな」
「どういう意味よ!」
彼を追求しても煙に巻かれるのがオチなので、私は無駄なことはせずに、気を取り直して次の説明に移る。
「とにかく、綿花の種が手に入って関係者も数名引き抜けたわ。
あとはうちで量産するだけよ」
巾着袋は見本として渡されただけで、現実にはこれ以上の量を確保している。
あとは綿花生産の専門家に協力してもらい、早いところ栽培を始めたいものだ。
そこで私は、この種をどう使うのかを堂々と発言した、
「綿花の栽培が軌道に乗れば、尾張の民は冬の寒さに打ち勝てるわ!」
「素晴らしい! 綿花とはそれ程のものでございますか!」
褒められて少しだけ気分が良くなったが、結局綱渡りの人生からは抜け出せていないので、あまり調子に乗るのは不味いと自分を戒める。
だがここで私はあることに引っかかり、にこやかな笑顔でこちらを見つめる林さんに、おもむろに尋ねた。
「林さんも触れる機会ぐらいはあったでしょうし、木綿がどんな物かは知ってたのよね?」
「確かに知ってはおりますが、木綿は高級布地ですので」
未来では当たり前に普及している物が、過去では高級品だというのは良くあることだ。
別に珍しくはないのだが、これを聞いた私は思いっきり頭を抱えて大いに嘆く。
「これアカンやつだわ!」
持つ者と持たざる者で、埋めようのない差があるのは当然だ。
しかし上流階級の林さんですら、綿花で作られた服は普段使いできる物ではないらしい。
「美穂様、いかがされたのですか?」
私が頭を押さえていると、林さんが心配そうに声をかけてきた。
なので、溜息を吐きながら今思っていることを口に出した。
「この国の民が、日々を生き残ることしか考えられない現状を嘆いているのよ」
これを聞いた林さんは何かの冗談を受け取ったのか、笑いながら答えてくれた。
「いやいや、美穂様。私は明日や明後日のことも、しっかり考えておりますぞ」
すぐに林さんが自信満々に答えるが、私は到底信じられずに口を尖らせて反論する。
「だったら、何故綿花を量産しようとしなかったのかしら?」
綿花を取り寄せる時には少しだけ調べたが、かなり昔に日本に渡ってきて各地で栽培が行われていた。
しかし残念ながらあまり広まらず、林さんが言ったように特権階級の高級布地として使用されているのが現状だ。
「それは寺院や仏閣、または他の勢力が秘匿しているからでございます」
「情報はいつか漏れるし、大陸から頻繁に輸入しているのよ?」
私が管理している村は厳重な警備だが、それでも秘密はいつか漏れる。
何より綿花の歴史はかなり古いので、普通に考えれば量産体制を整えていても良いはずだ。
そして林さんはしばし思案して、別の理由を上げた。
「ならば、日々の食事にも事欠く有様でしたので致し方なかったのでしょうね」
実際には戦国時代は日々の食事にも事欠く有様なので、優先順位は食料よりも綿花のほうが下となり、嗜好品になるのも納得だ。
林さんの指摘を受けた私は、満足そうな表情を浮かべて深く頷く。
「私が言いたいのは、それよ!」
なお声だけは大きいが、足りない頭であれこれ考えたので、漫画的表現なら湯気が出そうで結構いっぱいいっぱいだ。
「田畑を耕しても必要数の食料が確保できないのに、綿花を量産するなんて無理でしょうね。
挙句の果てには、他国から奪って食いつないでるんだもの」
他国を侵略して腹を満たすの善悪はともかくとして、食料の生産が間に合わないので、それこそが唯一の解決策だと統治者も思い込んでいる。
結果的に、血で血を洗う何とも救いようのない生き地獄となっているので、大きな溜息を吐いた。
「はぁ、やっぱり私の存在って異質なのね」
「みっ、美穂様?」
「あー……大丈夫。ちょっと軽く落ち込んだだけよ」
私は深く考えずに、クヨクヨするぐらいなら行動あるのみの脳筋だ。
なので落ち込んでいたのは、ほんの一瞬だけで、すぐに気持ちを切り替えて顔を上げ、林さんを真っ直ぐに見つめる。
「一つだけ言えるのは、私は稲荷神様から授かった知識があるわ。
それはきっと、戦国乱世から逃れるための細い蜘蛛の糸。……だと思うの」
明らかに子供の発言ではないが、林さんは慣れている。それとも、馬鹿と天才は紙一重とでも言うべきか。
何にせよ稲荷神様の御加護があれば、食料自給率を上げて日本中が飢えずに済むかも知れない。やれるかどうかは知らないが、戦乱の世が終わるかどうかの瀬戸際なので、やってみる価値ありますぜだ。
それはともかく、私は姿勢を正して咳払いをして真面目な表情で彼に語りかけた。
「林さん」
何かを感じたのか、林さんも静かに背筋を伸ばして、次の言葉を黙って待つ。
「私は戦国乱世を終わらせるわ。手伝ってくれるかしら?」
「よろこんで! 地獄の果てまでお供致します!」
別に地獄まで付き合ってもらう気はないが、彼なりの決意表明なのだろう。
気持ちだけありがたく受け取った上で軽く咳払いをしてから、ありがとうと微笑みながら告げるのだった。
これまでは、稲荷神様に言われたので天下統一をしないといけない。そう考えていた。
しかし今は、生き地獄を終わらせたいと思うようになった。
僅かな心境の変化だし、やりたくない気持ちも大きい。
だが、行動しなければ永遠に終わらない可能性もある。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった、歴史に詳しくない私でも知っている偉人に任せるという手もあったのだが、もはや全てが正史通りに進むとは考えないほうが良いだろう。
もっとも歴史が赤点の私に、そのような上手い立ち回りや知略はないので、結局の所は成るようにしか成らない。
とにかく、今の所は全く道筋が見えて来ないもののたとえ一歩ずつでも天下統一に向けて進んでいけば良いと、心の中でこっそり気合を入れるのだった。