備中鍬
天文十一年に物差しの説明をしてからと言うもの、殆ど数日おきに吉法師が見学に来るようになった。
私が管理する村は古渡城下からそこまで離れていないので、馬を走らせれば割と早く到着する。なので、別に弟が顔を見に来ても不思議ではない。
父も推奨しているとは言え、自分の足りない頭では何処がどう役立つのかはわからないのだった。
そんな天文十一年、夏の終わりが近づいてきた頃、私は村の住人に混じって野良仕事中である。
そして今日は弟が見学に来ており、田んぼの畦道からこっちを興味深そうに覗いていた。
「あのさ、吉法師は暇なの?」
どうにも弟の視線が気になったが仕事を疎かにはできないので、手に持った鍬を地面に振り下ろしながら対応する。
「将来のために姉上の仕事ぶりを見学するようにと、父上が申したからのうじゃ」
「ああ、反面教師ってやつね」
前もそんなことを言っていたが、私のしていることは農民や職人の真似事なので、織田家の次期当主に役立つかは微妙なところだ。
そんなことは露知らず、せっせと土を掘り返す私に吉法師が首を傾げながら尋ねてきた。
「それより、姉上は何をしておるのじゃ?」
「見てわからないかしら?」
「農民と一緒に、土を耕しているように見えるのう」
吉法師の言葉通りに、今の私は新しい農具である備中鍬を振るい、せっせと地面を耕していた。
ぶっちゃけ手で掘ったほうが早いし、力を入れすぎて道具が壊れることもない。
それでも今回のように手加減して道具を使い、土を掘ることで得るものがある。なので、はっきりと説明する。
「新しい道具は実際に使わないと、明確な改善点は見えてこないものよ」
「ふむ、一理ありじゃな」
だからと言って民百姓に混じって荒れ地を開墾することもないが、ずっと家や工房に籠もりっぱなしだと気が滅入ってくるため、たまには外に出て体を動かしたいのだ。
そして私は、何となく思い浮かんだ言葉を口に出した。
「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、誉めてやらねば、人は動かじよ」
「姉上、その言葉は?」
吉法師の質問を受けても、特にこれと言った理由などなかった。
「今の状況を表す言葉、……かしらね」
「なるほど、真理じゃのう」
自分でも何処で覚えたかよくわからない言葉だが、吉法師の言う通りだと思った。
ただ、私が常日頃から心がけているかと言うと首を傾げたくなるし、行き当たりばったりに行動した結果、そうなっているだけだ。
「ところで、その鍬が新作なのはわかるが、名前はあるのか?」
弟に先端が四つに分かれた鍬の名称を聞かれたので、あらかじめ考えていた名前を言葉にする。
「備中鍬よ」
これは未来のホームセンターで何度か見たことがあるので、私はそれを深く考えずに口に出した。
だがこれで終わりではなく、弟はさらに追求してくる。
「何故、備中なのじゃ?」
「そんなの知らないわ」
私が正直に答えると弟は何とも言えない顔になるが、名前の由来については本当に知らなかった。見たことがあるし構造も単純なので、再現が比較的容易だったから作っただけだ。
それでも相当数の試行錯誤が必要になるが、今は関係ないので置いておく。
そして理由を言えないのは不味いので、コホンと咳払いをしてから開き直って言い訳を口にする。
「稲荷神様のお考えは、人の身では到底理解しきれるものではないわ」
「はぁ、さもありなん」
吉法師も思わず溜息を吐いた。神様のすることだからと何とも強引な言い訳だが、これには納得せざるを得ないはずだ。
ようは備中鍬の名前の由来には、山よりも高く海よりも深い理由があり、人の身では到底わかるものではないのだ。
戦国時代は神仏を普通に信じているからこそ通じるのだが、私の場合は実際に御加護を授かっているので多少不自然でも納得せざるを得なかった。
なお、使いすぎるとありがたみは薄れるが、言い訳に困ったら稲荷神様を前面に押し出すのは、大変便利であった。
その後も私はしばらくせっせと土を耕していたが、弟は何かを思ったのか、近くにいた農民におもむろに声をかけた。
「悪いが、少し借りるぞ」
「えっ? あっ、はい」
突然話しかけられて困惑する農民から備中鍬を借りて、楽しそうに笑いながら私の隣まで歩いてくる。
「吉法師、汚れちゃうわよ」
「まあ、たまには良いじゃろう」
全く気にしていないのか、弟は何処か開き直ったように軽快に笑いながら答えを返す。
「それじゃ、お母様からうつけと呼ばれるわよ」
「問題ない。うつけは姉上……あいたっ!」
カチンと来た私は、備中鍬を地面に置いて汚れた手を木綿の服で簡単に拭ってから、弟の頭を軽く叩く。
このやり取りも慣れたもので、農民と違って護衛たちは誰一人動揺せずに役割に徹していた。
「相変わらず、一言多いわよ」
耕すのにも飽きてきたので一息入れようと思っていたところだ。気軽に話せる弟がやって来たのは、ちょうど良いと言える。
「それにしても巡回の兵なんて、いつの間に雇ったのかしら?」
見回りの兵が定期的に村内を歩き回っているようで、今も田んぼの畦道からこちらの様子を伺っているが、敵意はないし林さんは心配しなくて良いと言っていた。
私は普段、家か工房のどちらに引き篭もって作業に没頭しているの気づかなかったが、久しぶりに外に出て初めて知ったのだ。
「何じゃ、姉上は知らぬのか?」
周りを眺めながら漏らした一言に、吉法師が反応する。
私がはてと首を傾げるのを見ると、彼は勿体つけることもなく丁寧に説明してくれた。
「報告を受けた父上が、姉上の管理する村を特区に指定したのじゃ」
特区とは何ぞやと疑問に思った私に、弟が続きを話してくれた。
「尾張内で特に重要な地区じゃ。兵を巡回させるだけではなく、近々高い壁で囲むらしいぞ」
「へえ、そうなのね」
織田信秀の娘が武家屋敷から外に出ていると知られれば、拉致や殺害の危険もある。
しかし華奢な見た目とは裏腹に、腕っぷしには自信があるので、狼藉者が来ても一人残らず返り討ちにしてやるつもりだ。
「全く、お父様は過保護ね」
「いや、姉上ではなく、村が特別という意味じゃぞ」
新しい道具の数々を隠す目的であった。少しぐらい娘の心配をして欲しかった。
先程とは打って変わって不満そうに頬を膨らませる姉を見て、弟は溜息を吐いてすぐに的確なツッコミを入れてくる。
「第一、姉上は熊を素手で倒せる……あいたっ!」
「吉法師は懲りないわね」
先程から姉を女の子扱いしない血も涙もない弟で、懲りる気配がまったくない。
カチンと来たが頭をペチンやられることぐらい、賢い吉法師ならわかっているはずだ。
うっかり口に出すのもわからなくはないが、今日はやけに突っかかってくる。
そこで私は、何故だろうと考えて一つだけ思い出した。
それは天文五年に、母が男児を生んだことだ。
彼女は新しい赤子を殊の外可愛がり、私はともかく吉法師まで完全に育児放棄状態になった。
自分は御加護が抑制されていても、根っこは元女子高生だ。持ち前のボッチ耐性で乗り越えられるが、まだ物心もろくについていない弟は違う。
乳母はいるが身分差で壁ができてしまい、何より実母ではない。
なので寂しそうにしている彼をどうにも放っておけないと思い、姉として弟の世話を焼くのは当然と言える。
そのせいで幼い頃からいつも一緒で、家臣や領民には二人合わせてワンセットだと思われている。
ただ最近は、顔を合わせれば弟に悪影響がでると母が毎度説教するので、吉法師には父の仕事ぶりを良く勉強するようにと、姉離れという独り立ちを命じたのであった。
そういった過去の出来事を考えれば、弟がやけに構ってくるのも納得というものだ。
「吉法師はさ」
「何じゃ?」
私は嘘をつけないし、隠し事をするのも苦手だ。
なので思ったことをそのまま口に出すのも、珍しくはない。
「私と離れて寂しいの?」
「さっ、寂しがってなどおらぬ!」
ムキになって大声で否定したのが動かぬ証拠であった。
そして戦国時代は未来とは違い、平均寿命からか成人するのが早い。
だからと言って子供が独り立ちしたがっているかと聞かれると、別にそんなことはない。
「まあ、吉法師が否定するなら別に良いわ」
私は弟をなだめながら、落ち着いて続きを話す。
「でも、無理だけはしちゃ駄目よ」
私は土を落とした手を、吉法師の頭の上にそっと乗せる。
そして優し気な微笑みを浮かべて、髪を撫でた。
「愚痴や悩みがあったら、いつでも聞くわ。
だって私は、吉法師の姉だからね」
「……姉上」
そう言って吉法師は、頭に置かれた私の手を恥ずかしそうに退けた。
弟を突き放したのは自分だし、それを棚に上げて我ながら酷いことを言っている自覚はある。
しかし、いつまでも姉離れできない織田家の次期当主では、私と同じでうつけ呼ばわりされてしまう。
ならば多少強引にでも、お互いに距離を取る必要はあったのではないか。今はそう思っていた。
そして弟は備中鍬を近くの農民に返却し、背を向けてゆっくり離れて行った。
「あれ? 耕さないの?」
「用事を思い出したゆえ、古渡に帰らせてもらう」
吉法師は田んぼの畦道で護衛と合流し、何かを思い出したのか私に言葉をかける。
「姉上、また来て良いか?」
「ええ、いつでもどうぞ」
背を向けたままで尋ねてきた弟に対して、反射的に返答する。
「世話になった。失礼する」
「うん、またね」
吉法師の表情はわからないが、きっと数日後にまた来るだろう。
私は連日大忙しで休息を取る暇がないが、弟が来た時は自然な流れで一休みできる。
仕事にメリハリをつけるのは良いことだ。
そして彼が帰ったことで私はまた備中鍬を手に持ち、せっせと土を耕して農具の改善点を洗い出すのだった。