別れ
京の都で色々あった。
しかし、天文二十年の夏にようやく尾張への帰路についた。
征夷大将軍を立て直すのは三好氏に任せたので、織田家は裏から支えるのに尽力するのだ。たとえナンバー2だろうと、一応は達成したことになるだろう。
とにかく私はこれで、ようやく平穏な日常に戻れると思っていた。
そしてあと半日も進めば尾張に入る頃に、街道の向こうから早馬がこちらに向かっていることに気づいた。
百人の精鋭は先に帰したので、お供は林さんと銀子だけだ。
なので、三人は油断なく何者かの様子を伺い、警戒を続ける。
彼がある程度の距離まで近づいたところで、正体不明な大柄な男は大声をあげた。
「織田美穂殿は! 何処におられるか!」
いきなりの指名だが、冷静に対応する。
尾張では自分は有名人なので、周辺諸国でも知られておかしくないのだ。
「織田美穂は私よ。あと、取りあえず落ち着きなさい」
早馬に乗った屈強な侍が息を切らせていたので、一旦落ち着くように声をかける。
さらにお供の銀子に、敵意はないようなので水を飲ませるようにと指示を出した。
「これは、かたじけのうござる!」
彼が竹筒に入った水を飲み終わるのを、じっと待つ。
するとその男は、あることに気づいて馬を降り、深々と頭を下げた。
「拙者、柴田勝家と申す者でござる!
美穂様には、今すぐ尾張にお戻りいただきたく思い、居ても立っても居られずお伝えに参った次第でございます!」
柴田勝家と名乗った侍は、家臣の一人だ。
しかし、全員の顔と名前を暗記するのはとても難しいので、私としては多分そうじゃないかなと思うぐらいであった。
「何があったの?」
取りあえずは味方の認識で、話を進めていく。
「この場での回答は、差し控えさせていただきとうござる!」
ならば、余程重要な用件なのだろう。
周りに敵が潜んで聞き耳を立てているかも知れない街道で、堂々と話すのは不味い。
今から索敵するより現場に行ったほうが手っ取り早いと判断した私は、馬を降りて柴田氏に声をかける。
「柴田は、帰りは私の馬を使いなさい」
彼は地面に膝をついて深々と頭を下げている。
なので身分差は圧倒的であり、同格や目上のように殿や様を付けるのは失礼と判断した。
「しかし! それでは美穂様が!」
「馬より早く走れるし、問題ないわ」
そう言いながら、念の為に簡単な準備運動をして体をほぐす。
彼が乗ってきた馬は息も絶え絶えで、かなり無理をさせたのがわかる。きっとこれ以上酷使したら、道中で倒れてしまうだろう。
「柴田に案内してもらうわ。
銀子と林さんは彼の馬を連れて、後から来てちょうだい」
最後にぐいーっと伸びをしてから、二人に声をかけた。
「了解致しました!」
「美穂様! お気をつけて!」
銀子と林さんはすぐに返事をしたが、柴田勝家は戸惑っていた。
だがやがて覚悟を決めたのか、私の馬に飛び乗り、手綱を掴む。
「案内をよろしく頼むわね」
「ははっ! お任せを!」
柴田に先頭を走ってもらい、私は息一つ切らすことなく、忍者走りでピッタリ追従する。
そして日が暮れる前に尾張に入り、目的地である末森城の城下町に到着したのだった。
私は柴田氏に案内されて、武家屋敷の正門を通った。
しかし、何の感情も浮かんでない顔で屋内に上がり、廊下を歩く。
あまりにも衝撃的すぎて、どう受け止めたら良いのか判断がつかなかったのだ。
やがて襖が取り払われて、大広間となった部屋に辿り着く。
そこには白い喪服を着た大勢の人々が集まっており、皆が沈痛な表情をしていた。
悲しそうな顔で、涙を流している者も居る。
なお未来の日本では喪服と言えばほぼ黒で統一されているが、今の時代は白が主流のようだ。
そんな余計なことを考えて意識をそらしたものの、現実は本当に残酷であった。
大広間の一番奥には棺が安置されていて、今は蓋が開いているようだ。
「……お父様」
他の参列者よりも遅れて静かに大広間に入った私は、ゆっくりと歩みを進める。
上洛する前から体調が悪いのはわかっていたが、まさかこんなに早く亡くなるとは思わなかった。
武家屋敷に着いてから柴田勝家に事情を聞いたが、書類仕事をしている時に突然苦しそうに呻いて胸を押さえて、そのまま亡くなったらしい。
仕事の量が増えて、不規則な生活を余儀なくされたことと、精神的な重圧。
他にも様々な要因があるだろうが、それらが積もり積もって心筋梗塞に繋がった。
未来の家庭の医学を学んだ尾張の医者は、そのような結論を出した。
私は父が収められている棺に向かうため、喪服を着た弟の前を通った時におもむろに声をかけられた。
「姉上、来たか」
「……信長。元気だったかしら?」
特に意味のないやり取りだが、良く知っている顔を見られて少しだけホッとする。
「まあな。姉上も元気そうで何よりじゃ」
弟は大丈夫そうなのを見て、安心した。
しかしここで、私の耳にある言葉が入ってきた。
「亡くなったその日ではなく、火葬の直前に参列されるとは──」
稲荷神様の御加護は五感も鋭くなる。
なので意識して制御しないと、たとえ小声であろうと聞きたくもないことを拾ってしまうのだ。
「ここまで遅かったのは、また遊び歩いておられたのだろう」
「葬儀の場に相応しい喪服とは思えぬ。これでは大殿も浮かばれぬわ」
尾張は私の故郷なのに、酷い言われように両手を固く握りしめる。
しかし、彼らの言うこともある意味では正しかった。
もし父の容態が急変したことを知れば、京の都からののんびりペースではなく、それこそ全力疾走で帰ってきていた。
だがそれを説明しても、言い訳にしか聞こえない。
こっちが惨めになるぐらいなら、黙っているほうがマシだ。
「姉上、ここは儂が──」
弟にもヒソヒソ話が聞こえてしまったようで、顔を赤くして憤っているのがわかる。
「いいのよ。何も言わないでちょうだい」
「しかしだな!」
だが私は首を振って、弟を止める。
そして一番奥の棺に、真っ直ぐ近づいていった。
「彼らの言うことも一理あるわ」
声が上がっているのは極一部だけだ。
多くの者は、私の事情を良くわかってくれていた。
それに今は父の葬儀の最中であり、こんな場所で乱闘騒ぎを起こしたら、それこそ恥の上塗りだ。
とにかく棺まで行き、上から覗き込むと父の死に顔は安らかであった。
「お父様。織田美穂、ただ今戻りました」
葬儀の関係者が取り計らったのだろうが、苦しんで死んだようには見えないのは救いだった。
「遅くなってしまい、申し訳ありません」
そう姿勢を正して報告し、深々と頭を下げる。
できれば直接会って報告して、父に褒めてもらいたかった。
なので私は、京の都であったことを淡々と語っていく。
「足利義輝様は、無事に京の都に戻られました。
そして三好長慶殿と織田家の同盟も結ばれたのです」
私が一方的に話しているだけなので、父からのお褒めの言葉はない。
そして、聞いているはずの大広間の者たちも沈黙している。
「二人は私を新たな大樹にしたいようですが、自分には到底務まるとは思えません」
これは帰路につく直前なので、報告はしていなかった。
なので初めて口に出したが、大広間にどよめきが広まった。
だが涙が止めどなくこぼれ落ちて、後半は鼻声になっている私は、そんな些細なことには気づかなかった。
なお、その後も胸の内に留めていたことを暴露しては、周りの者に驚かれた。
しかし父の死によって精神的なタガが外れた今、もはや関係はなかったのだった。




