花の御所
天文二十年の春、朝廷への拝謁を済ませた私は、すぐに尾張に帰るつもりだった。
しかし、そこで三好長慶が織田家との同盟の返事が届くまでは、京の都に留まるようにと引き止めてきた。
私が上洛した目的は、征夷大将軍と朝廷への拝謁だし、それは既に果たされている。
これ以上の面倒には付き合いたくはないが、相手は近畿一帯を支配する大名だ。
なので滞在期間が少し伸びるぐらいなら良いかと考えて、父である織田信秀の返事が届くまでの条件で、適当に承諾したのだった。
京の都の伏見稲荷大社は、私の下宿先だ。
普段はそこでのんびりしているが、最近はかなり頻繁に呼び出されている。
それは、三好長慶か足利義輝のほぼ二択ではある。
父からの文が届くまでは割と暇ではあるが、わざわざ仕事をしたいとは言ってない。
だが茶飲み話にも呼ばれるので、正直訳が分からなかった。
そんな暇なような忙しいような良くわからない日々を過ごしているうちに、時は流れて天文二十年の夏になり、今日は花の御所に呼び出された。
可愛らしい名前がついているが、足利将軍家の邸宅の通称だ。
私は京の都の大通りをのんびりと歩きながら周りを見回していると、三好長慶が自分の意見を取り入れて衛生管理と治安維持に尽力してくれたおかげで、去年と比べると治安が安定して格段に過ごしやすくなったと実感する。
やがて花の御所に到着した私は、立派な正門の前に居る顔馴染みになった守兵に、用件を告げて奥に通してもらう。
そして入り口で履物を脱ぎ、邸宅に上がった。
道も覚えているので、通い慣れた長い廊下を歩いて、ある部屋の前で足を止める。
「織田美穂よ」
「おお、参ったか! 中に入ってくれ!」
挨拶もそこそこにして、私は襖を開けて室内に入る。
すると返事をした征夷大将軍だけでなく、三好長慶も同席していることに気づく。
「美穂殿、そこまで嫌わずとも良かろう」
彼は何となく苦手なタイプなので、顔に出やすい自分は露骨に顔をしかめてしまっていた。
「嫌ってないわ。でも、苦手なのよ」
猫を被っていないのは、会話の途中で十中八九で剥がれてしまうからだ。
あとは、足利義輝と三好長慶も、素のままが良いと許可したのもあった。
私もそっちのほうが気楽なので別に構わないが、あらかじめ用意してあった円座に腰を下ろした。
「それで、今日は何の用かしら?」
事あるごとに呼びつけるので、すっかり慣れっこになってしまった。
そのすぐ後に、別に嬉しくはないけどと、心の中で溜息を吐く。
すると三好氏が、顎髭を弄りながら口を開いた。
「実はな。六角家への対処を、相談したいのだが」
六角家は三好家と長年争っている大名であり、足利家も庇護していた。
決して油断できる相手ではないし、少し前までは征夷大将軍を囲い込んでいたので、敵対関係と言っても過言ではない。
何となく理解はできたものの納得はできないので、私は渋い顔になる。
「それって、私に聞くことかしら?」
ついでに私は、六角家が庇護していた大樹を横から掻っ攫った。
足利氏が事前に話を通していたとはいえ、相性が良いとは思えなかった。
だが彼はそのことを全く気にせず、説明を続ける。
「六角家から、和睦の使者が来たのだ」
征夷大将軍が納得して三好に下ったので、六角氏としては複雑な心境だろう。
「今は将軍様は京の都におられるし、管領であった細川晴元も排除した。
ゆえに、政敵としての力も大きく削がれたのだろう」
征夷大将軍を庇護することで、大義名分を得ていたのが六角氏だ。
しかし今は、三好長慶がその神輿を担いでいる。
このような、権威の奪い合いはよくあることなので、私は思ったことをそのまま口に出す。
「だったら、和睦すれば良いんじゃない」
深く考えていない、率直な意見だ。
六角家と言われても興味もなくよくわからないので、判断のしようがなかった。
「争うよりも仲良くしたほうが、良いに決まってるわ」
「理屈の上では、その通りなのだがな」
三好長慶は顎髭を弄りながら、何やら思案している。
「美穂殿は、思うところはないのか?」
聞かれて自分もうーんと唸るが、やはり別に何とも思わなかった。
「私は六角家とあまり関わりはないし、意見を求められてもね」
ついでに三好長慶や足利義輝とも、ごく最近まで殆ど関係はなかった。
その割には二人共やけにグイグイ来るので、こっちとしては正直勘弁してもらいたい。
それはそれとして、彼はコホンと咳払いをして話題を変える。
「話は変わるが、普通はもっと目上の者に媚びへつらうものであろう?」
三好氏は強国の大名で、足利氏は征夷大将軍だ。
どちらも目上であるが、私は素のままで喋っている。
「それが望みなら、猫を被るけど?」
許可をしたのは向こうなので、取り消すのも自由だ。
私はどちらでも構わないため、何となく尋ねてみた。
「すぐに素が出るし、本音で語ったほうが気楽だ。そのままで構わん」
「でしょうね」
私が猫を被ったところで、すぐに剥がれてしまう。
三好氏が言うことは一理あるし、付き合いが長くなったからか、素で話さないと落ち着かないという有様であった。
「それに、持ち上げられるのは疲れるものだ」
「わかるわ」
「同意だ」
三者三様ではあるが、それぞれ神輿として担がれている。
私も稲荷大明神様の化身を自称しているし、伏見稲荷大社の信者からワッショイワッショイされるのは良くあることだ。
そのため、人払いをした密談の場を設けて、特に用もないのに集まって駄弁る。
未来で言うところの、身内限定の気楽なチャットルームでストレス解消に近いかも知れない。
「まあ私は、その気になれば個室に引き籠もれるけどね」
いざとなれば天岩戸のように、尾張に帰るまで伏見稲荷大社に引き籠もれば良いのだ。
「羨ましいのう。我は毎日公務に追われておるぞ」
足利将軍が溜息を吐きながら、本当に羨ましそうに私を見つめる。
「暇ならば、三好家への仕官にするつもりはないか? 高待遇で歓迎するぞ」
三好氏の勧誘を、私は首を振ってすぐに断った。
「これ以上仕事を増やしたくないし、遠慮しておくわ」
だが、長期休暇もそろそろ終わりそうだ。
この場に近づいてくる足音を聞いて、そう感じた。
「お話中、失礼致します」
やけに静かな足音から予想はしていたが、声を聞いて誰かがはっきりした。
「何かしら? 銀子」
「織田信秀様から、お返事が届きました。如何致しましょう?」
取りあえず私は、襖の向こうから話しかけてきている銀子に声をかける。
「文の内容は予想がつくし、見られても困らないわ。だから、銀子も入って来なさい」
そうはっきりと伝えるのだった。




