決意
生身の人間ではありえない速度で疾走し続けた私は、木曽川を渡り始めている織田軍に何とか追いつけた。
そこは最初に通った時と同じで、大人の腰ほどしか水深がなかった。
これは不味いと思った私は、走りながら大声で呼びかける。
「お父様!」
「美穂か? そっ、その変わり果てた姿は! 一体何があったのだ!?」
父は馬で浅瀬を渡っており、私のほうに顔を向けて驚いていた。
ついでに周りの兵たちの視線も、突然現れた自分に集中しているのがわかる。
織田軍に追いつくために、山道を通らずに殆ど一直線に突っ切ってきたので、怪我はないが枝葉に引っかかって服が破れてしまい、今はボロ布同然になっている。
だが、今はそんなことは関係ない。重要なことではなかった。
「今すぐ木曽川から離れなさい!
斎藤道三の罠よ!」
悠長に説明している暇はない。
私は取り繕うこともなく、短くそれだけ伝える。
父は周囲を見回した後に足元に視線を向けて、例年よりも水深が浅いことを不審に感じて、大声で命令を出した。
「木曽川を急いで渡りきるのだ!
半ばまで来ておらぬ者は引き返し、川辺から離れよ!」
察しの良い将兵は父の命令で合点がいったのか、揃って青い顔に変わる。
それでも表面上は冷静さを保とうととして、列を乱すことなく慎重に急いで渡りきろうとした。
だが中には焦って転ぶ者や、ぬかるみに足を取られて思うように進めない者も居る。
さらに列を乱してでも、自分だけ逃げ延びようとしたりと、混乱が広がっていた。
何より残念ながら、私が危機を伝えても時既に遅しであった。
御加護で強化された聴覚が、上流から勢い良く音を捉えたのだ。
川辺に居た者は退避が間に合ったが、既に水の中に入っている者は思うように歩けず、明らかに動きが鈍い。
(……仕方ないわね)
この期に及んでは逃げる時間もないと察した私は、賭けに出ることにした。
織田軍の上流に向かって跳躍して、水面から突き出ている大岩を背にするように着水する。
そしてそれを見た父が、焦った表情で大声を出した。
「美穂! 何をする気だ!」
「濁流を食い止めるのよ!」
私は父に背を向けたまま答えを返す。
「馬鹿な真似を止めろ! 美穂だけでも生き延びるのだ!」
既に濁流は織田軍の目に見えるほど近くまで迫っており、誰もが絶望に体を震わせて、それでも死から逃れるためにもがいていた。
「馬鹿な真似は承知の上よ!」
自分の頭が悪いことは、百も承知だ。
濁流を食い止めるなど不可能かも知れないし、もっと別の手があったかもとは思う。
しかし私には、これしかできないのだ。
なので、ヤケクソ気味に大声で叫んだ。
「それでも! 守りたい領民がいるのよ!」
何処かのロボットアニメのような台詞だが、実際に口にした私は必死であった。
いくら怪我や病気では死なないとはいえ、濁流に飲み込まれて窒息すれば、きっと無事ではいられないだろう。
しかし、やらずに後悔するよりは、駄目で元々だろうとやってみる価値ありますぜだ。
それで死ぬことになっても、家族や領民を守るためなら仕方ないと受け入れられた。
(私が皆を殺したのよ! だから! これ以上は死なせてたまるか!)
いくら織田家と尾張を守るためとはいえ、美濃の蝮と内通して大勢の犠牲者を出した。
被害を抑えるように立ち回ったとはいえ、罪悪感は決して消えない。
「領民のために命を張れない者が! 天下統一を為せるものですかっ!!!」
私は大声で叫びながら、眼前まで迫った濁流を全力で殴りつけた。
一発で駄目なら二発、それでも止まらなければ三発と、目にも留まらぬ速さであった。
今の自分の心を占めているのは、こんなクソッタレな策を考えた斎藤道三をぶん殴りたいという、純粋な怒りだ。
家族や領民を守りたい気持ちはあるが、元々が喧嘩っ早い性格のためか、すぐに何処か行っていってしまった。
「斎藤道三! 絶対にぶん殴るわ!」
恐怖を怒りで塗り潰して、とにかく目の前の濁流を殴り続ける。
人間離れした速度と力を持った拳は、叩きつけるたびに強烈な衝撃波を生み出して、迫りくる分厚い水の壁を容赦なく吹き飛ばしていったのだった。
どれぐらい時間が経ったのか、私は川の流れがいつの間にか緩やかになっていることに気づいた。
辺りが静かになったので、殴るのを止めて周りを見回す。
すると辺り一面が水浸しで、それどころか岩や木や泥といった色んな物が飛び散っている。
まるで巨大な竜巻に襲われたかのような、酷い有様だ。
何とか阻止できたことに緊張の糸が解けて、何とかなって良かったと口に出す前に、私のお腹の虫が鳴った。
「はぁ、……お腹が空いたわね」
食事の直前に飛び出してきたので、自分が空腹だったことを思い出したのだ。
すると背後から、父が声をかけてきたのでそちらを向く。
「美穂のおかげで、儂も皆も無事だ」
「それは、何よりね」
振り向きながら返事をした私は、空腹のあまり足腰に力が入らなかった。
なのでバランスを崩して、仰向けに横転してしまった。
「美穂様!?」
「いかん! 急ぎ美穂様を引き上げるのだ!」
「命を賭けて我らをお救いくださったのだ! 絶対に死なせてはならぬぞ!」
織田軍を罠に嵌めて撤退に追い込み、尾張を守って犠牲を減らすためとはいえ、私は皆に酷いことをした。
そしてそんな自分が、濁流から多くの者を守った。
ボロ布を身にまとって水面に仰向けに浮かびながら、自業自得でも現実の目のあたりにした私は、とうとう良心の呵責に耐えられなくなった。
なので、半ばヤケになって大声で叫んだ。
「あーあ! これで天下統一から逃げられなくなったわ!」
美濃攻めで失われた多くの命が無駄ではなかったことを証明するためにも、天下を統一して戦乱の世を終わらせなければいけない。
「本当にどうしてくれるのよ! まったく!」
そうでなければ、私を慕ってくれる者や信じて付いて来てくれる家臣、そしてこれまで従わせてきた領民たちに申し訳が立たない。
一生後ろめたい気持ちを背負ったまま生きていくのは嫌なので、せめて自分が亡くなる前には打ち明けて、罪悪感から解放されたかった。
空腹で泳ぐのが億劫になった私は、ボロ泣きしながら強くそう決意したのだった。
織田軍は被害をあまり受けずに尾張に撤退したが、将兵を失ったことには違いなく、軍を再編成したり回復に時間を費やすことなった。
また、戦を強行した他の織田家や家臣たちは責任を追及され、発言力が大きく低下した。
だがこのおかげで、濁流を押し戻して斎藤道三の策略を打ち破った私の求心力が大幅に増した。
さらに父である織田信秀は采配が評価され、名実ともに尾張の統治者となったのだった。
それから時は流れて、天文十六年になった。
尾張の国力は元通りに回復するどころか、凄まじい速度で成長していった。
しかし周辺諸国が危機感を抱いたのか、忍びの情報から戦が近いことを知る。
できれば上洛を果たすまでは内政に注力したいところだが、それでも放っておいてはくれなさそうだ。
そろそろ面倒事が起きそうな予感を、私はヒシヒシと感じるのだった。




