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的当て

仁木長政にっきながまさ

 林秀貞はやしひでさだ殿や美穂殿の護衛たちが証書を確認したあと、私たちは遊戯を行うために城外へと移動した。


 そして六角氏ろっかくし北畠家きたばたけけの派閥の者が、弓の訓練で使用していた的を借りに行く。


 その間に私たちは正門から城下町に出て、見通しの良い場所の足元に丸い円を描いた。

 美穂殿は内部から外に向かって投げるようで、この位置から見える所に的を配置するのが決まりとのことだ。




 六角氏ろっかくし北畠家きたばたけけの派閥の者は、証人は一人でも多いほうが、後々の賠償や契約で優位な立場になる。

 そして民衆も美穂殿が負けて恥をかく姿を見たいのだと、嫌らしい笑みを浮かべて口にしていた。


 後半はともかくとして前半は納得できたので許可したが、彼らの主張は伊賀国いがのくにが勝利した場合のみに当てはまることを、すっかり忘れているようだ。

 だがしかし、普通にやればどう転んでも負けはないので、ある意味当然かも知れない。




 とにかく織田と雇用契約を結ぶなど、もってのほかだと考えている。

 そんな六角氏ろっかくし北畠家きたばたけけの派閥の者たちは的を手に持ったまま、正門の近くで何かを相談していた。


 美穂殿はただ待っているのも退屈なようで、遊戯に備えて軽く体をほぐしていると、年若い女中が緊張しながら、竹筒を持って、彼女に近づいてきた。


「美穂様、喉が乾いていらっしゃいましたら、こっ……こちらをどうぞ」


 護衛が止めるのも聞かずに、震えながら竹の水筒を差し出すのは明らかに不自然だ。

 私も全ての女中を知っているわけではないが、彼女の顔には見覚えがあった。


 六角氏ろっかくし北畠家きたばたけけ、そのどちらかの派閥の武家屋敷で見かけた気がしたのだ。




 何にせよ怪しい者を彼女に近づかせるわけにはいかず、林殿と同じように若い女中を止めようとする。

 だが美穂殿は、護衛を押し退けて自ら前に出て来た。

 そして竹筒を受け取るだけでなく、彼女を安心させるように、にこやかに微笑みかけたのだ。


「せっかくの善意を、断るわけにもいきません。ありがたくいただきましょう」


 慌てる私や護衛たちなど、まるで見えていないかのように、躊躇うことなく竹筒に口をつけた。

 しかも、それを一気に飲み干してしまった。


「ぷはぁ! やっぱりお酒だったわね! 毒よりはマシだし、別にいいけど!」


 いきなり態度が一変したことに驚きながらも、尾張のお転婆姫という呼び名を持っているのだ。

 ならば、こちらが本来の美穂殿なのだと、周りの者たちはすぐに察した。


 だが、今はそれどころではない。

 竹の水筒を差し出した女中が何かをする前に、護衛や家臣に命じてすぐに捕らえさせて、私は怒りで顔を赤くしながら尋問を行う。


「何故、美穂殿に酒を飲ませたのだ!」

「もっ、申し訳ございません!」


 若い女中は青い顔をして涙を流し、ひたすら平謝りするだけだ。

 しかし彼女が答えを口にしなくても、私には容易に予想がついた。


六角氏ろっかくしか! それとも北畠家きたばたけけの派閥の者に命じられたのであろう!」


 どちらかの派閥が女中を脅迫し、美穂殿に酒を飲ませたのは間違いないと言える。


 確かに、勝負の前に酒を飲んではいけないという決まりはない。

 だが、美穂殿が要求したならまだしも、彼女は故意に飲ませたのだ。


 これは断じて許されることではないと考えて、私は女中に処罰を下そうとした。

 その瞬間、何故か罠にかけられた当人から待ったをかけられた。


仁木にっき様、その娘を許してあげてよ」

「しかしだな!」


 私は反論しようとする前に、大勢の者に取り押さえられて小さく震える女中に、美穂殿は呑気に近づいていく。


「脅されて、仕方なくやったんでしょう?」

「本当に! 申し訳ございませんでした!」


 不自由な姿勢でも、何とか頭を地面に擦りつけるほど深く下げて謝罪する女中である。

 そして美穂殿は優しく微笑みかけて、彼女の肩にそっと手を置いた。


「謝らなくて良いわ。

 どれだけの酒を飲んでも、私の勝利は揺るがないもの」

「「「えっ?」」」


 これには私や酒を飲ませた女中だけでなく、周囲で一連のやり取りを聞いていた者たちも皆、唖然としてしまう。


「私も、ちょうどお酒を飲みたいと思ってたのよ。

 だから、彼女を自由にしてあげてちょうだい」

「むう、……美穂殿がそう申されるのならば」


 何とも釈然としないが、私は大きく溜息を吐いて女中を自由にするようにと伝える。だが、あくまで拘束を解いただけだ。囲みはそのままで逃さないようにする。

 遊戯を妨害した罪は消えないし、後々使えるかも知れない以上、みすみす自由にするわけにはいかない。




 こっちは一悶着あったが、何とか落ち着きを取り戻した頃に、目標となる的を設置し終えた六角氏ろっかくし北畠家きたばたけけの派閥の者たちが、嫌らしい笑みを浮かべて近づいてきた。


「少々手間取ったが、的を固定したぞ」

「勝負の前に飲酒とは、景気づけのつもりか? 随分と余裕だな」

「あれだけ大見得を切ったのだ。これで負けたらお笑い草だぞ」


 酒を飲ませるように命令したのは、自分たちだと言っているようなものだった。

 しかしここで糾弾すれば、伊賀国いがのくにが本当に三つに割れかねない。


 守護代として心底情けないと内心で溜息を吐きながら、私は美穂殿を見つめる。


 すると彼女は、圧倒的な不利な勝負を余儀なくされているにも関わらず、負ける気など毛頭ないとばかりに不敵に笑っていた。


「言っておくけど、どうなっても知らないわよ?」


 そう言って、辺りに落ちている小石を適当に拾い、先程地面に描いた円の中に入っていく。

 固く閉ざされた正門のど真ん中に、括り付けられたようにしっっかり固定された的は、目測で半町はんちょう(約60メートル)ほど離れている。


 私がどれだけ目を凝らしても、豆粒ぐらいの大きさにしか見えなかった。




 頬が朱に染まっている美穂殿が、あれが目標で良いのかと尋ねる。

 それを聞いた周りの家臣たちは、嘲笑いながら肯定した後に、余計な一言まで口にした。


「はははっ、確かに結果はわかりきっておったな」

「然りよ。酒が入らずとも、我らの勝利に決まっておろうが」

「女の細腕では、的に当てるどころか届きもしまい」


 もはや美穂殿を見もしない、他の派閥の家臣たちであった。


 だが私や側近、そして周りに集まっている城下町の住人は、彼女から片時も視線を外さない。


「しかしこれで、織田が伊賀国いがのくにの土を踏むことはなくなった」

「小娘の口約束だけでなく、わざわざ証書も描いたのだ。賠償もたんまりと──」


 既に勝利を確信している者たちとは違い、美穂殿はまだ何かやることがあるようで、大声で叫ぶ。


「的の近くに居る者は、危ないから今すぐ離れなさい!」


 確かに酔っ払っていたら、石が何処に飛ぶのかわからない。

 たとえ届かないにしても事故は避けるべきだ。

 なので的の近くだけでなく、射線上に居る者たちは慌てて退避する。




 彼女は念の為に正門の奥も人を退かさせて、全ての準備が整った。


 すると美穂殿は、円の中で見たことのない構えを取る。

 惚れ惚れするほどに美しい投球の姿勢だ。そう本能的に察してしまえる程に、完成されていた。


「これが竜巻投法よ!」


 美穂殿は片足を上げ、捻りや全身の回転運動を利用して、手に持った小石を遥か遠くの的へと放り投げた。


 いや、正確には投げたはずだ。

 しかし次の瞬間、この場に居る者の全身が打ち震えるほどの轟音が響き渡った。


「なっ! 何が起きた!?」

「まっ、的はどうなったのだ! ややっ! 正門が吹き飛んでおるではないか!?」


 先程までは気にも留めていなかった家臣たちが、的を設置した正門に視線を向けると、的に当たるどころか、向こう側が見えるほどの、大きな穴が開いていた。


 かなりの厚さと重量があった木製の正門は、小石が当たったぐらいでは小揺るぎもしない。

 それに、大穴など開くわけがないのだ。


 だがしかし、現実にはその奥の城壁までもが、強い衝撃を受けたかのように崩れていた。

 そして、投げ終わって一息ついた美穂殿が呟く。


「だから言ったのよ。どうなっても知らないってね」


 否応なしに彼女に注目が集まる。


「どっ、どういうことじゃ!?」

「酒が入ると力加減が甘くなるのよ。でも、これでもかなり手を抜いたのよ?」


 美穂殿は嘘がつけないらしいので、きっと多少は手加減したのだろう。

 しかし、小石が的と正門を打ち抜いて、奥の城壁を破壊したのだ。


 稲荷大明神様の御加護を得ているという噂は事実であると、民衆を含めたこの場の誰もが、本能的に理解させられた。


「なっ、何という怪力じゃ!」

「大岩を真っ二つにしたという噂は、事実であったか!」


 これならば、手刀で大岩を真っ二つにすることも不可能ではない。

 そしてこの場に居る誰もが驚きに顔を歪める中で、美穂殿はとても良い笑顔で発言した。


「この期に及んで、吐いた唾は呑めないわよ?」


 そして彼女は護衛の林殿から証書を受け取り、彼らに堂々と見せる。


「そっ、それは──」

「わっ我らの一存では、如何ともし難く──」


 私は異論はない。

 だが六角氏ろっかくし北畠家きたばたけけの派閥の者たちは、皆揃って顔色が悪くなり視線をそらしている。


「証書も書いたし、稲荷大明神様にも誓ったわよね?」


 さらには集まっている民衆も証人になり、堂々と証文を見せびらかす美穂殿を前にすれば、彼らがいくら拒否しようと、契約は必ず果たされなければならないのだ。


「ぐっ、ぐぬぬっ!」


 それでも未だに自らの敗北を受け入れられないのか、小さく唸る。


「何がぐぬぬよ! 稲荷大明神様との誓いを平気で破る狼藉者が!

 恥を知りなさい!」


 六角氏ろっかくし北畠家きたばたけけの派閥の者たちは、もはや小さく縮こまり口を閉ざすしかなかった。


 そんな中で美穂殿は得意気な表情になり、大声で宣言した。


「これにて、伊賀国いがのくには尾張と雇用契約は成ったわ!

 稲荷大明神様に誓って! 生涯破られることはないでしょう!」


 彼女は手に持っていた証書を天にかざして、大声でまくし立てた。


「もし契約が勝手に破棄された場合、証書を持って殴り込んでやるわ!

 稲荷大明神様からの天罰だと思い、甘んじて受けなさい!」


 美穂殿は嘘をつかないので、本当に殴り込んでくるだろう。


 小石一つで正門に大穴を空け、さらに城壁を破壊するほどの怪力である。

 もし暴れられたら、伊賀国いがのくにが酷いことになるのは想像に難くない。


「それじゃ、契約成立ね。今後ともよろしく頼むわ」

「いっ、いや……私は構わんが、本当に良いのか?」


 私としては最初からそのつもりだったが、まさかこんな形で雇用契約が成立するとは思いもしなかった。


「良いも悪いも、最初からそういう話でしょう?」


 確かに、六角氏ろっかくし北畠家きたばたけけの妨害が入らなければ、最初に織田家の使者が訪れた時点で、雇用契約は成立していた。


 なので、何も問題はないのだ。

 しかし私は、ふと惜しいと感じて、本来の用件よりも一歩踏み込んで提案する。


「美穂殿、雇用だけでなく同盟も結びたいのだが、良いか?」


 一瞬彼女は目を白黒させて、次に露骨に視線をそらした。


「えっ? ああー……そっちは後日使者を送るから、その時に頼むわ。

 私は頭を使うのは苦手なのよ」


 何となく汗をかきながら頬をかいているので、本当に頭を使うのが苦手なのだと理解した。


 だが、今年の尾張は例年にない豊作だし、新しい道具や農法を多数取り入れたと聞いている。

 もしそれが美穂殿の功績だとすれば、稲荷大明神様は御加護を与える相手を、良く考えておられると納得する。


「……豊穣の美穂様か」


 民衆の期待や称賛が形になった通り名は嫌なようで、美穂殿は大きな溜息を吐いた。


「その通り名、伊賀国いがのくににも伝わってるの?」

「情報収集は得意でな。

 それにこれから、存分に活用するのだろう? まあ、許せ」


 私は稲荷神様が、何故美穂殿を選んだかを考えた。


 まず、決して揺るがない信念と、国や民を思いやる優しさや善性を持っていなければ、神は決して御加護を授けないだろう。


 頭が良く機転が利けば、いくらでも悪用できる強大な力だ。

 それを正義のために振るい続けるのは、とても難しい。


 そして私は相変わらずしかめっ面をしている美穂殿を見て、織田家の天下統一も夢ではないかも知れないと、そう悟ったのだった。

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― 新着の感想 ―
[一言] …これ敵方が籠城しようが多勢に無勢で押し寄せて来ようが、一人の力技で無双出来ちゃうやつ?
[一言] 門破るって 人間大砲かよ!w
[良い点] すごいパワーですね。小石一つでそこまでの破壊力となると隕石以上でしょうか? 偽稲荷神でも天下統一前はそこまでパワーはなかったはず。初期ステータスが高いんですね。
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