父との密談
自分の暮らしている武家屋敷は、古渡城から程近い距離にあるため徒歩でも問題なく辿り着けるが、今は抑制が解除されたばかりなので一苦労である。
力の制御を学びながら案内人の後ろを歩いて、改めて城下町を観察する。
(治安も良いし、周りの村や集落と比べて発展してるけど)
私はしょっちゅう外に飛び出して遊び回るので、近くの村まで行ったこともある。
そちらと比べれば確かに発展はしているが、やはり遠い未来と比べると改善の余地ありと思えてしまう。
(でもまあ、それは私のやることじゃないわ)
そもそも自分は身分が高いとはいえ九歳の女児で、統治者に進言することでさえ一苦労である。
城下町の改革など行えるはずがなく、やったらやったで頭が悪いので絶対ろくなことにならない。
大きな溜息を吐いた私は、いつの間にか古渡城の正門を通り抜けていたことに気づき、城内で顔見知りの武将とすれ違うたびに、軽く会釈する。
そして内心では緊張しながらも、態度には出さず、織田信秀の娘として城内の廊下を堂々と歩いて行った。
それにしてはやけに慌ただしいと感じて、何かあったのかと案内人に尋ねると、天文十一年の夏に、今川義元が尾張国に攻め込んでくるため、その対策を講じるために家臣たちを呼び集めて、評定を開いたのだと教えてくれた。
しかし、今川氏は北条氏に睨みを効かせるのに忙しいため、うちと一戦交える余裕はないという結論に落ち着いたらしい。
ちなみに歴史というのは諸説ありなので、後世にはこの年に合戦が行われたと記録に残るかも知れない。
そんなどうでもいいことを考えながら古渡城の廊下を歩いていると、案内人が襖の前で足を止め、おもむろに背を屈めた。
目的地に到着したことを察して、私も慌てて身嗜みを整えて姿勢を正す。
「殿、美穂様が参られました」
「うむ、入れ」
父の声がしてから一拍置いて案内人が後ろに下がり、中から襖が開けられた。
すると私の目の前には何故か吉法師がおり、あまりにも予想外で驚いて、敬語ではなく素が出てしまった。
「吉法師が何でここに居るのよ」
父には内密で相談したいことがあると先触れを出している。人払いは済んでいるし、案内人も一礼して立ち去ったので、ここに居るのは家族だけだ。
幸いにして咎められることはなかったが、幾度となく窘めてもふとした拍子に素が出てしまう。
母は何度も女性らしくお淑やかにしようと教育を施したが、結局無駄だと匙を投げた。
稲荷神様による人格固定のせいだろうが、私にとっては面倒な習い事が減って万々歳であった。
それはともかくとして、開いた襖の向こうの呆れた表情で私を見つめる吉法師が、溜息と同時に口を開いた。
「姉上が言ったことじゃろう。忘れたのか?」
「……ええと」
取りあえず、いつまでも廊下に突っ立っているわけにはいかない。
なので、板張りの部屋に入って吉法師が襖を閉めるのを見届けてから、口元に手を当てて思案しながら父の前まで歩いていった。
あまり大勢に聞かれたくないので最初は密談の予定だったが、弟ならば同席しても問題ないと直感で判断する。
「織田家の次期当主は吉法師だから、今のうちにお父様の仕事を良く見て学んでおきなさい。……とな」
弟が父の近くに控えたのを確認し、私は過去の自分の行いを思い出して何の気なしに返答する。
「そう言えば、そんなこともあったわね」
誰もが、いつ死ぬかわからない時代だ。
幼い身で家督を継がされるかも知れないので、いざという時に備えておくに越したことはない。
だが実のところ、それは建前だった。
本当は私と吉法師が仲良く遊んでいると母が良い顔をしないため、言い訳として使ったのだ。
しかし幼い頃からお姉ちゃん子だった弟が、言いつけ通りに小姓をしていたとは思わなかった。
何か思うところがあったのか、それとも姉の進言なので素直に聞いてくれたのかはわからない。
だが、それで吉法師が変わるキッカケになったのなら、きっと良かったのだろう。
ちなみにだが、自分に花嫁修業をさせようとしたのは、良家や身分の高い殿方に嫁がせて織田家を守るためで、吉法師に父の仕事を手伝わせるのは、万が一の備えもある。
戦乱の世は本当に誰がいつ死ぬかわからないため、両方とも致し方ない措置だ。
「まあ私は死ぬつもりはないけどね」
「はぁ、姉上は相変わらずじゃのう」
私が何の気なしに呟くと、弟から呆れたようにツッコミが入る。
きっと妙に察しの良い吉法師が、単純明快な姉の思考を読んだのだろう。
それはともかくとして、父である織田信秀は、前に座った私を静かに見つめていた。
そして強面の彼もこっちの考えを読んで、顎髭を弄りながら口を開いた。
「仕方あるまい。誰もが日々を生き残ることで精一杯なのだ」
尾張は比較的豊かだが、その繁栄が明日も明後日も続くかと聞かれると断言はできない。
誰もが日々の不安を抱えており、命が軽いのが戦国時代だ。
「古渡城を築城したとはいえ、尾張の周りは敵だらけよ。
乱世が一向に終わらぬ以上、儂らは決して平穏には生きられぬ」
父の正論に、私はむむむと唸るしかなかった。
たとえ一つの戦が勝利で終わったとしても、それは次の争いまでの準備期間に過ぎない。
誰かが天下を統一して日本を治めなければ、生き地獄が延々と続くことになる。
未来で暮らした自分としては、日本人同士で殺し合うなど馬鹿らしいことこの上ない。
だが今を生きる者たちには、それが当たり前の日常なのだ。
誰もが日々の糧を得るのに必死であり、自らが生き残るために他者を殺して奪うのである。
そんな救いのない時代に転生させられた私は、改めてやりきれない現実を直視させられた。
そしてあまりの命の軽さに、大きな溜息を吐くのだった。