天文十二年の元旦
父から頼まれた正月に出す料理の目処がついたのは、大晦日の夜であった。
完全再現は成らなかったが、食材や調味料、調理器具などが根本的に足りていないのだから仕方ない。
だが、鰻の伊達巻やけんちん蒸しがもどきでも何とか作れたので、個人的には満足したのだった。
大晦日は夜遅くまで仕事をしていた私は、何だかんだで昼近くまでぐっすり熟睡してしまった。
そして目覚めた後も気が重く、行きたくないと愚痴っても状況は好転しない。
なので仕方なく、天文十二年の元旦に、お目付け役の林さんと一緒に寒空の下を歩いて、古渡城へと向かう。
良く晴れていて雪は降っていないが、城下町を歩く私の体に当たる風は冷たい。
稲荷神様の御加護で怪我もしないし病気にもかからないが、そういった感覚は残っているのでホッとする。
「おい見ろ! 美穂様だぞ!」
「本当だ! 豊穣の美穂様だ!」
「ありがたや~! ありがたや~!」
久しぶりに古渡の城下町を歩いたが、新年早々に民衆にありがたがられてしまう。
少し前までは尾張のお転婆姫で有名だったが、今は豊穣神のように崇められている。
新しい農法や農具は少しずつでも広まっているが、成果が出ていないのに、いくら何でも早すぎる。
何より自分は小市民であり、称賛や敬いの声に変な拒否反応が出たのか、咄嗟に大声を出してしまった。
「褒めるのを止めなさい!」
きっと父が求心力を集めるために娘を利用し、尾張の民衆にわざと噂を広めているのだと察しがついた。
それを否定するわけではないが、真正面から褒められるのは小っ恥ずかしい。
なので、頬を赤らめてやや下を向き、城下町を早足で歩いて行く。
「でも、お母。美穂様の体は豊かじゃねえだよ?」
「何だとこの野郎!」
確かにまだ幼いし、二千年代に比べれば食事は質素だ。
稲荷神様の御加護で無病息災とはいえ、発育は今の時代に合わせて控え目であった。
そして一応自分も女性なので、体格のことを口に出されると過敏に反応してしまう。
切れやすい若者のように怒ったことで、母親が慌てて暴言を吐いた子供の前に出て、青い顔で震えながら頭を下げた。
「美穂様! どっ、どうかお慈悲を!」
「許すわ! でも次に暴言吐いたら、ガキンチョにはシッペの刑よ!」
ちょっと暴言を吐いたぐらいで、斬り捨て御免にするほど短気ではない。
それに、権力を使って親子をどうこうするつもりもなかった。
だが、脳筋で感情的なので、悪いことしたら一発殴らせろという好戦的な姿勢であった。
「私以外の上流階級に暴言を吐いたら、その場で斬られてもおかしくないわよ!
今後は気をつけることね!」
「はっ、はい! ありがとうございます!」
別にお礼を言われるほどではない。
母親が子供にも頭を下げさせる光景を見た林さんが、何とも良い笑顔をこちらに向けてくる。
そんな彼を軽く睨みつけたあと、私は急に恥ずかしくなってプイッと横を向く。
とにかく今は、古渡城に向かうのが先決だ。
こんな口々に崇め奉られるような城下町にはいられないと考えて、逃げるように早足で立ち去ったのだった。
古渡城の近くまで来ると、父である織田信秀に拝謁する者、貢物を届けに来た者、城務めの者などで、正門の前がやたらと混雑していることに気づいた。
「姉上、こっちじゃ」
声がした方向に視線を向けると、混雑する参列者から離れた場所で吉法師が手招きしている。
「吉法師。新年明けましておめでとう。今年もよろしくね」
「うむ、こちらこそじゃ」
弟に軽く頭を下げて、恒例の新年の挨拶を行う。
「吉法師も呼ばれたのかしら?」
「そうじゃ。儂は織田家の次期当主だからのう」
確かに父と継室の母は、血筋を見れば本家と言える。
なので私は吉法師が次期当主になると考えていたし、きっと周りの家臣たちもそう思っていたことだろう。
「もう本決まりなのかしら?」
私ははてと首を傾げて弟に質問した。
「姉上があまりにも何度も口にしたせいか、祝いの席で父上が公言しておったぞ」
「それはまた、何とも申し訳ないことをしたわね」
戦国時代の跡継ぎは、当主が亡くなってから家臣たちの間で決めることが多々ある。
だが私としては、遺言状の一つも残しておかないのは駄目だと思っていた。
「父上も儂に家督を譲るつもりゆえ、問題はあるまい」
「早期の決意表明みたいなものかしら?」
そうは言っても、吉法師はまだ幼いため見定める段階だ。
先に指名しておくようにと口にしていた私としては良いことだが、思い切りの良い父だと感じた。
「うむ、理由は色々あろうが織田家が割れたらそれこそ一大事じゃからな」
何も決まっていないよりは、良いのかも知れない。
だが今後は忠誠心、利権、出世、野心、そういった様々な目的を持った者が、弟に接触してくるのは間違いない。
「吉法師は大丈夫なの?」
「はははっ! この程度で潰れるようでは、織田家の次期当主は務まらぬわ!」
ただの強がりではなく、本当に心の底から笑っていた。
そんなまだ幼い吉法師を見て、やはり色々と規格外だと再確認していると、彼は少しだけ視線をそらして頬をかく。
「それに儂には、姉上が付いておるからのう」
「どういうこと?」
はてと首をかしげると、吉法師が苦笑気味に口を開いた。
「織田家の当主になったら、支えてくれるのじゃろう?」
「姉が弟を助けるのは当たり前よ」
「ははっ、当たり前か」
わざわざ尋ねる意味がないほど、私にとっては当たり前だった。
織田家に天下を取らせるためには、まず当主を助ける。姉と弟を抜きにしても、答えは最初からわかりきっていた。
「それよりあまり外で長話してると、私はともかく吉法師が風邪引くわ」
「はぁ、姉上は相変わらずじゃのう」
私は稲荷神様の御加護があるが、弟が風邪でも引いたら一大事である。
「私は姉で、吉法師は弟なのよ? 心配ぐらいするわよ」
「……さもありなん」
心なしか嬉しそうな表情の弟が背を向けて、参列者の人混みを避けて正門に近づく。
きっと案内してくれているのだと察した私は、彼の後に付いて行ったのだった。




