父から見た娘
<織田信秀>
美穂は武家の子供と違う。そう最初に感じたのは、天文四年のことだ。
当時の美穂は三歳の女児だったが、天文十一年の今と変わらずお転婆娘であった。
女性としての礼儀作法を学ぶよりも、弟や城下町の子供を引き連れて野山を駆け回ったり、チャンバラ合戦をするほうが好きという、常識には縛られない自由奔放な性格をしていた。
ちなみに天文四年は、今川に唆された松平清康が尾張に侵攻してきて、それを阻止するために大きな戦が起きた年でもある。
いくつかの城や砦を取られたうえに、森山まで侵入を許すことになったが、奇跡的な偶然が重なり、家臣の阿部正豊が主君である松平清康を暗殺してしまう。
結果、指揮系統の乱れを突いて反撃に出て、敵軍を岡崎に追い返すことができた。
しかし、この戦で受けた被害は少なくはなかった。
家臣の林秀貞もその一人で、敵が放った矢が鎧を貫いて腹部に刺さり、大怪我を負ってしまう。
そして、戦を終えてすぐに引き抜いたが鏃が体内に残ってしまい、林秀貞は味方の肩を借りて歩くのがやっとで、苦痛に顔を歪ませてしまっていた。
それでも何とか領内に帰還を果たしたものの、居城に辿り着いて気が緩んだのか、彼はそこで意識を失って倒れてしまう。
そして娘の美穂は織田軍が戻ってきたことを知り、父の無事を一目見ようと駆けつけたのだろう。
だがそこで目にしたものは、目の前で突然血を流したまま倒れ伏して死にかけている林の姿だった。
巡り合わせが悪かったとしか言えないが、彼を見た娘は顔色が真っ青になり、小さな体を震わせていた。
儂は思わず娘に慰めの言葉の一つでもかけようとしたが、そこでふと気がついた。
美穂は震えてはいるが、その顔には恐怖も絶望も浮かんでいない。視線は林からそらさずに、強い意志を宿したまま、ただじっと見つめたままだったのだ。
それだけでなく、やがて娘は何かを思いついたのか、近くの町人に慌てて声をかける。
清潔な小刀と布と水、あとは焼酎を今すぐ持ってくるように、拙い言葉だが大声で要求した。
誰もが最初は何の冗談かと思ったようだが、美穂はあまりにも必死だった。
織田信秀の娘ということもあるし、儂も好きにさせろと許可を出した。
結果、周りの者たちは半信半疑ながらも従うことになった。
しかしそれだけでは終わらず、林の近くに居た儂を真っ直ぐに見つめて、人手が足りないからお父様も手伝ってと、生意気にも指図するのだ。
従う義理はないが、何故か美穂の頼みを聞いてやりたい衝動に駆られた。
きっと娘に頼られるのは久しぶりで、父として嬉しかったのかも知れない。
とにかく美穂の指示通りに近場の商家を借りて、林をそこに移動させ、綺麗に掃除した木板の部屋に寝かせる。
準備が整った後は、娘が鏃が刺さった傷口を水で洗い流す。
そこまではわかるのだが、焼酎をぶっかけたり、手に持った小刀で林の腹を勢い良くかっ捌いたのは、周りで様子を見ていた誰もが度肝を抜かれた。
美穂の手足は小さく震えていたが表情は真剣そのもので、子供らしからぬ気迫に飲まれたのか、周囲で様子を窺っている者は誰もが口を閉ざし、成り行きを見守るか指示通りに動くしかなかった。
武士たちが痛みで暴れる林を押さえ込んでいる間に、美穂は体内に残っていた鏃を慎重に取り出す。
その後は自らの長髪の一部をその場でバッサリと切り、流れるような動きで針に通して、傷口の皮膚を慎重に縫いつけた。
周囲に居る誰もが固唾を飲んで見守る中、やがて全てが終わって気が緩んだ娘は、大きく息を吐いた。
だがしかし、どうやら精神的な負担が大きかったようで、その後は口を開く間もなく気を失ってしまう。
三日三晩寝込んでようやく目を覚ました娘に問いただすと、林を処置したことは覚えていなかった。
いや、正確には夢のように朧気な記憶しか残っていないが、嘘がつけないので本当なのは間違いない。
なお、継室の土田御前は、元々武家の娘らしくない美穂に良い感情は持っていなかったが、今回の件で気味悪がってさらに関係が悪化してしまう。
美穂は狐憑きなので近づかないようにと、周囲の者に警告を発する程だ。
確かに得体は知れないが、儂にとっては可愛い娘の一人だ。あの時は、家臣の林秀貞を助けようと必死だった。
なので、根は優しい子なのを儂は知っている。
それから時は流れて天文十一年になり、九歳になった美穂は珍しく父に相談があると先触れを出して、わざわざ居城まで尋ねてきた。
そこで聞かされた内容に、色んな意味で頭が痛くなったものだ。
継室の土田御前は、美穂は狐憑きだと誰彼構わずに吹聴しているが、稲荷大明神の化身ならば事実なのは間違いない。
その中でも、重要なのは織田家の天下統一だ。
大名にとっての天下は、あくまでも周辺諸国の平定だ。
容易には揺るがぬ地盤を築くのだと考えたが、稲荷神様は全国の統一が望みとのことだ。
何とも無理難題を仰られるが、夢のお告げが事実であるなら拒否権はない。
ならば美穂が言った、稲荷神様の御加護に期待するが、問題はどの程度役に立つかだ。
しかし、ここでいきなり娘を重用すれば、家臣たちが大いに反発する。
そのため、まずは村を一つ与えて様子を見るため、一年と少しで成果を出すようにと要求した。
肉体は疑いようがないが、知識に関しては半信半疑だ。
かつて林を救ったとは言え、美穂がどの程度やれるかを見極めなくてはならない。
その際の護衛兼お目付け役として、林秀貞を抜擢した。
何より彼が物凄い剣幕で立候補し、自分を選ばなければ謀反か腹を切ると宣言しそうだったので、任せざるを得なかったのだ。
林は美穂の治療で一命を取り留めて以来、娘に縫われた腹の傷口を他人に見せて、自慢話をするようになった。
あれは娘に惚れていると言うより、信仰や心酔に近い。
そして今は、林に施したような未知の医療技術を書物に書き記させている。
先日吉法師から届けられたが、儂の書く字と違いすぎるため、難解この上ない。
だが息子は将来的には崩し字ではなく、美穂の書いた略式漢字が主流になると、儂に真っ直ぐ視線を合わせて堂々と発言したのだ。
確かに現在の字を書くのと読むのは、専門の右筆に任せざるをえない。
それに対して美穂が発案した略式漢字は、一度覚えてしまえば大変わかりやすく、子供でも読み書きが容易である。
そして、美穂に任せた村は早くも成果が上がっているので、儂は情報漏洩を防ぐために警戒を強め、娘の定めた新たな単位と農具、作物の育て方を尾張国全域へと広める方針に切り替えた。
武士の儂でも、現物を一目見て簡単な説明を聞いただけで、有用性に気づけるぐらいだ。
領民が喉から手が出るほど欲しがるのは間違いない。
その際に稲荷神様と織田家の名前を前面に押し出すことで、求心力を高めて一揆の発生を抑え込む策である。
新技術や新農法を次々と生み出す美穂は、まさに稲荷大明神の化身だ。
娘の威光を利用することで、織田信秀の元にも人が集まり、従属の意を示す者も現れる。
おかげで織田家と尾張は一枚岩になりつつあるが、娘が失敗した途端に裏切られる可能性もある。
覚悟はしておかなければならないが、何にせよこれからの尾張は、美穂を中心に回っていくことになるだろう。
父親としては美穂に頼りきりで不甲斐ないが、今は娘の援助を行い成果を出させるのが肝心だと、そう思ったのだった。




