パンデミック終業式
スミレネズミが学校に大量発生した。スミレネズミには毒があり、去年はたくさんの人が入院した。今年はさらに毒性が増し、空気感染までするようになった。
毒に侵されると全身がスミレ色に腫れ上がり、三日で死んでしまう。もう一度感染すればさらに三日延び、何度もかかることで無限に延命できるという噂もあるが、まだ実証できていない。
学校は臨時休校となり、ミウたちは近くの公園に移って終業式をした。
「みなさんの人数をこれ以上減らさないように、できるだけ家にこもって過ごしましょう」
校長先生はマスクをしたままメガホンで呼びかけたが、誰も聞いていなかった。公園には珍しい形の噴水や滑り台があり、子どもたちはすっかり夢中になっていた。
「家にこもるといえば、リネンくんはどうしてるかな」
アサちゃんが通知表やプリントを鞄に詰めながら言った。リネンくんは大きなわたあめの家に住んでいて、ずっと学校へ来ていない。ミウはリネンくんの顔を思い出そうとした。色白で背が高くて、大人しそうだったようなそうでないような、要するにあまり覚えていなかった。
「ねえ、どうせ学校がないならリネンくんの家に行ってみない?」
「行ってどうするの?」
「うーん。みんなで集まってお料理して、食べて、遊んで、一発芸をして、それから」
いけません、と担任の田山先生が怖い顔をして立ちはだかった。
「校長先生もおっしゃったでしょ。感染のリスクを高めることは一切禁止です」
「感染リスクが高いんですか。じゃあ助けに行かないと」
田山先生はアサちゃんの腕をぐいとつかみ、ミウにも鋭い目を向けた。
「ひとところに集まると、子どものにおいにスミレネズミが反応するんです。人の家だろうと習い事だろうと、絶対に集まってはいけません」
そんなあ、とアサちゃんは言った。ミウは少しだけほっとした。わたあめの家にはあまり近寄りたくなかったのだ。
校歌斉唱の号令がかかっても、子どもたちは思い思いに走ったり話したりしていた。
ミウは鈴ばあさんと東京大空襲の思い出話をしたり、ケイタがこっそり持ってきたゲームで遊んだり、赤いジャージを着た警備員に追いかけられて殺虫スプレーで撃退したりした。
遊び疲れた頃、ルルがやってきた。ルルとは二年生の頃からいつも一緒に帰っていて、この公園で寄り道をすることも多かった。
「ねえミウ、あたしのこと忘れないでね」
「忘れるわけないよ。どうしたの急に」
「だって、次いつ会えるかわからないんだよ」
ミウははっとした。本当にそうだ。スミレネズミはいつまでいるのかわからないし、毒がいつ消えるのかもわからない。この公園だって危ないのだ。
「ルル、もし学校が……」
「ミウ、逃げて!」
視界がさっと暗くなった。そばにいた子どもたちが悲鳴を上げて逃げていく。ミウは咄嗟に足が動かず、影の差すほうを振り返った。
「よう、ミウ」
巨大なアザラシが牙をのぞかせ、片方のヒレをひょいと上げている。
ミウはほっと息をついた。
「アザラシ先輩だったんですね。スミレネズミの群れかと思いました」
「お前、第二ボタン欲しいか?」
「第二ボタン? それって卒業する時にもらうんですよね?」
アザラシ先輩はまだ四年生だ。それに今日は卒業式ではない。
「今日が卒業式でいいだろ。どうせもう来れねえんだからよ」
「そっか。じゃあもらいます。ボタンはどこですか?」
いけねえ、とアザラシ先輩は言い、ごろりと寝転がって起きると人間の姿になっていた。体格が良く、目がぱっちりとしてとてもハンサムだ。制服のジャケットに金色のボタンが光っている。
「その姿でいれば誰も逃げないのに」
「そういうわけにもいかねえんだ。俺はやっぱりアザラシだからな。あっちでマユキとウサギも待ってるぜ」
アザラシ先輩はボタンを外そうとしてうまくいかず、ジャケットごとミウに寄越した。そのままアザラシの姿に戻り、行ってしまった。ミウは少し迷ったが、自分のジャケットの上からアザラシ先輩の大きなジャケットを羽織った。
気がつくと校歌が鳴り止み、子どもたちは帰り始めていた。マユキ先輩とウサギ先輩は入り口近くの塀に寄りかかり、ミウを待っていた。
「好きなのを選んでください」
マユキ先輩は小さな体を反らせ、胸のボタンを見せつけた。
「第一ボタンはイクラ。第二ボタンはダイヤモンド。第三ボタンは紙。第四ボタンはかまぼこです」
「じゃあかまぼこ」
「ええっ!」
ミウはマユキ先輩のジャケットをつかみ、第四ボタンをむしり取った。白とピンクの薄切りかまぼこで、まだ新鮮だ。
「ありがとうございます! 終業式にかまぼこがもらえるなんて」
「ま、まあ……ミウが嬉しいならいいですけど」
マユキ先輩は不服そうな顔をしている。ウサギ先輩が笑いながら前に進み出た。
「まどろっこしいことするからダメなんだ。ミウ、これ返すよ」
ウサギ先輩は鉛筆のキャップを差し出した。青と白の水玉模様を見て、ミウは飛びついた。
「これ、私の!」
「ウサギ穴に落としてただろ。拾ってきたよ」
「ありがとうございます! 終業式にキャップがもらえるなんて」
受け取った途端、ぶちっと音がしてウサギ先輩が前のめりに倒れた。すぐに起き上がったが、ジャケットの第二ボタンがなくなっている。ミウは自分の手元を見た。
「あ……!」
水玉のキャップに糸が巻きつき、そこからボタンがぶら下がっている。あまりにも細い糸だったので、繋がっていることに気づかなかったのだ。
「よし、よし。これでオレが」
「ボタンは返します」
「えええっ!」
あははは、と今度はマユキ先輩が笑った。
「無理矢理押しつけたって返されるに決まってます。そんなこともわからないんですか」
「うるさい。ミウ、なんでオレのボタンがいらないんだよ」
ふわりと甘い風が吹く。春の花が咲き始めているのだろうか。
ミウはボタンをウサギ先輩のポケットに返し、水玉のキャップを目の前にかざした。
「このキャップは元々、ウサギ先輩が私にくれたんです」
「違うよ。オレは拾っただけだ」
「もらったのを私が落として、ウサギ先輩が拾ってくれたんですよ」
「落とし物箱にあったんだろ。誰かが落としたのをミウが拾って落としてオレが拾って」
意味わかりませーん、とマユキ先輩が甲高い声で叫んだ。
風が動く。霞がかかったように、景色が柔らかく染まって見える。
ぞわぞわぞわ、と風が走る。
突然、ミウの体が浮き上がった。水玉のキャップが伸びて膨らみ、気球になってミウを持ち上げている。
見下ろして初めて気づいた。公園の敷地はスミレネズミに覆い尽くされている。ほんのり甘く感じていたのは毒の匂いだったのだ。
「マユキ先輩! ウサギ先輩!」
二人の姿がスミレ色に閉ざされる。ミウは気球にひかれ、空へ向かっていく。それでも毒は追いかけてくる。煙のように立ち込め、ミウを染めにかかる。
スミレネズミの走る音が聞こえる。まるで空まで駆け上がろうとしているようだ。小さな花びらのようなネズミが、群れをなしてミウを狙っている。
「もうだめ……!」
思わず目を閉じた時、体を包む感触が変わった。アザラシ先輩のジャケットが、いつの間にか銀色の鎧になっていた。マユキ先輩にもらったかまぼこは扇形の盾になり、ミウの顔を守ってくれた。
弾き飛ばされた毒が宙を泳ぎ、流れ星のように消えていくのが見えた。気球に導かれ、ミウはさらに空高くへ浮き上がっていった。
「ミウー!」
公園や学校、通学路があっという間に遠ざかる。スミレ色のもやの中で、誰かがミウを呼んでいる。一人ではない。きっとたくさんの人が呼んでいる。
アサちゃんがバレエの練習をしていた廊下。ルルと買い食いをしたキャンディショップ。マユキ先輩がイクラを養殖していた池。ウサギ先輩が盗品を隠していた本棚。
もう戻れないかもしれない。このまま小さくなり、霞んでいってしまうのかもしれない。
そうだとしても。
ミウは手を振り、叫んだ。
「忘れない!」