“完全”へのダイエット?
「……太った」
風呂場でひとり呟いた。
幸いにして、と言うべきか、我が家の姿見は歪んで取り付けられているわけではない。だから鏡に映るのはありのままのあたしだ。
……薄々感付いてはいたのだ、確かに。何だかジーンズが、とか。けど、むくみのせいやら何やら理由をつけて無視してきた。
しかし、なぁ……とため息を吐く。ちょっと、やっぱり、気にした方がいいかも。ちなみに体重計は埃を被ったまま。使う必要があるとしてもあたしだけだし、そのあたしが誤魔化してきたのだから長らく出番はなかった。
そう。あたしだけなのだ、気にしなきゃいけないのは。
もし今「鏡よ鏡よ……」と尋ねて「世界一嫉妬に悶えているのは誰?」なんて言ったら、間違いなくあたしが映る。だって不公平じゃん! 奴は……奴は……超絶甘党食いしん坊なのにー!
まぁ原因は明らかなのだけど。ずばり運動不足。部活辞めてからしばらく経ってるし、体育の授業なんて週に数時間だし(それにあれは技術云々じゃなく、一生懸命さの度合いを測る科目だとあたしは思っている)。
家事もやってるのになぁ。勉強して頭も使ってるのになぁ。でも……お菓子、食べちゃうもんなぁ。
「……はぁ」
一応は女子。こんなことも、一丁前に気にしてみたりするのです。
***
お風呂からあがると、堕天使長様はソファーに寝転んで本を読んでいた。最近の彼は教科書を読むのに夢中。羨ましい興味の沸き方だ。時折くつくつと笑っていたりするけど、どこがツボなのかは未だに謎。
「そんな格好で読んでると、目悪くするよ」
あれ、堕天使さんは視力も落ちないのかな?
「ん、そうか」
そんなことも思ったが、ルシフェルは素直にうなずいて体を起こす。今日の本は、数学の教科書だ。信じられん。
ふと。彼がこちらを見つめていることに気付く。深い意味はないとわかってはいても照れてしまうあたしは、やっぱりルシフェルのことが好きなんだろう。
「な、なに?」
「元気ないな、真子」
うおぅ、バレた。
ルシフェルは真面目~な顔で首を傾げる。
「“妊娠”か?」
…………。
「……誰の子ど――」
「やめぇーいッ!!」
そこじゃねぇ、そこじゃねぇんだよ天然! なんか変に恥ずかしいよ!!
「だってレヴィが」
「あ?!」
「レヴィが、“元気ない女の子にはそうやって聞けばいいのよ♪”と言っていた」
レヴィかー!!
「でも、違うようだな。ふむ」
ああもう……。ふむ、って。何がだよまったく。
何だかツッコミする気力もなくて、というか余計に疲れてあたしは黙って肩を落とすばかり。
それでもルシフェルは気にしてくれるらしく、心配そうにこちらを見る。脇に伏せられた教科書。あたしは数学に勝ったらしい。ちょっと嬉しい。
「どうした。具合が悪いのか」
「いや、その……」
「言えないこと?」
「……った、……」
「ん……?」
「ふ、太ったなっていう」
彼はきょとんとしていた。が、やがてゆるりと右手が持ち上がり首が傾く。
「……私が?」
黙れエターナル・スレンダー野郎ー!!
あ、ちょ、マジで泣けるよこれ。
「あ、え、待っ……え、真子?!」
「いいんだ! どうせあんたに悩める女子の気持ちなんてわからないんだ!」
「な、何? 真子が? 太った、と?」
あわあわしているルシフェルは可愛いのだけど、結構きつい発言をしてくれている。無自覚って怖いねっ!
「わ、私にはそうは見えないぞ」
「毎日会ってるからだよ。そりゃ、一気に体型変わったらさすがにビビるって」
……彼のフォローは実は嬉しい。でもっ、ここは女のプライド的なアレでっ?!
「ダイエット、した方がいいかなぁ……」
だってルシフェルの隣で歩けなくなるのは嫌だ。今でも見た目が釣り合わないのは重々承知だけど、でも。いくら中身だと言ったところで、努力を怠るのはあたしの意地が許さない。
ところがあたしがぽつんと洩らした言葉に、ルシフェルが微妙に複雑そうな表情をみせる。なんでそんな顔するの?
「ルシフェル?」
「何だか……変化は好かない」
「へ?」
「理由はよくわからないけど、安寧がなくなる気がして、嫌だ」
んな大袈裟な。気持ちはちょっとわかるけど。あたしも席替えとか嫌いだったもんなー。メンツに恵まれていたのもあるだろうが、また新しく交友関係を築くその一歩が、どことなく億劫に感じられた気がする。好きな言葉は“現状維持”です。よろしくお願いします。
いや、しかし。今の現状を維持しちゃいかんのではないか。というか既に“変化”しちゃったあたしにどうしろと?
「自然に変わったのなら良いじゃないか。変化のために自ら進むことは、あまり好かない」
ルシフェルが変なことを言い出した。そんな暗い顔しないでよ。落ち込むべきはあたしなのに。
……と思っていたら、彼は首を何度かふるふる。やっと持ち上がった長いまつ毛の奥、暗い影はいつの間にか消えていた。
「だって、ダイエットというのは」
代わりに、子犬ばりの縋る視線で。
「食事制限するってことだろう? この家からお菓子がなくなるってことだろう?!」
……。
「……あー、ルシフェル」
「んっ?」
「ひょっとして、自分がお菓子食べられなくなるから反対してるの?」
「無論!」
薄情者ー!
「あ、でも運動するのも良いよな。食べる以上に動けば大丈夫! そうだ、それならお菓子は消えない。おおっ、素晴らしい考えだ!」
「毎日そんな運動してる時間ないよ」
「じゃあ短期集中でいこう。そうだな、マルコシアスが特別に組んだあのトレーニングメニューを……」
「マルコシアスさん……って、あの武術大会に出てた剣士様だよね?! めっちゃたくましい体つきしてましたけど!」
「ならば私と鬼ごっこ」
「あんたの身体能力についていけるわけないでしょ!?」
ちなみにあたしは知っている。時々マンションの階段を“一段とばし”などではなく、“十数段とばし”で彼が一気に跳び降りていることを。そこまでするなら翼使って飛べよと言いたいが、多分この堕天使様は遊んでいるだけなのだ。そんな奴と鬼ごっこ? 無理だろ!
「もう。あたしは間食をちょっと我慢するけど、ルシフェルは普通に食べていいんだからね。お菓子もちゃんと買ってくるから。それならいいでしょう?」
あたしが誘惑とも戦わなきゃならなくなるけどさ!
それでもルシフェルは口を尖らせて不満そうだ。
「真子と一緒に食べたいよ。大体だな、何故にそこまでして痩せたがるのだ? 病などというわけでもあるまいに。それに真子は充分痩せている」
お世辞でもありがたく受け取ろう。いや、まぁ自分でも過剰に気にしてるのかなとは思うのだが。
「そも人間というのは外見にこだわり過ぎる。所詮完全にはなれぬというのに。不完全が完全を目指すことは否定しない。しかし固執するあまりに本来の良さを失ってしまっては、それこそ本末転倒だろう」
「う、うん……」
たかがダイエットの話だというのに、気付けばルシフェルはすごく穏やかな声音で語っていて。そこまで言われたら、このままでもいいかなぁと思ってみる。
あたしだってそんなに気にしてたわけじゃないしね。あんまり食生活が乱れるのはよろしくないが、この家の栄養管理は言わばあたしの仕事だし、病気にならないように普通にしていれば平気だよね。ちょっとの間だけ……密かにおやつをちょっぴり減らそうかな。三食を抜くのは絶対ダメだよ!、と主張しておく。朝ご飯、大事。
「それにな、真子。私は独占欲が強いんだ」
「へ?」
いきなり何の話だ。
間抜けな声をあげたあたしを笑い、ルシフェルはソファーから立ち上がり洗面所へ。お風呂入るのか。
「真子は、私だけを見ていれば良い。この私が今の真子でいいと言っているのだ、何を他に望む? ――っと。湯を浴びるからなー」
「え、あ……」
……え、えーっと
「……て、照れてもいいよね? 今のは……」
扉の向こうに消えた後ろ姿を見送って、思わずひとりで確認してみた。ヤバい、顔熱い。っていうか何さこの不意討ち?!
照れ過ぎたあたしが半ば放心状態でいた、その時だ。
「――ぬゃわぁぁー!」
おおよそ表現しがたい悲鳴が洗面所から。何だ何だ?!
「真子ッ!」
「どした?! って、また半裸ー!」
毎度ながらシャツの前を全開で飛び出してくるルシフェル。あたしがぎゃあぎゃあと指さしても、本人はそれどころではないようで、何やら鼻を押さえて涙目になっている。
「はっ、鼻が……!」
「鼻が?」
「縮んだ!!」
ピノキオかよ。
「ほら、とりあえず手とって」
「む……」
…………。
「……どこが?」
肉体美を惜し気もなく曝した美形お兄さんが涙ぐんでいるのは、それはそれで目に優しくない奇妙な画ではあったけど。ともかく高いお鼻には傷ひとつついていないわけで。
「えっと、縮んだって、自分でわかるくらい?」
「……二ミリくらい……」
ミリ単位?! 絶対気持ちの問題だと思うんだけど。あたしよりひどいって。まったくあんたは乙女かっ!
「……か、仮にそうだとしても、もともと高い鼻なんだから気にならないよ」
「近似とは私にとって許されざる妥協だ!」
無茶苦茶な理論キター! それ今日の理数科目における暗黙の了解を全否定する勢いだよ!
「きっと昼寝の時にうつ伏せだったのが原因なんだ……うう、そんな下らないことで私の完璧さが損なわれてたまるものか……!」
ちょ、おーい、ルシフェルさんや。あたしがさっき感動した前言を完全無視ですかい?
「ルシフェルは完璧、なの?」
「何を今さら。不足はあれど、私の完璧さを疑う理由が見つからない」
自信満々というか当然のように返されて、逆にあたしの方が変なことを言っているような気分にさせられた。……ルシフェルの考えはよくわからない。完全と完璧ってどこが違うわけ? 全きもの? 無疵の玉? うわーん、わかんないよー!
堕天使様の思考は遥かにあたしの上をいくので、やっぱり見た目も気にするのね微笑ましいわという結論を下しておく。うむ、考えるのやーめたっ。
「引っ張ろう真子!」
「引っ張ろう、って……ルシフェルの鼻を?!」
「嫌か?!」
「嫌じゃないけど、そんなんで効果があるとは思えな……ゲフゲフン!」
まずいな。一度はまってしまったルシフェルは、恐らく自分で納得しない限り引き下がらないだろう。如何に馬鹿馬鹿しいことでもね!
うむむ。嘘も方便、適当に言いくるめよう。天然美青年は押しに弱いのだ。
「え、えーと……あっ! そうだ、うちに偶然《鼻が高くなる薬》があるんだよ?!」
うわぁ我ながら嘘の下手さ加減にびっくりするぜ。もうちょっとまともな作り話はなかったのか自分。声も裏返るし。
でも、まぁ。
「本当か?!」
堕天使様が信じれば、それで良いのです。素直というか抜けてるというか。
「用意しておくから、お風呂に入ってきなよ」
「ああ、すまないなっ」
そして。
入った時と同様に、期待に紅い目を輝かせてお風呂からあがってきたルシフェル。罪悪感を感じつつも、あたしがコップに注いで渡したのは“りんごジュース”。「美味い薬だな。それにどこかで似たようなものを飲んだことが……?」「あっ、味付けしてあるんだよ。明日には効果が出るんじゃないかな~?!」……てなやり取りがあって。
「あ、おはよう真子。見ろ、元通りだ!」
「よっ……良かったねぇ!」
翌朝にはすっかり上機嫌になっていた堕天使長様なのでした。……というか、あたしは昨晩何を気にしてたんだっけ? なんだかすごく下らないことのように思えてしまって、まぁこのままでもいいんだよね色々と、なんて思い、そっと小さな笑いとため息を洩らしたのだった。前向きなのはいいことさ、うん!