第61話:留守番、時々災難
真子:「またしてもあたし不在なので、堕天使様に留守を頼んでます。任せたよー!」
目が覚める。
時計、というやつに目をやる。
見る。
見る……。
……。
「も、もうこんな時間なのか?!」
まずい! 真子は? ちゃんと学校へ行ったのか?!
って、また私視点?!
慌ててこたつから抜け出し、真子の部屋へ。む……、変な体勢で寝たからか体が痛む。
ちなみにこたつで寝ると風邪をひく、と言われているが、私が体調を崩すのは地獄に異変が起きた時だから、まあ、問題はないのだ。
「おはよう真子! 学校は――」
扉を開けて、立ちすくむ。中は空っぽ……シーツのシワがきれい過ぎる。
……ああ、そうか。
そこでやっと思い出した。真子はつい先日から“修学旅行”という遠征に行っているのだ。あのシーツは私が整えたのだったな。
うー。今日のように慌てて飛び起きたのも四日目だし。
……そうだ! 真子!
大丈夫だろうか。怪我などしていないだろうか。
私はそっと目を閉じる。そして意識を集中。
……。
……よし、無事なようだ。
真子にかけた“呪”のおかげで、私はどこからでもこうして確認できる。本当ならばついて行きたかったのだけど……私だって、そこまで気を配れないわけではないさ。邪魔になるのは悪い。
「真子……」
部屋の中は彼女の匂いがする。読みかけの本や、使った形跡のあるハサミが机の上に出たままだ。ふふ、らしいな。
……あ、そういえば部屋に勝手に入ってはいけないのだったか。いつも忘れる。
部屋を後にし、そのままの足で洗面所へと向かう。洗顔と歯磨きくらいはしなければな。
真子がいない間は食事もお預け。堕天使なのだから、別段困りはしないが……恋しい気もする。
――恋しい、か。
タオルで顔を拭きながら考える。
私が人間と暮らすなどと、一体誰が想像できたろう。今や少し離れただけでも、彼女のことが心配で仕方がない。恥ずかしい話だがな。
ふと鏡を見てみる。私が、私を見つめてくる。
暗赤色の瞳……血の色だと言われた瞳。私は、真子を心配していると言うこの口で、かつて人間の存在を否定し、憎み――。
……。
は……無意味な思考だな。
ぱん、と両手で頬を叩く。こんなことを考えてどうするというのだ。私もまだまだ弱い。
気を取り直して居間へ。途中でまた意識を集中。……ふむ。大丈夫、真子は無事なようだ。この確認も、もはや何度目かわからないくらいやっている。
さてと、今日は何をしようか。掃除は初日にやってしまったし、物置には手をつけていいかわからないし。久々の家庭教師の仕事は昨日あったばかり、それに寒いから外へはあまり出たくない……。
まあ、なんというか。要は暇なのだ。
ため息を吐きかけて、私はそれを飲み込んだ。
というのも、誰もいないはずの居間から声が聞こえたからだ。この気配、まさか――
『っ……ルシフェルの匂いぃ……』
真っ先に目に飛び込んできたのは、見事な長い金髪。ソファーに伏せる黒い影。その甘ったるい声音に、思わず眉をひそめてしまう。
こんな変態じみた奇妙な行為をする奴、私はひとりしか知らない。
「……アスモデウス?」
がばりと起き上がった長身。金色の双眸が私をとらえて輝く。
「ルシフェルーッ!」
叫ぶと同時、奴はいつものように私へと突進。かわす間もなく腰と肩にまわされた腕。ひとつ、ため息。
「会いたかったよぉぉ!」
「わかったわかった……」
こうしたやり取りは果たして何度目か。よく飽きないな、コイツも。
できれば離れてはくれないだろうか、と試しに軽く押してみる。……ダメだ、びくともしない。まあ暖かいからいいか、と思い直す。
「んんっ? あの子猫ちゃんはいないの?」
「子猫ちゃん……ああ、真子のことか。真子なら数日前から出掛けているぞ」
「じゃあルシフェルひとり?」
「ああ、そうだ」
「……あれれぇルシフェル、ちょっと機嫌悪い? あっ、もしや僕が子猫ちゃんの話をしたから?! 安心してよ、僕がいちばん好きなのはルシフェルだからぁ♪」
「…………」
好きと言われて悪い気はしないが。それは誰だって、嫌われるよりは好かれた方がいいに決まっているし。
黙っていると、背中の両腕に更に力が込められた。く、苦しい……!
かと思えば、急に解放して。
「そうだルシフェル! 君にプレゼントがあるんだよ!」
「プレゼント?」
奴が懐から取り出したのは細くて光る……
「はいルシフェル! 《純金の歯ブラシ》だよ♪」
「…………」
私でもわかる。多分、使えない。
「ルシフェルのために千個も買っちゃった♪」
お、愚か過ぎやしないか?!
「お前、それは……」
「当然経費で」
またベルの機嫌が悪くなることだろう。
「何故……」
呆気にとられる私の耳元に、奴は唇を寄せて。
「――ルシフェルが大好きだからだよ。会えない時間が愛を育てる、って言うでしょ? 僕は美しいものが好きなんだ」
熱い息がかかる。私は生憎コイツと愛を育んだ覚えなどないのだが。
会えない時間が……か。
「……そんなことよりアスモデウス、ひとつ聞いてもいいか」
目線だけを横にずらして尋ねれば、奴は一瞬だけ残念そうな顔をしてみせる。
「そんなことって……君はやっぱり疎いんだねえ。で、なに?」
「えっ? あ、ああ。だからだな、どうしてお前がここにいるんだ?」
「そうっ、それなんだけど!」
耳元で叫ぶなよ。
アスモデウスは私に満面の笑みを向けて。
「デートしよ♪」
そう言った。デート?
「僕の買い物に付き合ってくれないかな?」
「買い物……。まあ、別に構わないぞ」
「やったー!!」
飛び付いてきたのを今度は回避。コイツと買い物とは少し不安だが……どうせ暇だったのだし、地獄へ行ってみるのも悪くはあるまい。
「待っていてくれ。着替えるから」
《パチン♪》
指を鳴らすと騎士服が現れる。人間の服で行くわけにはいかないからなー。
上着を脱ごうとすると、アスモデウスが慌てたように声をあげた。
「ちょっ、ちょっと! ここで着替えるの?!」
「ああ。ダメか?」
「いやダメとかじゃなくて、でもダメっていうか、そのっ」
珍しく顔まで赤くして。なんだ、真子といいアスモデウスといい。私の体を見るのは嫌だというのか?
「あのねルシフェル、君がここで裸になっちゃったら、えーと、ちょっと僕が耐えられなくなるからやめて!」
「私の裸なんて見たくもないと?」
「ち、違ッ、むしろ逆――いや、いいからとにかく違う部屋で着替えて?!」
ふむ。そこまで言うなら洗面所に行くか。変な奴だな。
……というか、見たくないなら、アスモデウスが後ろを向いていればよかったではないか!
***
「……アスモデウス」
「なぁに?」
「近い」
私とアスモデウスは万魔殿へ来ていた。大通りではなくて、装飾品や香水の専門店が見られる、人通りの多くない場所。アスモデウスはしょっちゅう来るらしいが、庶民には厳しい価格の品物ばかりだろうな。
人は多くないし、私達も気配を薄くしてはいる。が、どことなく道行く者に避けられているような……。原因ははっきりしているのだが。
「ルシフェルとデート~♪」
多分、コイツのせいだ。首に腕を絡めて密着しているから、歩きにくいことこの上ない。
ため息を喉の奥に押し込み、傍らの幸せそうな笑顔を見る。
「……で、何を買いに?」
「ダイヤの指輪とー、銀細工のオブジェとー……、あと新しい香水も買わなきゃ!」
「そんなに?」
奴の指には、相変わらず大きな指輪がいくつもはめられている。
「かわい子ちゃん達にあげてたら、すぐなくなっちゃったんだもーん♪」
「……」
どう返したものかと思案していた私は、ふと足を止めた。……嫌な予感。
「……なあ、アスモデウス……」
「どうしたのルシフェル?」
「少しだけでいいんだが、後ろを振り返ってみてくれないか」
「……?」
ダメだ。私には無理。
見なくともわかる。背中に突き刺さるのは紛れもない殺気。命ある者としての本能が警鐘を鳴らす。
『あはははは……っ!』
背後から聞こえる笑い声。後ろを見たアスモデウスが隣で硬直した。
「これはこれはルシフェル様にアスモデウス様。随分と仲がよろしいようで」
ふんだんに毒の盛り込まれた棒読み口調。仕方なく、名を呼ばれた私もどうにか首を巡らせる。
目に飛び込んできたのは、風に靡く銀髪。そして紳士的な微笑み。
「奇遇ですねールシフェル様。僕も黎香さんがいないので万魔殿に来てみたんですよ」
何故だろう、魔王と呼ばれるこの私が、アシュタロスに気圧されている。
「お二人ですか? へえ。ところでアスモデウス様、その腕を直ちにルシフェル様から離しやがってくださいませ」
ところが、私の隣の馬鹿はゆっくりとアシュタロスに向き直った。
「や・だ♪」
……!!
な、なんなのだ、コイツらの気迫は……! 火花、火花が見えるぞっ。笑っているのに!
「ふふ、僕らの邪魔しないで欲しいなあ♪」
一歩前へ進み出たアスモデウス。その片腕で、小さな衝撃波が音をたてて弾け始める。
いつの間にか周囲には誰もいない。それは逃げ出したくもなるな。
「ルシフェル様を狙う不貞な輩は、僕が成敗してくれます♪」
アシュタロスもナイフを取り出した。まさか……
「デートだぁぁ!」
「ほざきなさい!」
刹那、
「《エレクトリック・スタン》!!」
「展開ッ!!」
《バチバチィッ!》
号令は同時。アスモデウスの腕からほとばしる雷撃。凄まじい速さで地面を抉った衝撃波は、アシュタロスが瞬時に張った結界に激突、そのまま爆発を引き起こした。
《バアァァァン!》
げほっ……すごい煙だな。何も見えん。
袖で口元を覆いつつ、ふと気配を感じて一歩下がると、目の前を数本の刃物が飛んで行った。危ない。そして、そこかしこで小さな爆発音もする。二人がぶつかり合っているのだろう。
「ル、ルシフェルは僕のものなのっ!」
「っ! その口を縫い止めて差し上げましょうか!」
視界が晴れてくる。肩で息をしている二人からは、相も変わらず覇気が放たれている。
しかし……、と辺りを見回して思う。
何が通ったのかというくらいぼろぼろの石畳、散らばる瓦礫。幸い、立ち並ぶ店にはあまり被害はないようだが……。
幹部クラスの悪魔と戦神。いずれも有する力のほんの片鱗しか出さずして、この有様。放っておけば大惨事になりかねない。万魔殿の最高責任者として、ここでやるべきことは――
「アシュタロス……君、可愛いけど、そろそろ僕本気で怒るよ?」
「上等です……! 全て防いでやりますから」
ああ、困るな。私は少し急いで意識の集中を図る。
――……存在の分解、再構築を。対象は私とアシュタロス、アスモデウス。
場所は……そうだな、万魔殿の外れの、そう、あの草原――
光景を頭の中に描く。存在の“綻び”を探す。……
「邪魔はさせないよ――《ブリッツクリーグ・ストレイフ》!!」
「封破!!」
見つけたぞ。さあ…
――《空間転移》!!
***
《バリバリバリィッ!!》
アスモデウスが放った稲妻が頭上を走っていく。青白い閃光が空に軌跡を残し、消えた。
ここは万魔殿の外れにある、ただの草原。建物があるわけでもなく、滅多に訪れる者もない。それゆえに剣術や能力の稽古に使うこともしばしばだった。……良かった、転移は間に合ったようだ。
「……いい加減にしたらどうだ」
――驚いた。他ならぬ私が、そんな台詞を言ったとわかったから。
……何に私は苛立っている? まるで、私が私でないみたいだ。
アシュタロスとアスモデウスも、ぎょっとした顔でこちらを見る。
「も、申し訳ありません……」
「えーと、ごめんね?」
構わない、と首を振ってみせた。別段、そこまで怒っているわけではないのだ。ただ、何か、無性に苛々するものだから……
するとアシュタロス達は首を傾げ、
「あれ? ルシフェル様……」
「もっもしかして!」
次の瞬間、気がつけば二人の顔が目の前にあった。紫苑と黄金の瞳に見つめられ、たじろぐ。
「な、なんだ?」
アスモデウスが悲鳴ともつかない声をあげた。指輪で彩られた手が、黙って手鏡を差し出してくる。見ろ、と? どれどれ……
「ルシフェル様の大事なお顔に……!」
「傷がっ! 傷がついてるよぅ!」
「貴方のせいですよアスモデウス様!」
「君が弾いたせいだろう?!」
……ふむ。見れば確かに左頬に小さな切り傷がある。
しかしそれほど大騒ぎすることか? さっきからこの二人は大袈裟だな。
「……なあ。ちょっと聞きたいのだが」
「なんでしょう?」
「さっき、何故お前達は争っていたんだ?」
アシュタロスがへ、と口を開けた。アスモデウスもぽかんとしている。
しばらくして、ようやく言葉を発した二人。
「ルシフェル様、それは……」
「わざと……なのかい?」
今度は私が首を捻る番。わざと、とはどういうことだ?
二人は恐れたような呆れたような目で私を見、やがてバババッと遠くへ行ってしまう。
「ひそひそ……(おいおい、本気なのかい彼は?)」
「ひそひそ……(お、恐らく。素で理解しておられないのだと)」
「ひそ……(アシュタロス、君、そこまで神経質に彼を守らなくていいんじゃないかな。本人があんな感じなら)」
「ひそ……(だからこそですっ。どこの馬の骨ともわからない奴に流されたらどうするんですか)」
「……(まっ、そこも含めて……)」
……? 密談していたアスモデウスが、こちらに大きく手を振った。
「大好きだよルシフェルぅ!!」
ますます訳がわからない。何が、どうして、そんな結論に至ったのだろう。ほら、またアシュタロスが笑みを引きつらせたぞ。
うむ、しかしまあ。察するに、先程の争いは多かれ少なかれ私に関係しているようだな。ならば責任はとるべきか。
「アスモデウス」
「なぁに? 僕の可愛いルシフェル♪」
……普通に返事ができんのか、コイツは。
「万魔殿へ行って、道の修繕をレムレース達に頼んでおいてくれ。私の命令だ、至急頼むと伝えろ。特別手当として、私の財からいくらか持って行っても構わん」
「わかったー♪ でもルシフェルは? 万魔殿に寄らないの?」
「私は帰らなければ」
そう、帰らなければ。真子が帰って来た時、家に誰もいないのはいけない。
……という考えで何日目だろう。真子はいつ帰ってくると言ったのだったか、忘れてしまったのだから仕方ない。毎日私は家で待つのだ。
「では、そういうことだから。私はこれで!」
「あっ、あのルシフェル様――」
さあ、早く帰らねばなっ♪ 今日こそ真子が帰ってくるといいな。
あ! そうだ、真子の無事を確認しよう――……
***
「行っちゃったねー。……ん? どうしたんだいアシュタロス?」
「ルシフェル様、何故あんなに急いでお戻りに……?」
「え?」
「だって、真子さん達が帰ってくるのって明日なんですよ」
「……ええ?!」
***
……ん?!
「どうしたんだよぅ真子ちん!」
「いや、今誰かに見られてた気が……」
「ストーカーじゃね?!」
「修学旅行に来てまで?!」
確かに今――というか、ここ数日間――熱視線を感じたのだけど。すごい、もう、めっちゃ見てる感じの。んー、気のせいか。
「真子ちん、多分ルーたんだよ! ルーたんはめちゃ過保護だもん!」
「ルシフェルが? まさか~。さすがに来てないでしょ」
笑い飛ばして……でも、まあ。可能性としては充分あり得るからな。
そしてあたしはルシフェルに保護されてたのか?
……ああ、そうだ。留守番してくれてるんだから、ちゃんとお土産買って行かなきゃね。
「あっ、お土産ならこれがいいよ真子ちん! バナナの皮製バッグ!」
ぅおいッ!