第53話:真子と悪魔と火の用心
キャベツと豚肉と……あっ、ピーマンも買おうかな。
「真子ー、今日の夕飯は何?」
「ん、回鍋肉の予定」
「ほいこ……?」
ただいま近所のスーパーで買い物中。晩ご飯の材料を買いに来てます。夕方はね、安くなってたりするからね。
「ホイコー……?」
「あ、いや、えーと、野菜炒めみたいなもんだよ」
「へえ」
ふんふんと頷くルシフェルのかごに次々と食材を入れていく。魔王に買い物かごを持たせてるなんて、世界広しと言えどもあたしぐらいだろうな。
「……よし、と。何か食べたいものある? ついでに買うけど」
「んー……」
二人でぷらぷらと歩いていくと、やがて彼の足が止まったのは……やっぱりお菓子売り場でした。甘いもの好きだからなあ。
「これ美味しそう♪」
「ん?」
「《トロピカルバナナオレチョコ入りココアビスケット》」
……結局何味?
ちょっと怪しいお菓子もかごに追加し、レジに並んで会計を済ませる。
堕天使様がうちに来てから明らかに食費は増えた。ま、気にするほどでもないけれどね。
「持つよ、真子」
魔王様は帰りも荷物を持ってくれようとする。が、さすがにそれは悪いので。
「ひとつずつ持とう」
あたしとルシフェルで袋をひとつずつ。これでもひとりだった時よりはずっと楽なのだ。ありがとーう。
買い物からの帰り道は、ちょっとした散歩みたいで楽しみだったり。
もうすっかり秋が深まって、吹き抜ける風はひんやりしている。茜色に染まり始めた空を鳥が飛んで行った。ルシフェルと川原で夕焼けを見た時もあったっけなあ、と思い出す。
耳を澄ませば鳥や虫の声が……
《――ウ~……》
秋の音が……
《ウ~~!》
《ピーポーピーポー!》
「……真子」
「……」
「近いぞ」
ルシフェルの言葉通り、あたし達のすぐ横を救急車と消防車が走って行った。その先には……
「火事?!」
「火事だな」
空に立ち上る黒い煙が遠くに見えた。明らかに……何か燃えてる?!
どちらにしろあの方向は通り道だ。
「行ってみよう。何か私にできるかもしれないし」
元天使らしい発言に頷いて、あたしはルシフェルと道を急いだ。
***
「う、わぁ……」
思わず声が出た。……燃えてるのだ。マジで。
空気が乾燥してる時は火の取り扱いに注意しましょう……って、まさか本当に火事の現場に出くわすとは思わなかった!
「真子、熱くない?」
「だ、大丈夫」
実際はちょっと熱い。そのくらいの距離であたし達は炎を見上げていた。他にも野次馬が数名ほど。
場所は住宅地から離れた空き地めいたところ。燃えているのはどうやら倉庫のようなものらしい。幸い、中に人はいないようだ。
『早くホース引いて!』
『下がって下さい!』
だがあいにく消火栓が近くにないようで、消防士の人達はとても大変そう。いくら水をかけても、炎の勢いは衰えない。
おまけに風も出てきた。こ、これじゃ周りに燃え移っちゃう!
「ルシフェル、なんとかできない?」
「人を助け出すことならば容易だが。炎自体を消すとなると……」
ルシフェルは難しい顔で呻いた。が、すぐにふと顔をあげた。そしてぼそっと呟く。
「ベルなら、あるいはどうにかできるかも――」
「ベルって……ベルフェゴールさん?!」
「ああ」
そうなの?! 水、と言ったらむしろレヴィのイメージがあるけど。なんとなく。
「喚ぶか」
とルシフェルは素っ気なく言った。よぶ、って?
堕天使長は目を閉じた。精神統一しているかのように意識を集中しているみたい。
「……見つけた」
ややあって、目を開けると同時にその名を静かに呼んだ。
「此処へ――ベルフェゴール」
刹那、堕天使さん達が現れる前兆の耳鳴りがした。かと思えば、目の前の地面に現れた淡い光源。やはりその光は素早く魔方陣を描き、中心から姿を見せたのは――白銀の悪魔。
彼はゆっくりと灰色の瞳を開き、あたし達を見下ろしてきた。書類の束を脇に抱えて。
「……一体何の用だ。俺をこんなところに喚びだして」
相変わらず怖い……けど働き者なんだよね。
「あの火を消してくれないか」
「なんだと?」
はわわ……!
さらりと言ったルシフェルの言葉で、ベルフェゴールさんは更に機嫌を悪くしたようだ。
「貴様、気でも狂ったか。くだらんことで喚びおって。それが悪魔に頼むことか」
いや、うん、それはあたしも思う。結構畏れ多いことじゃないか?
しかし今日のルシフェルはいつもと違っていた。極寒のベルフェゴールさんを前にしても余裕顔だ。
「ベル」
「だからその名で呼ぶなと――」
「では、《怠惰》」
瞬間、ベルフェゴールさんは口を閉ざした。
ルシフェルはただ薄く笑む。紅い瞳に炎の光が揺らめいてとても綺麗。……だけどなんだか気分が落ち着かない色だな、なんて思う。
「《傲慢》の名において、《怠惰》に命ずる」
少し低い声でそう言うと、堕天使長は別人のようにニコッと笑った。
「――なっ♪ ベルフェゴール?」
打って変わった無邪気さに、ほんの少しだけど怖さを感じた。何をしでかすかわからない感じというか。
そして対するベルフェゴールさんは軽く舌打ち。
「卑怯だぞ貴様」
悪魔はふいと顔を逸らして忌々しげに吐き捨てた。悪魔に卑怯って言われちゃあ、ねえ。
と、突然腕を誰かに引っ張られる感触。
「わっ?!」
慌てて見れば、不機嫌そうなベルフェゴールさんの白い手があたしの腕を掴んでいた。
「……危険だ。下がっていろ」
「えっ……」
「身を焼きたいならば地獄へ来い。いつでも灼熱の炎にぶちこんでやる」
怖っ! 冗談に聞こえないぜ。
フンと鼻を鳴らすと、悪魔さんはすたすたと炎の方へ。心配……してくれたんだろうか?
「あ、あり得ない……」
しかし、あたしよりも呆然としているように見えたのはルシフェル。彼は急に手を伸ばして、あたしにペタペタ触り始めた。
「……って、どこ触ってんの!?」
「わ、わ、ごめん!」
痴漢かお前は!
っていうかいきなりどうしたの?
「いや、真子が本当に女かどうか確認しようと――」
ふざけんなッ!
初対面でベルフェゴールさんに“人でなし”呼ばわりされたこと、まだ覚えてるんだからね! どいつもこいつもっ。
「お、怒らないで真子。だってベルが女に触るなんて、とんでもない珍事だから。あいつの女嫌いはすごいんだ」
さっきのはそんなにすごいことだったのかい。確かにびっくりはしたけどね。
さてベルフェゴールさんは歩を緩めることなく炎の方へ。
「あ、あれ熱くないの?」
「大丈夫さ。ベルフェゴールだから」
あの距離、絶対火の粉がかかってる。それでも白銀の悪魔は足を止めず。……やがて唐突に、燃え盛る炎の中に腕を突っ込んだのだ。あたしは思わず悲鳴をあげそうになる。
「……こんなつまらん仕事は久々だ」
めらめら燃える炎に片腕を入れたまま、顔色ひとつ変えずに悪魔は口を開いた。
「凍れ――《アブソリュート・サイファ》!」
言葉は強く、冷たく。
その瞬間、あたしは信じられないものを見た。
炎が――“凍っていく”。
「わぁ……!」
「あれがベルの能力。大気には必ず水分が含まれるからな、あの能力には制限がない」
魔力による凍結なのは一目瞭然。
絶対零度。全てが活動を停止するはずの温度、にもかかわらず氷の中で紅蓮の炎が踊っていたから。火をまるごとガラスに閉じ込めたよう。倉庫は一瞬にして氷のオブジェへと変貌した。
騒然とする現場。そりゃそうだ。いきなり炎が凍るだなんて超常現象があったんだから。
野次馬達が事態を把握する前にベルフェゴールさんは次のモーションに。
「……」
《パリーン!》
氷へと蹴りをひとつ。すると即座にオブジェは炎ごと砕け散っていく。氷の破片も空中で消失。
残ったのは半焼した煤けた倉庫のみ。
……鎮火。
呆気にとられるあたしの目の前には、いつの間にやらベルフェゴールさんの姿。見上げれば、相変わらず不機嫌そうな灰色の視線とぶつかる。
「……何だ、間抜けな顔をして」
「えっ?! いや、すごいなあって……」
「ふん。《蒼氷》をなめるなよ」
そうひょう……?
あたしが聞き返すより早く、ルシフェルが苦笑しながらベルフェゴールさんの肩を軽く叩いた。
「悪いな、ベルフェゴール」
「別に……貴様の命令に逆らうほど愚かではない。本当なら血の一滴くらい欲しいものだが」
そこでこちらを見ないで下さい悪魔さん。
「……で、でもさっ。ベルフェゴールさんの力、ちょっと想像通りだったよ」
「?」
イケメン二人は首をひねる。
「想像通り?」
「うん。ベルフェゴールさん、冬が似合うなあって思ってたから。髪の毛は雪の色だし瞳は冬空みたいだし、だから」
纏う空気も寒々しさ満載だしさ。それは言わないけどね。
あたしの言葉にベルフェゴールさんは僅かに目を見開いた。ルシフェルは優しく微笑む。
「きれいな比喩だね、真子」
え?! そ、そうかなあ?
「まあ伊達に小説家の娘やってないからね!」
とか適当なことを言っておく。あたしは思ったままを言ったのだけど。
「……貴様、その性格直した方が身の為だぞ」
ところが、ぼそっと呟いたのはベルフェゴールさん。それはあたしの性格が悪いってことかぁッ?!
「じゃあ俺はもう帰るぞ」
「ああ。助かったよ」
「少しでも悪いと思うなら、早く地獄に戻って来い」
「うっ……」
ベルフェゴールさんは軽く鼻で笑うと、黒衣を翻して消えた。やっぱり最後は勝つのね。
……っていうか!
「さっきのって、あたし暗に性格悪いって言われた?!」
「へ?」
ルシフェルは少ししてからああ、と笑った。
「多分逆だよ」
「逆?」
「真子は優し過ぎるから、付け込まれないようにしなさいってこと」
そんな好意的な解釈できるのか?
「ふふ。もしかしたら私が真子をとって喰ってしまうかもしれないぞ」
「ぅええっ?!」
ルシフェルはただ笑う。冗談じゃないぜー!
でもさ、あり得なくはないのかな。たまに見せる表情が怖い時があるんだよね。堕天使長のオーラっていうのかしら――
……。
なーんて! そんなことはないでしょ!
「多分おいしくないからやめた方がいいよ。それより、少し寒くなってきたから早く帰ろう?」
「ふふ。そうだね」
もしかしたらあの悪魔さんのおかげで気温が下がったのかもね。
……うん、まあ。今日は前より優しさを感じたが。
「今度の夏はベルを喚ぼう」
それはいい考えだとあたしも思うけど、きっとまた「くだらない」って叱られるよ堕天使長!