第35話:真子とアシュタロス
最近は朝晩が涼しくなってきましたが、彼らは未だ夏休み中なのです(笑)。
「そうだ。稽古に行こう」
……京都じゃなくて?
ルシフェルが唐突にそんなことを言い出したのは、講習もない休みの日の午後。
今日は幸い風が涼しくて、いくらか過ごしやすい。窓を開けていると風が自然の冷房になってくれる。
あたしはテレビから目を離してルシフェルを見た。
「稽古って、何の?」
「武術」
うわー、暑苦しい……。
「最近は体が鈍って良くない。たまには運動しないと」
「何もこんな暑い時にやらなくても」
「適度な運動は気分転換になる。それに私はもう、この程度の暑さなら耐えられる!」
そう言ってグッと拳を握る。自信あるねー。この間は扇風機にべったりだったじゃんか。
ルシフェルはすっくと立ち上がって、
「よし、では少し出かけてくる」
と言った。
「どこまで?」
「黎香の家」
はあ、なるほど。“彼”がいるからね。
「夕飯までには帰りなよ?」
「無論!」
勢い良く頷くと、堕天使長様はパチンと指を鳴らして掻き消えた。……やっぱり食べ物には弱いんだなぁ。
……ふぅ。
じゃあルシフェルが帰るまで課題に手をつけますか。少しでもやらないと間に合わなくなりそうだし……
――?!
あ、この感覚は……
あたしが見ている前で突如、床に現れた光源。それはするすると幾何学的な模様を描き、やがて淡く光る魔方陣になった。
そして中心から抜け出てきた、黒衣の人物。
「こんにちは真子さん。あれ? ルシフェル様は?」
アシュタロスさんはキョロキョロ辺りを見回した。
「たった今黎香の家に行ったところだよ」
「あらら、すれ違ってしまいましたか。残念ですね。せっかく組み手の相手をしていただこうと思ったのに」
あなたもですか?! つーかどんだけ以心伝心なんだよ。
「ふうむ。でも今戻ったらまたすれ違いそうな気がしますね」
銀髪の貴公子は顎に手をあて、いたずらっぽく笑んだ。あたしもつられて笑う。
「まあそれはそれで面白いけどね」
「どうです? 真子さんに組み手のお相手願えますか?」
「あたし?!」
「ふふ、冗談ですよ。万一真子さんを傷つけたら、僕はルシフェル様にひどく叱られますから」
アシュタロスさんの相手なんて無理無理。黎香と……池田君くらいなら、いくらかいける?
堕天使さんが、帰ったものかどうしようかと少し悩んでいると。
《~♪》
お、電話だ。
「はい――」
『ちょっと! お宅は一体どういう教育をなさっているのかしら!』
「え! すみません…………ってなんであたしが謝らなきゃならないのさ、黎香」
『にゃはー、バレたぁ』
電話の相手は黎香でした。勢いで謝っちゃったよ。
『アッシュそっちにいるぅ?』
「いるよ。じゃあルシフェルはそっちに?」
『ムフフ。まぁねー』
……嫌な予感がするなぁ。
『チミの家のお坊っちゃんは預かったぁっ! 返して欲しくば“三回まわってドン!”したまえ!』
案の定無茶な流れだ。
……。
っていうか“ドン!”って何?
『題して“チェンジリング”~』
取り換え子伝説? あんたは妖精じゃないでしょーが。まあ言いたいことはわかるけど。
『黎香、すこぅしルーたんと遊ぶから♪ 真子ちんはアッシュと仲良くね。じゃあねー!』
「え?!――」
……切られた。
うん、とりあえずはルシフェルの無事を祈るよ。
「黎香さん、何て?」
アシュタロスさんが聞いてくる。
「あー、なんか黎香がルシフェルと遊びたいらしいから、その間アシュタロスさんを派遣するぜ、って」
「はあ。ということは、僕と真子さんと二人だけなんですか」
「そうなるね」
「そうですか」
……。
ち、沈黙が苦しい。かといって居心地が悪いわけでもないけれども。ただアシュタロスさんは常に微笑んでいるから、何を考えているのかが読めないのだ。
「えーと……お茶いれるから適当に座ってて?」
「恐れ入ります」
アシュタロスさんは軽く頷いて居間に座った。あたしは台所でコップに麦茶を注いで運ぶ。
「ごめんね。黎香の部屋と比べたら大分狭いでしょ?」
「そんなことありませんよ。黎香さんはそこらじゅうに機械や実験道具を置いてますし」
いただきます、と笑ってコップを傾けるアシュタロスさん。それを見ながら、この優男さんはとてもモテるだろうな、なんて考える。優男にしちゃあ強いが。
なんと言うか……彼もかなりの美人だからちょっと緊張するのだ。銀色の長髪と紫の目が違和感なく似合う人なんて、そうそういないよ。あ、人間じゃないからか……。
「暑くないの?」
あたしはアシュタロスさんの黒衣を示して訊いた。ゆったりとしてはいるが、半袖、なんてことは当然ない。
「ええ。平気ですよ」
アシュタロスさんはあっさり頷く。どこかの半裸の堕天使長とは大違いだわ。
彼は更にクスリと笑って。
「というか、こうして真子さんと二人だけというのは初めてですね」
ああ、なんてきれいに笑うんだろう! 何故か妙にドキドキする。これはヤバイね。ルシフェルのとはまた違う癒し系の笑顔だ。
でも言われれば確かにそうかも。強いて言うなら、アシュタロスさんが初めてここに来た時くらいか、二人だけで話したのって。
「僕は一応派遣された、ということになってるらしいですが。さて、何をしましょう?」
「そうだなー。ま、こうやって喋ってるだけでも、あたしは楽しいよ」
「それは嬉しいですね」
結構いい機会だ。アシュタロスさんから色々と面白い話を聞き出せるかもしれない。……動くのも面倒、っていうのも正直あるがね。
「何か面白い話ない?」
多分堕天使さん達に関する話ならなんでも面白いだろうけど。
まあもしもルシフェルの弱味なんて握れたら楽しいだろうな。だって魔王の弱味だよ?
「そうですねえ……」
アシュタロスさんはしばし思案して
「では、ルシフェル様がレヴィアタン様の勝負ドレスを見た時のお話を」
聞く聞くー! 超レア!
「レヴィアタン様ってあの通り、大胆な服装をなさるでしょう?」
「うん」
「舞踏会用のドレスを着ていらっしゃった時があったのですが、それを初めて見た時ルシフェル様の第一声が……」
…………。
「“布地が足りなかったのか?”」
さ、最低だ! そりゃ確かに露出度は高かったろうけど!
「すぐに謝ってましたがね。ルシフェル様だから許されるのでしょうね」
だろうね……。
***
「――で、それ以来ベルフェゴール様の持論は“幸福な結婚など存在しない”、ですからね」
「そうなの?! らしいっちゃ、らしいよね」
「女性嫌いもその辺りに起因するんだと思いますよ」
「あはは。っていうか結婚といえばさ……」
なんだかんだで盛り上がってしまった。話は尽きないのです。
女友達、じゃないけどそんな感覚! 口調も話題も堕天使様のそれなんだけど、かなり話しやすい。
聞き上手かつ話上手。またまたアシュタロスさんのすごい一面を見たぜ。
「でさ、あたしの友達ったら――」
するとその時。
《ドサッ》
「?!」
あたし達がびっくりして振り返ると
「た……ただいま……」
「ルシフェル?!」
「や、やぁ真子……」
行き倒れに近い状態の堕天使長様が。ど、どうした?
「一体なんなんだあの小娘――!」
絞りだすような声。アシュタロスさんは落ち着いた様子でそんなルシフェルを一瞥し、ニコニコしたまま口を開いた。
「さてはルシフェル、貴方、黎香さんに“特訓”させられましたね?」
「あれのどこが特訓だ! 拷問に近いぞ」
堕天使長に音を上げさせるとは。恐るべし爆弾娘。
「拷問って。一体何があったの?」
「それが……」
ルシフェルの話によると、こういうことらしい。
―――――
「足りないー」
行くなり早々、黎香はルシフェルの体をペタペタ触り。
「お腹見せて」
だの
「腕出して」
だのと言ってきたらしい。
でルシフェルがおとなしく従うと(それもどうなの?)
「筋肉足りない!」
とかなんとか言われて。
「もっとマッチョを目指すよっ!」
「ええ?!」
―――――
「……と、変な器具やら珍妙な飲み物やらが運ばれてきたんだ」
ふむふむ。黎香は筋肉好きだからな……。珍妙な飲み物?
「ルシフェル様、その飲み物って濃いピンク色をしていませんでした?」
濃いピンク?! めちゃくちゃ毒々しいな。
「していたな」
「飲んだんですか?」
「ああ」
「ばか正直ですねー。僕でも毎回丁重にお断りしているのに」
……。
アシュタロスさんは依然としてニコニコ笑ったまま。ルシフェルが軽く凹んでいるように見えるのは、気のせいじゃないだろう。
「ちなみに、どんな味でした?」
「食べ物とは思えぬ……いやむしろこの世のものとは思えぬ味だった」
「でしょうね。だってあの“黎香特製栄養ドリンク”の材料は……ふふ、聞きたいですか?」
ルシフェルは無言で首を振った。
「それが賢明ですかね」
アシュタロスさんは楽しそう。や、やっぱり恐るべきはアシュタロスさんか。
《~♪》
ぅお、また電話だ。
「もしも――」
『お客様、あと十秒で爆発致します。延長なさいますか?』
いや意味わからんて。
「黎香でしょ?」
『ベーキングパウダーだぬーん!』
ため息を吐くあたし。ちらりと見ると、ルシフェルの顔が引きつっていた。
『アッシュにそろそろ帰る時間だよって伝えてちょ。あとルーたんには“黎香様特製栄養ドリンクのおかわり、いるぅ?”って聞いといて』
「はいはい」
後者は……伝えないでおこう。
『あっ! あとさ』
「んー?」
『“ひしょち”行こうぜー!』
ひしょち?
……。
ああっ、“避暑地”か!
『みんな誘って、夏のバカンスだぜ☆』
……それ、いいかも。
『詳しくは後で連絡するよぅ。ほいじゃらぁ♪』
「え、ちょ……」
あ、返事する前に切れた。……まぁあたしは乗り気だったりするが。ルシフェルにも聞いてみようっと。
そういうわけで、あたしはまずアシュタロスさんに伝言。
「黎香が呼んでるよ」
「あ、はい。楽しかったですよ真子さん。また機会があればお話ししましょう♪」
「こちらこそ」
アシュタロスさんは極上の微笑を寄越して、ふっと消えた。
…………。
「ルシフェル」「もうあの飲み物はいらない!」
何も言ってないって。でも勘は相変わらず鋭いな。
「じゃあ……口直しにアイスでも食べる?」
あたしが苦笑しながら言うと、彼はパッと顔を輝かせて頷いた。
冷凍庫からアイスを2つ持ってきて、居間に一緒に座る。
「あのさルシフェル、堕天使達もバカンスとかってあるの?」
「バカンス……?」
ルシフェルは顔を強ばらせて。
「ま、まさか真子まで私のことを“バカ”と――」
「違う違う!」
このままではルシフェルのプライドがズタズタだ。堕天使長なのに。
「バカンスってのは長期休暇っていうか」
「長期休暇? じゃあ真子は今バカンス?」
んー、いや、ちょっと違う……。
「説明難しいけど…とにかくみんなで遊びに行こうって言ったら、ルシフェルも行く?」
「真子が行くならもちろん行くさ」
おっ。
「じゃあみんなでバカンスだー!」
「お、おー!」
……ルシフェル、ホントにわかってる?