第11話:堕天使様の勉強論
「これ、読んでいいか?」
ルシフェルが手にしているのは一冊の本。
最近ルシフェルは暇さえあれば、本を読んでいることが多い。あたしも読書が好きだから、家には本が結構ある。本棚から適当に引っ張り出しては読んでいるみたい。
なんでも、「人間の物事の考え方が垣間見れて、面白い」のだそうだ。
……堕天使な彼は今日も元気です。
「いいよー」
冷蔵庫を開けながら、あたしが答えた時だった。
唐突に電話が鳴ったのだ。
「はい、進藤です」
『もしもし、真子ちゃん? 鈴木ですけど』
んー。この声は。
「おばさん?」
『よかったあ。帰ってたのね』
鈴木さん、というのはお隣さんの名前。あたしの部屋の隣に一家で住んでいる。ちなみに今電話をくれたのは、おばさん――つまり奥さんだ。
「どうしたんですか?」
『ちょっと今から仕事があって。また頼まれてくれない?』
「亮平君ですか?」
『そうなの。いいかしら』
亮平君は鈴木さんちの一人息子だ。小学五年生だったはず。
「大丈夫ですよ。あっ、でも……」
あたしは、窓辺に座って本を読んでいるルシフェルを見た。
真剣で、だけど眼差しは優しくて。綺麗な横顔……
思わず見惚れたあたしは、おばさんの声で我にかえる。
『もしもし、真子ちゃん?』
「はいぃっ」
『どうしたの?』
「あ、いや……今、従兄が来てるんですけど……いいですか?」
もちろん従兄ってのは、ルシフェルのことね。
『全然平気よ。むしろいいのかしら、お邪魔しちゃって』
「大丈夫ですー」
『いつも悪いわねぇ。じゃあ今から亮平がそっちに行くから』
「はーい。わかりましたー」
あたしは電話を切ってから、ルシフェルが子供をあまり好きではなかったことを思い出した。
「誰か来るのか?」
そのルシフェルは、ふと本から目をあげてあたしを見上げた。
「うん。お隣の鈴木さんとこの子がね」
「遊びに?」
「いや、ちょっと違うんだ」
あたしはルシフェルに笑って、軽く居間の片付けを始めた。……と言っても、テーブルの上を整理するくらいだけど。
「鈴木さん、自宅で商売してるんだけど、お客さんが来てる間はうちで亮平君を預かるの。ほら、お互い気を遣うじゃない? だから、ね」
鈴木さんの奥さんは、家で女性向けの服とかを売っている。自宅に来たお客さんが試着して、それで服を買うのだそうだ。
だから! 単にあたしはボランティアなわけではなくて、ちゃんと後でお礼として、服やら小物やらを頂いているのだ! これぞ等価交換♪
「そうか……。私は居てもいいのか?」
「うん。大丈夫」
ルシフェルに頷いた時、ちょうど家のチャイムが鳴る。
《ピンポーン♪》
「はいよー」
玄関の戸を開けると、
「こんにちは」
男の子が立っていた。
「こんちは、亮平君」
……背中に羽根がなくてよかったとか思ったのは秘密。彼は紛れもない“人間の”小学生だ。
「真子ちゃん、いっつもごめん。俺、適当に宿題とかやってるから」
亮平君は、手に持ったレッスンバッグのようなものを掲げてみせた。(彼はあたしを“ちゃん付け”で呼ぶ。ま、ご近所さんだし)
「気にしないでよ。ほら、入って入って」
「お邪魔しまーす」
だが、亮平君の足は居間に入ったところで止まる。
どうしたの……って。ああ、なるほど。
視線の先にはルシフェルがいた。窓からの光のおかげで、イケメン度は二割増しな感じ。
彼は訝しげに顔をあげ、しかしすぐに亮平君に笑いかけた。
「こんにちは」
あーあ。亮平君ってば固まっちゃってる。ルシフェル、あんたの微笑みは同性すら虜にする魔力があるみたいだよ。
あたしは苦笑しながら、亮平君の肩を叩いた。彼は文字通り飛び上がり、それから顔を赤くして、明らかに慌てふためき始めた。
「あ、いや、ごめんなさいっ」
ルシフェルは不思議そうに少年を見上げ、くすりと笑って再び本に目を落とした。……ったく、あんたのその素敵な笑顔のせいだっちゅうに。
「……あの綺麗な人、誰?」
亮平君が囁いてくる。ルシフェルには聞こえてないみたい。
「んー、あたしの従兄」
……ってことになってる。
亮平君はただ、「美人さんだね」と言っただけだった。
あたしは本人に気付かれないよう密かにルシフェルを指差した。
「邪魔かな? 大丈夫?」
亮平君は、とんでもないと言わんばかりに首を振る。
「ううんっ、全然! じゃ、またそこ借りるよ」
言うと亮平君は、いそいそと居間のテーブルに宿題を広げ始めた。ルシフェルも近くにいるけど、あたし達の方はちらりとも見ない。多分、読書に没頭しているんだろう。子供嫌いかも……というあたしの心配は、どうやら杞憂に終わったようだ。
「どーぞどーぞ。あ、後でお菓子持って来るから、一緒に食べよ」
「うん!」
あたしはご飯支度のために台所へ向かった。
***
「真子ちゃーん」
しばらくして、居間からあたしを呼ぶ声がした。
「宿題わかんないとこ、教えてー」
「ちょっと待ってね」
あたしはジャガイモを切っていたので、そう答えてから急いでボウルに水を張った。切ったら水に浸けないと黒くなっちゃうからね。
「もう……全然わかんないよー」
さすがにずっと勉強しているのは疲れたのだろう。そう亮平君がぼやいた時。
「少年、」
耳に心地良い声音に振り向けば、ルシフェルが本をぱたりと閉じるところ。
「何故勉強するのか、考えたことはあるか?」
言いながら彼は立ち上がる。口調は穏やかで、まるで謎掛けでもしているよう。
亮平君は驚いたようにルシフェルを見た。
「え? えーっと……」
「では質問を変えよう」
ルシフェルは優雅ともいえるくらいの所作で、亮平君の隣に腰を下ろしながら微笑んだ。
「知識とは何か――わかるか?」
来た! ルシフェル先生の道徳的授業!
亮平君としては、いきなりそんなことを言われて混乱しているに違いない。仮にもまだ小学生だし。
けれど、ルシフェルがする勉強の話は聞いて損はないと思う。何故ならあたし自身が以前されたことがあって……それ以来、ちょっとだけ、“学習”が楽しいと思えるようになったからだ。
あたしは二人の様子を見ていることにした。
「知識というのは、人間が人間たり得るために必要なものだ。そして限りはない」
――「我々と人間の知識は根幹が違う。それも念頭におく必要があるが」
前、ルシフェルはあたしにそう付け足した。
「それから、」
まだルシフェル先生の口上は続く。なかなか哲学っぽいことばかりだから、多分亮平君には難しいんじゃないかな?
「それから、“知る”ということを許された背景には、犠牲があったかもしれないことを忘れてはいけない。知識を持てばそれだけ、世界の理に近づいてしまうのだから」
「うーん」と唸った亮平君にくす、と笑ったルシフェルはどこか楽しそうだ。
「つまりね、そうだな……例えば君が宝の地図を持っていたとする。君は私に宝をほんの少し分けてくれた」
「うん……あ、はい」
「気負わなくてもいいさ」
ルシフェルは笑いながら、鉛筆を手にとって何かを書き始めた。
「そして私はその宝を見知らぬ人に分けてあげた。こんな財宝が眠る場所がある、と教えてね」
亮平君もいつの間にか真剣な表情だ。
「秘密の宝の地図なのだから、君は当然私を注意する。私は“どうしても宝を必要としているように見えたから”と言う。……君はどう思う?」
「え? うーん……必要だったなら、いいんじゃないかなって思う」
ふふ、とルシフェルは笑った。相変わらずその手は止まらない。何を書いてるんだろう。
「君は優しいんだね」
……ちなみにあたしは同じ話をされた時、“その根拠を問いただす!”と答えてルシフェルを困らせた。ごめんよ。
「でも、宝の存在を知った人が悪用しにやってくるとは思わない?」
「あ。それもそうだなぁ」
「だけど君はその見知らぬ人がどう行動するかわからない。だから私を注意するしかない」
それと同じ、と言ってルシフェルは顔をあげて亮平君を見た。
「宝は知識。見知らぬ人が君達。君達が今学んでいることは本当に僅かなことでしかない。けれど君達は宝が存在することを知っている。――そのために注意を受けた者がいたことを、忘れてはいけないよ」
「はい」
亮平君はどこか神妙な顔で頷いた。
あたしはルシフェルが堕天使だって知ってるから、以前なんだか不思議な気分でこの話を聞いた。もしかして、いや多分、その“犠牲”は彼が知ってる人なんじゃないかな。
「でも僕――」
亮平君はニコニコと笑って言った。
「勉強、嫌いじゃない」
「それはいい」
……二人が笑いあう光景のなんと微笑ましいこと!
あたしは少し寂しくなったりなんかして居間に出て行く。
そしてルシフェルの隣に座って何気なく手元を覗いて……愕然とした。
「ルシフェル、これ……!」
彼が喋りつつ書いていた紙。そこには細かい文字で計算やら説明やらが記してある。
「ああ」
案の定ルシフェルはそれを亮平君に渡した。
「悩んでいるようだったから、な。その問題の解法。参考にしてくれ」
その表情には特別なことしたというような気負いはない。あくまで自然だ。
亮平君はぽかんとルシフェルを見つめ、紙に目を落とし、しばらくして「ありがとう」と呟いた。
と、再び居間に響く電話の音。
「はい、進藤です。……あ、はい……全然です。はい。……わかりましたー」
あたしは電話を切って亮平君に言う。
「お仕事終わったって」
「あ、うん……」
彼は手元の紙を凝視しながら返事を寄越す。
「ルシフェルさんってすごいんだねぇ」
最後にそう言って、少年は帰っていった。
……。
「器用だね。話しながらあんなに丁寧に書いて」
実際あたしもびっくりしている。ひょっとしたらルシフェルってすごく賢いんじゃなかろうか。
まあ堕天使に賢いも何もないだろうけど。頭の良い人、あたしは好きだよ。
「余裕♪」
ルシフェルがおどけたように鉛筆をくるくると弄んでいると、
《ピンポ〜ン♪》
む、また誰か来た。
外に出てみると一人の女性が立っていた。傍らにはさっき帰ったばかりの亮平君もいる。
「こんにちはー」
「あれ? 亮平君におばさんまで」
仕事が終わってすぐだからか、スーツを着ている女性が鈴木さんとこの奥さん、つまり亮平君のお母さんだ。
「どうしたんですか?」
「いやこの子がね、なんか急に“勉強したい!”なんて言いだすもんだから。びっくりして聞いてみたら、真子ちゃんのところで“先生”が教えてくれたって言うじゃない」
先生……ってまさかルシフェルのことか?
「とっても面白かったって言うのよ」
「あの問題の解き方、すごく分かりやすかったんだよ!」
亮平君は目をキラキラさせている。
「どんな人?って聞いても“美人さんだよ”としか言わないから、ちょっとお礼をしに……」
「真子、これ忘れ物――」
タイミングよくルシフェルが玄関へと出てきた。その手には鉛筆が握られている。
「おや、少年。ちょうど良かった」
固まっているおばさんには目もくれず、彼は亮平君を見つけて微笑んだ。軽く身を屈めて鉛筆を手渡す。
「忘れ物だ」
「先生っ」
え、と首を傾げたルシフェルを見て、ようやくおばさんは呆然としたように口を開いた。
「本当に……美人さんなのね……」
「あはは……」
ええこいつは世の女性全てを虜にしますよ。
「ね、お母さん、言った通りでしょ? すごくきれいな人なんだって!」
ええ性別は関係ないかもしれません。
「あ、の……」
やっとおばさんの存在に気付いたらしく、キョロキョロとあたし達を順に見だしたルシフェル。
「真子、こちらは……?」
「ああ、亮平君のお母さんだよ」
「お母さん………」
はあ、とわかったようなわからないような声。
おばさんの視線はすっかりルシフェルに釘付けだ。
「真子ちゃんの従兄さん、なんですよね?」
「え、あ、はい。はじめまして」
「……! は、はじめましてっ」
はい、ルシフェルの必殺スマイル出ましたー。
そんなルシフェルを亮平君は目を輝かせて見ている。
「先生っ、僕に勉強教えて下さい!」
「えっ?」
ええっ?!
すっかり懐かれちゃってるなー……じゃないじゃない! 勉強教えるって?
「いや、そんな……」
「私からもお願いします!」
目を輝かせている人ここにもいたーっ!(違う意味で)
ちょ、おばさんまで……
…………
……
……まぁ、悪いことじゃないよね……。
「ねえ真子、どうしよう?」
「えー……?」
あ、でもルシフェルってあたしが学校行ってる間とか暇なのか。毎日掃除ってわけにもいかないし。
……家庭教師っていうのもいいんじゃない?!
「ね、お願い」
悩んでいたら、おばさんが手を合わせて頼んできた。
「もちろんお礼はするわ。ダメかしら?」「いいですよ」
あはは口が勝手に。お礼って聞いたら断るわけにはいかないよー!
「え、え?」
すまんルシフェル。現金な奴と言いたければ言いたまえっ。
「やったー!」
「ええっ……?」
亮平君大喜び。ルシフェル大混乱。
「よろしくお願いします、先生!」
「よろしくお願いします、真子ちゃんの従兄さん!」
「よろしくねルシフェル!」
「……は、はいっ」
よし、本人の承諾を得たぜ。無理矢理とか言うな。
「あの、でも――」
どうにか持ち直したらしいルシフェルは、苦笑しながらそっと手を挙げた。
「お礼は、いらないですよ」
ええーっ!?
うわ、そうか。この方は堕“天使”だった!
「……今更礼をもらってもどうしようもないから」
今更?
「それに少年は勉強したいのだろう? お礼目当てにやることではないから。ね、真子?」
「う、うん、そうだよねっ」
……罪悪感。
「あら」
おばさんってば、もうすっかり陶酔してるって!
「なんてよくできた子なのかしら! 良かったわね、亮平!」
「うん!」
「じゃあまた連絡するわね」
「あ、はい」
「バイバイ真子ちゃん、と先生っ」
……ありゃ。行っちゃったよ。
「………」
「………」
「………ルシ――」「先生だってさ、真子」
ちょっと嬉しかったのね。
「うん。そう呼ばれてたねえ」
「でも勉強教えるって――」「ルシフェル!」
言い掛けたルシフェルを制する。
「な、何?」
「良かったじゃん。家庭教師ってカッコいいよ! それに人間として生活するなら結構ためになる経験だと思うし。ね、ね?」
今日学んだこと……
「あ、ああ。そうだな」
――ルシフェルは押しに弱い!
***
「ホントはさ、まあ下心あったんだけど……でもルシフェルの暇潰しになればいいかなって思ったのもホントだよ」
「暇潰しなんてそんな。あの少年は意欲的だからな。気に入った」
「それならいいけど」
「ところで真子」
「何?」
「あの少年の名は?」
「……ええっ?!」